はてなキーワード: 少年Aとは
まず考えないといけないのが日本国では表現の自由は憲法で保障されてるってこと。
要するに少年Aが手記を書き本を出版する事自体は法律的に全く問題ない。
批判として出てる遺族感情を考えろってのは全く的外れで法治国家である日本では頓珍漢な意見なんだよね。
ある本屋がこの手記を販売しないと表明したがこれも違う。
本を買う買わないは消費者が判断すればいい事だし本屋が言論統制みたいな事をするべきではないと思う。
違うだろ。
無料で配れってのも違う。
遺族が望めば死ぬのが正しいのか?
法治国家である日本国で少年法を否定する事の意味が分からない。
そもそも重大事件を起こした未成年の少年が大人になり書いた手記というのは社会的に公共の利益になると思う。
更生してないという人もいるが出所しても間違いを起こしてない時点で更生してるのではないのか。
そもそも赤の他人のあなた達が発狂する事自体お門違いなんですよね。
みんなもう少し冷静になろうよ。
当時殺された小学生くらいの年代だったけど、あの事件はよく覚えている。
連日報道されていた通り魔事件の最中の出来事だったのでかなりインパクトがあった。
「校門前に男児の頭部」「さあゲームの始まりです」「不審な車と男性の目撃情報」
そして少年Aが逮捕された夜の記者会見で、子供でもあんな事件を起こすことが出来るのを初めて知った。
ほかに同じころ起こった和歌山カレー事件で同じ年くらいの子供がカレーを食べただけで死んでしまったのが怖かった。
オウム事件もあって、世の中にはたくさん悪い人がいることを知った。
Aパターン
・施設で刑期過ごす
Bパターン
・帰国してそれなりの扱いを受ける
・PTSDに悩みながら日々を苦しんで生きる
・自らの経験をセミナーで語ったり自伝を出版し脚光を浴びる←そんな人いるのかどうかしらんけど
正直どうでもいい。
これ読んだ
少年A 神戸連続児童殺傷事件加害者の手記「絶歌」のあとがきに怒りに震えた - ソーシャルレンディング赤裸々日記
http://quadstormferret.blog.fc2.com/blog-entry-224.html
おかげで買わなくてすんだよ、ありがとう
で思ったんだけどさ、何人かが1章ずつ「引用」してブログ書けばいいんじゃないかな
よくわかんないけど
別に出版したって良いんじゃないんですかね?遺族の許可が無くても。
そして、自分の事を自分で公表しているだけのように思える。なぜ遺族が関係する。
僕はサイコパスだ。
小学二年生くらいだったか、小さなサイコパスの最初のターゲットは仔猫だった。
公園の片隅にいた仔猫を落ちていた鉄パイプで殴った。何度も何度も。
片目は潰れ、頭に重篤な傷を負いながらも、仔猫は生きていた。
そのうち友達が来たので、「そこに倒れてた」と嘘を吐き、みんなで仔猫を保護した。
近くに大人がいたのでちょっとした騒ぎになった。
僕は犯人と名乗らず、あくまで発見者の一人として一緒に仔猫の手当てした。
翌日、仔猫は公園で死んでいた。僕は疑われることもなく、そのままだった。
二番目のターゲットは雀だった。
巣から落ちたばかりの子供だったのか、飛べずに道端を走り回っていた。
僕は雀を追いかけ、側溝へ追い落とし、逃げられなくなったところへ大きな石を落とした。
二三回繰り返したら雀は動かなくなった。死骸には唾を吐き小便をかけた。
苦しそうに顔を歪ませるのを見るのが好きだったが、これはさすがに親の耳にも入り、叱られ止めさせられた。
この後もちょっとした虫などは殺し続けていたが、さすがに小動物は狙わなくなった。
僕は嘘吐きな性分で、同性からはよく苛められた。
同性はみな野蛮だと思い、僕は異性とばかり遊ぶようになった。
ある夏、僕は苛めていたクラスメイトを殺そうと考えた。
事故を装い高所から文鎮などを落として仕留めようと思ったが、実行はしなかった。
完遂する自信がなかったからだ。
そのうち苛めの対象は他の児童に移り、僕は人殺しにならずに済んだ。
ちょうどその頃、今話題の神戸連続殺傷事件があったのだと思う。
その後も何かと殺人衝動が沸くことがあったが、実行には移さないまま季節は過ぎていった。
僕はおそらくサイコパスだ。
でも、僕は人を殺すことはなかった。
今でもその衝動と妄想には悩まされているが、おそらく殺人者にはならないだろう。
では、実際に人を殺すことはなかったサイコパスな僕と、実際に人を殺してしまったサイコパスな犯罪者とではどう違うのだろうか。
その答えは、きっと『あの本』の中にあると思う。
