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2015-11-16

http://anond.hatelabo.jp/20151116131649

ヒトの価値は、どれだけ子孫を残せたか? で決まる。

現生人類ホモ・サピエンス誕生して以来、約25万年間の間、ひたすら、男と女が子作りして

子孫を残す作業を繰り返した結果、今の自分が居ることを忘れてはならない。

現代日本の子作り文化では、結婚妊娠子育てがセットになっているので、

結婚すれば人間として勝利、子供が育てば人類として大勝利と言って差し支えないだろう。


結婚せずに子供を育てるのが当たり前になった時、初めて、

結婚の有無で人を評価するのは古い価値観だと言えるのだ。

2015-07-12

人を煽りたくなるのは野生の本能

自然界において攻撃性は種を繁栄させるために非常に重要ものだ。

天敵となる生物を早めに衰退させ、餌となる生物を手当たり次第に狩っては脂肪としてエネルギーを蓄える。

これを行ってきた生物けが自然界のヒエラルキーで上位に立つことが出来た。

逃げまわってばかりいたのでは何万と存在する他の生物たちに領地を追いやられてしまう。

外敵が住まないような場所に引きこもっていれば自分たちの種が滅びない事は可能かもしれないが、頂点に君臨することは出来ない。

人類は今地上のあらゆる生物の中で一番栄えている。

その場所人類を導いたものこそが攻撃なのだ


我々の血にはたっぷりとその頃の習慣が残っている。

弱っているものは狩れ、軟弱な仲間は排除せよ、とにかく己が豊かになるためにこの世界を利用しろ犠牲しろ

これは「生物界の頂点に立つような生物」であった人類所得した本能として仕方のないものなのだ

この本能現代人がまだ抗えないのは仕方がない。

所詮、理性と呼ばれるものも、利己的な遺伝子効率のよい繁殖を行うために作り上げた電気信号ネットワーク投影する虚像にすぎないのだから

その虚像が生みの親の命令に逆らって、生まれ持った攻撃性を完全に抑えることができるようになる日はいつか来るのかもしれない。

だけどそれはまだ遠い話だ。

ホモ・サピエンスが生まれて何年目だろうか?

その年月のうち文明社会を営んできた時間は何割だろうか?


