はてなキーワード: 玉石混淆とは
http://webcre8.jp/compare/webdesign-light-conversation.html
読んだ。
この記事に限らずWEBの人は、「デザイン」をWEBの世界の中でしか捉えなさすぎ。
かろうじてチラシとかの印刷物。まあ早い話が「大衆向けデザイン専門学校」(変な言葉だな)で学べることでしか語れてない。
そういう人たちって、そこの学校で学んだことと、WEBから得た浅い知識でしか語れない。
他の業界よりもプロとの距離が近いから、勘違いする。勘違い記事が増える。それを見てさらに勘違いする人。
そんなことを、最近思うようになった。
ネットというのは、本当に凄まじいツールだ。数回のキータッチとクリックをするだけで、必要な情報を必要以上の量で出力してくれる。
出力された情報全てが有用かつ無害なものなら、これほど便利なものは無い。しかし、知っての通りネットの情報は玉石混淆。いや、比率としては石の方がはるかに多い。
見ず知らずの人のどうでもいい日常の記録。ペット写真。料理写真。
問題は、今やネット上のあちこちに蔓延るネガティブな書き込みだ。
非コミュがどうのこうの。韓国がどうのこうの。売国がどうのこうの。あの作品は薄っぺらい。この作品が好きな奴は頭がおかしい。DQN。キョロ充。真面目系クズ――。
いつの間にか、Twitter、Mixi等々人の多いサイトは所謂2ch的な空気が支配しつつあり、その影響かこういう無駄に攻撃的だったり自虐的な書き込みが、どんなに避けようとしても目につくようになった。
断言する。これらの書き込みは、間違いなくメンタルに悪影響だ。特に他人の目線が気になる性格の人……まぁつまりほとんどの日本人にとっては。
これらの書き込みは、ただそれだけを見れば何でも無い、馬鹿馬鹿しい意見に過ぎない。
厄介なのはその量の多さだ。こういう書き込みに限って何故だかやたらと量が多く、ちょっとググればすぐに似たようなネガティブ書き込みであふれた2chスレッド、コピペブログ、知恵袋のリンクがわらわら出てくる。とにかくほんとに量が多い。
こういう数の暴力をモロに受けると、段々冷静な思考ができなくなる。
その意見は単に声の大きい少数派が喚き散らしているだけかもしれない。またはその意見に影響された普通の人が、特に考えも無く気軽に書き込んでいるだけかもしれない。
そういう思考を、ふと忘れてしまう。
ただ書き込みの多さが単純に賛同者の数として目に映ってしまう。
書き手の本気さも、情報の正否も、悪意の有無も、思考の歪み具合も関係なく。数が多いと言うだけで、それが一般的な意見だと錯覚してしまう。
これでは、よほど確固たる自分を持っている人以外、少なからず影響を受けてしまうだろう。
「これらの書き込みが多数派とは限らない」と頭では分かっていても、無意識に刷り込まれるのを避けるのは難しい。
集合知とかいう言葉もあるが、集団で出した答えが必ず正解とも限らない。
また、ある作品に対する評価など、感性に頼る部分が大きいものついては、しばしば多くの人の評価と自分の評価が対立することがある。
自分の大好きな作品が、ネット上のコミュニティではボロクソに叩かれていた。そんな経験をし続けたら、自分の感性に無用な不信を抱くのは時間の問題だ。
ネットにどっぷり浸かってから、それまでの趣味が純粋に楽しめなくなったという人は結構居るのではないか。かくいう俺も、そういうクチだったりする。
文章にまとまりがないが、とにかくこんなような事を色々思って、タイトルのような事を考えた。自分のこれまでの経験的に、まるで見当違いな事は書いていないと思う。
もちろん、こういう問題はネットだけの問題ではないのは分かる。リアルでも、他人の影響というのはかなり受ける。が、現状のネットとリアルを比較したら、まだリアルの方が無駄にネガティブな意見は見続けないで済むのではと思う。
『ウェブはバカと暇人のもの』というタイトルの本がある。これはまさにその通り。
NAVER まとめ って、情報をデザインするキュレーションプラットフォームとか名乗ってるけど、もはやコピペの集合体。 玉石混淆じゃなく石ころオンリー。宝玉は? 石ころ記事が検索に引っかかる。 http://mithrill.jp/ http://kirarine.com/ http://www.naver.com/ http://www.fsg-gem.com/
