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はてなキーワード: ゴミ収集車とは

2020-07-15

レジ袋を廃止するならゴミ袋も廃止するべきだ

ゴミの回収はそれぞれの家庭の人がゴミ収集車に自分ゴミを入れるか清掃工場に持っていくようにする

少し時代を逆行して環境にやさしくなろう

2020-06-29

羊水腐ったババァは車ではねて怪我させただけでも逮捕されるんだな

2人も轢き殺しておいて逮捕もされない閣下との扱いの違いに草

千葉県警山武署は27日、自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、市原市自称パートの女(31)を現行犯逮捕した。

逮捕容疑は同日午後1時10分ごろ、山武蓮沼ロの県道乗用車運転中、オートバイ運転していた30代ぐらいの男性をはねて全身にけがを負わせた疑い。

同署によると、容疑を認めている。

飯塚は二人轢き殺して逃げてゴミ収集車にぶつかって止ったところを御用だから

フランス料理店を予約してあったから仕方ないけどね

これが日本警察司法です

2020-06-11

さっき買い物にいったときゴミ収集車とすれ違ったんだけど、流してる音楽パプリカだった

パプリカにあわせて子供が踊ったりしたら危なくないか

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに分けられる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 どんな記憶忘却可能性を含んでいて、それがいか尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである

 とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるものだ。例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類だ。

 これから話す記憶は――意外だと思われる人もいるかも知れないが――恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は(少なくとも僕にとっては)、一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。

 あるいは、死んだ猫の重みを人生最後まで引きずっていく人もいるのかもしれないけれど、僕がこの世界からいなくなる時に、多分、死んだ猫の記憶は僕の傍にはいない。


 人生というのはタフなもので、多くの場合予断を許さない。例えば、猫は前触れなく死んでしまう。そこに救済は存在しない。

 猫は突然死ぬ

 重要命題である

 だからこそ、我々はタフにならなければならない。タフな(きつい)人生に耐える為には、我々自身精神的にタフにならなければならないのである

 して、タフな人生を生き延びるために重要資質とは何だろうか?

 僕が思うに、恐らくそれは一種判断能力である。つまり重要もの重要でないもの区別する為の判断能力である

 この世界において、重要もの重要でないもの比較すれば、前者は圧倒的に少なく、後者は圧倒的に多い。これは考えるまでもなく当然のことである重要ものが我々の前に際限なく溢れ返っているのであれば、我々の人生もっと救済に満ちたものになる筈だからだ。でも、現にそうなってはいない。人生における重要事物は泥の中の砂金と同じである。それは、恐らくは多くの人が感じていることだろうと思う。

 そう、我々が人生を全うする為にもっと重要能力は、数少ない重要物事出会った際に、その重要出来事を迷わず掴み取る能力なのである

 タフな人生を本当に生き切る人間に備わっている素質は、恐らくはそれだ。彼らは汚泥の中の砂金を迷わず掴み取り、幸運の女神の前髪を毟り取らんばかりに握る。僕も、そういう人間になろうと日々心掛けてきた。この世界に溢れ返る物事の中に、ほんの僅かに存在している、かけがえのない事柄。あるいは、溢れ返る人々の中に存在している、かけがえのない人々。そういう人(もの)に出逢えば、できるだけそれを失わまいとしてきた。

 人物だけではない。記憶に関しても同様の態度を取ってきた。

 我々の心の中には無数の記憶存在している。その多くは、断言するに無意味記憶に過ぎない。病院記憶体育館記憶商店街記憶――はっきり言って、その殆ど無駄記憶だ。重要記憶というものは一握りしか存在していない。

 我々の人生には限りがある、その限られた人生の中で、無意味記憶無意味な情愛を注ぐことだけは避けなければならない。情愛を注ぐべき人を選び、情愛を注ぐべき記憶を選別すること――自分にとって重要ものを、重要でないものの中から選び抜くこと――それが本当に大切なことなのだ。だから、我々は、警戒しなければならない。一見重要であるように装っておきながら、実際には全く我々の人生無意味事物……そういうものへの執着を捨てなければならないのである

 書いていて思うが、幾分このような視点には屈折の気配がある。勿論、それは自分でも分かっている。でも、やはり我々の人生は貴重なものであり、貴重でないものと触れ合うことで、その輝きを鈍らせる必要はない――そういう視点が一抹の正しさを備えていることも、また事実なのだ

 はっきり言おう。

 これから語る記憶は、決して僕の人生重要ものではない。むしろ、どうでもいいものなのだと。

 