世の中の人間がやたらと人様の揚げ足を取って薄汚い笑みを浮かべたいそう幸せそうにしていても、それは仕方のない事なのだ

人類はまだ「ソレ」を卒業できるほど高尚な生物とはなれていない。

肉体の檻に閉じ込められたままの遺伝子の乗り物に過ぎないのである

2015-02-01

ホモ・サピエンスのメスがオスを交配対象として認める条件はなんだろう。またはオスがメスを交配対象として認める条件はなんだろう。

2014-10-20

頭の良さについて

本当の頭の良さって生まれ持ったものだろうか。

僕は生まれ持ったもの「だけ」ではないと思う。

凄く大切な他の要素もあるし、むしろそっちの要素のほうが大切だ。

なぜなら、ほとんどの人の生まれ持った知能は100前後からだ。

東大生だって平均IQは120くらいだ。

まり、どんなに生まれつき頭が良くたって、大きな差がつくことはほとんどない。

ほとんどの人がIQ100前後であって、一握りの例外を除けばそれはみんな同じだ。

東大生だってたいして変わらない。

なにが言いたいかというと、人はその8割近くがIQ90~110の間に入ってしまうわけで

IQだけでパフォーマンスに差がつく」=「生まれつきの知能だけでパフォーマンスに差がつく」なんて場面はほとんどないはずだ。

まれつきすごい能力を持っている人はいないわけではないが、人口の数パーセント、多くて十数パーセントだろう。

ネットを見るとそこかしこに高IQ人間が溢れている気がするが、本当はみんなだいたいIQ100前後だ。

人間は結局、ホモ・サピエンスの一種類しかいないわけで、

ホモ・サピエンスとして生まれたからには生まれつきの知能はみんなだいたい同じだ。

犬や猫や鳥はたくさん種類があるから知能の差が大きいけど、人間は一種類(ホモ・サピエンスしかいない。

大きく差がつくことは滅多にないはずだ。

じゃあなぜ「頭のいい人」はそこかしこにいるんだろうか。

どうして学校にはずばぬけて勉強ができるやつがいるんだろうか。

学校クラスには一人か二人、そんなやつがいたはずだ。

僕は、それは「勉強体力」の差だと思う。

勉強体力だと、差はすごく大きくつく。僕は集中力がないから、2時間も不休で勉強するとヘトヘトになる。

ものすごく勉強体力のある人だと、5時間でも6時間でも苦にならないって人もいる。

そうすると、やっぱりパフォーマンスに大きな差が出る。

なかには、数学とか理科が大好きで、勉強のものが苦にならずに暇があれば教科書を読んでいる人もいるかもしれない。

僕はIQは117だったけど、勉強体力はない。1時間勉強するのも苦痛しょうがない。

時間休みなく勉強すると、動けなくなるくらい疲れる。

からIQだけで見ると僕は平均より上かもしれない。

でも、勉強体力は平均以下だから、僕はバカなんだと思う。

逆に、5時間も6時間勉強できる人は自分の頭の良さを誇っていいと思う。

そういう人は、僕の2~3倍は頭が良いから

学校勉強するのは、こういう勉強体力を鍛える意味もあると思う。

勉強体力(=集中力)は勉強以外にも役にたつ。

2014-07-28

http://anond.hatelabo.jp/20140728143013

ごめん、世の中の女は益田みたいな顔の生物を男として、いやむしろホモ・サピエンスとして認識できないんだ。。。

2014-02-07

http://anond.hatelabo.jp/20140207140907

典型的ホモ・サピエンスの発想だな。

権利というもの自分たちにのみ許された特権であると思い込んでいる。

そもそも権利がないから差別をしてもいいという考え自体おかしい。

ここがサル山ならおまえは追放されているだろうよ。

2014-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20140118235046

拝見した。

特定の何人かについて

特に目障りと感じているように見受けた。

日頃からちょいちょい接してくるのでしょうか?

まあ居ますよね……なにかとイラってする行動をするヤツ。

学校で、隣の人間自分で選ぶことはまずできないので、

同じクラス、同じ教室人間イラってなるケースは、あり得る。

こちらがイラっとなる行動をいちいち取ってくる輩に取り囲まれるケースも、ある。

この国の学校はそういう構造なので、

こういう環境なっちゃうのは正直仕方がないです。とりあえず納得しておく。

が、わたしの経験上、数百人も人間がいるならそのうち数人とは波長があう可能性は十分ある。

楽観はできないが絶望するほどでもない。ある程度の希望は持っていてよい。

・・・きっと、似たようなアドバイスを色んな人から受けたと思う。

色んな人間がいるとか、そのうち仲良しが見つかるとかなんとか。

もちろん、そういう人は確実に実在するのだが、

見つけようと思ってすぐさま見つかるもんでもないし、

クソみたいな人間存在感に囚われすぎて面白い奴を見逃しているケースもある。

そんなノイズどもにいちいちイラってなってやる義理もない。

アホどもにいちいちイラってなってる自分自身がちょっとばかっぽくて面白くある。力を抜いていく。

けっきょくのところ、人付き合いの要諦は相性のよしあしだ。

ノリが合わない人間相手にどう工夫しようが、なにも楽しくはない。無理に合わせる必要もない。

相手の顔をある程度立てつつ、やんわり拒否る方向に持っていけばよい。

トイレに一人で行けるようなやりかたも工夫次第で編み出すことが可能だ。

なんとかその方法を見つければ生活の質は格段に向上する。

(相手の顔を立ててやらないと色々面倒な事態に発展するので気をつける)

