「国会議事堂前」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 国会議事堂前とは

2011-11-11

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/11/11/2011111100566.html

韓米FTA反対デモ道路占拠し警官隊を暴行

 韓米自由貿易協定FTA)の批准に反対するデモ隊が10日午後、ソウル市永登浦区汝矣島国会議事堂近くの産業銀行前で道路不法占拠デモを行った。

 同日午後2時半ごろ、警察の推定で1200人(デモ隊は5000人と主張)のデモ隊が「韓米FTA反対」というスローガン叫び、集会を行った。参加したのは、アゴラ(インターネット掲示板)、金属労組全国民主労働組合総連盟民主労総)、建設労組、公共運輸労組進歩新党民主労働党などの旗を持ったデモ隊で「ハンナラ党強行採決すれば、現政権ハンナラ党審判を下す総力闘争に突入する」などと訴えた。

 午後3時35分ごろ、集会を終えたデモ隊は、国会議事堂前道路の片側3車線を占拠し、ハンナラ党本部に向かって行進しようとしたが、約5800人の警官隊に阻まれ、にらみ合いとなった。

 警察は午後3時45分ごろ、放水を開始。逮捕に乗り出した戦闘警察官1人がデモ隊に倒され、足で蹴られる暴行を受けた。この騒動で、戦闘警察官暴行したデモ参加者とイ・ヘソン民主労働党最高委員ら11人が警察に連行された。デモ隊は午後5時ごろに自主的に解散した。

 しかし、デモ隊約800人(警察推定)は、午後7時ごろに産業銀行前に再び集結し、韓米FTAに反対するろうそく集会を開いた。

 東京から来たという労働運動家は「韓進重工業の闘争とFTA反対闘争は日本でも伝えられている。これからは共に闘争しよう」と話した。大学修学能力試験受験し、京畿道富川市で服を着替えて駆け付けたという浪人生20)は「ツイッターを見て、試験が終わってすぐに来た。2008年米国産牛肉輸入反対集会には参加したが、FTA反対集会は今回が初めてだ」と語った。

 集会にはインターネット放送で活動する鄭鳳株(チョン・ボンジュ)元国会議員鄭東泳(チョン・ドンヨン)国会議員民主党)、姜基甲(カンギガプ)国会議員民主労働党)らも参加した。鄭東泳議員は「朴元淳(パク・ウォンスン)氏が(ソウル市長選で)勝ち、韓進重工業(の闘争)も勝利し、FTAでも勝つことができる」と気勢を上げた。デモ隊は午後1010分ごろに自主的に解散した。

 一方、午後2時ごろにはソウル駅前広場在郷軍人会など10保守系団体で組織する「愛国団体総連合会」の2000人(警察推定)が、韓米FTAの早期批准を求める集会を開いた。参加者は「国会北朝鮮追従反米勢力に振り回されず、韓米FTAを即刻批准し、国益を守れ」などと主張した。

金城敏(キム・ソンミン)記者 , ユ・マディ記者

今度の大統領逮捕でも自殺でもなく暗殺されそうだな。

2010-01-31

朝鮮進駐軍

朝鮮進駐軍Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー

http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D



概要

一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人韓国人)、もしくは現在日本帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後日本ポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物不法占拠鉄道飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民朝鮮進駐軍犠牲となり殺害されたとされている。


朝鮮進駐軍による朝鮮人犯罪及びテロ行為について

服装・武器及び組織について

戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍パイロット軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日朝鮮人連盟。更にこれが在日大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在民団朝鮮総連となる。


時代背景

当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感犯罪者といったイメージ日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。


朝鮮人による犯罪

朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎大阪神戸都心等当時朝鮮人比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。

市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。

略奪・窃盗密売土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地建物の収奪も相次いだ。

1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。

第八軍司令官ロバートアイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。


主な事件一覧

朝鮮進駐軍及びその後の在日朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。

阿仁村事件(1945年10月22日

生田警察署襲撃事件(1945年12月24日1946年1月9日

直江津リンチ殺人事件(1945年12月29日

富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日

長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日

富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日

坂町事件(1946年9月22日

新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)

首相官邸デモ事件(1946年12月20日

尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日

阪神教育事件(1948年4月23日~25日)

評定河原事件(1948年10月11日~12日)

宇部事件(1948年12月9日

益田事件(1949年1月25日

枝川事件(1949年4月6~13日)

高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)

本郷村事件(1949年6月2日~11日)

下関事件(1949年8月20日

台東会館事件(1950年3月20日

連島町事件(1950年8月15日

第二神戸事件(1950年11月20~27日)

四日市事件(1951年1月23日

王子事件(1951年3月7日

神奈川事件(1951年6月13日

下里村役場事件(1951年10月22日

福岡事件(1951年11月21日

東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日

半田一宮事件(1951年12月3日~11日)

軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日

日野事件(1951年12月18日

木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)

姫路事件(1952年2月28日

八坂神社事件(1952年3月1日

宇治事件(1952年3月13日

多奈川町事件(1952年3月26日~30日)

田川事件(1952年4月19日

岡山事件(1952年4月24日5月30日

血のメーデー事件(1952年5月1日

上郡事件(1952年5月8日

大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)