 大した記憶ではない。

 道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からなかったが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っていた。既に絶命していた。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの運転手ゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を自転車に乗って通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見ていた。

 通り過ぎる。

 川沿いの道を走り、こじんまりとしたアパートに辿り着く。駐輪場自転車を停め、アパートの裏手へと回り込むと、階段を上った。

 階段を上る度に、カンカンと乾いた金属音がこだまし、やがて僕は二階の自室の前へと辿り着いていた。

 鍵を開け、扉を開け、自室へと体を滑り込ませる。

 薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時にも猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に轢かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。猫の頭部がごろりと動いた。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く夥しい血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、たまに、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車だった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンへと戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が死んだ猫の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし、それはあくま一般的な教訓に限っての話だ。僕個人の、個人的な教訓に関しては、少しばかりはあるかもしれない。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタルな――欠くことのできないほど重要な――部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタルな部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-06-10

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 記憶というもの原理的に忘却可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。

 例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。

 これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。


 タフな人生を生きようとする人間功罪の常で、僕は重要記憶とそうでない記憶峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。

 僕は自分にとって重要物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要人間とそうでない人間峻別できると思っている。そこが功罪なのである人間自分にとって重要人間とそうでない人間並置し、比較し、時に冷徹判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。

 さて、そんなこんなでこ記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。


 大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。

 さて、帰宅する。薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンに戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-06-06

10時半ごろ起きて

燃えるゴミ出しそこねたなぁと思ってたら、12時ごろゴミ収集車が来た

ゴミ置き場を覗くくらいしとけばよかった

2020-04-16

anond:20200415234616

俺はコンビニ店員だろうとゴミ収集車だろうと、真っ当に働く人を見下す事はない。

いい歳してコンビニや清掃業で働いてる人には頭が下がる。頑張る人は支えてやりたいと思う。

だが鬱や障害があるわけでもないのにニートやってる奴や、ギャンブルで身を持ち崩す奴は見下す。

ギャンブルつながりで、株のトレード破産するような奴も見下す。

勉強もせず3流大学に行って、大学でもろくに勉強せず就職時にキリスト像みたいに祈られまくる奴も見下す。

彼らが窮状にあるのは、社会構造のせいじゃない。

そうなる前にいくらでもマシな選択肢があったのに、あるいはまだ苦しくも真っ当な生きる道があるのに、

楽な道を選んだ挙句小学生でも見通せる未来にたどり着いたというだけの話だ。

自己責任という言葉が嫌いなら、自業自得と呼べばよい。

残当以外の感想があるなら聞いてみたいものだ。

そもそも救いの手を差し伸べたところで、それが現金でなければ受け取る気もない連中だろう。

2020-04-05

anond:20200405154658

量が問題なんだろうよ

おまえは一人でゴミ収集車1台がいっぱいになるほど仕事ができるのか

なら事業系でおねがいしま

2019-11-19

anond:20191119110516

ベーシックインカムでいつも疑問に思うけど、

働かなくても生きていけるなら、誰が道端のゴミ袋をゴミ収集車に放り込む仕事とかをするんだ?

もちろんその仕事カラスが散らかしたりしていても対応できなければならないので、

現在技術の延長ではとてもそれができるロボットを作ることは出来そうにない。

2019-11-16

滅びよ、承認欲求オバケ

私は自分で言うのも何だけど承認欲求人一倍強い 一倍どころか兆倍強い

どの位強いかっつうと承認欲求が凄まじい夜は認められたい愛されたい誰かに私を褒めてほしい想いで不眠になるレベル

昨日もそんな感じで、アーアーウーウー唸りながら眠れなくてしんどくて泣いて、こんなに認めてもらえないならいっそ死んだほうがいいんじゃないかってことまで考えた

どうしてこんなに私は認められないんだろう?ということを考えたとき、認められてる人って逆にどんな人なんだろう?って疑問が頭をよぎった

気になったのでそのまま考えてみることにした

認められてる人は、私から見ると常に誰かに誉められてて話しかけてもらえて自分からアクション起こさなくても周りがなんとかしてくれて全ての物事が全部思い通りに進んでいる、そんな気がする

でも冷静になって考えてみろ

そんな人間、いるのか…?

世界に目を向けてみても、そんな人間大統領ですらいないじゃない 何かしら上手く行かなくてむしゃくしゃしてるじゃん

私が手に入らなくて呻いて喚いているものって、実は誰がどう足掻いたって手に入らないものなんじゃない…?

