はてなキーワード: 小者とは
漫画家たちの中には「才能の違いを見せつけられた」「やってられない」など言って、
これついて、そんなこと言わなければいいのに、と思う。
昔、『シン・ゴジラ』が流行ったときに、庵野秀明監督と同大学同期で因縁を持つ島本和彦先生が
「やめろ庵野、俺より面白いものを作らないでくれー!」と感想を表明し、バズっていた。
うぬぼれ屋の主人公ホノオ君がすごいものを作っていく庵野君にボコボコにされ続けては悶えるというお馴染みの展開があり、
それを現実でリアルタイムでやるというネタであり、好敵手?への最大級の賛辞だ。
島本先生の漫画を読んでいないSNSの観客にもこのリアクションは面白がられ、
すごい庵野監督=小者っぽい島本先生 という構図が笑いの種となった。
島本先生のリアクション自体についてはハハハやってるやってると思いつつも「そういう認知」が「事実」として広まっていくと、
私はなんだか笑えなくなっていった。
というのも、私については単純に『シン・ゴジラ』よりも『アオイホノオ』の方が好きで、
作品レベル的なものも上に見えていて、才能的なものも上に見えていたからだ。
シン・ゴジラの観賞料が1万円だったらきついな
でもアオイホノオは全巻そろえて1万円払っても満足感しかないな
あとシンゴジラを二周目三周目する気は私はないけど
ということで、自分の中では「アオイホノオの方がすごい」という結論があった。
「庵野は天才」「俺より面白いものを作るな」的な発言をされていて、
「島本和彦は、庵野秀明より面白いものが作れない」という認定がSNSにおりていくのは…
やめてほしかったなー。
作者自ら『アオイホノオはシンゴジラより面白くないんです』と取れる発言をされると
一読者は何も言えない。
読者は全然そうじゃないと思っていても、あ、作者はそう思ってるんだ、なんか悲しいな、と思う。
もし作者が、創作家ならではの観点で本当にそのように見えていたとしても
ここに新刊を発売日に買い続けていた人がいる以上
審美眼が劣っているのかもしれないけど、
まあそんなわけで、追い続けているファンがいる以上
もし本当に思ってても、プロは言わない方がいいと思う。
ファンやファンでない人には全然劣ってるように見えてないかもしれないし、
あなたこそ真の才人、創作者として生活に潤いを与えてくれるヒーローと本当に思っているファンは、
同人絵描きさんに「本当に素敵です!」って言ったら「自分なんかゴミ絵しか描けなくて生きてる意味がない」って返されたあの時に近い。
アマチュア界ですら「そういうのは誰も得しないからやめよう」って常識化されてきたように思うのに、
今この時代にプロたちがしているのを見てなんだかなぁと思った。
もう一つ。
自分もある分野における専門職で、そこそこ重宝してもらっている。
一つプロジェクトが終わったときのお疲れさん会で別会社の作品の話になり、
私はそっちにいる同業の人の腕前を尊敬していたので
「あの人は天才ですよ」と褒め称えた。
べつに、自分を下げて褒めたわけではなく、単純に「あの人は本当にすごい。天才。尊敬する」と言っただけ。
すると何が起きたかというと
「え?そうなの?」「増田さんって、超すごいと思ってたけど中堅ぐらいだったの?」みたいな空気になった。
そのプロジェクトでは私の分野は私一人で回していたので、
内容レベルに対して詳しい人がいなかった。
みんな私の納品物を「すごい」「これなら勝負できる」と思ってついてきてくれていた。
だから「もしかして自分たちが作ったものは、あまりすごくないものだったのかな」みたいな疑念を抱かせてしまった。
実際は「向こうもすごいが自分も絶対に負けていない」と思っていただけに、誰も得しない発言をしてしまった。
さらに、そこに同席していた特に親しいわけではないマネージャーがその後、私が「天才」と褒めた方を雇ったと聞いた。
「すごい仕事をしてくれた増田さんが天才と褒めるのだからすごいに違いない。増田さんと同額程度だし」だったそうだ。
つまり、本来私のものとなる確率が十分にあった仕事を1つ奪われてしまったわけだけど、
まあ私の言葉を素直に受け取ったらそうなるよな…と納得してしまった。