あと、誰だって他人は恋しいです。キライな奴でもまあ、いいかな……となるのもわかる。

あなた感情は正しい。心配しなくてもよい。ホモ・サピエンスはそういう構造になっているんでね。

なので、いやじゃない輩、気の合う友達を見つけていくような立ち回りで

日々を生きるといい。かもしれない。

どうしても周りが許容できないならいっそ視点を替えて、

人間観察の場とするしかない。根本的解決ではないが。

というのも、いったん社会に出ると、ビジネス以外のシーンで

自分と異なる価値観で生きてる人間に接する機会がほぼ無くなるので、

「人の連絡先すぐ聞く出会い厨」や「深く入り込んでくるやつ」の行動様式

深く観察することが出来ないんす。

そういう点であなた環境は羨ましい。

もはやこの歳になるとそういう奴ら、頭で想像するしかねえんだもん。

……まあ当事者たる貴方からすれば知るかボケって思うかもしれんが、

から経験したいと思っても決して叶わない状況にいるというのは、知っておいて損はないと思う。

気に入らん奴のどこが具体的に気に入らないのか、

じっくり観察して文章に起こすのもよい手法です。

今回、日記を書いたことでほんの少しだけ気がラクになったと思う。

論理的に整理してきっちり書いたらもっともっとラクになるので、是非試してください。

クソなやつはクソですが、見下しすぎると身体に毒です。

一つ他人をばかにするたびに、一つ自分がうぬぼれる。要注意。

2013-10-20

腐女子「ヒトは全員ホモ・サピエンスなんだから、元来ホモなんだよ(ドヤ」

言い返せなかった

2013-04-29

「誰もひとりでは生きられない」

非常にありふれた言葉だが、真実だと思いたい。

需要供給曲線の中で、「自分」という存在需要が無ければ「給料」という供給存在しないだろう。

誰もが求められ、そして誰かを求めて、生きている。

コンビニの店員がいなければ困るだろうし、怪我をした時に夜間の当直医がいなければもっと困る。

農家がいなければスーパー野菜は並ばないし、運転手がいなければ電車は動かない。

世の中ってそういうものだと思うし、そうあるべきだとも思う。

そして誰もが誰かに求められて、誰かのために働いている中で、それでも休日というもの存在するのは、”休日がなければいつまでも供給できない”というコンセンサスがあるからだろう。

そういうことをぼんやり考えていると、ふと1つの疑問に辿り着く。

「どこまでが自分なのだろう?」

もっと言ってしまえば「それは本当に自分なのだろうか?」という疑問かもしれない。

コンビニバイトも、夜間の当直医も、農家も運転手も、あるボーダーパスすれば自動的にキャリアアップされるこの世の中で、職業に密着したアイデンティティというものはなかなか希薄である

「私が死んでも代わりはいもの」……とは某ヒロインの言だが、実際、ほぼ全ての職業に対して代わりは用意されている。

勿論、それは非常に死にやすい1匹のホモ・サピエンスに掛け替えの無い仕事を任せるのは非常にリスキーから、どうしようもなく、必然的に辿り着いた結果なのだが。

そういう疑問に(無意識下かもしれないが)辿り着くから、人は帰るべき場所=どこまでいっても自分を求めてくれる場所を求める。

しかし悲しいかな、それは自動的に、簡単に与えられる類のものではない。

人は、雄と雌は、簡単に恋に落ちる。

「1億人から君を見つけた」だとか「100年の恋」だとか言うけれど、実はそんなに大それたもんじゃない。

ある人が繁殖適齢期に出会う、繁殖適齢期の異性の数なんてたかが知れてる。

精々数百人、だろう。

そんな少ない中で人は何人にも恋をする。

色んな人を好きになり、色んな人とセックスをし、生きていく。

100年の愛を誓って結婚したとしても、意外と簡単に離婚して、また生きていく。

恋愛ですら、将来的には家庭ですら、その個人にとってオンリーワンものではないのだ。

結婚相手は代替可能な繁殖相手にすぎない。

しかし、それは恐怖だ。

旧来の価値観では帰るべき場所になりうるはずの家庭ですら、絶対的なものではないというのは、アイデンティティを揺らがす恐怖だ。

果たして自分は、ここにいる自分は、誰かの代替品としてでなく、死ぬまで誰かに必要とされる人間で有りうるのだろうか。

それとも、ちっぽけだが美しいこの惑星に70億匹もしがみついて生きているこのホモ・サピエンスという種族は、そもそもどの個体をとっても代替可能な個体なのだろうか。

2012-03-21

http://anond.hatelabo.jp/20120321165303

"ホモ・サピエンスがまだその存在適応していないが、人類の活動によって増えた物質"

