はてなキーワード: セラピーとは
こうした方がいい。ああしたほうがいい。
具体的だったり、簡単で簡潔だったり、他人からけっこうアドバイスを貰う。
自分から聞く方が多いけど、聞いてもないのにされることもある。
自分は結構なプライド高い人間だから素直に受け入れられない事が多々あって、明確な事を提示されても「NO」を示してしまう。
信頼しているからだろうと思う。
じゃあ、他人は信頼していないのか?と言う話になるけれどそうでもない。
ただ、ごく少数の友人や知り合いからの言葉で傷つく事があって、それで一気に信頼が自分の中で低下してしまう。
回復はするんだけど、低下すると少し長い。
その人の言葉にやたらと敏感になって、余計に連絡をとってしまったり会おうとしたり。
何がどうして、そんな言葉を浴びせられたのか確認したくなる。
そんなこんなで自分に自信が無さ過ぎるんだと思い、セラピーやらヒーリングに手を出したりした。
結果、ごちゃごちゃになって余計混乱した。
歴史上の人物が自分に語りかけたとか、本当の自分は辛いと言っているとか言われたり。
気付きもあったけどさ。
精神的に疲れて、それに通わなくなった途端に
セラピストやその類の先生に態度を変えられたのでまた自信がなくなった。
そこで気付いた。
結局は何に頼っていたって、それを信じるも信じないも自分だってこと。
何でもやってみないと分からないってこと。
自分はセラピーやヒーリングは、今はあまり肌に合わなかったと言うのも今回知った。
それで良いんだと思った。
誰かに嫉妬するのだって、自分の気持ちや意志を無視したり、自分に起きる物事に感謝していないから起こるんだと思った。
人生は日々選択をしていかなくてはならない毎日なのに、自分に自信が無いなんてウソだとも思った。
無かったら生きてい無いんじゃないかってね。(これは少し大雑把だけど)
自信が無い無いってくよくよするよりも、やっていて楽しい事、わくわくする事に集中した方が遥かに効率の良い幸せな人生をおくれる。
そう思えるようになった。
この前知り合いと飲み屋で、その知り合いの女性が4万もする個人セラピーをやってるのは如何なものかというお話になった。私もホメオパシーなど半信半疑に思っている。歌手のUAがホメオパシーを好きだがUAの音楽は大好きだがそういう部分に関しては疑問がある、例えばこういう事件もあった。
2009年8月、山口市在住の女性が助産師の指導のもと長女を自宅出産した。同年10月、長女は生後2ヶ月でビタミンK欠乏性出血症による硬膜下血腫が原因で死亡した。
死亡した新生児は、ビタミンK欠乏症によって出血死(新生児メレナ)したと考えられる。母子を担当した助産師は、ビタミンKの「記憶」や「波動」、「オーラ」を持ち「ビタミンK」と同程度の効果を持つと彼女や彼女が所属していた団体が主張している砂糖(いわゆる「レメディー」)をビタミンKの代わりに新生児に舐めさせた。担当医師に気づかれないよう母子手帳には「ビタミンK投与」と偽って記載されていたことがわかっている。
精神世界は否定はしないけど(むしろ興味が有るくらいだが)、それが個人の心の逃げ場や役立つものと思われるならそれこそ自己啓発のビジネスミナーや詐欺まがいの新興宗教と変わりないんじゃないかと思う。
昨年夏にも精神世界に精通してる高齢女性の集会に行ったが、テーマは次世代エネルギーについてだったがこの方の集会では必ず泣き出す人がいるそうだ。
EMというやつも口蹄疫や震災や放射能の不安から疑似科学化して元々用途は農業用だったが子供の風呂に使ったりと少しカルト化して付和雷同している面がある。昔EMを土壌使った野菜を食べた事はあるが活き活きとして美味しかった。
結局精神世界や疑似科学に行く人はナチュラリストの人が多いが人間関係(既婚者なら旦那との不仲など)や資本主義の嫌悪で自然に逃避している風に思える。(大学時代、馬術部のお手伝いをした事があるが動物や自然に逃避して大学に馴染めない人の集まりという感じだった)
アタシぃー、オンナだけど自虐を込めてそう感じるわ
占いとかにのめり込んで周囲に占い奨めてどん引きさせるのってたいてい女じゃん
「相性占い」「パワーストーン」「「厄年」とか女性雑誌に書いてあったら気にするし
TVで「トマトがいい」と紹介されればスーパーでトマト買ってきて押し付けるのよね
