2013-04-29

「誰もひとりでは生きられない」

非常にありふれた言葉だが、真実だと思いたい。

需要供給曲線の中で、「自分」という存在需要が無ければ「給料」という供給存在しないだろう。

誰もが求められ、そして誰かを求めて、生きている。

コンビニの店員がいなければ困るだろうし、怪我をした時に夜間の当直医がいなければもっと困る。

農家がいなければスーパー野菜は並ばないし、運転手がいなければ電車は動かない。

世の中ってそういうものだと思うし、そうあるべきだとも思う。

そして誰もが誰かに求められて、誰かのために働いている中で、それでも休日というもの存在するのは、”休日がなければいつまでも供給できない”というコンセンサスがあるからだろう。

そういうことをぼんやり考えていると、ふと1つの疑問に辿り着く。

「どこまでが自分なのだろう?」

もっと言ってしまえば「それは本当に自分なのだろうか?」という疑問かもしれない。

コンビニバイトも、夜間の当直医も、農家も運転手も、あるボーダーパスすれば自動的にキャリアアップされるこの世の中で、職業に密着したアイデンティティというものはなかなか希薄である

「私が死んでも代わりはいもの」……とは某ヒロインの言だが、実際、ほぼ全ての職業に対して代わりは用意されている。

勿論、それは非常に死にやすい1匹のホモ・サピエンスに掛け替えの無い仕事を任せるのは非常にリスキーから、どうしようもなく、必然的に辿り着いた結果なのだが。

そういう疑問に(無意識下かもしれないが)辿り着くから、人は帰るべき場所=どこまでいっても自分を求めてくれる場所を求める。

しかし悲しいかな、それは自動的に、簡単に与えられる類のものではない。

人は、雄と雌は、簡単に恋に落ちる。

「1億人から君を見つけた」だとか「100年の恋」だとか言うけれど、実はそんなに大それたもんじゃない。

ある人が繁殖適齢期に出会う、繁殖適齢期の異性の数なんてたかが知れてる。

精々数百人、だろう。

そんな少ない中で人は何人にも恋をする。

色んな人を好きになり、色んな人とセックスをし、生きていく。

100年の愛を誓って結婚したとしても、意外と簡単に離婚して、また生きていく。

恋愛ですら、将来的には家庭ですら、その個人にとってオンリーワンものではないのだ。

結婚相手は代替可能な繁殖相手にすぎない。

しかし、それは恐怖だ。

旧来の価値観では帰るべき場所になりうるはずの家庭ですら、絶対的なものではないというのは、アイデンティティを揺らがす恐怖だ。

果たして自分は、ここにいる自分は、誰かの代替品としてでなく、死ぬまで誰かに必要とされる人間で有りうるのだろうか。

それとも、ちっぽけだが美しいこの惑星に70億匹もしがみついて生きているこのホモ・サピエンスという種族は、そもそもどの個体をとっても代替可能な個体なのだろうか。

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