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20110318#p1
そして、今日。
武田邦彦 (中部大学): 原発 緊急情報(47) 汚染・6日に日本全土に拡がる怖れ
http://takedanet.com/2011/04/47_afa2.html
これはどちらかというと玉寄りの記事であると思う。そしてブコメでもそういう評価も多いようだ。
今回の大震災でボロを出した人は多い。一部ではそれ以前からボロが出ていたが、これを機に人口に膾炙したような人もいるだろう。
代表例として池田信夫がいる。彼は玉石で言えばごくまれに玉のような記事を書くが、たいていは石っころの記事を書く残念な「学者」である。
ところで、
NEWSポストセブン|反発覚悟で森永卓郎氏提案「日本は原発のスイッチを入れよ」
http://www.news-postseven.com/archives/20110404_16422.html
森永卓郎は池田信夫よりマシという程度の凡な学者だというのが私の中での評価だが、経済学者はどうしてこうもリスクを度外視した提案をするのだろう。
経済学にはリスク評価や維持コストまで含めたモデルが存在しないのか?それとも経済学とはここまで残念な学問だったか。それはないと思いたい。
とにかく、今回を機に「学者」の権威も失墜したと言える。「東大www」とバカにされるように、「東大教授wwww御用学者の限界集落だろwww」と罵倒される時代が来たのだ。
政治不信にせよ、御用学者不信にせよ、根っこは共通である。彼らに求められているのは超人かつ聖人である。あるべき日本人のイデアを求められているのであり、彼らはそれを体現する圧力に晒されているのだ。そしてそれが実現不能なのは言うまでもない。彼らは失敗するし、無理解もある。
玉石混淆こそ人間の証明である。玉しか求めないのは机上論人間の押し付けでしかない。
そしてこの超人欲求こそが張りぼての神話を呼び起こす圧力になる。失敗しません、なんてのは初めから不可能である。正社員安全神話も鉄道安全神話も崩壊した。そして原発安全神話も崩壊した。それが崩壊することこそが権威失墜の動機であり(権威は失敗が許されず、失敗するということは世間に取って凡人であることを導く)、デマを信じる源泉になるのだ。信頼性に於いて学者の言い分もデマも同列になったのだ(最大限譲歩して、フラットになったといえる)
要は、ママ友ネットワークの世界の科学リテラシー、医療リテラシーと、
正直、「はてなー」の科学リテラシーが高いとはとても思えないけどね。
たとえば「はしかパーティー」の件にしたって、「なぜはしかパーティーが予防接種に比べて悪手といえるか」ということをメリットとデメリットを挙げて説明できる人がどれだけいる?
それができないんだとしたら、「はてなー」は「はしかパーティーは下策」ということを「聞きかじって知っている」というだけのこと。そしてそれは「ママ友」だって同じこと。「はてなー」と「ママ友」の唯一の違いは「聞きかじった」相手が誰かということだけだ。
無論、それはそんなものだ。専門外の事柄については多かれ少なかれ誰でも、「信頼できる情報源」を見つけてききかじる程度のことしかできない。そして「リテラシー」と呼ぶべきものがあるとしたら「信頼できる情報源」を探し当てる能力、それの情報をどれだけ受け売りしてよいかという判断力、そして自分がどれだけ受け売りをしているかということにどれだけ自覚的であるかということ、その三つぐらいしかないはず。
けれども、「はてなー」はその三つともかなり怪しいというのが俺の素直な実感だ。まず「ネットは真実」とか「ネットは知の高速道路」なんてのを真に受けてる時点で「信頼できる情報源」を探し当てる能力は論外。次に池田信夫や金融日記やちきりんみたいな明らかな扇動家にブクマが集まり続けることから考えて、情報の信頼性に対する判断力も乏しい。そして、自分は経済学の教科書すら読んだことないくせにリフレ派あるいはその反対派の専門家を馬鹿呼ばわりする連中が大量にいることを見ても、自分が受け売りをしているという自覚すら乏しいと言わざるを得ない。