この根拠の無き受け売りからくる「善意の押し売り」ってやつ マジめーわく
いやそれ宣伝だからと言っても「TVが言ってるから」「雑誌に載ってたから」
これだよ
芸能人のこと可哀想と言えないほど、マスコミに洗脳されてるじゃん
まだ、アイドルの話された方がマシ
あれははまっている本人が金つぎ込むだけで周囲には布教しないから
この前「ホストに金払えないおばさんは安価なホストとしてアイドルに走るんだろうね」
という話をしてて「一口馬主」みたいだなと思った。
アイドルにはまる人ってたいてい微妙な容姿のおばさんが多いけど
アイドルの話をしてる時は目がハートマークになって生き生きしてるからな
同じ金を搾り取られるなら「不安」から金搾り取られるのと「ファン」の愛で金絞り取られるの
アイドルなら「誰かを好きになった」という甘い思い出が残る
ブサなおばさんでも誰かを愛したいし好きな人には大切な存在だと思われたい
愛に満たされない中年女は占いよりもアイドルに走った方が幸せになれると思う
女は愛に満たされていないと往々にして変な方向に走りがちだけど、どーせ走るなら
生きてて良かったと思える方に走っていけ
等である。
行く末は一人ぼっち。
そんな恐怖な妄想に囚われて一人悩み続けるしかないのかと死にそうになる。
とにかく全く誰にも相手にされない寂しい状態になってしまいそうで怖い。
その恐怖心から、
つまらない発言をして嫌われたくない。
↓
↓
焦るばかりで何をしたらいいのかわからないし、相談できる相手もいないし。
医者にでも行くべきだろうかと何度も考えた。
でもネットで探すとセラピーだの、なんだのと、的確な指示がもらえそうもない怪しげな場所ばかりあって、悶々とした日々を送るのが現状だ。
そこで2、3年前に購入した本を引っ張り出してきた。
どっちも同じ作者による本で、一冊は症例集、一冊は改善集である。
思えばここ二年間やってきたことが、原因になっていることは確かだと思う。
前職では二年間職場の人間関係で悩み、無言の日々を過ごしてきた。
安月給のため週末を家で過ごし、ネットのチャットだけが唯一の会話だった。
また、去年別れた彼女には、毎日元彼の話しから、その他大勢いろんな人の自慢話を聞かされた。
最後はこっちから切ったが、そこからしばらくモメてかなり憔悴しきっていた。
現在の仕事はまた暇で、指示が遅く、上の人間は愚鈍で、つまらないコードの解析ばかりを行なっている。
そのため一日中ぼーっとWebを見ていたり、青空文庫読んだり。
会合などでは大して興味が持てないので、うなずいて聞いているふりだけしている。
大体人と合うのは苦手だけれど。
でも以前はもっとユーモアがあった気がするのに、日々楽しく飲んで誰とでも交流できたし、会話中に色々イメージしながら話していた気がする。
少なくとも今よりはずっと社交的だったと…思う…思いたい。
今は話していても全くイメージが湧いてこない。
そんなわけで、2冊の本で改善を試みようと思う。
この本によると、前頭葉を鍛えることによって、上記の問題が改善するみたい。
効果はあるだろうか。
そしたら…死ぬしかない。
アメリカでは、母が転落死した子供が、人形でその様子を再現した。
子どもたちはときに、大人が考えつかないほど残酷な行動をとる。
だがけっして、子どもたちがおかしくなったとだけは思ってはいけない。
非言語的なコミュニケーションを中心としたプレイセラピー(遊戯療法)やアートセラピー(芸術療法)では、人形遊び・粘土細工・絵画・ゲームを用いた創作行為(表現活動)によってカタルシス(感情浄化)の効果を引き出し、虐待状況を遊びの中で再現することによって自己洞察(アウェアネス)を深めていきます。トラウマの問題を解決する為に実施される遊戯療法(プレイセラピー)を、「トラウマを受けた後に適用する遊戯療法」という意味でポストトラウマティック・プレイセラピーと呼ぶこともあります。その場合には、室内の安全性と玩具の選択が十分に配慮されたプレイルームで遊戯療法を実施し、子どもの内面的な感情や虐待的な家族関係を『遊びの内容』で象徴的に表現させるように工夫します。
どちらの事例も照らし合わせると、奇妙でおぞましい遊びではなく、子供たちが、トラウマを克服しようとしていることがわかる。
肉親を失う、たくさんの人が死んでいく、そういった過酷な状況は、大人ですら平静でいられない。
