はてなキーワード: スタンド能力とは
この小説の41~45話で、敵キャラの技による同士討ちが迫真の描写で、相当胸糞悪い展開が出てくる。
最終的には関係が修復されるのだが、その展開がいつまでも気に入らないらしく、「犯罪者に人権は無い」とばかりに、感想欄で作者を非難しまくる荒らしが居る。
このサイトでは「攻撃的な言葉や中傷(人格否定)・脅迫」を含む感想は削除対象なので、今は#運対#(運営対策済み)ばかりの焼け野原状態だが、消された感想の一部はarchive.isで確認できる。
http://archive.is/https://syosetu.org/?mode=review&nid=101069
作者を攻撃する感想は共通して、改行や句点が極端に少ない、慇懃無礼な文体の癖が同じ、お客様は神様とばかりの上から目線、投稿者のIDが新しくお気に入り小説の登録が無いなど、自演を隠す気ゼロ。しかもほぼ毎日投稿するなど、最早ストーカーの域。
しかし彼は初期の投稿(2017年09月26日(火) 20:03)では「此れからも更新を頑張って下さい!」と好意的なので、まさに「可愛さ余って憎さ百倍」の典型例。
そんな彼の最新作(2017年12月12日(火) 19:55)をみてみると、安西先生もびっくりの成長してなさ。
読者の心には響きませんし
読者には通じませんよ?
読者の心もうちませんよ?
読者にも通じるようにしなければいけないのです、
こんな感想が50件以上投稿されて、作者のメンタルが非常に心配だったが、片っ端から通報されまくって消された上、投稿できるのがログインユーザーのみに限定されたので、最近は落ち着いてきた。(ログインユーザーの感想が消されると#運対#すら表示されず、投稿ごと無かったことになるので、波風が立たない)
作者も荒らしには返答せず、別人への返信で(2017年11月08日(水) 00:31)
本気で小説ごと消して失踪しようかと考えてしまいました。(今は大丈夫です)
一度考え直したのですが読者様の意向を汲んで書くのではなく、意見は程々にして、これからも基本的には自分が書きたい事を書こうと思います。元々自由に書けるのがネット小説の魅力ですからね。
JoJoは第4部が失敗だった。
1,2,3は良かったよ。
なんで第4部が失敗したのか原因がはっきりしてる。
能力がややこしい。
1,2は波紋の応用や吸血鬼・柱の男の能力は分かりやすかったと思う。
超パワーとか超スピードとか念写とか炎とか砂とか。
パッとみて分かるのでバトル中に近いできる。
連載でも3部が一番人気だったし妥当だろう。
どうすればスタンド能力が分かりやすく伝わるのか考えるべきだった。
俺にその発想があれば今からでも御意見として投書するけど無いから分からん。
でも何らかの対策はするべきだった。
うしとらに関しては仕方ないと思う。
いや仕方なくないんだけど。
最後までやってくれって原作者が言うならその通りするしかなかったんだろうし。
じゃあ再構成してやれよ。
「この世界の片隅に」を昨日観た。昨日は感想を言える状態ではなかった。
まだ自分の心をまったく整理できる状態ではないけれど、感想を書く。
この感想が人の目に留まる可能性は少ないと思うが、もし未見の方がおられたら、この感想を見ずにまず映画を観ていただきたい。ストーリーのネタバレはほとんどしていないが、これから私の書く情報がない状態で、この映画を体験してほしいので。
また、この文章自体興奮冷めやらぬ中書いているので、改めて落ち着いたり再見して考えの変わることもあると思うが、整理されていない最初の印象というのも重要だと考え、勘違いなどがある可能性を承知の上で書き残したい。
「この世界の片隅に」は「ものすごい映画」だった。「良い映画」「泣ける映画」ではなく、「ものすごい」のだ。
私もいい年なので、良い映画、泣ける映画を観て涙ぐんだ経験はある。しかし、映画の印象的なシーン一つ一つ思い出す毎に涙がこぼれる映画が、この世に存在するとは思わなかった。
この映画を「観た」というのは正しくない。この映画は「体験する」映画だ。映像・音声の中にちりばめられた何かが作用して、主人公すずの人生を観客が「体験させられる」のだ。だから、後でいくつかの印象的なシーンを思い出すだけで、何かしら感情が「あふれざるを得ない」のだ。
ストーリー自体は、複雑でも何でもない。あらすじだけ読んでも、たいして感動するポイントがあるわけではない(まあ、あらすじとはそうしたものだが)。戦時中の設定であり、ましてやあの広島を題材に採っているから、何かしら悲しいシーンが入ってくることは予想できるし、邪推して「お涙頂戴映画だろ」と言うことはできる。そして、実際にそういうシーンはある。しかし、この映画のすごさは、私が思うに、そういう大枠のストーリーそのものではない。
