はてなキーワード: 仏式とは
今日は会社の同僚の親戚の葬儀に出席した。血縁関係も交流もまったくない赤の他人の葬儀であったがやはり人の死というのは悲しい、喪主の別れの言葉に思わず大粒の涙を流してしまった。
しかし周りを見ると若い連中は涙を流さず早く葬儀終わってくんねーかなぁという表情。これがゆとりかと感じた。
人を殺すゲームやアニメ漫画が溢れ人の死というものに抵抗を感じなくなってるのか?それでも人の死に涙を流さない若者に異常を感じた。
この葬儀、神式で行われたが二礼二拍手一礼をしなさいという立て札が堂々とあった。
ご丁寧に玉串奉奠のやり方まで司会がアナウンスする始末。これもゆとりか…。
不祝儀袋(ぶしゅうぎぶくろと読むそうな)をAmazonで買った。御霊前、御香料、御香典の3種類だ。人付き合いが少ない自分の事であるから、10枚*3パターンで今後を含めて一生分のちょうどよい数だと思っていた。御霊前は10袋入りで問題ない。透明なパッケージに入っていてこんなもんだろうという感じがする。
ところがそれ以外の2つは見た目からして何か違っていた。まず1つ御霊前を10束ぐらい積み重ねた大きさの紙の箱があった。入出荷時開封厳禁と書かれたシールが上に貼ってある。中身をみると透明なパッケージに入った御香料10枚セットが10個収まっていた。そう、100枚だ。相手の宗教・宗派によるがこれは自分が生きているうちに使い切れないだろう。
だがまた別に紙の箱がある。大きい。御香料の箱よりも高さはなくておよそ3分の2程、でも上からみるとA4よりもやや小さいぐらいの箱が残っていた。200枚?と心配しながら中をみるがそれほどではなかった。
5束のセットが横に2つ並んでいただけだった。つまりこちらも100枚と行ったところか。合計210枚。御香料と御香典は仏式でないとだめな気がする。やはり、全部使い切れないだろうなと思う。
以前、シャーペンの芯をたくさん買った時の事を思い出す。お年玉をもらった頃だったか。あの芯が入った長細い長方形のやつを50だか100セット入りの箱で買った時だ。無くしてしまった分も相当あったけれど、勉強熱心だった僕はそれを使い切る事が出来た。
今はボールペン主体でシャペーン自体手元に数本しかない。換えの芯入れも最近買ったHBとBがそれぞれわずか1セットづつ机の中に入っているだけだ。
死霊術師としてのすべては、今は亡き祖母から伝習した。大学では文学部に進学した。これはもともと歴史学に興味があったことと、死霊術師としていつか遭遇するかも知ない事態に備えるためだった。
大学3年生の終わりころ、死霊術師としていよいよその事態を迎えることになった。
ある日テレビを見ていると、旅番組のようなものがやっていて、滋賀県の西部の山林地帯をいつも見る芸能人が歩いていた。何の変哲もない番組だった。しかし、テレビを介しても充分過ぎるほどに、死者が放つ霊の波動が伝わってきた。もちろん、普段生活していてもその種の死者の波動を感じることはある。霊波は一般に、腐ったり火葬したりして身体が失われると弱まる。またたとえ身体があっても、時間経過によっても霊の波動は弱まる。人間やその他の生き物は、その場にとどまろうという意志を長くはもちえないのだ。恨みだとか、一般に強そうと言われる意志ですらそうだ。こういうのは仏教的に言うと成仏していくってことなんだろう。魂は残らない。めったには。
テレビで知った、滋賀県の霊波は別次元と言えるほど古く、そして強力だった。おそらく、亡骸がある程度そのままの、古い死体があるのだろう。そして、強靭な意志を21世紀でも保っている。
死体と強い意志。これが重要だ。死者蘇生の用件を満たしている。そしてかなり古い。
腕試しにはちょうどいい。見つけてしまったらもう止められない。死霊術の行使者として、その興味関心を止めることはできない。
祖母から習った作法で、霊波の質から霊が生きた(死んだ?)時代のおおよその年代を感じとった。520年+-30年前くらい? 手元の『日本史辞典』を紐解く。室町後期? 手が震える。研究室で『国史大辞典』にかぶりついた。
その頃の近江は一般に長享・延徳の乱と呼ばれる動乱期にあった。守護の六角氏討伐のために将軍足利義尚が長く近江に陣を設けていた。どうやら死体はこの時期のものらしい。
私は大学の研究室の院生の先輩に聴いてその時期の文献を学んだ。また隣りの言語学研究室と国文学研究室に行って、室町時代の言語やその発音について質問した。かなり難しい。筆談の方がいいかもしれない、と祖母のアドバイスを実感をもって思い出した。まさか室町期の死体に会えるなんて。せいぜい行って天保期くらいだと思っていた。古い死体なんてものは時代を遡るにつれて加速度的に少なくなる。祖母は明治4年に死んだ男の死体を蘇生したことがあると言う。これでもだいぶん古い方だ。室町期の死体なんて、祖母からもきいたことがない。後で聞けば、先輩方は私が卒論で室町時代後期を扱うから一生懸命調べていると勘違いしていたそうだ。
