はてなキーワード: 戦隊とは
督戦隊(とくせんたい)とは、軍隊において自軍部隊を後方から監視し、自軍兵士が命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)または降伏(投降)する様な行動を採れば攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った部隊のことです。
督戦隊は、戦線の後方に展開し、自軍兵士の敵前逃亡阻止等の任に就きます。戦闘を継続させるためならば、敗走する自軍の兵士を容赦なく攻撃し、殺害することもあります。
督戦隊は、もともと兵士らが自発的に戦闘に出ることを期待するのが難しかった前近代時代の戦争に主に使われた手段です。ナチスドイツと旧ソ連は第2次世界大戦当時までこうした部隊を運営し悪名を馳せました。
2022年11月4日、英国防省は戦況分析で、ロシア軍が「督戦隊」と呼ばれる部隊をウクライナ国内に展開し始めたとの見方を明らかにしました。逃亡を図る自軍の兵士を「射殺する」と脅し、無理やり戦闘を続行させるのが役割だと述べています。
トランスの方が言う心が女/男 ってなんなんだろうと思う。
子供をうみたくなくても、身体的な問題で物理的に子供を産めない、卵子を持ってなくても心が男になるかと言うとそうでは無い。
夢のクレヨン王国やおジャ魔女やプリキュアよりゾイドやライダー、戦隊ウルトラマンが好きでもそういう子は男かと言うとそうではない。
大人になってもスカートが嫌いでズボンしか履きたくない、化粧もしたくない長い髪も嫌で短髪にしてたとしても男になりたいとは限らない。
ボーイッシュな格好をしてる女だからといって男になりたい訳では無いのと同様に、男のまま化粧やスカートを含めたオシャレは楽しめるし実際そういう人もいる。
異性と同じ風呂に入りたくないというのはあるが、それは生まれてから育つまでの経験の中で育ったものだと思う。(身の危険を感じるから等)
心の性は何できまるのか?
大きなかぶという昔話を知ってる?
あれ、不思議やん?
そしてねずみが加わったくらいでどうして抜けたのか。
そのあたりの謎を、参加者の戦闘力という観点で順番に考えてみた。
まずじじい。
メンツを一通り眺めてみると、もっとも戦力になってるように見える……、が、それが大きな間違い。
というか歳をとってるからじじいや。
じじいになるほど歳を重ねていればな、必ず人生で一度くらいは腰をいわしとる。
腰をグキィッといわせて悶絶し、数日寝込んだことがあり、その経験がトラウマになっとる。
ついでに肩の柔軟性も低下しとるやろね。
四十肩や。
こりゃ腕を使う作業には致命的や。
たしかにじじいはリーダーとしてがんばっとる、そこは認めなあかん。
が、心の底には、また腰をいわせてまうんやないやろかというビビリがある。
そうなると無意識のうちに手を抜く。
へっぴり腰になる。
そんな腰の入っていない手抜き仕事ではかぶを抜けるわけが無い。
次はばばあ。
じじいと同じ加齢による戦闘力低下の要因がもちろんあるやろね。
たとえ本気を出したところでせいぜい劣化じじいといった程度のパワーやろ。
せやけど他の問題もあるんや。
普通はそう思うやろ?