観客は、主人公すずの人生を、バーチャル・リアリティのように(と書くと厳密には間違っていると思うが、他に言葉が浮かばない)「体験させられる」のだ。広島と呉の人々の営み、嫁入りした先での苦労、鳴り響く対空砲、町と軍艦を焼く敵機の容赦ない爆撃、無慈悲な時限式爆弾の爆発、そして原爆のかがやきと衝撃波。楽しいこと、嬉しいこと、誰かをいとおしいと思うこと、不安、悲しいこと、喪失感、悔しさ、怒りも、観客は「体験」させられる。それも、普通の映画とは違う、もっと深いレベルで、だ。
そのような「疑似体験」が観客側にあればこそ、一見物語上盛り上がりのないシーン、いわゆる「泣き所」ではないシーンの一つ一つを思い出して、涙がこぼれる。だからこの映画は、映画を観ている時だけでなく、印象的なシーンを(喜劇的なものであっても)思い出すだけで胸に迫るものがあるのだ。
昨日、家に帰って虎の子の古備前徳利で酒を飲みながら、「この世界の片隅に」に関する映像や片淵監督、主演ののん氏のコメントなどを読み漁った。当然、いくつかのシーンを思い出す。そうするともう、ただもう「思い出す」だけで涙がこぼれるのだ。
「体験させる」仕組み・仕掛けについて、私には残念ながら分析する能力も知識も不足している。ただ、映像や音楽にちりばめられた何事か(例えば入念な取材に基づく非常に精緻な映像や音声など)が、言い方は悪いが催眠術やサブリミナルのように観客に「効いて」来るのだ。
非常に限定的な例えで悪いが、漫画「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくる登場人物である岸辺露伴のスタンド能力「ヘブンズドアー」。露伴の漫画を読んだ人を本に変え、その人の記憶を読んだり、書き込みをすることで人を操ることができる能力。私にとって、この映画は、そのうちの「書き込みをすることで人を操る」に近い影響力を発揮した。しかし、それは何らかの超能力によって発現したのではない、片渕監督が、資金のめどすら立たない6年前から、おそらくある確信をもって様々なものを積み重ね、それに対してスタッフやキャストが力を発揮した結果なのだ。私は、その事実に身震いする。こんな「効果」を持った映画が「ものすごい映画」でなくて何なのだろう。
私は昨日youtubeに挙げられた公式の「予告編」の、すずと周作のキスシーンだけでも何度も泣いた。話の展開的に、このシーンが、いわゆる何らかの悲劇の「フラグ」というわけでも何でもないのにも関わらず。普通の「泣ける映画」であれば、、この後周作には何らかの不幸が起こらねばならない。しかし、この映画ではそうはならない。しかし、それでもこのシーンが私には泣ける。
なぜ、私はこのシーンで泣いてしまうのだろう、と私は酒を飲みながら考え、そして気が付いた。この映画で得た「体験」は、それほどに強く主人公すずの人生を私の心に焼き付けてしまったのだ。それは、「すずの人生が我々71年後の日本人と地続きである」というレベルを超えている。これは、私の人生の中では「異常」な体験だ。
大げさなことを書いてしまうが、私は上記のことをもって、この映画が、人類が到達可能なある限界点に到達したか、少なくとも片足をかけている世界最初の映像作品ではないだろうか、とすら考える。少なくとも私は、このレベルに達している映画を他に知らない。
(もしかしたらごく短い映像作品では世界のどこかに存在するかもしれないと想像はする)
実は、わたしはこの映画の原作は未読である。私が体験した要素が、どれだけ原作から来ているか現時点ではわからない(原作はもちろん今後読むつもりだけど)。
この映画も一回観ただけで、いろいろ取りこぼしや考え違いもある可能性は高い。特に、ストーリーに対する評価がまるでできていない(これも重要なはずなのだ)。
また、万人に私と同じような「体験」を保証することもできない(そもそも万人向けの作品など存在し得ない)。
それでも、このアニメ映画が「ものすごい」作品であることは、疑いない。そしてこの映画はその「ものすごさ」ゆえに「尊い」。まさしく、神の技に到達した、少なくとも手をかけた奇跡的な映画なのだ。
私はスタンド能力者なんですが、大した能力ではなくて、電車内で座った際に、近くだとか向かいの席とかに女子高生を寄せる能力なんです。
向かいの席の吊皮を持ったり、ななめ前くらいに座ったり、通常のパワーですとこの程度の距離感になります。
スタンドの力を大いに発揮すると、隣に座ったり、前の吊皮をつかんで立ってくれます。お友達も一緒です。
勿論他のスタンド使いと同様に、自分の能力を色々試してみました。
私服の女子高生には通用せずあくまでも制服を着ているか否かで判断していることがわかっています。
制服を着た女性だったら年齢は問わないのか? あるいは制服を着たおっさんならば寄ってくるのか?