私は考えた 私って、じゃあ何がそんなに欲しいんだろう

ほめ言葉賞賛名誉?でもそんなの思い返せばいくつだってもらってる もらった瞬間は嬉しくても、自分も周りもいつまでもそのことだけで大騒ぎしてくれない 私、たぶん究極的にどうでもいいんだわ、人から誉められたり称えられること だって今まで心を尽くして褒めてもらえた何もかも一つでも心に残ってたら、こんな夜中に泣いて暴れたりしないもの いつまでも大事な宝物にして取り出して眺めて満足できるはずだもの

まり、私はたぶん、人に認めて褒められることをゴールにしてはいけない人間なんだ

欲しいものもっと貪欲に考えよう

絶えず持ち上げられるのが究極の快楽かもしれないが、教祖にでもならない限りそんなのは無理だ もっと普通生活で叶えられる程度のやつがい

この際人はどうでもいいんだわ 自分は何がしたい?

そう考えたら、自然と、何も考えずに安心して寝たいな…って思った

発展性も生産性もなんもねえ

まず本能が求めることすら欲深さが阻害してたのにびびった 引いた

でも人間そんなもんかぁ

別に飯食ってクソして寝るだけでもいいんだよなぁ

死んだって死ななくたってどっちでもいいし、生きてたっていいんだよなぁ

ここで私はマズローの五大欲求というものネットで調べて初めて知ったんだけど、一番底辺欲求がまず満たされてない状態で一番上の承認欲求を満たそうとしてることにゾッとした

私が今やるべきことは睡眠食事

そんなわけでよく寝た翌朝、ちゃんと朝食を食べてみた

偉くはないけどちゃんとできた これすら普段ちゃんとできない人間なんだ私は

こんな文章打ってたら、今日ゴミの日なのにごみを出すのを忘れてたことを思い出した

ゴミ収集車は行ってしまった

生理的欲求は満たしていてもその上が出来ない

こんな文章を書いてる暇があったらそれをしなきゃいけないな 次のゴミの日頑張ろう とりあえずゴミは外に放っといた

たぶん、たぶんなんだけど私がやらなくてはいけないのは人に認められることを望むより何より、当たり前のことを当たり前にできるようになること

そのために、ちゃんと寝たり起きたりができるようになること

まずはそこから自分のことを褒めてもいいのかも

あ ゴミ収集車戻ってきた

回収されたごみ見送りながら「てえへんだなぁ」って、ボサボサ頭スウェットのまんまでちょっとだけ泣いた

ごみと一緒にバイバイ承認欲求オバケ

2019-11-04

バスゴミ収集車事故ニュースタイトルだけアナウンスされてCMになったけど、バストの部分だけ頭に入って一瞬混乱した。

ということを同居人に行ったら鼻で笑われた。

2019-09-08

アニメ映画おおかみこどもの雨と雪」の感想ネタバレあり)

アニメ映画おおかみこどもの雨と雪」を見て感動したので、その感想を書いてみます。(ネタバレありなので注意)


2012年に「魔法少女まどか☆マギカ」にハマってからアニメをよく見るようになりましたが、最近ほとんど見なくなってしまいました。他のことで忙しいというのも理由ですが、アニメ場合心情描写が少なく、表面的になってしまって面白いと感じることが少ないためです。

もちろん、まどマギエヴァ例外ですが、それ以外ではやはり面白味を感じる作品は少なかったです。たまにドラマ映画を見るとその心情描写の深さに自分人間ということを思い出させてくれるような気分でした。

そんな中での「おおかみこどもの雨と雪」でしたので、心情描写にドキドキさせられっぱなしでした。小学生気持ち特に高学年の淡い恋心にとても共感できました。

主人公(花)は二ホンオオカミ末裔のおおかみおとこ名前不明)と恋に落ちます

姉(雪)と弟(雨)の2人の子宝に恵まれますが、雨が生まれた直後に夫は死にます。冒頭の見せ場であるはずの夫の死がほんとあっけない。。。花はおおかみの姿で川で死にゴミ収集車処分されるところを発見します。

夫の死の理由は全く不明ですが、雪の予想では「赤ん坊のために狩をする本能がはたらいたのかもしれませんし、産後すぐの母に需要のあるものを食べさせたかったのかもしれない」とのこと。つまりは、おおかみの死に人間に非はないということ。捕まって殺されたわけでもなく、車とぶつかって事故死したわけでもなく、おそらく鳥を取ろうとして誤って川に転落して死んだということです。おおかみの死が人間無関係に生じていることが、野生で生きるということの厳しさを物語っていると思われます