「はてなー」なんて所詮は冷戦期の朝日・岩波信者のなれのはてにすぎんのだよ。テレビの受け売りをしている人間を「愚民」「情弱」と蔑み、過去は朝日・岩波、現在はネットという「真実」のあるメディアを鵜呑みにしていれば知識人ぶれるなどちゃんちゃらおかしい思いこみでしかない。どんなメディアだって情報は多かれ少なかれ玉石混淆だし、受け取った情報をどのように解釈するかという判断力については「はてなー」は「愚民」を見下せるレベルでは少なくともない。むしろ「年功序列」「団塊」を少年漫画の悪役のように敵視している連中の大半は「団塊」に「年の功」で劣っていることは明白だ。
要するにこれは余りにも陳腐といえるほどの「五十歩百歩」の構図に過ぎないんだよ。ご立派でも何でもない「はてなー」をあんまり持ち上げすぎない方がいい。
宮崎県で発生している口蹄疫に関して、2ちゃんねるのまとめサイトなどで見るまとめと、現実に対策にあたられている官僚の人のTwitterでのツイートをそれぞれ時系列にまとめてみました。一部、新聞記事で報道されている情報も追加(*の項目)。あと、ソースがないから信頼できないというコメントがあったので表の下に追記しました(5/13)。
日付 | まとめサイト等でよく見られる事態の進展 | とりあえず現実に進んでいた事態 |
---|---|---|
4/20 | 口蹄疫が日本国内で発生。政府は小委員レベルのまま放置プレイ | CR検査での陽性なので、確定診断にうつる。疑似患畜の段階。当該農場の移動を自粛。輸出証明発行を止めさせる。*赤松農水相を本部長とする口蹄疫防疫対策本部を設置。*宮崎県も東国原知事を本部長とする防疫対策本部を設置。 |
4/21 | 政府から指示ないので現地で対応。消毒は現地の組合が準備したが不足。 | 国は消毒薬を保持しない。県が持っているものを使い、購入したものは国が全額後払い。殺処分など蔓延防止措置は県知事の法廷受託義務で、権限は県にある。すべて「家畜伝染病予防法」による。 |
同日 | 2例目発生。消毒薬を韓国に横流しして不足。 | 2例目。PCR検査で陽性。宮崎県と農水省で連携して防疫措置を実施。1例目の農場のすべての飼養牛は殺処分・消却(これにより生じる補償は表の下を参照)。3例目。動物衛生研究所の検査の結果、陽性を確認。国は消毒薬を譲渡したことはない(上の欄参照)。 |
4/22 | 農水副大臣「現場の状況について今初めて聞いた」 | 各県で防疫体制を強化。4例目。PCR検査で陽性のため疑似患畜と判断。*宮崎選出銀の外山斎・川村秀三郎・道休誠一郎の3議員が赤松農水相に支援要請。金融支援と風評被害に省を挙げて対策を取ると返答。 |
4/23 | 1例目についてELIZA検査の結果、O型と判明。宮崎の口蹄疫に関連する対策について発表:低利融資(家畜疾病経営維持資金)融資枠を20億から100億円へ。互助基金の実施。移動・搬出制限区域の農家への特別措置。 | |
同日 | 5例目。PCR検査の結果、陽性。疑似患畜と判断。 | |
4/25 | 殺処分の対象が1000頭を突破。過去100年で最悪の事態。 | 約700頭の肥育経営で7例目。PCR検査で陽性と判定。 |
4/26 | 国から防疫専門家を宮崎に派遣し、助言と連絡調整。消毒作業の応援に九州農政局職員も派遣。県の防疫作業を手伝うための他県からの応援獣医師も待機。 | |
同日 | 疫学調査チームを送る準備。ただし蔓延防止のため、発生農場の防疫措置が終わった後でになる。発生原因はわからない。 | |
4/27 | 東国原知事が赤松農水相と谷垣自民党総裁に支援を要請。 | |
4/28 | 谷垣総裁が宮崎を緊急訪問。政府にしたのに動かず。赤松農水相は中南米に逃亡。鳩山首相は隣の熊本にいながら素通り。 | 3例の追加確認。新たな移動制限地域を設定。熊本・鹿児島県の一部も移動・搬出制限地域に。 |
4/29 | 農水副大臣が宮崎に出張。現場に入らず、生産者への面会もなし。 | 疫学調査チームが現地入り。感染経路の究明に着手。11例目。PCR 検査で陽性を確認。陽性確認が続くうちは経営対策など次のステップへ移れない。 |