これが落とし穴よ。
ばばあっつうのはな、男に頼りっきりの人生を重ねとる。
どうせ最後はじじいが力仕事や汚れ仕事を引き受けるんや、という甘えがある。
ばばあという生き物は、男が一緒におると甘えが出て一人前の仕事をせんのや。
じじいをヌクのは得意でも、かぶを抜くのにはまったく役に立たん。
形だけ適当に参加したふりして力仕事をじじいに押し付け、かぶだけうまうまといただくハラや。
ばばあはだいたいそう、目の前の仕事に責任をもって真剣に取り組まず、かぶをどう食うかだけ考えとる。
一人前の戦力にはならんのや。
ねこは論外。
はっきりいって、このメンツでは最も役に立たん。
ネッコ=ザッコ。
じゃあなんでこいつがやってきたかっつうとな。
他の奴らが楽しそうに遊んでると思って、交じりたくて来ただけや。
チャラい参加や。
わっしょいわっしょい言ってるけど、お祭り気分で引っ張っとるふりしとるだけや。
やつはな、適当にちょろっとやって、そのうち飽きて疲れてやらなくなるに決まっとる。
みんなががんばっとるのをニヤニヤ眺めながら、屋台で焼き鳥喰ってビール飲んどる、そういうタイプや。
それがねこや。
戦力になるうちは、じじい、ばばあがケツモチになるから、ねこもおいそれとは手が出せん。
下手に手を出せば、うちの舎弟になにしてくれとんじゃい、ということになる。
そうなると晩飯はねこ汁うどんになるやろね、もちろんかぶの入ったやつな。
せやけどな、ねずみが戦力外通告を受けて一家から破門されればもうじじいやばばあは守らん。
督戦隊であるねこがいる以上、ねずみには死がかかっとるから、本気で戦うんや。
火事場のクソ力や。
まあ、ねずみ単体では小さいからさほど大きな戦力とはならなかったやろ。
自然界の常識は、でかい=強い、であり、小さいねずみは必然的に弱いんや。
だが、いぬがすでに全力で引っ張っとって、かぶとパワーの均衡を形成しとる。
弱小勢力が綱引きのパワーバランスの要になってなぜかキャスティングボードを握ってまう、そういうことあるやろ。
他は頭数だけ。
日本のIT屋は、こうやって無駄に頭数を増やして請求する人月を水増ししとる。
そうやって、その売り上げで実勢よりも株価を膨らませとる。
まさに、大きなかぶ、ちゅうわけやな。
整形外科はじじとばばあで混雑しまくってひたすら待ち時間、要は作文したくなるくらい暇なんや。
増田のみんなも、腰は大切にな。
だいすけお兄さん、あつこお姉さんの元相方なのを良いことにコンサートにも映画にも出しゃばりすぎだったし、
これがわずか1代前のだいすけお兄さんではなく大昔の歌のお兄さんだったり、歌のお兄さんの肩書きを捨てて活動してる人だったりしたらこんなに叩かれなかったと思う。
おまけにあつこお姉さんが就任時に「一生歌のお姉さんでいる覚悟はありますか?」と聞かれた話をしていたから、その覚悟はどうした!歌詞の意味を考えてなかったって、それ歌兄としてどうなんだ!あれだけ出しゃばっておいて!と余計炎上してる
昔のあたしおかあさんだから事件、女児の父親である事実、かつて共演した二人のお姉さんどちらも卒業後彼とは共演していないことへの邪推、具体的にどこが悪かったのかについて言及してない反省文などあらゆる点が火に油を注いでる
1…星テレ開始後に起きることに対しての懸念
今年の春夏クール(4〜9月)ラインナップがシリアス多め(BS11の空き枠利用再放送も殆どシリアスだらけ)※1
事前情報全く無しで星テレに対して、
「ほのぼのスクールライフ」であることを願うという愚かな人が現れることです。
同作初のギスギス回になったら勝手に「よくも俺の望んでたほのぼのスクールライフを崩してくれたな…
ところてん工場で働いてもらうぞ雷門…」みたいなことをほざく奴が現れたら厄介でしょ。
2…過去のケース
当時のアニメ視聴者界隈はヤマノススメ2期が15分シリーズな事や
ガルフレアニメが原作改変かつキャラ数の多さを生かせてないとかに反感持つ事も少なくなかった。
迎えた15冬クール。
そのアニメ視聴者界隈は艦アニやデレアニにそれぞれほのぼのライフ路線を勝手に願いやがっていましたよ。
デレアニは未央をヘイトタンクに仕立て上げる脚本に乗せられてその結果daiwa510の未央いじめシリーズ誕生の原因になった、
「重たい背景や過去を持たない者のドラマ」が一番脚本力試されるテーマなのに。
アニメ視聴者界隈は男女間恋愛拒否る様なことでブレンド・Sを過小評価したくせに
翌クール(18冬)には、からかい上手の高木さんで喜んでたダブスタしてたって本当なの?