(単純に、私の仕事の評価が低かった節も当然ある。その場合は私の発言が乗り換えの決め手になったのだろう)
1つ空いた雑誌の新連載枠に対して
「Aさんは天才です」と言った待機中の漫画家Bではなく、Aさんが引っ張ってこられた。
払うお金が同じぐらいなら、お試しや人脈拡大の気持ちも手伝ってそうなるのは自然なこと。
その石原慎太郎氏は森元氏にそそのかされたこともあると言い訳してましたよね
だけどIOCの白人に日本のオリンピック運営トップの竹田氏とかがイエスマンになっていたのを見て、
猪瀬氏はそういった揉め事を繋ぎ直そうとしたのかもしれないが、
自称ヤクザも黙るジャーナリストという肩書とは思えない小者ぶりで、徳洲会事件でまんまとハメられる
小池氏もどうかと思うこともあるが、
この話は当たり前だが、後ろに向かうほど尻拭いをさせられる構造になっている
石原氏の尻拭いをしたのは猪瀬氏だ
もちろん、尻拭いをするから、という名目でオリンピック利権をバックに付ける必要があった
これまでの前任者の尻拭いをすべてさせられているのは小池氏である
僕の勤め先は長年にわたり新規採用を絞っていたから、僕より年下の人はなかなか増えず、僕は常に若者だった。
責任がどうとか現状分析をもとに最適な動きをするとか考えるまでもなく、言われたことをするだけの日々が続いた。
もともと何に対しても消極的な性格もあって、上役のオッサンどもの「こんなときの対処法」を勉強することなど当然してこなかった。
時が経って、僕もオッサンと新人さんとの間に挟まれるくらいの年齢になり、まだ役職はつかないが勤務年数もそれなりになった。
年下の人がいる、という感覚が新鮮というか違和感でしかない。僕の直属ではないにしろ同じ部署に年下の人が来たから、なにやらお教えすることもあるんだが、違和感しかない。僕は教えてもらう側ではなかったか?
この違和感が優越感に変わったら老害なんだろうな、と気を付けながらも、面倒な事柄を年下の人へ押し付けたりし始めた自分がもう嫌でしかない。
ともあれ、年下の人は僕のことを先輩だと認識しているわけで、上に書いたとおりなにやら尋ねられたらお教えしたりはするのだが、それがオッサンどもの見解と違うことがあまりに多いことに気づいた。
それと、年下の人は僕に「判断」を求めていることにも気づいた。僕に何かを言わせようとしている。僕に「指示」を出させようとしている。そこで僕はそれっぽいことを言うのだが、年下の人はそれを気に入らない。なぜかって、オッサンどもが示した大枠と僕の指示が整合しないから。
そう、ずっと消極的で勉強せず日が暮れるのをボーっと待つようなことしかしてこなかったから、どうしていいかがわからない。判断ができない。指示をするにしてもその業務の難しさとか量の多さの判断がつかない。
「これはまずい」と思いながら他方で「僕のような一生ヒラの小者が今さら焦ってどうする。オッサンへ投げるか逃げるかすればいい」とまた消極的になったりしている。
また春が来て、僕はまた歳をとり、新人さんもまたやってくる。
さて、僕はこの先生きのこれるのか…
ただ無知だとかお馬鹿が喚いてるだけならまーだ安定の小者スルーしてやろうかと思ったんだけど
殺すくらいなら殺されて良いって命に関わる事を軽々しく欺瞞を言ったのが、じゃあ死んでろって思っちゃったんだよね
そのセリフ、何の考えもなければ覚悟もなく言ってるんだろうって思ってたら、案の定昨日の今日で撤回してる
https://www.twitter.com/WRHMURAMOTO/status/948180253792337921
いや、良いよ?齢37歳とか言うおっさんが馬鹿正直に無知だから知識つけたがって奮闘するのは素敵だと思うから、その姿勢は責めないけどな
でもさ、自分や身の回りの人間の命に関すること、動物として最低限の生存本能的なスタンスを殺すくらいなら殺される方がマシとか言っちゃって、翌日撤回ですよ
どんだけ軽いのよ
37年間もあって本当何も考えてこなかったんだなって
右とか左とか知識とか政治とか以前に自分や身の回りの命に関してのスタンスなんて、人間誰しも早けりゃ小学生の頃、遅くても二十歳そこらありゃ考えて決めてることじゃないかね?