春休みに近江に旅した。大きなスーツケースを持って。蓬莱なんてお誂えむけの地名だ。山の方に入っていく。山は静かだった。ほどなくして現場に到着した。霊波は強い耳鳴りのような形で私の身体に具現する。こんな古くて強い霊波、他の死霊術師が気付かなかったのはちょっと不思議だ。まぁ波長が合う、合わない、はかなり厳密だから。私にもってこいのチャンスなのだ。私は女ながらオリエンテーリング部で体を鍛えていたから山歩きは結構得意なのだ。オリエンテーリングなんて全然興味が無かったんだけど、新人歓迎コンパで迎えてくれた先輩方の雰囲気がすごく良かった。サークルでは、大学生なりだけど、人との付き合い方、間の取り方を学べたと思う。高校生の時にはあまり意識できなかった、人間(じんかん)の距離感や発話。
山道から沢に下りる。死体が残った理由が、何となくわかった。日本では死体はすぐ腐って亡くなってしまう。しかし沢下にはぽっかりと、知られざる洞窟が顔をのぞかせていた。多分ここに死体がある。相違ないだろう。もしかしたら近年はずっと埋まっていて、最近になって地震などで再び穴が地表に現れたのかもしれない。だから今まで波動に誰も気づかなかったのかも? 洞窟は沢が近く低温が保たれ死体が保存されたのかも。あるいは永久凍土なんかがあって風穴で涼しいのかも。ま、これを考えても詮無い。とにかく、死体があるのは明らかなのだから。
ひんやりした洞窟に足を踏み入れる。かなり急だ。いよいよだ。震えるほどだ。周囲には驚かれるけれど、死霊術の技術は、実は私にとってはとても簡単なものだ。血も継いでいるし、祖母と言う佳き師もあったから。祖母もいっていたことだが、基本的に死霊術師は技術的な部分はそんなに問題にならない。むしろ重要なのは、死者と会い、契約する時の対話の仕方だ。死者が生きた時代の言語や常識を、こちらが把握してしっかり対話せねばならない。そうしないと蘇生に応じないこともあるだろうし、蘇生したい旨すら伝えられないこともあるだろう。死霊を怒らせてしまっては、あるいは成仏させてしまっては元も子もない。死霊術師の実力はここで決まる。このことを上手くやるために、私は大学では文学部へ行ったのだ。もし死霊術師に生まれなかったら、稲の光合成の研究をしに理学部か農学部へ行きたかった。
洞窟の奥にややひらけた場所があり、その壁によりかかるように木製の箱型の人工物が見える。…ああ、かなり古い牛車だ。小八葉の牛車? 公家が移動手段として用いていたもの。八葉の大きさ、小さい? 大きい? これで身分が大体分かるのだが…肝腎の大きさが、大きいのか小さいのかわからない。そんなの文献に載ってない。牛車なんて初めて見るんだ。そもそも近江に牛車。やや不可解? 足利義尚の近江出陣の際には公家も近江まで出向いたというから牛車できてたのか? それにしたって牛車で近江まで行くの? なにもかも自信が無くなってくる。
これではだめだ。祖母の言によれば、まずはその人をそのまま、そのままに感じるのだ。先入主観は退けるのだ。牛車の文様が大八葉だろうが小八葉だろうが、なかに居る主こそを見るべきなのだ。
精神を澄ませる。霊とは頭の中で会話する。結局、『太平記』のテキストをメインに準備を進めていた。『太平記』は南北朝時代を描いた軍記物で、室町後期には往来物として身分を問わず人々に広まっていた。死体の教養がいかほどであっても『太平記』の語調なら大丈夫ではないか、と考えた。とうぜんテキスト変わっているんだろうけど…。
「私はあなたよりも後世を生きる人間で、その間に人間が語る言葉も変わってしまった。この言葉があなたにどの程度通じるか私にはわからないが、どうか話を聞いてほしい」。ここまでテンプレ。国文学研究室の富田先輩ありがとう。
…牛車がガタガタと動く。御簾が超自然的な動きを示し、内の暗闇をあらわにする。お化けが怖い人はびっくりするんだろうけどもちろん私はそんなことはない。打掛の裾が見える。小袖が二重? そして茶色く干からびた手のひらが…暗くてよく見えない…が、死者に話しかけた段階で幽界との淡いが生起し、この世ならざる強烈なイメージが五感以外から五感を経由し認知される。死体は髪の長い公家の女性が見える。平安時代のオカメで十二単のイメージがあるけど、それより軽装だ。でも相当めかしこんでいる。この時代の人間は小さいしガリガリだな。さぁ、いよいよだ。頑張って蘇生の素体になってくれるよう語りかけよう。
