はてなキーワード: 学問とは
だから実際こないだトランス銭湯問題で仲間割れしちゃったんじゃん……
高学歴エリート(アカデミズム)のフェミは時折暴走しちゃってるけど、結局自分たちの発言力が「学問らしきものを装ったもっともらしさ」に支えられたものでしかないとわかってるから、
いくら雑に強者としての男は叩けても、弱者認定済みのトランスには冷たくできない
ところがネットで騒いでるようなフェミはただ肥大した被害者意識で騒いでるだけで、そもそも正しさに依ってないから、そんなん知ったこっちゃないわけだ
普通選挙とか男女雇用機会均等法は、フェミニズムが正しいと思う。
ただし、「文科省の証言」によって、「医学部の合格のしやすさ」なる根拠不明の統計を以て、強者に対して配慮しろ、というのは間違っているし、それは学問ではない。
ていうかあの数字って2018年だけのものなんだよ?(ハフポストの謎記事はhttp://rochejacmonmo.hatenablog.com/entry/2018/08/12/021856)
しかも合格しやすさってたぶん、男子の合格者数/学力に対する女子の合格者数/学力で出すんだけど(だから文科省の「男女の学力差はない」という表現が必要だった。男女に学力差があれば、別に1.00を超えるのは当たり前になる。)、これがなあ…どうやってその文科省の人は受験者の学力を調べたんですかねぇ…?それが学問なんですかねぇ…?
「男女に学力差はない」っていう「仮説」は、当然(政治的に)正しいから、提出されるのは当然だと思うよ。でもそれを研究する?どうやって?研究して結果男性の方が論理的・空間把握力が高く、女性の方が情緒的だ、という結果を東大入試に反映させるの?社会的弱者との面接グループワークでも取り入れてみる?
うん。全く不思議じゃない。
ただ、フェミニズムは統一理論を目指してないでしょ。最初から相対的に複数の正しさがある(=状況がどう変わっても常に自分は被害者/批判者側)としか言ってないでしょ。
別の視点から見たらフェミニズムが攻撃者でしかなくても、自分の視点から見たら自分が弱者だ!で終わりでしょ。
男尊女卑の問題は、近代までの社会状況にて、強者が制度的に弱者を虐げることに関する問題って定義するのはワカル。だから普通選挙や均等法は完全に正しいともう。
で、「自分の視点からみたら弱者がいるから強者は配慮しろ!」とただ言い続けるのが正しさなのか?学問なのか?
なぜ対人に向く?しかも普遍的に全体じゃなくて、恣意的な特定集団(東大生とか)に向く?東大生にそれを言うと何か統一的な理論につながるのか?
二者間の意思疎通の確認が取れないから、2つの主観どちらにも属さない客観性が必要だと思うんだが…相対的にしか正しさを記述できない、って意味なら同意なんだが。
ともかく、2つ以上あるってのはうーん、ってなる。一つの学問系の中で「棄却」したけど「別の体系では正しいか可能性は残る」なんてされる方もする方もなんだかなぁって感じ。まあここら辺言いすぎると超高重力下での量子力学が~とかの不明性に入りうるから私の頭ではあまりしたくないけど。でも人知で観測できるかわからないってのと、意図的に観測地点をずらして結果が違うけど両方別物で正しいってのは差が激しすぎると思う。
別の事態や、別の地域や、別の要因を組み込むとたぶん出てくる。おそらく一部の集団だけ取り出してみると、仮説は支持される。しかし、ならしてみるとたぶん統計的に強い効果はない、ということです。
”別の”が、本当にいずれ出てきて、学問として成立する日が来る、と希望的観測を持っているのかな?
質的研究自体への疑問は「あたりまえだから」とかいう理由で却下されるというもはや共産主義的な社会学部
もうこれだめだろ。
流石に読解力がなさ過ぎる。質的研究と量的研究で客観性・科学性が異なるっていう文脈だし、それは社会科学分野では当たり前のことだよ。
「ロジハラ」って言葉が出てきたときにも思ったけど、ロジックを拒否するなら代替システムが必要。
上野千鶴子はそれを最初からわかってて、「おんなのことば」が必要だといっていたけど、結局それを作らないまま現状ですよ。
大体の「学問」は「男の言葉」でできてる、って感想は、正直同意できるけどね。それを否定するだけじゃだめだよね。否定するだけなら簡単すぎてみてらんないんだよね。
かいてあるリンクの筆頭に早稲田で講義してる熱田敬子さんって人の講義シラバスから引用するけど、
授業概要 質的研究を行なう際には、「客観性」、「科学性」に対する量的調査研究や自然科学モデルの研究と異なる立場について理解し、研究者自身の無意識の前提、社会的な立場(とそれが及ぼす調査への影響)などを常に問いなおさねばならない。
そんなのないんだよね。それ自体をフェミニストが気付き始めてるんだよね。でもやめないんだよね。
ダメだろそれ。
漫画やゲームを学問することが、漫画やゲームを制作することそのものより、後世の役に立つのかなあ。
実制作のほうが役に立つと思うし、だとすれば学問よりも実制作に補助をすべきでは?
そして人文系マイナージャンルってほとんどが同じような構造を抱えてない?
スモレットの研究でロデリックランダムに何回Fuckが出てくるか数えている研究者よりもラノベ書いてアニメ化した人のほうが国益上やくにたってる気がしてしょうがないよ。
数百年後に役にたつかもしれないものは、学問という形式にコンバートして大学に置くんだよ。
だいたいそうなってるだろ?
最近は芸術だって西洋古典だけじゃなくて、マンガやゲームだって大学で研究されてるし。
例えば他に、何?
横だけど、それは話が逆で、数百年後に役にたちそうだと思ったものを「学問」として立ち上げて、みんなが役に立ちそうだと思ったから一般的になるんだよ。
「○○学」の最初のおこりってのは全部そういうもんだ。