4/30 | 谷垣総裁が政府に対策要請を申し入れ。赤松農水相は南米に逃亡。民主の仕分けで中央畜産会が仕分け。移動・搬出制限区域が拡大。 | 朝の会見で口蹄疫の増加・発生地域拡大にともない畜産経営対策の見直しと追加対策を発表。子牛補給金制度等の登録月齢要件緩和等の対象を隣接県に拡大。搬出制限区域の生産者の養豚経営安定対策の積立金免除など。口蹄疫の発生でストップしていた香港への輸出手続きを再開できることに。 |
5/1 | 自衛隊に災害派遣要請をおこなう。総理は宮崎県をスルー。制限区域が養豚の中核えびの市に拡大。防疫物資の不足が深刻化(韓国のせい)。 | 13例目。PCR 検査で要請を確認。埋却作業のため、鳥インフルエンザ以来の自衛隊の要請。地域は、川南町とえびの市だけに限定。川南町地区の続発を抑えるのが目標に。 |
5/1 | 九州各県で飼料用輸入稲ワラを自主規制。民主の主導や政策はいっさいなし。 | 中国からの輸入稲わらは、口蹄疫が発生していない省の稲ワラを消毒施設で処理したものだけの輸入を認めている。 |
5/2 | 1例目のウィルスがアジア地域で確認されているのと近縁だと確認 | 分離されたウィルスは2010年に韓国・香港で分離されたものと近縁。だが、中国が情報提供をしないので、韓国や香港から直接来たと言えない。感染経路究明チームは調査を開始しているが、防疫対策が進まないと調査できない。蔓延防止のため。14例目と15例目を確認。 |
5/2 | 小沢が東国原知事に選挙協力の要請に行くと発表。自民が対策本部。民主は何やってるの? 災害対策予備費を母子加算に使っている。 | *消毒薬はヨーロッパの輸入で時間がかかる。さらに輸入会社が家畜の数で優先順位を割当て。(母子加算に使っているというデマに対して)それはない。家畜伝染病予防費という予算で、足りない場合は予備費を使用。 |
5/3 | 殺処分が9000頭を突破。 | 16例目と17例目。PCR検査で陽性を確認。他の都道府県にある牛豚飼養農場の緊急調査を実施し、全て陰性であることを確認。 |
5/4 | 殺処分27000頭。首相は沖縄を訪問しても宮崎をスルー。農林水産大臣政務官はデンマークへ出張。 | 18例目と19例目を確認。 |
5/5 | 1例目から70kmも離れたえびの市で感染拡大。殺処分34000頭。 | 20〜23例目を確認。制限区域内での発生が止まらない。続発しているが、拡大はしていない。発生は2カ所の半径3km以内。 |
5/6 | 想像を絶する規模。「非常事態宣言も」 | 国から25人超、他県から37人の獣医師を派遣。殺処分には獣医師が必要だが、自衛隊の埋却能力に殺処分がおいつかないので。さらに追加派遣を各県と調整。 |
5/7 | パンデミック。日本の畜産オワタ。 | 新たに12例を確認。5月に確認された事例は4月20日以降の感染した可能性。つまり移動制限は奏功しているが、域内ではウィルスが動いている懸念。新たに8事例を確認。 |
5/9 | 原口大臣が報道規制を認めた | 農水省のプレス・リリースで「現場での取材は本病のまん延を引き起こすおそれもあることから、厳に慎むよう御協力をお願いします。」と書いてある。(4/21の時点) |
殺処分に対する手当金は、家畜の評価額の80%を国が支援。残りの20%は共済金から出る。県が支払う場合は特別交付税でバックアップ。家畜伝染病予防費という予算がある。足りない場合は予備費を使用。また経営再開のために「互助事業」があり、1/2助成。感染していないけど予防として自主的に処分した場合も「互助基金」がある。
追記:
表左側のタイトルを「2ちゃんねらーの見ている世界」と揶揄した表現になっていたものを改めました。はてなブックマークで指摘いただいたため。
また、まとめサイトで見られる表現について玉石混淆の「石」ばかり選んでいるとの指摘もいただきました。ただ、これらの表現はタイトルで使われている、複数回登場する、同じく時系列のまとめで使われてコピペされているものだけを選びました。
新聞記事からの情報も追記していこうと思ったのですが、別に2000年と2010年の対応比較というのが(http://anond.hatelabo.jp/20100511231152)新聞記事でまとめてあるので中止。
追追記:
