名前を隠して楽しく日記。
画面にやたらと出てくるウザい広告にウンザしないやつは少ない。
ネットを見ていれば、どこに行っても追いかけてくるあのバナー広告、うっとうしい。
第一に、Web広告は「ユーザーに価値を提供するべき」だ。見たことある?価値を提供する広告なんて。
広告ってのは、基本的にユーザーにとっては邪魔者。だからこそ、少しでも役に立つ情報を提供しなきゃならない、本当はね。でも現実は、欲しくもないものを無理やり売りつけるような広告ばかり。誰がそんなの見たいと思うのか。
美しく、さりげなく、邪魔にならないように配置することが大切なはずだ。
現実は、ページをスクロールするたびに目に飛び込んでくるド派手なバナー。特に動くな!追いかけてくるな。
これは、嫌がらせとしか言いようがない。少しはユーザーの気持ちを考えたデザインにしろよ。
広告がないと無料でコンテンツを提供できないんだって話があるのは分かる。広告収入は重要だ。
だが、そのためにユーザー体験を犠牲にしていいわけじゃない。広告がユーザーの邪魔をするんじゃなくて、自然に溶け込むように設計する。それができないなら、広告の在り方そのものを見直す必要がある。
そして、ターゲティングの問題。適切なユーザーに適切な広告を見せるのが理想だが、現実は?
一度でも関連するキーワードを検索したら、その後何度も同じ広告が出てくる。しかも、買った後も追いかけてくる。お前、俺がもう買ったの忘れたのか?何個買えば満足なんだ?こんな無駄な追跡広告、誰も望んでない。
でも過剰な追跡はプライバシー侵害だし、ユーザーを不快にさせるだけだ。もっとユーザーの行動を尊重した、適度なパーソナライズが必要だろう。
結局のところ、Web広告は「ユーザーのために存在するべき」、これに尽きる。ユーザーの体験を損なうことなく、価値を提供し、自然に溶け込むような広告。それが本来の在り方だ。広告主もプラットフォームも、そのことを忘れかけてる。ユーザーの信頼を得るためには、まずユーザーの視点に立つことが大切だってことを。
https://x.com/_keroko/status/1797117978041004129
橋迫瑞穂さんってこの人でしょ。
https://hite-media.jp/journal/502/
別に特別醜く描かれてるわけでもない、凡庸な普通の絵にしかみえないが…。
法廷画なんてどれもこの程度じゃん。
モテる方法を聞いているのに、モテるよりも人生のパートナーを作るほうがいいよ、そのためには「人間扱い」するのがいいよと言ってくるからである。
モテることすらできない人間が人生のパートナーって美少女が空から降ってくるのを期待するようなものでしょ
そんな自分としては、モテることより友達を作り人間関係を豊かにする方が大事だと思う。モテるテクニックで恋人を作っても意味あるのか?と思う。
大切なお客様が不快な気持ちにならないように、店という場を乱す客は積極的に排除する。そうやって店の雰囲気、居心地を確立していくのも店側の使命のひとつだ。つまり客の選別は店の仕事。
紹介客以外を店に入れないのは、お高くとまっているわけでも差別したいわけでもなく、リーズナブルで(少し店がラクな)客の選別方だ。
円安で外国人観光客からの外貨獲得は必要だが、このままでは限界が来てしまう。
外国人観光客も「筋のいい」お客様だけを入国させ、それ以外は排除しよう。
この場合、「筋がいい」というのは端的に「金払いがいい」ということだ。
所得格差の大きくなる世界、最も金をもっている層だけを招いて、その人たちに1,000人分の消費をさせる。
単純に客の数は1/1,000になる。外国人観光客はストレスなく観光を楽しめ、さらにプレミアム感、選民感を味わえる。
目利きの客の目にかなう観光サービス、飲食店のみが生き残り、観光地としての質も上がる。
日本人観光客はポイント還元などのシステムを設けて、従来(1/1,000)の料金にしてもいい。
名目は「生涯教育支援」など、なんでもいいだろう(観光地に歴史や美術を学びに来ている学生に対する学割のイメージ)。
この考え方が重要だと私は思う。
filmarksで映画をクリップするのは楽しいけど、いざ観ようとすると億劫になる。
なんかおれの人生の楽しみって期待ばっかりで、実感とか情熱とかそういうものが決定的に欠けてる。
のを理解した上で、新しく趣味を始めて初期衝動に突き動かされて、その後の退屈に耐えて、耐えられなくなって他の趣味を転々としてる。
いつもこれのためなら生きていけるかもって憧れや希望だけで、いつもこれのためになら生きてもいいかなあって納得のレベルまで行けない。
ランニングだけはなんか習慣化してるけど、それも歯磨きや風呂と同じで別に楽しいとかそういう気持ちが湧かない。
結局自己実現なんかどうでもよくて、気持ちが良ければそれでいいのかもしれない。でもやっぱりちょっとそれでは納得しきれない気もしてる。
例えば、ぬいペニ問題でも明らかなように、女と接する弱者男性に投げかけられる言葉なんだよ
ペニ出す前に人として接しないとねと
これって、シンプルに「弱者男性は私を女として見ないで」って話であって、よくある性淘汰圧でしかないんよ
けど、これを言うと優生主義を露呈して現代社会ではアウトになるから、弱者男性に責任を押し付けるような言い回しになる
これだけの話に、なんで面倒くさい説明をしようとしてるのか謎なんだよ
話を聞いていると、ひどい親、意味不明な兄弟、非常識な祖父母など家族から理不尽な負担を負わされている成人がいるが、皆、なぜか実家から離れようとしない。
普通に働いていて、自分一人が食べていく収入は十分得られる能力はあるにも関わらずだ。
他人の家族の問題に深入りしようとは思わないが、あまりにも酷い家族の愚痴をずっと聞かされて、いよいよ「実家と距離をとってみたら?」とか「そこまで自分を犠牲にしなきゃいけない義務は無いよ」とか言ってみると、
さっきまで饒舌に話していた相手が途端にポカンとして、なんだか要領を得ない返事しかしなくなる。
何度も言うが彼ら彼女らは客観的な能力から言えば実家を出て一人で暮らすだけの力はあるはずなのだ。
そりゃ家族と離れるのに抵抗があるのはわかるが、明らかに加害、家庭内でなければ明確に犯罪とされるような被害を受けながらもその環境に留まり続ける意味が分からなかった。
これまでの人生でそういう相手に二度三度出会うことがあって、不思議だったが、最近思うところがあり分かってきた気がする。
つまり、「子どもを独り立ちさせる」ということは、家族という集団の最終目標の一つであり、家族運営の成功の結果でしかないということだ。
十分に機能していない家族がこの「最終目標」を達成するのは、そうでない家族より難しいのは自明だ。
何らかの第三者からの強い介入があった、などの一部の例外パターンを除いて、子どもを能力的にも精神的にも独り立ちさせるのは困難なことなのだろう。