また、その死んだおおかみを人間はあっさりとゴミとしてゴミ収集車処分するという無機質さ。人間動物特別視していないということ、人間のみが尊いと考えられているというが分かります。愛する夫が目の前で死んでおり、ごみとして処分されても何もできない無残さが自然世界を表しています

その後は女手一つで2人の子供を育てることになりますが、2人ともおおかみの資質を持っていておおかみに変身できるため、その育て方に花は奮闘します。花の設定が、東京のはずれにある国立大学社会学部社会学科の学生だったというのは、異文化理解し、本などから知識を得る向学心があるということを端的に表しているためでしょう。普通の人なら異文化(おおかみおとこ)を受け入れるのは難しく、さらにはおおかみこどもを育てようとはならないでしょうから

花は最終的に田舎移住し、自然の多い中、子供たちに人間として生きるのがいいのか、おおかみとして生きるのがいいか、その道を考えさせるようになります

田舎での自給自足生活は不便で大変ですが、花は本で農業動物について勉強したり、周りのお年寄りに支えられることを学びながら2人を育て上げます

その後2人とも成長し小学生になりますが、雪は自分がおおかみであることを隠すようになり、人間としての生活を選ぶようになります。一方、雨は小学校に行っても馴染めず、「先生」と呼ぶアカギツネ師事し、おおかみとしての生活を選びたいと思うようになります

まあ、花がバイト自然観察指導員として雨を仕事場に連れていかなければ、他の動物と会うこともなく、雨が山でおおかみとして生きることを選ぶことはなかったかもしれないですが、それもまた人生ですよね。

最終的には、雪はクラスメートで恋心を抱く同級生藤井草平に自分がおおかみであることを明かしますが、人間としての生活を選び全寮制の中学に進学します。一方で、雨は10歳のとき先生の死後役割を引き継ぐために山に入り、おおかみとしての生活を選ぶようになります人間での10歳はまだまだ子供ですが、おおかみとしての10歳はかなりの大人なのでそのような選択ができたのでしょう。

以上の通り、2人は全く正反対生活を選びますが、これは花が子供に好きな道を選んでほしいと考えたためです。花は決してどちらの方がいいと強制したわけではありません。雨に「山に行ってはいけない」と止めていたのは台風中山に行くことは危険というためでおおかみの生活を選んではいけないということではなかったわけです。

かに何かを教えるとき自分理想の姿になってほしいと考えてしまっていましたが、どのような姿になるかは人ぞれぞれであり、その人の気持ちや適性から自分判断するのがよいと考えるようになりました。

2人の名前の雨と雪はそれぞれ生まれた日が雨の日・雪の日だったためですが、同じ水でも全く違う方向になるということのメタファーなのでしょう。このタイトルの深さが分かったときは本当に考えさせられましたよ。

ということで、いろいろと感じることが多い作品でした。みなさんも見てみていろいろ感想を感じてください。細田作品特におすすめ作品となりました!!

2019-05-20

あの日、あの時、あの場所ゴミ収集車が居なかったら、被害者もっとでていたのか

その咎でごみ収集車が家宅捜査を受けたってマジ?

やっぱ上級国民さまが轢き捨て御免で立ち去ろうとしたのを引き止めた罪ってのは相当重いの?

2019-04-27

日々起こってる同様の車の事故では全員逮捕

しかし、このじいさんだけはなぜか逮捕されない

フジの千野もそうだった

モーニングショー

・車、ドラレコ押収

・本人が怪我入院

事実を認めてる

・身元引受人がいる

があれば逮捕はされないそうだ

たぶん俺らの両親や将来の俺らが同じ事件起こした時はキッチリ逮捕されるんだよ

足が不自由なのに運転してこのざまだから逮捕されなくても在宅起訴になって危険運転致死罪適用じゃないとおかし

勲章持ちが乗ってます」ってステッカー義務付けろよ

事故ってもやられ損なんだから

天皇即位式に参加する予定だったんだよな

忖度忖度言ってるマスコミが一番忖度してるっていい例だよな

いくら「やってない」、「そうじゃない」と言っても「忖度があったんだろう」とか最初に言い出したのはマスコミ連中

どう終息させるのだろう

メディアってアベが絡まないときは「なぜ逮捕されないんだぁ!」と定番の主張はしないんだなw

それもどうせ今週末で終わらせるだろう

週明けから新元号ネタでかき消す

ゴミ収集車いなかったらブレーキ踏まずにそのまま突っ込んでたってことかよ

斬り捨て御免の現代版「轢き捨て御免」が実在した訳だね

証拠隠滅の恐れがないため逮捕されません

当て逃げ轢き逃げ死亡事故直後に電話かけてFacebook垢削除などをしたのはセーフなん?