さらにはりゅうおうのおしごとに対して勝手にほのぼの将棋ライフを望み、
3話で銀子に「よくもほのぼの将棋ライフを望んでた俺の気持ちを裏切ったな…」とか恨み言吐いてた者もいたとか。
と回想はそこまでにして、
話を今季に戻す。
星テレが「希望が見たければ地獄を越えていけ」なる群像劇であることは周知されなければならない。
下手すればギスの発端起こしたキャラがヘイトタンクにされかねないから。
シェイクスピア三大悲劇やギリシャ神話、アーサー王の死(円卓の騎士瓦解編)なんて
星テレが温く思えるほどの壮絶回オンパレードだぞ?
ついでにミリアニ(アイドルマスターミリオンライブ アニメ版)も
発端からラストシーンまで、終始群像劇群像劇として視聴することを奨励します。
※1
デキる猫は今日も憂鬱では人間失格の若者(CV:入野自由)が、
白聖女と黒牧師では人間失格の大人たちが過去回想で出てきた(フレデリカの件)、
夢見る男子は現実主義者でギスギスシーン(何あの11話エンドカード? )がetc.
※2天メソは4話ビンタ2発、異能バトルは日常系のなかでは7話で早見の修羅場、
コメディ系だけでなく
それぞれの強みを活かしつつキチンと天下三分の計するならコレしか無いと思う。
少なくとも仮面ライダーは単品ヒーロー路線にしないと立ち位置が不透明になる気が。
主人公が元怪人で同じ立場の怪人と戦うことの苦悩って初代のコンセプトを伸ばすなら必然バトルロイヤルになるんちゃうかなと。
009しかりキカイダーしかり漫画日本経済入門しかり石ノ森ヒーローは「敵と味方が同じ技術や儀式を起点とした力を持ちながらも精神的に対立する」という構造が基本だからな。
その精神を受け継いでいる仮面ライダーにおいて「正義として生まれた存在がいる。生まれついての悪がいる。絶対的にお互いは違う」では物語の作りが変わってしまうではないか。
自尊心はまだない。
何でも小学校の頃からイジメられていて死にたい死にたい言っていたことだけは記憶している。
他人の言った言葉をなんとなく真似て組み換えてきただけで、未だに他人が何をどういう意味で喋っていてどう考えているのかが分からない。
ウィトゲンシュタインはコミュニケーションとは子供の玉蹴り遊びの延長であり、その場その場で生まれてきたルールが連綿と連なってきたものにすぎないと語っていたとツイッターで誰かが言っていたように思う。
まさに私が苦手としているのはそのような、持って生まれついた世間一般的な共感能力と空気を読む力によって、その場に発生するルールの力場を正しく掴んでいく言語ゲームなる遊びそのものなのだ。
一流の声優は「あ」という言葉で100通りの表現ができると言うが、私はそういう人間のコミュニケーションの曖昧さが本当にもう耐えられない。
明確で論理的で常に同じ意味で言葉が扱われることは、法律の世界においてさえ存在せず、裁判所で弁護士や裁判官がアレコレ言い合った挙げ句に出てくる判決などの中でさえ、アレヤコレやの曖昧なものがその場限りの意味と解釈を持って無数に絡み合っていると知った時は、もうこの世界には私の居場所なんて本当にないのだと絶望したものだ。
私からすればマインスイーパーの最後の数クリックのように50:50の運任せになってしまったようにしか見えない状況を、別の人間から見れば明白に99:1でほぼ正解と言えるほうが当てられるらしいというのだから恐ろしい。
恐ろしいのは、その99:1が出来る人間の割合が95:5の95の方であって、私のような人間こそが異常として扱われていることだ。
いつからそのことに気づいていたのか分からないが、なんとなく分かっていて、でもそれが未だに確信を持ちきれない所がある。
彩度いっぱいに5色で塗り分けられているはずの戦隊ヒーローの何人かが誤差でしかない状態を幼少期から強いられてきて、それを当たり前だと感じた人間は、その僅かな誤差を見出して必死に見分けている状態が実は異常であるを薄々勘づきながらも確証を持てず、その病名と共に他者との違いを伝えられてもそれを認知することが出来ないのだ。
犬笛の音を聞き分けられないことを「そんなはんずがないだろう」と誰かに言われたら、何回までその言葉に耐えられるだろうか?