ってところなんじゃないか

それを変に煽る人がいるので面倒な概念だとは思う

微生物(これまたいい加減な概念だが)のなかには

人類には毒な物質でいっぱいの環境でウマーしてるのもいる

植物が陸にあがって酸素生産しまくったとき酸素ブームについていけなかった生物死滅したんだよねたしか

物質人間視点で変な意味化学物質などというのはオカルトを入り込ませる隙間になるので好かない

進化歴史匹敵するほど昔からある物質には、ホモ・サピエンスはある程度対応してるわけで

分解できたり、排出できたりする

なんで適応してるかっていうと、地球人類が生まれた昔からあったか

適応しないと生き残れなかったからだろ

イヌとかネコとかたまねぎ食えないのに、人類がなんでたまねぎ食えるように進化したのか謎だ

まあようは、昔からあったものほど、適応してるわけでしょ

ようするに環境の変化に進化がおいついてないんだろうね

環境を急激に変化させているのか、または変化することの是非の議論は抜きにして)

2010-12-30

他者依存者は人間であるか否か

人間定義、すなわち「人間しい」とはなんであろうか

そもそも、「人間」とはなんだろうか

ホモ・サピエンス」と名乗ろうとしないのは何故なのか


 「自由意思」から生まれる「自立」と「奉仕

この世界物理的・論理法則の中で、「自由意思」があると仮定する

つまり、自らの意思による行いによって、将来の事を思うように制御する事だ

制御という言葉を用いれるほど、正確な操作が出来るかどうかは別問題であるとして

これを人まず「人間」の根幹に置くとする

すなわち最初定義は「人間とは自由意志を持つものである

知恵の実である

少し話を進めてみる

自由意志」を持つという事

それはすなわち、「自分は他者とは違い、他者は自分と違う」という事である

自由な意思を持つ限り、自分は他者の思い通りにならないし、他者は自分の思い通りにならない

自分決断自分でする事が必然となる

「自ら考え、よって自ら行動する」事、つまり「自立」である

もう少し話を進めてみる

自己と他者を分け得て、各々が「自立」したとする

しかし、当然の事ながら個人で成せる事の量や質には限界がある

自由意志」を持つ限り融合をして能力を足す事は出来ない

自立した個人は個人として、集まらなければならない

ある個人を守る為に、他の個人が集まる

ある個人を守る為に、社会に「奉仕」する

他者を守る為に社会を作り奉仕すれば、自らもその社会を通して他者から助力を得られる

「巨大なリスク回避する為に、全体に助力する」事、つまり「奉仕である


では、少し掘り下げて粗探しをする

人間らしさの根幹である自由意志」について

果たしてこれは、自ら廃棄できるのであろうか

違うと思う

自由意志を持つ」と「自由意志を持たない」を選択出来ている時点で、自由意志を捨てることが出来ていない

そもそも「自由意志」とは「自分の意思で自分の行いを選び、思うように自分の状態を決定しようとする意思」だ

見た目での程度の差はあれ、自由意志はなくならないのではないか

言葉遊びであるが、「他者から命じられた事」に「従っている」という「選択」をしている時点で自由意志であるように思える

自由意志がなければ他者と全く同様に考え、同様に行動するはずである、選択の余地もない

そして、もしそうであるばそれは「自分」ではなく、「操作できる身体が二つある他者」に過ぎない

これは、どの動物にも言えるのではないだろうか


ならば、「自立」も必然的に行われる事である

すべての動物はその手段によらず、自立している

そして、「奉仕」も自然発生的なものである

1個体だけの種でない限り、個々体は全体へ、全体は個々体に、多かれ少なかれ奉仕をしている

なので、自立も奉仕人間だけのものではなく、動物必然的に帯びている性質ということになる

私は、これ以上に人間けが備えている特別なものを見出す事が出来ない

人間」とは、「ホモ・サピエンス」の言い換えに過ぎない


タイトルに戻ろう

「他者依存人間であるか否か」

結局は、手段とそれを判断する者の物差しに過ぎないのではないか

言葉遊びで、奉仕依存すり替えた所で、自由意志がなくなることはな

自らの意思で行動の選択を行ってる以上、それは人間である

また、真の意味で何も選択していないのだとするならば

それは「他者」であるか「動物」でない、つまり死んでいる=生きていないという事である