同じ性質を持った僕にとって、『あの本』は読むに値する一冊である。
入荷されるのが待ち遠しい。
「性的志向と性的嗜好には貴賤があるんだろうか?(スカトロジストとしての自己)」http://www.open.sh/entry/20141031/1414716284 (id:netcraft)
と、そのコメントや反論記事を読んでいてどうしても言いたかったのでここで書きます。。
まず
>「スカトロはいわゆる「プレイ」だから性的指向とは全く別の問題だろ。幼少期から糞尿そのものが性対象なの?」
っていう意見について…、
私の場合は嗜好の内容はそれとは違いますが、9〜10歳ごろの性への理解とほぼ同時に、自分の性的な特性を自覚しました。
それも、そういう内容の広告を見て、「ああなるほど、私は『これ』だったんだ」という認識でした。
つまり傾向自体はそれ以前に漠然と認識しつつ、そのときに名前を与えられたという状態でした。
大人になってから「選択」したわけではなく、幼少期から自覚する性的嗜好によって、それに悩み、矯正を試みてもやはり駄目で、人には相談できず、自己の存在に疑問を持ち続けるということがあるという事を、できれば知って欲しいです。
(三島由紀夫のたしか「仮面の告白」はこれがテーマじゃないでしょうか。幼少期の糞尿汲取人への思いからの自己の正当性への葛藤。三島の場合は男色がメインの「告白」ですが、サディズムとスカトロジーも、言えない欲求として存在しています)
>「嗜好は秘めやかに楽しむ」…
もちろんLGBTの方々よりも日常生活における問題は少ないですし、それゆえ公にする必要はないと言えます。
また、嗜好によっては安全面、倫理面などに問題があって、実践そのものが不可能な場合もあります。(ロリコンの問題もそうよね?)
だから多くの少数性的嗜好者はそれを特定のパートナー(全然出会えない)や、想像や、小説やイラストだけで満足させて、他ではおくびにも出さず、きちんと現実社会と折り合いをつけています。
しかし、自分が「生得した」傾向は、どんなに悩もうと矯正できない…。
そんな中で、それをお笑いのネタにされたり、人々に無条件に嫌悪されたりするのは、仕方ないと分かってはいても辛いものです。
この点はLGBTの方々と共通するんじゃないかなと思っています。一緒にして欲しくはないかもしれませんが…。
折り合いをつけられなかった場合(神戸児童殺傷事件の少年Aがその例です:「少年A 矯正2500日全記録」 が大変参考になります)には「治療」が必要です。
しかし折り合いをつけて生活が出来ている限りは「それは単に病気じゃないの?ちゃんと治したら?」という意見も、なんというか、悲しいだけです。「そうかもしれません」としか言えません。
それを簡単に「治療」してくれる相手もほとんどなければ、それをしなくてはならない理由は(社会生活との折り合いをつけられている限りは)ありません。
元記事のさいとうさんがどんな人か知らないし、普段からおちゃらけているのか、どんな社会的立場の方なのかも知らないですが、記事にはとても共感しましたし、問題になったブコメも私と同じ気持ちでつけたんだろうなと思いました。
その性的嗜好を本当に親しい人にはカムアウトしてきた、その結果距離をおかれたこともあるとの記述がありました。
自分という存在の中で大きな割合を占めるもの、本当の自分を語るには避けて通れないものを、本当に親しい人にもずっと隠して生きていかなければいけないのは、やはり悲しくて、辛いことです。
私は女性なので、大きな誤解も招きかねないですから、現在はダンナ(どノーマルです)以外にはカムアウトはしていません。
ダンナとは普通のことしかしませんから、本当は実現できるパートナーの方が良かったのかとも思っていますが、そういったパートナーに幸か不幸か恵まれなかったこと、子どもが出来たのちにそれが何らかの形で悪影響になってはいけないと自分で思っていたこと(注・このことは「その嗜好がやはり悪徳じゃないか」という証明にはなりません。現在の社会規範から外れていることが問題だからです)から、現在わたしは自分の性的嗜好を現実に満たしてはいません。
今後も、忘れたことにして胸の内だけでたまに思い、その人生を選んだのは自分だと言い聞かせるだけです。