速攻でSNS消すぐらいだもんなそういう自己中心的危機管理はさすが官僚だわ

・一人目をひいた後逃走を図ったんなないかと思われる行動の目撃情報

事故直後に次々と消えたSNSアカウント

・息子が指示を受けてやったんじゃないかという噂

天下りをしていた元官僚

川口浩探検隊:「平成末期の日本上級国民実在した!」

2019-04-20

プリウス安全性が高いな

ゴミ収集車が横転するくらいの勢いでぶつかっても運転手が無事。

87歳運転事故への違和感

第一報では、ゴミ収集車が人をはねたという話しだった。

ゴミ収集車プリウスでは、おそらく、

ゴミ収集車運転手の方が下級市民から悪いのはゴミ収集車だろうという先入観があったのではと思っている。

その後、87歳の運転するプリウスが悪いと判明するが、犯人名前は明かされない。

犯人がKKOだったら、直ぐ名前公表されてその場で逮捕されてるよね。

過去の事例でも、怪我して病院に入っていても逮捕されて事情を聴かれていたはず。

それで、犯人家族にも取材に行くのが通例なのに、相手が元官僚からということで扱いがまるで違う。


上級市民と下級市民との間の差別的な扱いは見えない差別と言っても良い気がする。

2019-04-19

人轢いちゃった→くぉ~逃げないと捕まる!ここでアクセルを全開!→連続コンボゴミ収集車にぶつかって停止

ブレーキ踏み違えと違って完全にクロやないかこれ?

2019-02-10

仮に外国人労働者の受け入れ規制が始まって、

3K職種雇用タイトになりその年収が1000万辺りで常態化したとして、

中高一貫から名門大学に出した娘と結婚する相手職業ゴミ収集車作業員だった時、

私の配偶者はいい顔をして受け入れる事ができるのだろうか。

2018-09-18

anond:20180918192236

ゴミ袋に入れて燃えるゴミの日に出す。

ポイントちゃんゴミ収集車が来る直前にゴミ袋を出すこと。

以前、ホームレスおっさんゴミ袋を漁られるという経験をしてから「世の中にはゴミを漁る人が実在する」ことを知ったんよ。

2018-08-05

ケモナー動物好きは分かりあえないのかもしれない

ケモナーというか細田守動物好きというか俺

細田守作品ってさー

犬とか動物に対する愛を一切感じないんだよね

ゴミ収集車にぶち込むとかダックスを腰に悪い抱っこするとか

動物好きな俺からすると、そういう感じの「可哀想」って思っちゃう描写ってかなり不快なんだよね

動物好きだからケモナーになるのかと思ったけど、少なくとも彼はそうじゃないんだなー性的な目で見てるだけなんだなーって

残念

2018-07-12

anond:20180712032439

ITエンジニアエンジニア自称するのは、中華料理人が料理人自称するのとは違う

ゴミ収集車運転手市役所パートのおばさんが公務員自称するようなもの

上級職種キャストしてて気持ち悪いんだよ イキってるって言えばいいのかな?

中華料理人と料理人は同じレベル職種から気持ち悪くない

2018-06-03

ゴミを勧めるな」も認めた名曲音楽

AKB48バレンタイン・キッス

カラフルパレット「ぽいすてはだめ! with ごみら&ゴミおじさん」

・ヌミャーン「僕の作品は、ごみ

RiNG-O 「ゴミ収集車のチャイム

他は?

2018-03-22

ゴミ不法投棄したい

賃貸アパートに住んでいる。

指定の日にゴミ収集場所ゴミを置こうとすると、ゴミを出すなおじさんに「ゴミを出すな」と怒鳴られた。

話を聞くと私の住んでいるアパートの人が分別をしないかゴミ収集車がゴミを残して去ってしまうらしい。

から私の住んでいるアパートの人にゴミを出させないと言う。

残されたゴミを処理する人もたしか不憫だとは思う。

一通り聞くとゴミを出していいことになり、ゴミを捨てて家に帰る。

今朝も別のゴミを出すなおじさんに同じことで怒られた。

朝一に知らない田舎のおじさんに怒られるのにうんざりしている。

家賃町内会費も含まれている。

もう山の中とかにポイっと不法投棄したい。いけないこととわかっていてもつらい。

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