結論

ボダ人格障害人間ですよー

統合失調症も解離性人格障害人間ですよー

2010-09-21

ホモサピエンスホモが大好き 

http://anond.hatelabo.jp/20100921230047

一般的にいえば、ホモサピエンスのオス・オスの性的結合は、オス・オスが一対一で結合する一夫一夫制を基本としており、この形をとる個体がほとんどである。

しかし、ホモ・サピエンスホモには多くのオスと交尾したいという欲求を表す傾向があり、またホモサピエンス社会は基本的にホモ優位であるため、

ホモ性的欲求に対してはノンケのそれよりかなりの程度寛大である傾向がある。それにもかかわらず、ホモ・サピエンスの社会において一夫一夫制が主流なのは、

第一にホモ・サピエンスの全個体数におけるオスオスの比はほぼ完全な1対1であること。第二にホモ・サピエンスホモは現存する近縁種のホモに比べてかなり積極的に発展に参加し、

その資源コストの多くを負担する傾向があるため、ホモの利用できる資源が少ない場合に一夫一夫でなく一夫多夫をとれば、射精コストをまかないきれず共倒れになる危険があるからである

参考

人間はどこまでいい男か」、ジャレド・ゲイアッー!モンド、1993、p101

人間本能-心にひそむホモ過去」、ロバアッー!ト・ウィンストン、2008、p190

2010-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20100920200621

いい感じに大風呂敷を広げて、気持ちよくなってるとこにごめんね。

しかしホモ・サピエンスにまで進化すると、子供の成育に非常に時間がかかるようになり、

べつにホモ・サピエンスサピエンスホモ・サピエンスまで進化しなくても、子供の成育に非常に時間がかかる種はいるぞ。

メスだけでは子孫を育てることが困難になってきた。

そのためオスとパートナーになっての子育てが始まった。

メスだけでダメなら、パートナーも巻き添えだって?

少なくとも日本には夜這いというシステム(嫌だけど)があったし、パートナーでなく部落単位での子育てという地域もある。

パートナー子育て」っていう概念は、むしろキリスト教とか西洋的なモンだよ。

こうなると問題が起こる。他のオスの子孫を自分時間を掛けて育ててしまうという問題である。

村落や長屋全体で育てるという意識のあった地域は例外なのかい?

1 他のオスと生殖をしたことのないメスをパートナーに選び

2 その後、そのメスが他のオスと生殖しないようにする

つまり、処女を選び、そして浮気を妨害するというのは、数十万年前から続くDNAに刻み込まれた本能なのである。

DNAには刻み込まれてないだろう…。

少なくとも、他のオスの子を自分が育てるのは嫌だという意思なら、それは社会制度であって、DNAが関与する業ではない。

むしろ浮気するという事実が、パートナーを一人に絞らないで子孫を残そうとする、DNAに刻み込まれた本能だろう。

だからこそ、浮気性なやつはケダモノだと思うんだが…これは別の話。

処女信仰に否を唱えるのは 女 だけの事実

この題目に対して特に反論も同調もしないし、興味もないけど、その根拠についてはダメだしさせてもらう。

2008-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20081208165432

理由は判らないがキミが「集団」を均一な1個体と見做していることだけは理解した。勿論その認識は間違いだが。

日本人」は定義できなくもない。「日本国籍を有する人」だ。生まれ育ちがどこであれ日本国籍なら全員日本人。明快だね。

この定義で言えば「滞在している外国人」はあっても「ヨソモノが日本人に混ざる」ようなことはない。日本国籍を取得した時点で「日本人」の枠内だからだ。

翻って「日本人種」というものは定義できない。ホモ・サピエンス・サピンスは1属1種であり所謂「人種」間にも種としての差異はない。無論遺伝子レベルでの差というのはなにがしか存在するだろうけれど、当然それらに明確な線引きなどないから、それら特徴に基づく区分は常に恣意的なものに過ぎない。場合によっては君も私も「日本人種」の範疇にないかも知れないね。

で?「日本国土に住む億単位日本人全体が変容してしまうようなケース」ってのは何を指してるのかな?

