はてなキーワード: ライヴハウスとは
ここ10年というもの、表現者の端くれとして、気の合う仲間とライヴ演奏活動をしたり、パーティーなどに神出鬼没して自由気ままな音楽のやり方を実践したりしてきましたが、今年2月にコロナ禍が到来してからはそんなわけにもいかず、ただひたすらに自分が今までやってきた音楽表現を反省することに時間を費やしていました。
それをするため、都内にあるとある「ライヴハウス」に度々寄らせてもらい、お客さんを呼んで行うライヴの域に達しない程度の弾き語りをさせて頂いたりしていましたが、思うところあり、本日12月6日を最後に、その場所及びそこを活動拠点とする音楽仲間との接点を、表現者としての自分が精神的に落ち着くまでの間、解除させていただくことを自主的に決心致しました。
端的に理由を言うと、自分がその場所と関わり続けることが、何かの妨げとなっているとしか思えなくなったからです。
2017年の夏にその場所に初めて足を踏み入れてから、自分の表現者としての振る舞い方の幅が広がっただけでなく、より広義な音楽仲間との付き合い方を手に入れた気がしていました。過去作って恥ずかしさのあまり封印していた曲を掘り起こして堂々と歌ったり、慣れない類の音楽演奏に自分なりのやり方で絡む術を手に入れたり、色々と楽しい思いをしてきましたが、コロナの到来後、こうした音楽実践方法論が意味を持たなくなったばかりか、それによってある種の人を遠ざける結果になったのではと思わせる気配を、周辺人物数名の言動から感じ取れずにいられなくなり、その度に苦しい思いに駆られるようになりました。
なら、その事を一切考えずに人生を歩むのがベストなのです。そのために、自分が謝らねばならない相手が何人現れようが。
しかし、この決意をするにあたって決定的要因となったのは、つい2日前に目に飛び込んだあるニュースでした。
詳しいことは、そのニュースで告知された出来事の執行が遥か先の話ということで、ここでさえ語ることができません。基本的には、非常に目出度いニュースであり、自分もそう思ったはずです。もし、昨年11月のある日に「その場所」にいなければ。
その日、その場所で私は例によって、封印されていた昔の自作曲を歌っていました。本来なら、誰の心をも動かすはずのない曲の群れです。故に封印されていたのですから。しかし、その夜だけは違っていました。その後しばらくの間、かつてない規模で音楽的幸福を味わい、そして散りました。コロナのコの字も伝わってこないうちにです。その短い間の出来事が、まるで兆候のように感じられました。決定的な終幕は、「その場所」に導いてくれたある人に対して、自分が過剰に心配してしまったせいで訪れたのです。
その時に「その場所」との縁を切っておけばよかったんだと思いましたが、自分の音楽哲学を唯一受け入れてくれる場所を、そう簡単に蔑ろにできるわけがありません。そんな、自由な戯れへの捨てきれない思いを、コロナがぶっ壊しました。表面的には、です。
でも、結局一番情けないのは、自分の信頼されなさです。だからこそ、いい結果が出ないのです。
先の目出度いニュースに対して寄せられた嬉しいコメントの数に、改めて心を痛めました。そこまで見守られているのなら、自分如きに寄りかかる必要なんかなかったんじゃないかって。それに比べて、自分は何なんだ。いかなる建設的意見を呼びかけようが、誰も反応してくれない。
もう、自分は人に信頼されるために表現を行える身ではないのです。単に年輪を重ねた生きる屍ですから。文頭で一旦「表現者としての自分が精神的に落ち着くまでの間」としましたが、どうやらその時は自分が棺桶に入る時だと思われます。
以上、極めて個人的な見解になりましたが、従来行ってきた対外的音楽活動再開への道が益々狭まる一方なのは否めなく、今後は全く別のアプローチを探ることになるのは目に見えています。コロナの終息をそう簡単に願えないからには、今まで捉えてきた「絆」の在り方そのものを劇的に見直さねば始まらないのです。
「その場所」が誘ってくれた、全ての絆に愛をこめて。何よりも、命を大切にね。
初披露曲を含めた全般的なレベルの高さでは,安定感のある井上さんが一歩抜きんでていた印象。前田さんがそれに次ぐ感じ。
他方,新鮮な驚きを与えてくれたのは笠原さんの『おとなの掟』。これに挑戦して初披露であのレベルのアウトプットはすごい。この曲を知らなそうな会場を置き去りにしていく感が最高だった。MCで本人が希望して歌ったとわかったが,笠原さんにはハロプロの価値観にとらわれず今後も自由にアイドルを生きてほしい。
佐々木さんの 『ハナミズキ』,小野さんの『I LOVE YOU』,平井さんの『海の声』は,それぞれさすがという感じ。やはり披露している回数の多い曲はパフォーマンスが安定してるだけでなく進化してたりするので出来が良いし面白い。
誰もなりたくて病気になってるんじゃねえよ。
俺は子供のころに風邪もインフルもおたふくも髄膜炎もとにかくいろんな感染症をやったし、大人になってからは胃腸炎で苦しんだよ。
同居してた弟には何もなかったのに。
これは俺が悪人で弟が善人だからなのか? 違う、単にあいつが俺よりも頑丈に生まれついただけだ。
それのどこに俺の責任があるんだよ。
たまたま生まれつき感染症への耐性が低かったってだけで、なんで弟と違って俺ばっかり事あるごとに罪悪感だの責任だのを感じないといけないんだよ。おかしいだろ。
だから俺は言い続ける。感染症の被害者は被害者だ。絶対に加害者なんかじゃない。
感染症にかかってしまった人も、それを他人に伝染してしまった人も、何も悪くない。病気だけが悪い。
感染して不用意な行動を取ってしまった人がいたとしても、それが「バイオテロ」なんて呼ばれるべきじゃない。
「このご時世にライヴハウスに行くやつが悪い」? それは「そんな挑発的な服装で夜道を歩いていたお前も悪い」ってのと何が違うんだ?