精神の平衡を乱し、一時はふさぎこむだろうし、そのまま立ち直れない可能性もある。
子どもなら、なおのことだろう。
同じトラウマに対し、ある人は泣き叫び、ある人は怒り狂い、ある人はふさぎこむ、というように、人は実に多様な関係を築く。
今回の地震では、多くの人の日常が、命が、はかなくも崩れ去った。
受け止め方は、さまざまある。
なかなか書けずにいたら似たエントリが出てしまったけど、釣りじゃないです。
http://anond.hatelabo.jp/20100820021613
最近父が死んだんだけど、息を引き取ったときほっとした。
私は殺されずに済んだ。殺さずに済んだ。
そして父は誰も殺さずに済んだ。
父はいわゆるDVだった。
物心ついた頃の記憶は、もの投げの標的にされて泣いている自分だった。
あらゆるものが飛んできた子供時代だった。もちろん殴られたし蹴られもした。
母も同じ目にあってたから、暴力は毎日あるものだった。
少し大きくなって、この事態をなんとか避けようと努力はしたのだけど、
避けられないんだよね。外で、仕事で、嫌な目に遭うと家族に向かって爆発するんだから。
避けられないなら止めるしかないと思って、今度は抵抗してみた。
すると抵抗者=敵と認識されて敵の敵は味方になってしまった。
私が交通事故にあった時の加害者へのバックアップなんて、熱烈歓迎だったよ。
漸く大人になって母と二人で逃げだせる時になって、問題が起こった。
そのクッションである私たちがいなくなったらケンカ沙汰で人を殺したりしないか?
「殺人犯の元妻と娘」に世間は甘くはない。
逃亡は出来かねた。
それからはどう父と折り合いをつけるかに重点を置いたんだが、
これが至難の業だった。父の思考回路がみえないのよ。
考え方、理論の立て方が普通と全く違うと気付くまでに大変な時間がかかってしまってた。
以降父への意思疎通を試行錯誤して色々やってみた。上手く行った部分もあるけど、通じなかった部分が多かった。
今から数年前に「発達障害」の事が新聞なんかで取り上げられた。
読んだ時母と二人で「これだ!」って叫んだ。
何故普通なら伝わる言葉がつうじないか、何故他の人とは似ても似つかない反応が返ってくるのか、
積年の疑問が漸く解けた感じだった。
でもそれで病院を訪ねてみようとならなかった。
薬で治るものでなし、父も年だから今更変わることもできないだろう。
今までの試行錯誤をまたやるなんて、私は耐えられなかった。
そしてそのまま時は過ぎて、今年父が死んだわけだけど、
このブログを読んで医者やセラピーに行く事の重要性を改めて認識した。
「意味不明な人々-発達障害(ADHD、アスペルガー)と人格障害に取り組む」
http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/
父の入院中、意識が朦朧とした時に、譫言で演説を一日中ぶったことがあった。
内容は近所の集会でやった議事の説明。短いから途中で急に最初に戻って、壊れたレコードみたいだった。
それを大声で、陶酔しきって話し続けてた。
それを聞いて思ったんだ。話が通じないと感じていたのは父も同じだったんじゃないかと。
自分の話が通じないから誰も話を聞いてくれない。
この譫言でしている演説は、珍しくみんなが耳を傾けた父の話だったんじゃないかって。
議事説明なら、みんな聞くわな、仕方なく。
今まで父の事を変人と思ってた。
それは間違いないんだけど今考えると、父にとっては周りの人が考えの通じない変人だらけだったのかもしれない。
父は私の事を昔から「このキチガイめ」と罵倒していたけど、父からはある部分がそうみえていたのかもしれない。
父にしてみれば、孤独だったかも。
自分の家族がどうもおかしい、変だとおもっている人は少なくないと思う。
私は「思考の仕方が違う」というただそれだけの事に気づくのに数十年もかかったけど、
対処の仕方が分かれば、ひょっとしたら相手も、自分の対処方を考えてみる気になるかもしれない。
夫婦なら別れればいいけど、親子で縁を切ることが出来ない人は是非相談にいってくれ。
私、父への対処方では徹底的な理詰めでやってた。
それしか方法がなかったからなんだけど、上のサイトを読むと
最もマイナスのでない対応らしいので、それだけは救いだったかなと思う。
父も少しずつまともになってきていたし。
だから手遅れって事はないと思う。
みんな、がんばれ!