先般のSMバー問題の報道において、「政務活動費で補われるものであったかということは問題だが、SMという性的嗜好自体を問題とするのは、よくないのではないか」といった言説を複数目にして、「すごい、時代は変わっている、嬉しい」と感動していた矢先のことで(そしてそれはLGBTの方々が社会に受け入れてもらえるように活動し、それが認められてきたことに付随するものだと感じ、感謝しています)、立て続けに考えさせられたので、ここに書かせてもらいました。
買い物帰りに、市営の100円バスに乗った(マイクロバス)。乗車したバス停から、20分ほどで降車するバス停に着く。スマホでメールチェックをしながら、バスに揺られた。
2つほどバス停を過ぎると、私の右隣に中年女性が座った。私はこのときもスマホをいじっていたので、中年女性ということしかわからなかった。
またいくつか目のバス停に止まったとき、15歳ほどの男の子たちが5人くらいのグループで乗車してきた。バス車内に足を踏み入れるや、大きい声で話しだす。
数分停車したバスは、中年女性と彼らと私とその他のひとたちを乗せ、また次のバス停に向かって走りだした。
すると、DQN少年A(私の斜向かい、中年女性の真向かいに座っている子)が「ヤベーこれマジ」みたいなことを言いながら爆笑しだした。そして、私のすぐ左隣に座っている少年を促して席をトレードして、また集団でバカにした笑いをする。
私は、自分のことを笑われているんじゃないかとビクビクしながら、少年たちの方をチラ見した。すると、視線を見るにどうやら笑っている対象は私ではなくて、すぐ右隣の中年女性らしい。なにがそんなにおもしろいのかは、わからなかった。でも、顔面を凝視していたから、たぶんそういうことだろう。あと、「くせー!」と言っていたから、体臭もしたのかも。ちらっと目に入った彼女の衣服には、洗濯をしていないときにできる汗ジミが見えた。
誰かが誰かを嘲笑している空間にいることがとても嫌だったが、顔はともかく、体臭をさせてしまう中年女性にも落ち度があった。だからといって、ヒトがヒトを嘲笑していい理由付けになんてならない。じゃあ、私は注意するべきだったのか。でも、今日は炎天下を久しぶりに歩いて、注意するほどの体力がなかった。でも、これも注意しなくていい理由付けになるのだろうか。誰が悪くて、誰が悪くないのか、よくわからなくなって、ただ暗い気持ちになって帰宅した。
いじめで人を殺し損ねた。
ある時はとっくみあいになって目を潰すつもりでケリを入れたし、
ある時は舌を噛み切らせるつもりで頭突きをかました。
殺すつもりだった。
だけど彼らは大したケガはしなかったし、おかげで僕は「少年A」にならず、
今はいじめなんてなかったかのような、平穏な暮らしをしている。
そう、僕はいじめられていた。
解決?
少なくとも、いじめられている事実をできるだけ僕のプライドが傷つかないように公表して、
親になんて恥ずかしくて相談できないし、解決にならない。
今でもそうだが、昔から口べたな僕は、
もし先生に「○○君らにいじめられています」と言ったとしても、
その後どんな言葉を続ければ、この苦しみが理解してもらえるのかわからなかった。
ちっぽけな自尊心と、無理解への恐怖は、相手と同じ、いやそれ以上の暴力として発揮するしか突破口がないと思った。
いじめといっても、マンガやニュースで出て来るような葬式ごっこやら上履きが消えたり、
学校は楽しかった。それなりに仲のいい友達もいて、でも一部に暴力を奮ってくる奴がいる。
たしかに「じゃれあってくる」奴もいた。彼らのことは僕も嫌いじゃなかった。
たまにイラっとくることもあったが、たしかに彼らは僕と遊んでいたし、
彼らなりの愛情表現として寝技をかけてきたりヘッドロックをかましてきたりした。
それとは違って、サディズムめいた、小動物を殺さない程度にいたぶりたがるような、
「俺はお前より上なんだ」と自尊心を確認するために暴力をふるってくる奴らがいた。
当時はそんな言葉はなかったが、「スクールカースト」は非常に意識していた。
AランクからいじめられるBランクの奴を、Cランクの僕はAランク同様見下していたが、
僕はBの彼、Mのことが嫌いだったので(自慢話が多いMは多くの人から嫌われていた)、
やたら僕を見下す発言をしてきたのは、そうやって高い自尊心を癒していたのだろう。
ノースサウス・ポジションというよりは、お互いの足が顔に位置する態勢になった。
その時、お互いが抵抗をやめるはずもなく、頭に血が上っていた僕は、
「これは事を大きくするチャンスだ」と、彼の顔――目を狙って、かかとで思い切り蹴りつけた。
今思えば、狙うのは鼻でもよかったはずなのに、目だった。
目を潰すくらいのことをしなければ、僕が今まで受けてきた痛みとは釣り合わない、そう思っていた。