同じこと言ってる自覚を持てよクソ野郎ども。お前らのやってることをセカンドレイプっていうんだよ。
電車でうっかり妊婦に風疹を伝染しちまったおっさんも、北イタリアから帰省して老人ホームにお見舞いに行ってコロナをばらまいちまったあんちゃんも、何も悪くない。
風疹とか麻疹とかの感染症が話題になる度に、医者って名乗ってるアカウントでも平気でセカンドレイプやってるのを見て絶望してる。
極右のばあさんがコロナ患者を「加害者」呼ばわりしたことにはてブ民はキレてたけど、俺からすると何を今更って感じだよ。
風疹ではおっさんに向けて「加害者にならないために」とか散々言ってきたくせに。
風疹被害者は加害者呼ばわりするけどコロナ被害者を加害者扱いするのはけしからんなんてそんな理屈が通るものかよ。
お前らがさんざん不幸で不用意だった患者を加害者呼ばわりしてきた帰結がこのばあさんだろ。都合良く切断処理してんじゃねーよ。
感染症患者がバッシングされるべきじゃないってコロナが流行りだしてから言われまくってるけど、コロナ以外にもそれをちゃんと適用しろよな。
ライヴハウスでもみくちゃにされながら考えたこと
日々暮らしていると、みんな大人になりたくないんだなぁと感じることが多い。成熟の拒絶。やたらと年齢を気にする。30も過ぎりゃ男も女も口を開く度に「俺はおっさんだから」「私はおばさんだから」。神様がいないって言われてるこの国だけど、若さに対する信仰は驚くほど異常だ。八百万のロリコン神様が持て囃されている現状に、いい加減ウンザリ。例えネタでもいい歳した男が、つるぺた幼女だなんだと口に出しているのを聞くと吐き気がする。
大人いいじゃん、大人。だって自分の好きな所に住めるんだよ?好きな物を好きなだけ食べ続けても誰にも怒られないし。子供の頃の私は早く大人になりたくて仕方なかった。大人に低く見られることが悔しくて堪らなかった。早く力を持ってそいつらを片っ端からぶちのめしたかった。小さくて無力な自分が恨めしかった。
例えば、豊かな感受性を持った一人の子供がいるとする。そしてその子は成長していく中で様々な体験を経るうちに、現実的な夢のないつまらない大人になってしまう、というような見方があるとする。果たして本当にそうなんだろうか。溢れた川をワクワクしながら見に行っていた子供の私は現在、台風が家の軒下をガタガタと揺らす音を聞くと、ドキドキ胸踊ってしまうような大人だ。何も変わらない。
例えば、大人は分かってくれない、という考え方がある。大人は若者の瑞々しい気持ちを理解できないし、それどころか迫害しようとさえする、ということになっている。世間的には。本当にそうなんだろうか。幼い私は、深く共感できる大人がいることも知っていたし(主に書物の中だけでだが)、一方で、全く分かり合えない同級生と日々諍いを繰り返したりもしていた。
私は人の本質なんてそんなに簡単に変わらないものだと思っている。だから世の中がすぐに、素晴らしい子供と醜い大人という構図を持ち出したがる意図が分からないし、違和感を覚える。多少その姿は変われども、素晴らしいものは今までもずっと素晴らしかったのだろうし、そしてこれから先もずっと素晴らしいままだ。ただそれだけだ。
音楽の洗礼を静かに受けた少年少女たちは、きっと大人になろうとも音楽の場へ足を運ぶだろう。だからどうかみんな、素晴らしい人のままでいて下さい。どうか素晴らしい大人になって下さい。そして身に付けたその強大な力で、共に世界を変えましょう。世界には大勢の素敵な大人がいて、ちゃんと手を差し伸べています。見えていますか。待っています。