広島地裁事件(1952年5月13日

高田派出所襲撃事件(1952年5月26日

奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日

万来町事件(1952年5月31日6月5日

島津三条工場事件(1952年6月10日

醒ヶ井村事件(1952年6月13日

葺合*長田事件(1952年6月24日

吹田*枚方事件(1952年6月24日~25日)

新宿駅事件(1952年6月25日

大須事件(1952年7月7日

舞鶴事件(1952年7月8日

五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)

参考文献

法務研修所編『大須騒擾事件について』1954年

横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田枚方事件について』1954年

篠崎平治『在日朝鮮人運動1955年

大阪市行政局編『大阪市警察誌』1956年

新潟県警察史編さん委員会編『新潟県警察史』1959年

名古屋市総務局調査課編『名古屋市警察史』1960年

瓜生俊教編『富山県警察史 下巻』1960年

山形県警察史編さん委員会編『山形県警察史 下巻』1971年

宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年

大阪府警察編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』1973年

警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年

兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年

愛知県警察編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年

青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 下巻』1977年

坪井豊吉『在日同胞の動き』1977年

警視庁史編さん委員会編『警視庁史〔第4〕』1978年

思想の科学研究会編『共同研究 日本占領研究事典』1978年

仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年

長崎県警察編集委員会編『長崎県警察史 下巻』1979年

李瑜煥『日本の中の三十八度線民団・朝総連歴史現実―』1980年

福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年

山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史 下巻』1980年

警察文化協会編『戦後事件史』1982年

日本国有鉄道公安本部編『鉄道公安の軌跡』1987年

講談社編『昭和・二万日の全記録 第9巻』1989年

朴慶植解放在日朝鮮人運動史』1989年

百瀬孝『事典・昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年

金慶海、堀内稔編『在日朝鮮人・生活擁護の闘い』1991年

荒敬『日本占領研究序説』1994年

百瀬孝『事典・昭和戦後期の日本 占領と改革』1995年

竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年

秋田魁新報1945年

神奈川新聞1951年

西日本新聞1951年

『中部日本新聞1951年1952年

大阪新聞1952年

京都新聞1952年

神戸新聞1952年

山陽新聞1952年

中国新聞1952年



コピー終わり。

2007-10-01

万国の非コミュよ、“団結”せよ。

平等な社会、などと最初に言ったのは誰だったか。

社会という存在は生まれながらにしてある種の差別を抱えている。

人種差別男女差別のことを言っているのではない。

つまり、「社会に参加できる者」による、「社会に参加できない者」への差別のことだ。


一万年と二千年前。

人類の中に“コミュニケーション”という能力を持つ者たちが現れた。

それは1+1を100にも200にもする力。

コミュ同士で力を合わせることができる能力だった。

彼らは“社会”という集団を結成し、勢力を拡大していった。

敵などいるはずもない。

世界は社会に覆い尽くされた。

彼らは、自らを“コミュ”と称した。


一方で、コミュニケーション能力を持たない者たちは、

いつまでも1のまま、力を持たないまま、コミュたちの社会押しつぶされた。

彼らは、社会の外に置かれ、コミュたちから差別された。

差別対象として、奴隷として、ようやくその存在を認められた。

コミュに非ずんば人に非ず」

彼らは“非コミュ”と呼ばれた。


生きていくためには働く必要がある。

そして、働くためには社会に参加せねばならない。

なんという差別だろうか。

社会に参加できなければ生きていく資格はない、と言うのだ。

考えてもみろ。

どんなに貧乏人間でも生活保護の申請はできる。

だが我々は、役所に電話のひとつも掛けられないのだぞ。

社会に参加できない人間には死ぬ自由しかない。

非コミュには絶望しかないのだ。


だが、現代文明非コミュにもひとつの光明をもたらした。

――インターネット

それがあれば、非コミュたちもコミュニケーション能力を持つことができた。

非コミュたちは、有史以来はじめて互いの存在を確認しあい、そして泣いた。

非コミュの夜明けがついにやってくるかと思われた。

ささやか希望はすぐに打ち砕かれた。

コミュに攻撃され、火をつけられて、いくつもの非コミュサイトが閉鎖していった。

非コミュは、非コミュ相手にさえ、トラックバックを送ることができなかった。

インターネット上ですら、非コミュたちはまともなコミュニケーションを取れなかった。

ましてやオフ会など。


そう、先日のオフ会は惨々たる有様だった。

オンラインではそこそこ盛り上がっていたものの、結局、集合場所には誰一人として現れなかった。

実は、かく言う私も行かなかったので、本当に誰も来なかったのかはわからない。

しかし少なくとも「第一回・政府非コミュ支援を訴えるオフ」が失敗に終わったことは確かなのだろう。

調子に乗って「第一回」とか付けるんじゃなかった。恥ずかしい。死にたい


…失礼。

今日はこの増田の場を借りて、「第二回・政府非コミュ支援を訴えるオフ」の告知をしたいと思う

諸君、今回は顔を合わせなくてもいい。

声を掛ける必要も、あの忌々しい自己紹介も必要ない。

ただそこに立っていてくれるだけでいい。

それが我々の“団結”だ。

それこそが、団結する力を持たない、我ら非コミュなりの“団結”となるのだ。

我々の力を、コミュのやつらに見せ付けてやろうではないか。


決行は次の日曜。

集合場所は国会議事堂前

万国の非コミュよ、“団結”せよ。

- 転職ならen
- 派遣ならen
 
1ページ中1ページ目を表示(合計:3件)