2008-09-23

http://anond.hatelabo.jp/20080922182501

んー。

言いたいことはわかるけど、子供の性質に対する考えがちょっと甘いと思う。

「自分とは異なる性質の人を排除する」ってのは、そう教育されて初めてそーすること。

いや、だからさ。遺伝子ってのは多様性を求めているわけよ。

外部条件が変わったときに種が全滅しちゃわないように。

種としては「誰かが生き残れば」いいわけで、全員が生き残る必要も特定の誰かが生き残る必要もないわけ。

ぶっちゃけ人間遺伝子を持った誰かが生き延びていけば、ホモ・サピエンスってのは続くわけ。

だから、子供本能に「自分と違うものを排除する」なんて項目はないんだよ。

んなことしてたら、せっかくの多様性が意味のないものになっちゃうだろ?

見慣れないものを見れば「なにあれ?」って聞くし。

見かけないものを見かけたら「変なのー」って言う。

でも、そこに「排除」って気持ちはないわけよ。

単純に「見たことないけど何?」なわけ。

そこを教える大人がさ。

「あまり多くはないけど、フツーにあるものだよ」って言えば、それで子供は納得するんだよ。

いじめはかこわるい」ってのは、誰でも知ってると思うよ。

だって、いじめって陰でこそこそやってるだろ、フツー。

大勢の人が見ている中で堂々とやってるいじめって、そうそうないだろ?

いじめっ子はフツー「誰にも言うなよ」とか「先生に言うなよ」とか言うよなあ?

心に問題を抱えていじめに走るような子にとって必要なのは、それやったらはじかれるではなくて、それでも君を受け入れるから、君も他人を受け入れるよう努力しなさい、じゃないの?

2008-06-20

みーんな疎外中。

 長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。

疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。

 なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。

 じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。

「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」

「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」

「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」

「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」

「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」

「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」

「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」

「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」

「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」

「その人を手当てすりゃいいじゃん」

 ……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。

「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。

 例えば教育。そもそも公教育制度って、政治社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像国民保証する」ことにあるわけです。

 だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。

 警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。

 他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列未来投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。

 だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?

 いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級リングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級リングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。

 だから、庵野監督大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)

 なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。

 ポルポト文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。

 ……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。

疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェ運命愛もちょっと似てるかも。

 ……でもこれって、

「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」

という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論ポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女ジジイ

 ……この「反疎外論シリーズ、いろいろ応用がききそうだな。

 例えば、

「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」

「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずく正義押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」

とか、

「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」

「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」

「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」

ライダーは二人も要らない」

「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」

貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」

「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」

(去っていくザビーゼクター

「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」

(半年後)

「もう疎外論も物象化論もないんだよ。影山、俺と一緒に転向しよう……。天道、おまえはいいよなあ、どうせ俺なんか」

とか。

2007-12-03

ノブレス・オブリージュ (noblesse oblige) ノーブレス・オブリージュ

自らを高貴なるものと位置づけ表明するセンスに

違和感を覚える。


ノーブレス・オブリージュ? - 学校教育を考える

高貴な原子

高貴な分子

高貴なアミノ酸

高貴なタンパク質

高貴な精子

高貴な卵子

高貴な受精卵

高貴な胎児

高貴な赤ちゃん

高貴な Homo sapiens sapiens (ホモ・サピエンスサピエンス


人々の意見が、彼ら自身の性格の告白である。エマーソン

人類は平等である。そこに等差を生じさせるのは

家柄や財産によるのではなく、

ただ徳によるのである。

ヴォルテール


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