ふざけているわけではない。
色盲にとっての戦隊―ヒーローであり、人間にとっての犬笛であるものが、私にとって人の語る言葉の機微なのである。
これはもう大変に厳しいことだ。
きっとこの文章を読んでいる人は「そうは言うが君はちゃんと文字をかけているではないか。それなのに言葉がわからないんなんていうことがあるのかね?」と思うだろう。
私だってそう思う。
だが分かっているつもりで分かっていないようなのだ。
これはもう自覚のないアンドロイドがある日チューリングテストにかけられて「貴方は実は人間ではないのです」と告げられても、全く自分にはその自覚が持てないかのように全く分からないのだ。
今これを書いている私は共感能力をフルに稼働して自分と似た状況にある人間の姿を思い浮かべているように見えるだろうが、実際にはある種の論理的なパズルを解くような気持ちで相似している事象を探してきているに過ぎないのである。
普通の人が心によってやってみせるようなものを、私はただひたすらに論理的にやってみせているのを、そんなことをする必要があると思わない人間が、私も同じように共感能力によってこれらの考えに辿り着いていると勘違いしてくれているわけだ。
こうやって勘違いしてもらうのは私にとってはある意味で都合がいい。
何故なら、実際にはそうではないことが分かると途端に私は人間扱いされなくなり、ヒトマネの上手なロボットであるかのように扱われるだけだから。
これもそれも親から譲られた遺伝子が生まれつき現代社会と上手く折り合えていないのが悪いのであり、私が悪いわけでも親が悪いわけでも周囲が悪いわけでもないと分かってからは、割り切ることで楽になった部分と一生終わらない牢獄の中にいる自覚とで心はより有耶無耶になってきている。
私に出来ることといえば、とりあえず今までのようにヒトマネを繰り返して何とか自分を生き延びさせつつ、同じような気苦労を持つ人間を増やさないようにヴァージンを守ったままでこの人生を終わらせて見せることぐらいだ。
行き詰まった人生に方針を求めて性格診断や適職診断なんかをやると、いつも「小説家や芸術家になりましょう」「発明家や研究者に向いてますよ」と無責任な言葉が返ってくる。
実に下手くそに「貴方は社会不適合者なので、象牙の塔なり自分のアトリエなりに引きこもって居てくださるのがお似合いですよ」をオブラートに包んでくるものだと、自覚のない悪意なのか、純粋な善意によっての社会からの排斥なのかも分からないものをぶつけられたことを感じ入る。
その度に、「ああ、やはり自分はまともに生きるのは諦めるべきなのだ。だが、特別な生き方を出来るほどの力はない。だからまともなフリをして今日も迷惑をかけながらこの社会に張り付くのだ」と自己憐憫に浸るのだ。
これはもう精神的なリストカットとしか言いようがないわけだが、同時にソレはある種の瀉血でもあるように感じる。
私がこの社会に望むのはもうベーシック・インカムの導入ぐらいだ。
もうこれ以上社会の中で「私は貴方達と同じように働ける人ですよ」と偽って暮らすのはしんどすぎる。
いい加減疲れた。
人生の先行きのなさが、生来生まれ持った脳の作りから始まっていると突きつけられ、まだなんとか自暴自棄にならずにいるのがすでに奇跡のようなものだ。
これ以上我々を責めないで欲しい。
責めるべきは、我々のような人間が人間のフリをして社会に紛れ込まなければ生きていくことさえ出来ないこの社会の仕組みの方ではないか?
本当に、ベーシックインカムが導入されれば、我々はそれを頼りに暮らし、もう二度と社会の表側で「私は給料分の仕事ができますよ。何故なら普通の人間なのですから」と心にもないことを言ったりしないで済むのだから。