なんだよネタじゃねえのか?
このままこのネタひっぱるつもりか?
ネタじゃないなら頭の病気だから話し合っても解決しないし一般的な生活を送れる人とのギャップは絶対に埋まらないから考えるだけ無駄だよ
http://b.hatena.ne.jp/junglejungle/20150114#bookmark-239048296
junglejungle そう、実際は、109行けばわかるけどピンクだらけだよ。あの場所は男が絡む余地がないのにも関わらず
http://www.shibuya109.jp/#floor-1f
とりあえず1Fだけど、店のカラーとしてピンクが目立つのはサマンサベガくらい(と言ってもここもピンクじゃないバッグの方が多い)では。
店名クリックすれば店の写真が見れるから見てみると分かるけど、
ロゴも店内ディスプレイも置いてある商品もピンクがあるんだか無いんだか分からんくらいの存在感な店の方が多い。
先輩の言うことが正しいって意見もあるんですね。エレベーターの事とか。化粧も。誰にも言われたことがないから先輩の悪意だと思っていました。会社に来るのが憂鬱だから、もう一度話し合いしたいって頼んだら「増田さん都合が悪くなると泣くから嫌だ」って断られました。どうしても話があるなら上司立会いのもとでっていうんだけど、話し合いしたほうがいいんでしょうか
なんだか楽しそうですね
久しぶりだろうがなんだろうが、ちゃんとお互いの信頼があってちゃんと愛撫すれば濡れるもんは濡れるんだっつの。
そりゃ彼氏が下手なんだろ。残念だけど。
私の叔母は母と結構歳の離れた人だった。いつも誰かが私の悪口を言っているという話で始まる、境界性なんたらにかかっていた人だったが、いつも私に優しかった。
子供の頃、私は母に優しくされていなかった為、いつ会っても優しい叔母が大好きだった。ある時私が母と叔母の家へ遊びに行ったとき、風邪をひいてしまった。最初に体調の異変に気付いたのは母でなく叔母だった。叔母は私の顔を両手ではさみ、今日は元気がない、どうしちゃったの?と聞いた。その時自分も体調の変化に気付いていなかったので驚いた。遊びに来たのに熱を出して可哀想だとか、部屋に様子を見にきてくれたのは叔母だった。いとこはヒマだろうと言ってちょっと大人のマンガを貸してくれた。僕が家まで送ってあげると言い、カッコいいスポーツカーで私たちを家まで届けてくれた。
両親の口癖は「甘えるな、お前の召し使いじゃないんだ、お前は女王さまとでも思っているのか」だった。叔母は私の気持ちを気にして、大事にしてくれるという、両親にはない温かさがあった。
昨年4月に入った新人が、
「資格を活かして今年は頑張るぽよ~!」
しかし、会社にパンツを履いてこないとか、おっぱいを背中に押しつけるとかそういうベタなやつではない。
そんなのはそのノウハウでここまでのし上がってきた彼女が一番良く知っている。
では何を教えたか。
それはブログだ。
一番オススメは「はてな匿名ダイアリー」だ。
匿名ということで仕事のことも、私生活のことも好き勝手かけるし知識のアウトプットの練習になるよと教えてあげた。
そしたら、
「わかったぽよー。」
とやる気満々のようだ。
これから先、
「先生のちんぽにでこぴんしたいぽよ 来週でこぴんな。」
とか
などの増田がでてくるかもしれない。
見つけ次第○○な。
日本は宗教に寛容な国であるので、境界線もあやふやで、曖昧だったりする。
例えば、イスラム教徒のことをムスリム(Muslim)と呼ぶということは知っていても、
その認識は、回教徒と呼んでいた頃から変わっていなかったりすることが多い。
襲撃を受けたフランスの新聞が、ムハンマド(Muhammad)を風刺画に書くことの何が問題か、
できるだけ、テロとは距離をおいた形で、少し話してみたい。
イスラームの話をする前に、我が身を振り返ってその曖昧ぶりを思い返してもらいたい。
まあ、宗教のテクニカルな話をすると、はてな村のギーク達は「あとで読む」を付けるだろうから、ちょっと例えてみよう。
まず、仏教には「世界はこういうものだ」という物理層がある。輪廻だとか解脱だとかだ。
モノリシックカーネルもマイクロカーネルも、OSの設計思想も、
結局のところ、ノイマン型アーキテクチャを基にした世界観の上に構築されているわけだ。
宗教とは、目の前に存在する「現実」をリバース・エンジニアリングしている。
その構造分析の結果、あるモデルにピッタリハマれば「悟った」と言われる。
般若心経は、Z80の手書きのニーモニック表と同様だと思えば、親しみも湧くだろうか。
さて、「現実世界」は中々簡単にディスアセンブル出来ないので、
できればインテルから直接、回路図なんかの技術資料をもらうみたいに、
「現実世界」を作り上げたり、その内部構成を知ってる相手に教えを請いたい。
その教えを請うことに成功したのが、預言者であるムハンマドだ。
大天使ジブリールに出会い、アッラーフの啓示を受けたとされている。
電気屋で悩んでたら嶋正利さんにCPUの論理設計について教えてもらえた、みたいなものだ。
まあこのへんでやめとくが、この教えてもらった世界の仕組みを書き留めたものが、クルアーン(コーラン)だ。
血なまぐさい話になるのでさらっと流すが、まあ日本でも大覚寺統と持明院統とが大揉めに揉めて南北朝同時成立したりしてたわけだ。
さて、「現実世界」を理解しハックしたのがムハンマドってことは、クルアーンに従って生活するのが良いわけだ。
つまり、本質的に宗教は「現実世界への関わり方」を示していることになる。
(残念ながら注釈でしか読んだことがなく、その美しいアラビア語による原典に触れたことはないが)
世界への関わり方は、時として人によって酷く違った解釈をされることがある。
デヴィット・フィンチャーの「セブン」という映画を観たことがあるだろうか?
キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続猟奇殺人事件と、それを追う刑事達の物語だ。
フィクションでは分が悪いと思うのであれば、エド・ゲインを思い出しても良い。
母親が狂信的なキリスト教信者であり、女性は悪魔だと教わって育ったと言う。
彼らは、その教えを忠実に守り、どちらかと言えば善意からその行為を行っている。
こうした連続殺人を観て、キリスト教信者をなじったり、キリストを風刺するのは、あまり面白いとは言えない。
彼らは、キリスト教信者ではあったかもしれないが、本来の教えとは異なる解釈をした、単なる犯罪者だからだ。
まあ、現代でもキリスト系のパロディー映画には苛烈な抗議文が届いたりするようだが、
過去、キリスト教会に対する風刺や批判は、即刻刑罰の対象になっていた時代が確かにあった。
「聖☆おにいさん」を書いたら暗殺され、それを民衆が支持する時代だ。
これは信教の自由と、表現の自由の、長い戦いの歴史がもたらした冷戦構造でもある。
表現者は、今回のフランスの新聞社への襲撃は、反対の異を唱えるだろう。
端的に言えば「オマエの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」だ。
疎い人ほど、「ムスリムはそういう過激な宗教の人なんでしょ」という理解をする。
また、「その風刺はいかがなものか」と「表現の自由を守る」が、矛盾なく同時に主張できると判らない人も居る。
そうすると、「表現の自由を尊重しない宗教が、テロに走った」と捉えられてしまう。
「表現の自由を守るためには、テロに屈せず、また風刺画を描く」のが正しいと思われてしまう。
人は理屈ではなく感情で行動するので、こうした時に、出来る事はほとんど無い。
淡々と、「その風刺は侮辱なので訴えます」とフランスの法律の範囲内で行動するしかないのだろう。
ブリジット・バルドーは、何度もそうやって訴えられ、フランス司法はキチンと刑罰を下している。
(またフランスはユダヤ人に対する人種的差別には敏感で、割とちょくちょく出版社に罰金刑を出している)
日本人が日本を馬鹿にした出版社を襲撃する事件があれば、その日本人を非難し、襲撃された出版社側に立つだろう。
その後、日本を馬鹿にした出版社の表現の自由を守りつつ、淡々と法律に則って侮辱されたとして訴えるしかない。
今回、欧州の各種ムスリム団体がテロ行為を非難している事は、忘れてはいけないと思う。
Je suis Charlie(私はシャルリー)とつぶやく前に、Je suis Ahmed(私はアフメド)として呟いたムスリムの言葉も聞いて欲しい。
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.
水じゃね?
飲み会でもなんでもとりあえず水を飲んでる。
もともとお酒を飲まないってのもあるけど。
カネもかからないし。
酒のうまさがわからないままだけど別にこのままでいいと思ってる。
本当に究極の究極は食べてる最中は何も飲まないってのだろうけど。
魚のおろし方を教えてもらわないとおろせない、ってのが、そもそも意味分からん
まず動画を見てその通りにやってみて、うまくいかなかった時にうまくいかなかったところを検索してコツをしらべてまた実践する、の繰り返しでしょ?
やってみて試行錯誤してまた試して…って、その繰り返しが楽しいのであって、教えてもらわないとできないとか、なんていうか考え方の根本からしておかしいよね