しかし幸か不幸か大したケガはせずに、部員の誰かが仲裁に入って、やめることになった。
どっちが勝つというケンカではなかったが、
「MがF(僕)に負けた」と誰かがからかい半分言い放ったのは、Mの自尊心をまた傷つけただろう。
これもやはり部活中で、スクールカーストでは最下位に当たるSと僕が、
どういう流れか対決させられることになった。
今思い出してもあれは気持ちが悪かった。
部員全員が輪になって僕とSと囲い、二人の対決を見守る。
背後からヘッドロックを決められたときに、精一杯僕は彼の口を目がけて頭突きをした。
これも歯を折るとかではなく、舌を噛み切らせることを明確に目的にしていた。
流血沙汰になって先生に知られれば、この見物人たちも「加害者」として裁かれるはずだ。
これは僕とSとのケンカではない。
部員が仕組んだ、自らの手を汚さずにサディズムを満たす卑劣な行為なのだ。
結局これも、Sが少し脣を切るくらいでおさまって、
あとは先生が来たのを気に、何事もなかったように部活が続けられた。
中三の秋だったか、自習の時に加害者二人に学校中を追い回され殴られ、
初めて先生に泣きついて、いじめの事実をようやく把握してもらった。
その後僕に暴力をふるわなくなった。
それを先生が見ていたのだが、「あんなあぶないことして!」と僕には怒って見せたが、
溺れさせようとしていた本人たちに注意することはなかった。
僕がそれまで断続的に、いろんな奴らから受けていた暴力はいったい何だったのか。
今となっては、僕がいじめられていた原因はなんとなくわかる。
そのわりに生意気な所があって、反抗してくるから、ますますいじめたくなる。
Twitterで見た発言だが、「いじめられる側にも原因はあるが責任はない」というのは、
いじめられっ子として非常に納得がいく。
そしてMやSを見下していた=いじめていた僕としても、非常に納得がいく。
ナマイキ。
俺より弱そう。
なんかムカつく。
殴ったあとの反応が面白い。
猫をかわいがっていて、つい嫌がる反応を見たくて抓ったりする。
それと同じだ。
お前より上だと主張しあう。
僕はあのとき、取り返しのつかない怪我を彼らにさせていればよかったんだろうか。
「少年A」になり損ねた僕は、この春入学する我が子がいじめられたら、どうすればいいのだろうか。
僕に似た息子は、きっといじめの相談なんて親に出来ないだろう。
いじめの現場を密かに録音しても、それを聞かれるなんて嫌がるだろう。
だからせめて、彼の行き場のない怒りを学校のテレビにぶつけろとでも伝えようか。
「もしいじめられて、堪えきれなくなったら、テレビを椅子でぶっ壊せ。
そしたらお父さんはすぐに駆けつける。
人に怒りをぶつけて怪我をさせたら、お前が嫌な思いをしてしまう。
人を怪我させたら大変だけど、学校のテレビくらいならいくらでも弁償してやる。
たった10分、15分の休み時間や、部活の時など、先生の目の届かない時に、
だから先生、お願いだから、いじめを無視して手を汚さない「加害者」にならないでくれ。
見て見ない振りだけはやめてくれ。
元「少年A」を増やさないために。
殴られもせずに一人前になった人なんていませんよね?
現在、私(B)は緊急に対応するための所属先でリーダーをしています。
その中に少年Aがいるのですが、彼は仕事の飲み込みが早く才能もあります。
彼の働きによって助かった局面が多数ありました。組織内評価も高いです。
ですが仕事が慣れて行くに従い傲慢になり私が指示しても言うことを聞かず、時には刃向かって来るようになりました。
ある日、口論となり私が堪りかねてAを殴ると、彼は「親父にもぶたれたことないのに」と言ったので
私が「それが甘ったれなんだ。殴られもせずに一人前になった奴がどこにいるものか」と諭してあげました。
その後は言うことを聞いていたんですが、仕事がまともにできるようになると
再び私の指示を無視して自分で判断して行動する事が多くなりました。
そこでAの配属を変更しようと信頼できる女性職員(M)に相談したのですが、その現場をAに聞かれてしまいました。
手間が省けたとも思ったのですが、少年Aはこともあろうに彼が使用していた機械を無断で持ち出して、逃げ出してしまいました。
持ち出された機械が無いと部内の処理能力が半減してしまいます。
私(B)は間違ってないですよね?殴られもせずに一人前になった奴なんていませんよね?
失った機材(非常に高価)は私の責任です。しかしあの時殴った事が原因でこのようになったのであれば納得いきません。