書いてるうちに色々思い出してしまって、踏ん切りをつけるためにがんばれ!とか書いたけど、
頑張る必要はないと思う。努力があんまり通じない相手だし。
でも誰かに相談する事は必要で、発達障害では?と切り出せば相談のきっかけになると思う。
こういう話は相談しづらいんだよね。私も父の事はあまり話さない癖がついていたから(だってどう話す?昨夜も殴られましたとか?)
何をどう話して良いのか見当付かなかったから。
よくわかるなー
うちの母親は中卒で庭弄り以外に特に趣味もなくて本も読まない人で、科学系の知識全然無いし難しい漢字読めないしPCなんて全く触れないという人なんだが、宗教やカルトやネズミ講の類に対する判断が恐ろしく敏感でそういうものに絶対近づかない。
近所には、高学歴で勉強熱心なのにカルトや変なセラピーにはまりまくってる奥さんが数人いて、母親にいろいろアクションかけてくるんだがまったく動じない。奥さんたちはそういうのに集団ではまるので、うちの母親がスルーしまくるからはぶられる原因になったほど。
母親はモノを知ってるかという意味ではあきらかにかなりの情報弱者なんだけど、多分世の中にそんなに夢見がちで自分にとって都合のいい事は無いとわかってるんだよな。情報弱者かどうかと、引っかかりやすいかどうかはまた別の問題なのかも。
話しているうちに一方的にまくし立てられて、自分を否定されて唖然とした。
ふつふつと怒りも沸いたし、彼女に対して嫌悪感を抱くようになった。
もちろん、私にも落ち度があったんだと思う。
それでも納得できないことが多いし、気持ちのやり場がなくてやり切れない。
そもそも自分を否定する人を肯定的になんて見れるわけないよね。
とりあえず「セラピー」とか「癒し」とか彼女が連呼しているせいでそれに対して嫌悪感を抱くようになった。
それに関わるみんながみんな、彼女みたいな人ではないとは頭では分かっているんだけどね。
友人にもセラピー関連の勉強をしたいっていう子がいるけど、何無駄なことやろうとしてるんだろう?としか思えなくて応援できない。
一度嫌いになったら視界にも入れたくないので、今後改善されることはないだろうな。
しばらく彼女と仕事上でやり取りをしなければいけないので、体調だけ崩さないようにする。
もう何度か崩してるんだけど。。。
今回のやり取りが終わったら、先輩にバトンタッチできるので頑張る。
あー、本当に嫌いだーーー。むかつく。
私の場合は、症状はもっと軽度だったんだけど、アメリカにいたころ、
何回か日本人セラピストにみてもらった。ほとんど効かなかったな(笑)。
すっごい高いから、罪悪感はたしかにあるよね。
自分語りしか出来ないので悪いのだけれど、
考えてみれば、セラピーみたいなもんだ。
アイデンティティを取り戻せ! みたいな。
歴史は、固い岩盤のようなもので、
掘って掘って出てくるのは、まぁ大体「モノ」であるからして、
人を裏切ることがない。人間の世の中が続く限り、
おそらく永遠、絶対のものだ。(もう終わってるし。)
趣味は悪いが、死人の声を聞こうとするのが、
なにかそういう、「確かなもの」があれば、
心のanchorになるのじゃないか。
あと、水村美苗さんの『私小説』は帰国子女に絶大な癒し効果がある。
私は二ページごとに泣きながら読んだ。超オススメ。
僕は昔から小説家になりたかった。小説でなくとも、何か文章を書いてメシを食いたかった。
世の中には物書きになりたいという人間が腐るほどいる。僕もその腐った残飯の中であることは違いないが、しかしその夢を捨てきれずにいる。
今年、4月にある小説の賞に作品を送った。僕が生涯で完結させた小説では2作目となるものだった。今まで沢山の完結しない小説もどきは書き綴ったが、なんとか完成させたものではふたつめである。
先日、1次選考の結果が発表され、稚拙な我が作品は何とか残ってくれた。僕の書いたひとつめの作品は、とある文学賞に投稿したのだが、そちらでは箸にも棒にもかからず、下読みの段階で落選してしまったわけだが、今回は何とか生きながらえてはいるようだ。
こうやって、我が作品が落選してしまうかも知れないというやきもきした気分で毎日を過ごしていると、何故自分が小説家になりたかったのかを反芻せずにはいられなくなる。そもそも、僕にとって小説は本当に大事な存在であった。
