「ホモ・サピエンス」と名乗ろうとしないのは何故なのか
この世界の物理的・論理的法則の中で、「自由意思」があると仮定する
つまり、自らの意思による行いによって、将来の事を思うように制御する事だ
制御という言葉を用いれるほど、正確な操作が出来るかどうかは別問題であるとして
これを人まず「人間」の根幹に置くとする
知恵の実である
少し話を進めてみる
「自由意志」を持つという事
それはすなわち、「自分は他者とは違い、他者は自分と違う」という事である
自由な意思を持つ限り、自分は他者の思い通りにならないし、他者は自分の思い通りにならない
「自ら考え、よって自ら行動する」事、つまり「自立」である
もう少し話を進めてみる
ある個人を守る為に、他の個人が集まる
他者を守る為に社会を作り奉仕すれば、自らもその社会を通して他者から助力を得られる
「巨大なリスクを回避する為に、全体に助力する」事、つまり「奉仕」である
では、少し掘り下げて粗探しをする
果たしてこれは、自ら廃棄できるのであろうか
違うと思う
「自由意志を持つ」と「自由意志を持たない」を選択出来ている時点で、自由意志を捨てることが出来ていない
そもそも「自由意志」とは「自分の意思で自分の行いを選び、思うように自分の状態を決定しようとする意思」だ
見た目での程度の差はあれ、自由意志はなくならないのではないか
言葉遊びであるが、「他者から命じられた事」に「従っている」という「選択」をしている時点で自由意志であるように思える
自由意志がなければ他者と全く同様に考え、同様に行動するはずである、選択の余地もない
そして、もしそうであるばそれは「自分」ではなく、「操作できる身体が二つある他者」に過ぎない
すべての動物はその手段によらず、自立している
1個体だけの種でない限り、個々体は全体へ、全体は個々体に、多かれ少なかれ奉仕をしている
なので、自立も奉仕も人間だけのものではなく、動物が必然的に帯びている性質ということになる
私は、これ以上に人間だけが備えている特別なものを見出す事が出来ない
タイトルに戻ろう
結局は、手段とそれを判断する者の物差しに過ぎないのではないか
言葉遊びで、奉仕と依存をすり替えた所で、自由意志がなくなることはない
また、真の意味で何も選択していないのだとするならば
それは「他者」であるか「動物」でない、つまり死んでいる=生きていないという事である
結論