ソースがないというコメントがあったので。Twitterでツイートされているのは農林水産省生産局畜産部畜産振興課草地整備推進室長 原田英男氏。口蹄疫に関するツイートは次のまとめで見られます。http://togetter.com/li/19383#favorite
右への反論を右にまとめていると思っている人もいましたが、ハム速などのまとめサイトで時系列にしてあったり、その日によく書き込まれた文と、同じ日にツイートされたものを並べたものです(だから、タイトルも「時系列で確認」)。この日に2ちゃんねるでこんなふうに書き込まれていたけど、同じ日に対策にあたっている人の1人はこんなことをツイートしてましたよという目で見てください。
http://anond.hatelabo.jp/20091010202941
その分野に詳しくはないけど文章を読んで理解しようとする人にはそうとしか映らないね。
実際は玉石混淆なんだと思う。ネットウヨクの事を糞糞いってるサヨクも糞だ。
煽ったり知ったか自慢ばっかしてる奴は帰れ。
一時期、こいつらネットウヨクが左翼を貶めるために居るんじゃないかと疑った事があったが、
おそらく彼等は右でも左でも善良な市民でもなく、
こういうの排除した方が良いよマジで。情報のS/N比を下げるばかりか敵を作る。
・・・まぁ、こういう事書く辺りでご想像の通り俺は元ネトウヨですよ。
新風辺りが出しゃばりだしてからその臭さに逃げ出したクチ。
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
その原因が掲題の便利さにあるんだな。
Firefox3.0でアドオンにSage-Too、そこにはてブのエントリー一覧を
読み込ませて毎日みてるわけだけど。
それ見終わっちゃうと Web ですることなくなっちゃうのよ。
ほんのちょっと前ならニコニコ動画いってた。
でも最近それすらめんどくさいんだよね。
自分の好みの物を見つけるっていう作業がめんどくさくなってしょうがない。
これは体力の問題なのかなあ。老いたってこと?
もちょっと前ならいつでも Google からスタートしてたんだよね。
すべて思いつきの検索からWebの荒波に乗りだしていたんだよ。
その玉石混淆の中から文字通りお気に入りを見つけ出していたんだけど、
今はその作業があまりないんだよね。
あったとしてもはてブで言及されていた言葉の意味を調べ直すくらいでさ。
明らかに Web に対して受け身になってきているんだよな。
はてブ一通り見終わったらもうすることないんだよ。
これと同じことをひろゆき氏だかのとにかく Web の有名人が言っていたような気がするんだけど、
そのときは「へー」くらいにしか思ってなかった。なにより RSS とか SBM も知らなかったし。
あー、なにこの閉塞感。どうしちゃったの俺。
今の状況をたとえていうなら
マンガ喫茶いったとして、PC 前にして「あれーなに検索しようとしてたんだっけ俺」みたいな状況。
これに常日頃なってる。
しかもマンガ喫茶で精算すませた後に「あー、"ドアラ"の動画みるの忘れたーorz」ってことが、
今の俺にはないんだよね。なんだろう。Web に飢えてないとでも言うのかな。
2ちゃんねるいって、Linux板とかマ板のスペランカーごっことか見る気力もなくなってんだよな。
刺激が欲しい癖に、自分から全然求めようとしてないんだわ。
閉塞感に押しつぶされて圧死。
というような表現が好きではない。が、たまに私でもそう思う作品にブチ当たることがある。そういう気持ちはどこから来るのだろう。BLや少女漫画でも似たようなことを言って叩かれてる人を見るけれど。
そもそもそういう物言いをする人の、最初に思い描いているラノベ・BL・少女漫画の枠が狭すぎること、そしてそれらを愛してやまないくせに軽視していることが問題なのだろうか。でも私は、ラノベの中に老若男女が楽しんで読める作品があることを知っている。始めからラノベ・BL・少女漫画という単語は、幅の広い、懐の深い、作品群を指し示す言葉なのだ。越える必要などない。軽視などしていない。
それなのにどうして「ラノベだけど」「ラノベを越えた」と思ってしまうのだろう。これをずっとぐらぐらと考えていて、一つの結論に辿り着いた。