僕は小さな頃から父親に暴力を受けて育った。言動でも行動でも、つまりそのどちらにも暴力の力が伴っていて、僕は文字通り精神的にも肉体的にも鍛えられてきた。父親はアル中だが、この話には関係ないので省く。
そんな鬱屈した毎日の中で、中学生くらいの時に本気で自殺をしようかと考えたこともある。自殺の方法をいくつか考えている内に、生きていることがくだらなくなってきて、同時に自ら死ぬことのくだらなさにも気付かされてしまい、感情が空白になってしまった。
誰かと話していても、楽しくはなく。勉強やゲームに没頭していても楽しくはなかった。何だか、全部流れていくだけの白昼夢に思えて仕方がなかった。
醒めてしまえば、全部が存在しないんじゃないか。なんて意味もなく思ってしまっていた。
僕はそんな風にして、幼少期を過ごし、共に遊ぶ「友達」と呼ばれる存在もいくつか出来たが、だけど友達ってのが何なのかよく分かっていない。それは未だに理解が出来ない。
辞書を引いてみれば友達というのは――親しく付き合っている友人。友。――だなんて説明されているが、『友達』なんて言葉を『親しい友』だなんて同意義としか思えない言葉で説明している辞書ですら、酷く滑稽に思えた。
意味が分からなくなってきた僕には、本当に心が許せる友人は存在しなかった。過去形で表されているが、だが、今でも本当の意味での友人はいないのかもしれない。
同時に、僕には本気で好きになったひともいなく、「ああ、もしかしたら彼女のことが好きなのかも知れない」と考えても、何故、好きなのか? と考えてしまうともう駄目で、顔が可愛いだとか、振る舞いが華麗だとか、性格が良いかも知れないだとか、そんな曖昧な理由で人を好きになってしまうなんておこがましくないのか? と勘ぐってしまう。こんな浅はかな理由で人を好きになるならば、別にその人じゃなくても良いハズだ。とも思う。
もっとシンプルで良いハズだ――とも、確かに思う。好きだから、好きで好きで理由はないだとか、そんな風で本当は良いのかも知れない。
そんな諸々の世界に対する訝しみ、この世界と付き合う方法を考える時には、どうしても脆弱であっても――言葉が必要だった。
僕はある日、こんな恥ずかしい話はないだろうが、中学校の頃に学んだ夏目漱石の「こころ」の抜粋部分(確か授業中には抜粋部分のみだったはずだ)を読んで、初めて文章を読むことの意味に気付かされた。「大造じいさんとガン」を読んでも気付かなかったが、「こころ」で気が付いた。
鮮烈でめまいがするような秀逸な筆致が、その頃の僕には酷く輝いて見えた。夏目漱石なんて、千円札でしか知らない人だったけど、彼が何かに煩悶しながら世間に訴えたいことがあるということは幼い僕にも分かった。それは幼少期の勘違いであったかも知れないがね。
それからは、様々な小説を読んだと思う。世間の読書好きの人々には決して敵わないだろうが、それでも本は読んでいた。昼休みや授業中や帰宅後も、暇があれば読んでいた。
ここでは、誰の小説を読んだとか、どこそこが良かったとか、そんな無意味なことをあげつらう気はない。ただ、僕が重要視したのは『本を読んで考えること』であった。
だけど、間違いだったかもしれない。
余計な言葉知識が頭に埋め込まれてしまったせいで、余計に僕は生きていく上で悩んだり、無意味さを噛み締めたり、そんな感慨を抱くことが多くなってしまい、なんて生きていくのは切ないんだ。と物思いに耽る中二病患者になってしまった。
今は、社会人として仕事をしているが、自分が雇われている企業での僕のこなす業務というのは、僕以外の何者かが代行しても全く僕と変わらないレベルでやり遂げることが出来るのではないか、と思う。当然ではあるが、大抵の仕事はそうだ。
地下鉄の駅を降りて、ホームからの階段を登り、世間の人々の波に埋没していたら、すごく自分が存在していないんじゃないか? なんて思ってしまう。
恥ずかしいことだ。だけど、こんな風な思考回路を構築してしまったのは僕だ。僕が悪いのはよく分かっている。
だから、そんな自分に対するセラピーの意味合いもあるかも知れないが、僕は文章を書くことで精神の安定を得る。実際は何でも良い。文章だったら何でも良い。ブログを作って意味の伴わない単語を羅列したっていい、誰にも理解されない主張を標榜してもいい、だけど何か考えていないと、何か書いていないと、僕は本当におかしくなってしまうんじゃないかと、そう感じてしまう。