「…私の寂滅からどれくらいの時間が経過しましたか?」むむ、なんとかこれくらいなら聴き取れる。うほっ、「太平記読み」専攻の坂田先輩ありがとう! 高校の非常勤やりながら大変でしょうけど博論頑張ってください。
「五百有余年でございます。『太平記』を読んであなたの時代の言葉を学びました」「…私も『源氏物語』で古の言葉の遣いに触れました。」「実は、…今日はあなたにお話しがあって武蔵国から参ったのです」いよいよ本題だ。
「あなたは強い心をお持ちで五百有余年をお過ごしになられました。そして幸いにしてお体も崩れず残されております。私はあなたの精神と身体とを結び付かせ、再び現し世に復することができます。再び洞窟の外に出て暮らしてみるのはいかがでしょうか」
「たしかに私はまだ黄泉の食物を口にしておりませんね」さすが公家の娘だけある。当意即妙にこたえねば。「私なら黄泉比良坂をあなたを連れて戻ることができます。」「どうして私を選ぶのです」「あなたのように長らく意識と身体とを保つ例はめったにないことなのです。」実はこれはあまり理由になっていない。死霊術師の衝動を説明するには、私には言葉が足りない。彼女が尋ねる。
「当時(筆者注:ここでは現在の事を指す)は死者を供養する作法は未だ仏式を用いますか?」意外な質問だ。自らの供養を望んでいるのか? 「ええ、大分形はかわっておりますが仏の教えは今でも通用しております」「ならば既に死んだ者を私なりのやり方で供養して、意味があるということですね」…あやうく意味を取り損ねるところだった。ちょっと不可解な質問だ。彼女は何を考えているのか。彼女の事を深く知った今になって考えると、これは彼女なりにかなり考え抜かれた、ある種の哲学のようなものだった。彼女の培った供養の作法。そのルールがもし現代で途絶えていたら。つまり仏教が現代に伝わらなくて、もし私たちが何か違う祈りの作法で死者を弔っていたら。きっと彼女は蘇生に応じなかっただろう。彼女の知っているルールで現代でも供養ができる。これが彼女にとって重要だったのだ。
「私は京都の六角富小路に邸宅がある公家(筆者注:ここでは「こうけ」って読んでね!)に生まれました。大乱(筆者注:ここでは応仁の乱を指す)の後の騒擾の世でありますから、私は近江を根拠にする武家の御仁に嫁ぐことになりました。いよいよ渡嫁のとき、牛車が谷に落ちて私は命を落としたのです。嫁ぐことが決まってから、武家奉公人の生活が如何様であるか、主人が如何なる稟性を持つのか。和歌は読めるのか古典は存じているのか。いつも想像していました。」死霊術師の常識から考えれば、それだけでここまで精神は保てない。私はほとんど確信をもって尋ねた。「もちろんそれだけで想いを保つことはできなかったでしょう。どうして。」
彼女はここで初めて表情を私に感じさせた。「実は洛中で一度彼の人をお見かけ申上げたことがあるのです。私の生家は上って四位の家柄ですから、ふらふらと外にでてもあまり咎められることは有りませんでした。ある日京師が物騒になり武家の人が20騎ばかり邸宅の前を過ぎりました。颯爽と武者を連れていたのが、後々判ったことですが我が主人となる方でありました」え? それだけ。うーん恋愛感情ってわからないけど、そんな単純な感情で何百年も持つのかな? 単純だからこそ長持ちする? わからんね。すると彼女が続ける。
「死んだあとはずっと新しい生活の事を考えていました。武家の生活。今まで見知った知識や噂話全てから、ひとつひとつ、未だ来ぬ時の先をずっと、ひとつひとつ限りなく。一日の起きてから寝るまで。衣服の糸先から世情に至るまで。とにかくひとつひとつ。世に現れるであろう現象をすべて想像しうる限り、ひとつひとつ。彼や周囲の人間との交わされたであろう会話をひとつひとつ。彼の人とのありうべき時と出来ごとの全てをひとつひとつ想像していたのです。そうしたら、ええと、五百有余年過ぎ去っていたというわけです。」そうして彼女は莞爾した。私は一発でこの女性を好ましいと思ってしまった。こんな偏執的で叮嚀な思考回路を持った人があるだろうか。この人なら。彼女に21世紀の平成の世の中で夫となるはずだった人の菩提を弔わせたり、あるいは彼の一族についてその後どうなったか調べさせたりすることは、彼女の心性をおそらく負に傾けることはないだろう。ひとつひとつ、彼女には想像したことの自分なりの答え合わせをしてもらえたら。私がそのお手伝いができたら。ちょっと身勝手か。とにかく、この人なら大丈夫だ。
好奇心とイマジネーションとを併せ持って、平成の世まで意識を有した五条顕子姫の死体は、その意識と共に、こうして私の赤羽のマンションにやってきた。
横だけど、お前差別意識丸出しだぞ。
日本に住んでたら辛くない?