いや良いよ、殺したくもないけど殺されたくもないって絶対嫌なこと線引きするのは良いと思うよ
そんなんで、どんだけスタンスや考えのある人を自分は無知だからと批判したの?
それどころかバカ学者どもとかまた喚き散らしてるよね、学どころか考えもなければ礼節もないよね
37歳にもなってみっともなさすぎるだろ
リテラとか、サヨク様方が内輪ウケがいいからそれでも必死に担ぎ上げてるけどさ、絶対まだまだ3転4転とブレますぜ
一生命体としての命題を一日で撤回してまだ考え中とか言うほどなんだから
その場で考えてその場で物言うだけの浅知恵タイプだよ
明日には違うこと言ったり、ごめんなさいが言えないから自己正当化したり周りを責め立てたりする
鳥越と変わんない
私は40手前のオッサンで、自分ではインスタはほとんど使ってないんだけど、インスタでたまに話題の写真とかは見たりします。
最近同じくらいの歳の友達や知り合いが「インスタ映え」という言葉を小馬鹿にして使うんですが、それにすごい違和感を感じています。
インスタをメインのSNSとして利用している人達にとってインスタ映えを狙うことはむしろマナーのようなものではないんだろうか?
普通の人は人の目が多い外をであるく時なんかはそれなりの身だしなみを整えると思う、つまりインスタを常日頃利用している人にとっては
インスタに投稿する写真は街中を歩いてる自分と同じことであって、最低限の身だしなみを整えるのがマナーなのではないか?
もちろん身だしなみをきっちり整えていてもダサい人はダサい、でも身だしなみを整えていれば外を歩いてもおかしくはないし
一緒に歩く人がいたとしたら失礼にもならない
インスタ映えを狙うことと、結果として写真がインスタ映えすることは必ずしも一致しないのもおしゃれと一緒
とんでもねー個性的なファッションで周りに迷惑かけちゃうおしゃれに必死になりすぎな人とインスタ映えを狙って問題を起こす人は多分本質は同じ
あ? 私小説? どうせ、実生活で体験の幅が狭い作家が、どうでもいい身辺雑記を延々と書いた文学のことだろ? くっだらねぇ。
というふうに自分は思っていた。
で、私小説をいくつか読んでみた。
食わず嫌いの先入見は、まちがいだった。
なにが面白いか。
私小説は、主人公が馬鹿で、下衆で、これでもか、これでもかというほどに生活がどんどん下降していくさまが、ある種爽快なほど露悪的に書いてあること、
そしてこれが事実であるかもしれないという期待を読者に抱かせながら、虚実入り混ぜて物語が展開されること、
ではないかと思う。
主人公が失業して貧困に陥ったり、男女関係で泥沼にはまったり、酔っ払って人に迷惑をかけ、誰からも相手にされなくなっていくごとに、読んでいる側としては、変なカタルシスを感じてしまうというか。
で、ネット上で有名になって、お金も欲しいという人は、もっと私小説的な文章を発表してけばいいと思う。
ネット上で炎上してきた(している)話題は、当事者を主人公にして、私小説仕立てにしてみると、もっと面白くなりそうなものばかりだ。
ネット上の有名人が、ネット以外でブレイクすることを妨げているのは、彼ら(彼女ら)が、小賢しいことだ。
小賢しいとは、自分の失敗や品性の低さを指摘されると、取り繕ったり、反論したりして、自分を分相応以上に賢く見せようとするということだ。
こうすることにより、彼ら(彼女ら)は、いっそう小者に見えてしまう。
コンテンツとして自分の価値を最大化したければ、大正、昭和の私小説作家のように、あるいは現代の西村賢太のように、卑小さを卑小さのままに、破綻を破綻のままに描き出し、そのことから生じる業を生きるほうが、じつは戦略としては賢いかもしれないのだ。
サッパリ自著は売れないながらも、昨年の彼の税務署への申告額は、小説関連の収入と、作家の肩書あっての各種アルバイトで、それでもx千x百万円になっていた。汚ねえ身なりをしているからと云って、そう容易く浮浪者を見る目で眺めて欲しくはないのである
これをフィクションと受け取るかどうかは、読者次第だろう。
炎上芸人は炎上芸人のままで終わる必要はない。もっとコンテンツとしてのポテンシャルがある。金銭的に報われる可能性がある。自分の人生をコンテンツとし続けることの業を生き続けるだけの覚悟があれば。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card3212.html
