はてなキーワード: 私刑とは
https://trajectory.hateblo.jp/entry/2022/05/01/122007
https://trajectory.hateblo.jp/entry/2022/05/03/141521
↑それはもはや自主規制ではない
「燃やされたくなければ自ら燃やせ」
「自分で考えて私と同じ考えになりなさい」
要は規制派のスティグマからは逃れたいから「自分で考えて私と同じ考えになり、私に都合よく自己責任で自主規制しろ」って言ってるのね
筆者は「法的規制は求めないが自主規制を求める」という考えなので「表現の規制派」ではないと考えてるようだが違う。はっきり言うが、あなたは「表現の規制派」だ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/trajectory.hateblo.jp/entry/2022/05/01/122007
相変わらず自分はカマトトぶって、論的は悪魔化してるなあ。「見ない自由」持ち出しといて表現の自由否定するってどういうセンスなんだろう
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/trajectory.hateblo.jp/entry/2022/05/03/141521
公的な規制でなければ良いとした場合、フェミニストを不快と感じる人達の抗議により講演や出版がキャンセルされたり、限られた人しかアクセスできないようゾーニングされても問題ないという事になりますね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/4712727467113621954/comment/nowa_s
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/168014
あるジェンダー理論・社会学理論専門大学非常勤講師、90年代の有害図書騒動を引き合いに自主規制を主張し物議をかもす
https://togetter.com/li/1628387
事故でなくなった人と血縁関係とか婚姻関係や婚約関係といった距離感の近い存在だから本人になりかわってストレスを解消したりしていいのか?
本人が受けた被害をそのまま引き継げる権利とかあるのか?あるならそれは何権なのだろう?人権?
身近な人が被害を受けたというストレスを自分が感じているという事を距離感で個別に分配できるとしたらそれが現状ご遺族の方へというそれなんじゃないのか?
ご遺族だからその分を超えてさらに本人が失ったであろう権利も引き継いで請求できるという話ならばおかしいだろう
私刑というのは本人以外の第三者がその被害者本人が受けた苦痛によって引き起こされる苦痛を味わったという二次的被害の賠償請求という形にみえる
というかむしろハラスメントとして常にクレームいれて賠償を請求できそうだ
これはもういいとか悪いとか以前に完全に別物だろう
第三者や二次的な被害者が平等に交渉することも人権には必要なのだとしたらその過剰で無関係な暴言を被害者だから気持ちを察して無罪にしろというのは失礼だろう
ちゃんとハラスメントとしてカウントしてそのうえで裁判所は賠償命令の額をきめたらよさそう
被害者というのも本人ならば裁判で決着すべきだろうし被害者はというその指摘先が被害者遺族や関係者というなら無関係なので私刑とかいう自分のストレス解消先を請求する勝手な行為になんらかの正当性をつけてあげる必要はないんじゃないかな
そういうのを私刑というのか? 具体的には何刑?
知床の観光船の社長さんが被害者家族に説明会を開いた。被害者家族が「あなた今、笑ってましたよね?顔が笑っていた」と詰める場面があって、極度に緊張するヘラヘラ笑ってしまう癖を持つワイには他人ごとではなかった。そして思ったのだ。
この社長はこうして被害者の怒りを私刑という形で受け止めるべきなんだろうか。
わいは社長の気持ちもわかるが、被害者の怒りの気持ちも少しはわかる。飲酒運転による交通事故で家族を失っているからである。もう10年以上たつけど、今でも怒りは消えていないし、攻撃的な言葉で私刑を加えたい気持ちも永遠に続くだろう
でも私刑は、たぶん良くないんだよな。あのときは車の交通事故ってこともあってすぐに警察、検察がワイの代わりに冷静に加害者に対応し、経緯などを究明してくれた。警察や検察がいてくれて良かったと思う。
よくわからんけど、知床の社長は逮捕されてない。もちろん理由もなく逮捕することはできないが、遺族も社長も、逮捕されてないほうが辛いのではないか。そんなことを考える
馬鹿じゃねえの?
納得しようがしまいが判別できようができまいが「それが事実であることを第三者の目から見ても真である」と証明できれば解決するんだよ
犯罪を犯した人間が、司法を理解できない、納得できないからといって罰を免れるわけじゃない
判断するのは自分じゃなくていい。司法でいいし、専門家でいい。フェルマーの最終定理が常人に理解できないと言ったところで判断できる人間には判断できるんだよ
判断する場所がある以上、そこでいくらでも弁舌を振るえばいい。そのために司法は弁護士制度を用意している
そもそも、その場の雰囲気や多数決によって決められた事が後に問題になった件なんて、それこそ山ほどあるだろ
万人に理解されることが必要条件なら鬼畜米英と叫んでた時代の殺人が許容されうるとでも?
感情で動くこと、感情で考えることは問題にしてない。気に食わないなら気に食わないで一向にかまわない。そもそも内心にまで干渉しようなんぞおこがましい。
しかし、それらすべてが「法的根拠なく人の権利を制限しても良い」という理由たりえない。