ラノベ・BL・少女漫画の共通項は、それぞれ読者が一部のファン(性別)に限定されているところ。どう贔屓目に見ても、少年漫画のように、一般小説のように、現状では老若男女が気軽に読んでいるメディアではないところだ(少女漫画はちょっとマシだけど)。
で、そのファンの人たちは少なからず、「え、だってラノベだろ?」「え、だってBLだろ?」「え、だって少女漫画だろ?」という評価を聞いたことがあるはずだ。あるいはもっと大きく、「え、だってオタク(女)の読むもんだろ?」でもいい。
これは本当に悔しい。おまえらにラノベの、BLの、少女漫画の何が分かるんだと。そういうこと言う奴に限って、ロクに読んだことのない奴ばかりだと。ファンが思い描く枠以前に、世間一般から評価されている枠が偏りすぎている。そんな時についうっかり言ってしまう。
それは決して、その作品が並外れて高尚だと思ったからそういう表現を選んだわけではなく、「コアファン以外の人でも楽しく読める作品がある」ということを主張したいから、ジャンルで毛嫌いせずに読んでみろよ、と言いたいからだ。もちろん「コアファンの人しか読めない」より「コアファン以外の人でも読める」が上だと言う気はさらさらない。普遍的という評価は、必ずしも誉め言葉ではないだろう。
ただ、知ってほしいんだ。ラノベというジャンルが、一部の好事家によってオナニー生産される偏狭な世界ではないということを。愛すべきくっだらないマニアック作品も多いけれど、そんな名作駄作普遍的偏狭的な作品が、ごっちゃり同居している世界を私たちは愛しているんだということを。
言ってしまえば、「ラノベだけど面白い」「もうこれはラノベを越えている」と表現され、誉めそやされる作品こそが、このうえなくラノベ的なのだ。数百の作家がひしめき合い、しのぎを削り、玉石混淆の作品が続々と発表される世界がラノベなんだよと、声を大にして言ってしまいたい。そうだ、ラノベだから面白いんだ!
格差社会だなんだとかまびすしい一年だったが、経済的側面ではなくエロの側面からも考えてみよう。
ここで言うエロとは、風俗、すなわちソープやカップル喫茶、ピンサロなどではなく、ネット、雑誌、DVD、最近あまりないのかもしれないがエロビデオなどのこととする。
風俗は、おそらく利用者間の格差が生じづらい。アクセスするために物理的に店舗に行くなどが必要で、かつそれなりにお金を払う必要があるためだ。つまり、物理的エロに関してはお金を払って店舗に赴く限りにおいて利用者は平等にアクセスが可能だ。
対照的なのは、ネットでのエロだ。ネットにアクセスできるかどうかでまず格差があるし、さらにエロにアクセスできるかどうかにも格差がある。さらにネットでのエロへのアクセスにお金を払うかどうか、という格差が生じている。
有料サイトもたくさんあるが、品質は玉石混淆も甚だしいし、一ヶ月日本円で5000円程度かかる。一方で、無料というか違法性は無視して見れば、無料のアクセス手段を知っていればエロにかかるコストはインフラにかかるコストを除けば限りなくゼロに近づく。
ネットでのエロへのアクセスができる人間の間での格差はたいしたことはないだろう。有料でも無料でも、アクセス可能なコンテンツと言う観点だと共通のものが多い。
格差が大きいのは、ネットでのエロへのアクセス手段がある人間と、雑誌や、レンタルDVDなどの手段しかエロへのアクセス手段がない人間の間だ。
ネットでのエロへのアクセス手段を持っている場合、質だけでなく量に関しても圧倒的に雑誌エロ派(派と言うには自発的に選ぶわけではないかもしれないので不適切か)よりも多くのエロにアクセスしていることは言える。
量に関しては自身の選択によるものが大きいであろうが、レンタルDVDで1週間に10本借りる人はまれだろうが、ネットエロ派は1週間に10本しか目を通さない人は逆にまれだろう。
ネットエロ派に起きているのは、いわばエロインフレとも言うべき状況だ。
電車広告なんかと見ているとよく思うが、ネットエロ派の大多数は「ほしのあきの谷間」だとか、「お天気お姉さんの純白パンチラ」なんかには「圏外」なこと甚だしいだろう。「現役スチュワーデスヌード」とかもしかりで、ピクリともしないだろう。
ここで注目したいのは、こういった雑誌、週刊誌のコンテンツで「興奮できる」という需要があることで、「そんなものでおかずになるのか」というようなものが需要があることで見えてくる格差だ。