「近所の借金がうるさくて仕様が無いので、どこかに行つて書いて来るつもりだ。……大洗の方へでも行かうと思ふ」と言い残して主人公は東京を出て茨城に行き、知人のつてを頼って旅館に逗留するが、そもそも宿代を持ってきていない。知人が何とか融通してくれるだろうと最初から当て込みながら、居座る。
知人は当然のことながら激昂し、旅館からは宿代をつけにしたまま追い出される。
有り金がないまま次々と宿を変えながら茨城をさまよう話なのだが、最初はちゃんとした旅館だったのに、しだいに宿のグレードが下がっていって、最後はドヤ街の宿のような木賃宿で弟の送金を待ちながら、身につけたものをどんどん質に入れて裸になっていくところが笑える。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card49655.html
馬鹿で不細工で貧乏であることに強い劣等感を持っている主人公の中学時代を描いた作品。恥ずかしい過去を思い出して悶絶するときのシーンはとくに秀逸。
「あツ、あツ」と、私は奇妙な叫び声を発して下腹を抑へた。両手の十本の指を宙に拡げて机の前で暴れ騒いだ。
「何を気狂ひの真似をなさるんです。えイ、そんな気狂ひの真似する人わたし大嫌ひ」
私淑していた葛西善藏の気狂いっぷりを書いた『足相撲』もあわせて読みたい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card1337.html
ミハイル・バフチンがカーニバル文学と読んだドストエフスキーの作品のように、これ以上ないほど気まずく不謹慎な破綻の場面を職人的な巧みさで書ききるようになった著者の近年の作品はすべて必読。
はあちゅうの身に降りかかった事は気の毒だと思うしそれで彼女が声を上げるというのは当然の権利だし好きにすればいいと思う。巷に溢れている女性へのハラスメントの一被害者として声を上げるだけならそれはいい。
だがはあちゅうははあちゅうなのであって、奴のこれ迄の言動からすればまーた注目を集めた事により調子づいて何かやらかす危険は極めて高く、奴を一被害者以上の者として扱うのは世の中に不利益しかもたらさないであろう事は想像に難くない。極一部の関係者は儲けるかもしれんけれども。
だから、はあちゅうの表明は一被害者の声それ以上でも以下でもないという扱いに留めるべきだ。
「はあちゅうの事は嫌いだが今回の件でははあちゅうを支持する」
と言ってる人々がいるがそんな事はせんでいい。大体君らはあちゅうの事を何となく嫌いなんじゃなくて何かしら明確な理由があって嫌っているだろう。なら態々支持なんかしなくて良い。はあちゅうは自分で加害者と闘い、他の被害者は私も私も!と声を上げればそれでいい。よりにもよってはあちゅうを中心として連帯はするな。いくらはあちゅうが使い勝手よさそうに見えてもだ。
どんなしょーもない小者でも乗せられた御輿が思いのほかよければとんでもない荒神に超進化し、世の中に災厄をもたらしてしまう事がある。
俺は今の政党政治はシステムとして問題がありすぎると思ってる。いろいろあって比例と小選挙区にかわったけど、その程度じゃだめなんだよ。
今の選挙だと、どうしても少数の有能は多数の中に埋もれる。
有能な個人あるいはグループがいても、議員の数の有利を手に入れなければ意味がない。
だから、議員の持つ国会の投票を、投票した国民の数にすることをお勧めしたい。
政党は一人の政治家と多数の支援者だけになり、多様な政党では大きくなりすぎる国会を、多様な政治家によるスマートな国会にする案だよ。
議員選挙は、大(全国統一)選挙区と小選挙区の2回で実施。この時の票数がそのまま国会で投票した時の投票数になる。もちろん人口の0.1%以下になる候補者は切り捨てみたいな足切りをつける。
議会は、小さな地方票を持つ多くの議員と、大きな全国票を持つ少数の議員に分かれる。
基本的にこの大きな全国票を持つ少数の議員で国会を動かす。地方票の議員は基盤地方の振興になる政策提案に力を入れる。
今よりもポピュリズムに振れるかもしれないけど、死に票を減らし、地方票を生かすことができる。
首相は力を持ちすぎるから、国民投票による大統領にした方がいいかもね。