これはわかりません。わざわざ試していないのです。
例えば上だけセーラー服で下はジャージならどうなのか。わかりません。
これは可能性としてはあり得ますが、そうした格好をした女子学生にはであったことがないか、それとも自分の能力に起因した結果か判然としないのです。
セーラー服の下にブルマやスクール水着を着ていたらどうなのか。わかりません。
ローカル線では効果的で、上手くいけば特にパワーを出さずとも向かい合わせの四つ席にJKが来てくれます。
滋賀県に旅行中、近江高島駅付近でこれに気付きました。あ、堅田だったかな?湖西地方を旅して三井寺にも行ってきました。まぁそれはいいでしょう。
私が普段通勤に使う都営浅草線には、もう一人のスタンド使いがいます。蔵前から乗ってきます。今日は彼と私の話。
彼の能力は電車内でおっさんを退ける能力です。夏の暑い時期とか重宝するんじゃあないかと思います。
…いや、電車内に限らず射程の範囲内においておっさんを退けられるのかもしれません。
彼とは通勤時間の特定の時間にしか会いませんから、彼の能力が電車の外でも発現するかは知りません。
もしかしたらオフィスとかでも出来るのかも。そうだったらすごいですよね。部長とかどうすんだろ。
とにかく彼の周りにはおっさんが居ないのです。若い男や女性、あるいはお爺さんしかいません。
さていくらか観察してみたのですが、彼の能力が問題があることがわかりました。
たまに彼が車内のおっさんを退けすぎていることがあるのです。
すると参ったことに、私の女子高生が押しのけられてしまうのです。
彼が電車外でも力を発揮できるかも、と思うのはこのためです。
彼の射程が私の射程である一つの車両内の範疇を超えうるかはわかりません。
そんなんわざわざ調べたりはしません。朝は一日の仕事のことを考えていてそんな暇はないのです。女子高生は寄せますけど。
ええと、とにかくよそから来たおっさんに押し出されて、私のJKがずれてしまうのです。
もちろんそれは仕方のないことです。
私は毎日女子高生が前にいないと嫌だ、と言っているのではないのです。
そりゃあ勿論向いで吊皮を掴んで短いスカートのすそがちょっとあがって「ドキッ」となったりしますけど、それはまぁいいのです。
だって彼がいなければ私の能力は充分に実現しますし、車内におっさんが少なければ彼の能力と私の能力は「共存」することだってできるからです。
おっさんに女子高生が押し負けることなんて、書いていてネタばれしますが10回に1度あるかないかなのです。実は。
でも悔しいんです。JKは関係ないんです。おっさんがくることも重要ではないんです。
私が気にしている点はただこの点なのです。
どうにも出来ない力の差なのですが悔しいのです。
みなさんもスタンド能力あるかどうかは知りませんが、こうした経験、あるのではないでしょうか?
スタンド名:ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー(YMO好きです)
持続力:B(通勤中ならずっと)
精密機動性:C(姪っ子の耳かきはできる)