ネットでのエロへのアクセスが可能な人たちは、無修正のエロ動画やエロ画像なんて見飽きているだろうし、おっぱいが見えているぐらいではなんとも思わないぐらいにエロ感度が下がっているだろう。新宿や吉野町を歩いているときに風俗の看板を見ても、なんとも思わないのではないだろうか。その程度の露出では彼らのエロアンテナにはまったく引っかからない。ヘアヌードなんて、生ぬるいのだ。セミヌードなんて「帰れ!」というのが正直なところだろう。
ネットでのエロへのアクセス手段を知り、求道してきた人たちは、雑誌エロ派が数十年にわたって触れてきたコンテンツ量を数ヶ月で消費可能である。そこには圧倒的な量の格差が生じている。また、質に関しても、ネットエロの場合はモザイクなし、ありとあらゆるフェティッシュに応じたコンテンツが簡単に手に入る。量と質についての圧倒的格差が生まれているのだ。
週刊誌やスポーツ新聞で興奮できるなんて、ウブなんだな、という見方ができる。圧倒的な量と質のエロに触れて数年を過ごした人たちは、エロに関してインフレが起きていて、ちょっとやそっとのエロでは圏外なのだ。素人が脱いでいたり、女子高生が援助交際している動画なんて見飽きているし、そもそも量が多いため記憶になんて残っていない。
素人が脱いでいるぐらいでは動画の冒頭の10秒程度で再生するのをやめるのが関の山。従って、素人の一般的な女性が動画を撮られて「ばらまくぞ」と脅されたとしても、日の当たる場所を歩けなくなるなんて心配は無用だ。レースクイーンなんかの容姿で商売できるような人たちが脱いだりSEXしている動画だって掃いて捨てられているのだから、普通の素人の動画なんて注目もされない。「みんなに見られてしまう」なんていうのは自意識過剰だ。
大量のエロを消費し、エロインフレが起きている層と、週刊誌やスポーツ新聞の記事で興奮できるウブな層。おおざっぱにそれぞれ前者は若い世代、後者は年齢が高い層にわかれているだろう。
エロに関する感受性の格差は、セクハラのガイドラインにも再考を迫るかもしれない。ネットでのエロへのアクセス手段を持つ女性は増えているだろうし、女性でもエロインフレを起こしている人は多くなってくるだろう。そうなったときに、セクハラの当事者となることが多い年齢が高い層と、若い女性の間でエロ感度が異なるため、年齢が高い層が「セクハラ」だと思って行う言動(行動は別か)が、若い女性側では「そんなのセクハラにならんよ」ということが多くなるかもしれない。
セクハラのガイドライン是正はさておき、エロ感度格差是正のためには、質的観点では雑誌やDVDでの外性器に対するモザイクの解禁が考えられる。そもそもなぜ今のようなダブルスタンダードが許されているのだろうか?その前になぜ外性器にモザイクがかけられているのか?どのような意味を持っているのだろう?法律がある?外性器にモザイクをかけることのメリットがさっぱりわからない。子どもや見たくない人が見てしまう、という懸念があるならば、そのコントロールはネットの方がやりやすいだろう。
モザイクの技術を発達させても、それは発泡酒と同じだ。発泡酒のうまさを追求しても、日本でしか売れないし使えない技術で意味がない。発泡酒の技術を追求する投資なんて無駄の極みだ。携帯電話と同じガラパゴス化を目指すのか?企業の世界的な競争力を削いでいるだけだろう。
ここはてな匿名ダイアリーが良くできた洗脳装置であるという意見を見た。
僕はそれに、理由は色々あるが、同意できる。
ここを利用するようになり、自分の卑屈さが増えたように思われるからだ。僕が本来持っている偏見や悩みは昔からあってそれはそれだが、それ以外に非モテだの何だの卑屈な理屈をたくさん目にすることでそれを自分の中へ輸入して世間をそう言う視線で見るようになった。洗脳かは知らないが、僕の何かが変形させられた。
それらの理屈には見るべき点もあるのだ。この匿名日記で目から鱗が落ちたこともいくらかあるからだ。でも、そうではないただの卑屈さや偏見もたくさんある。それはネットで匿名という環境だから仕方ないし、そういうものなのだろう。僕自身の書き込みがまさに玉石混淆の石ころのほうにあたるとも言えるのだ。
こことの付き合い方を少し考えなくてはいけないだろう。
少し距離をとろう。
アッパーブロゴスフィア | はてな+ロウアーブロゴスフィア | 2ちゃんねる界隈 | mixiとかそこらへん | |