だったら、もうそこまで来たら、僕は仕事をやめて、実家に帰ってニートをやって、インターネットの世界に没入して、日々を食い潰して、そのまま死んでしまった方が良いのかも知れない。その方が、誰の毒にも薬にもならず、迷惑を掛けないまま、緩やかな自殺として完遂出来るかも知れない。
だが、親に迷惑を掛けるのも嫌だ。これは我が儘に違いないが、僕は誰にも迷惑を掛けたくないのだ。自分以外の誰にもに、人畜無害な存在であり続けたい。本当に自殺するなら立ち入り禁止の富士の樹海へコンパスを持って行く。
そうした曖昧模糊な思考の行く末は、誰しもが抱く物書きになりたいという夢だった。
結局、こうなってしまう。馬鹿な邯鄲の夢だ。
実際、小説家の仕事についてはよく分かっている。自分の書きたいことを書けずに職業として編集者に指示を受けながら書かねばならないことや、サラリーマンよりも低い年収で、しかも売れなきゃゴミだと評価されることも分かっている。
それでも、こうして文章を書くことに意義を見い出すことが出来るのは、個人的に素晴らしく有意義に思える。自分が真っ当に生きていく結論としては、小説家になることが最も分かりやすくてシンプルなんじゃないかと、そう思った。
先述した――恋はもっと、シンプルで良い――なんて青臭い科白は、そのまま僕の文章に対するスタンスに直結している。
もっと、シンプルで良く。僕は心の底からシンプルでありたいと思っている。
だから、小説家になりたい。そう思って僕は文章を書き続けている。
元増田です。
最初の話は、知人の話が半分、自分の話が半分です。
id:shimaguniyamato ネタ たぶんそれはそれで充実している。逆に親友や恋人がいなければダメとするほうが、リア充洗脳を受けてる部分もある。
後半の洗脳の所は同意です。
id:key_potpot 8割くらい共感した。暴力のあるなしに関わらず、幼少の頃に縛られてきた人は、こういう考え方に落ちつく。リア充を羨ましいと思う反面、自分がそのような立場になっても、きっと喜べないだろう。
仰るとおり、いわゆるリア充になりたいわけじゃないという気がします。
id:yura_saito 人生, 心理 現在の環境を一時的にでも逃れて洗脳解除できれば、回復する可能性はあるでしょうね/どっぷりつかってしまってると逃れることそのものが意識外かもですが、それでも外には違う世界もある
逃れることそのものが意識外、っていうのがまさに学習性無力感なんですが・・・
違う世界の存在は分かるのですが、自分を活かすという考えが乏しいので
そっちに行こうという意志を持つこと自体がハードルになっているようです。
そこが最大の難関です。
id:bookmarker98 強烈な何かを求める方法を手に入れるしかないか。創作表現に手を出してみるのもありだと思う。何か作ってみたら?
創作表現って、表現したい、伝えたい、みたいな自己主張とか承認欲求とかがなくても
効果があるでしょうか。いちど、セラピーとか訓練の一環として試みることにします。
muddy muddy 学習性無力感を克服した人間の独り言ですが、自分だけが不幸なのではなく不幸な人間というのも腐るほどいるので、自らを客観視して何が異常でダメなのかを把握して行動を速やかに開始する事。
これは克服できるんですね。もし差し支えなければ、一番最後の
「行動を速やかに開始する」モチベーションをどのように生み出したのか、
そこを是非お聞かせ下さいませんでしょうか。
サバイバーからスライバーへの転身に関する情報があまり見つからなくて困っています。
http://anond.hatelabo.jp/20090627161243
「ヴィパッサナー瞑想」調べてみました。妄想が止められるとしたらすごい方法です。
日々のプチ・フラッシュバック(笑)を止められたら、違う人生を歩めそうな気がします。
ありがとうございました。
俺なんかそれで、感情自体が全然わいてこなくなってるよ。無表情だし。
どこへいても何をしても自分がそこにいるという実感がなくて、いつもそれを客観的に見てる自分がいるし。
今週からちょっとセラピーうけてくる。