---|---|---|---|---|
頭のよさ | 賢い | 水準的 | バカ | 厨房 |
学歴 | 高学歴 | 平凡 | 低学歴 | 厨房 |
自らに課すハードル | 高い | 普通 | 無し | 低い |
他者追従性 | 猿 | ネズミ | イナゴ | ひつじ |
ネット以外に好きな媒体 | ネット | 書籍 | テレビ | 雑誌 |
異性関係 | 不要→2次元等 | 非モテ→2次元等 | 一般的 | 活発 |
連帯感 | 低い | 普通 | いびつ | 高い |
力の方向性 | 未来 | 希望 | 負の方向 | 夢 |
対コミュニティ | 先導的 | 盲目的 | 怠惰的 | 奴隷的 |
得られる情報 | 先進的 | 玉石混淆 | 肥溜め | 中二的 |
先進性 | 高い | 普通 | 低い | 低い |
創造性 | 高い | 普通 | 低い | 低い |
革新性 | アーリーアダプター | アーリーマジョリティ | ラガード | レイトマジョリティ |
面倒くさくなってきた。preタグ入れとくから、誰かもうちょっとブラッシュアップしてくれ。
|* |*アッパーブロゴスフィア|*はてな+ロウアーブロゴスフィア|*2ちゃんねる界隈|*mixiとかそこらへん| |頭のよさ|賢い|水準的|バカ|厨房| |学歴|高学歴|平凡|低学歴|厨房| |自らに課すハードル|高い|普通|無し|低い| |他者追従性|猿|ネズミ|イナゴ|ひつじ| |ネット以外に好きな媒体|ネット|書籍|テレビ|雑誌| |異性関係|不要→2次元等|非モテ→2次元等|一般的|活発| |連帯感|低い|普通|いびつ|高い| |力の方向性|未来|希望|負の方向|夢| |対コミュニティ|先導的|盲目的|怠惰的|奴隷的| |得られる情報|先進的|玉石混淆|肥溜め|中二的| |先進性|高い|普通|低い|低い| |創造性|高い|普通|低い|低い| |革新性|アーリーアダプター|アーリーマジョリティ|ラガード|レイトマジョリティ|
隙のある記事でうけを狙うのは、まぐれ当たりにはなるとしても、継続的な読者は獲得できないのではないだろうか。
情報の持ち合わせが少ないのに名声は獲得したい一般人が発する妄念を感じることがある。それらの妄念のうちのいくつかは、なんらかの条件が重なって多くの読者の目にとまることがある。これらは珍しい事例であり、妄念界の一発屋、「一発妄念」とでも言うべき作品である。しかし、一般的にほとんどの妄念は、Web上で流通する玉石混淆の情報群の中の「石」に属しているものだから、記事に重み付けをおこなう技術によって淘汰されていってほしい。
アルファブロガーについて。私が知っているアルファブロガーとされる人達は、それなりになんらかの専門的な知識や得意分野を持っている。多くの読者の間に「○○ネタなら××さんのトコが詳しい」といった認知が定着している。
これからもアルファブロガーの称号を与えられる人々は増えていくだろう。しかし、アルファブログのジャンルの内訳には偏りが予想される。たとえば、コンピューター関連の技術に関して、目下商品として自分が開発に携わっているプロジェクトの製法や根幹技術にまつわる生のレポートなどではなく、開発が完了して出荷を待つ商品の広告として。アルファブロガーの執筆活動は余技の中で行われる。苦労して編んだ成果は、無報酬の場ではなく、報酬も名声も実体を伴って得られる現実世界の閉鎖的なコミュニティの中で流通している。
一方、アルファブロガーではない人のブログは記事の蓄積の中に一貫性が感じられない。もしくは、一貫性があったとしても、情報としての価値が低い(たとえば「今日、○○さんたちと一緒に××で△△を食べました、おいしかったです(以上)」みたいな)。
アルファクリッパーについて。はてなキーワードの定義によれば、アルファクリッパーとは「一日に20以上のエントリーをクリッピングをしている人達のこと」だという。「アルファ」という接頭語をつけるのは妥当なのだろうか?アルファクリッパーとされる人達のクリッピングは他のソーシャルブックマーク利用者になんらかの影響を与えているのだろうか。アルファクリッパーとされる人達とそうではない一般クリッパーとの間に一票の格差はあるのだろうか。