「神仏を拝めないと辛い」としたら、お前みたいな奴が拝まない奴を差別するからだろう。
差別する奴がいなければ、別に「拝めないと辛い」なんて状況はないはずだ。
お前の中に神仏を拝まない奴に対する差別意識があるから、「拝めない奴は辛い(はずだ)」という考えが出てくる。
これもそうだな。
「差別されるようなことをしてる」という発言は、「差別されるようなことをすれば、差別されるのは仕方ない」という思想。
つまり、「理由があれば差別して良い(されても仕方ない)」という、差別肯定の思想。
「死穢に触れるようなことをしてる奴は、差別されるのは仕方ない」
「肌が黒ければ、差別されるのは仕方ない」
「俺たちと同じ神を拝まないのだから、差別されるのは仕方ない」
…みたいなこと言って差別に加担してきたわけだよ、お前のような奴が。
あと、
要するに、宗教やってる限り、
これは狭量すぎるだろw
お前はお寺にお参りしない奴とか仏式の葬式に出ない奴とかは、それだけで「親密な関わり持てない」のか?
お前んちの宗派が仏教だとして、自分ちの仏式の葬式に出てくれないキリスト教徒は、そいつがどんなにいい奴だったりいい女だったりしても
「親密な関わり持てない」のか?
キリスト教徒だろうが仏式の葬式に出れば式の進行に従うし、神前式の結婚式に出ればそれに従うんじゃなかろうか。
プライベートで神社に行っても手は決して合わせないキリスト教徒の知り合いがいるんだけど、お神酒はちゃんと飲んだよ。
いちいちなんで?どうして?と言うやつは正直言えば迷惑だと思う。
俺も面倒くさい性格の方で、小学校に入った頃は「なっとくするまでは帰りません」みたいなことばかり言う面倒くさいやつだった。
などといわれて納得するような物分りがいい小学生じゃなかった。
(しかもそれが「どうして日曜日は学校が休みなの?」とかそんなレベルでさえ、納得できないといって駄々をこねてた)
生徒会というものを知って、「なんか意味があるのか?権限とその範囲はどこまであるんだ?入会した憶えはない!」
とほぼあらゆる人間に噛み付いてた。
でもまあ、ちゃんと育った。
どうせ毎日着るなら安くかっこよく着たいよね。
システマティックにスーツを揃えたのでそのノウハウを残そうと思います。
長文ごめんなさい。
大体5分くらいで読み終わるかと思います。
対象としているのは20~30代の男性で接客が必要となる職種の人。
ただし、ベースとなる着方なので上の年代の人、他の職種の人でも問題なく利用できます。
正直、初期投資にお金はかかる。10万円は見積もっていてください。
だけど、ランニングコストは無駄がなくなるので安く済むようになります。
ここではスーツ周りをダブりもれなく効率的に抑えていきます。(ほんとに基本の基本です。)
日常ではベースのラインで着回しを行なっていって時折、「遊び」を加えるような着方を提案しています。
なのでシックに行きたい方もフランクに行きたい方も対応している選び方です。(この点については後述)
ここでは扱わないのでぐぐってみてください。
ただ、最近はどちらがどっちともいいがたかったりするらしいです。
真面目に行きたい方は英式を、チャラく行きたい方は仏式で揃えてください。
着回しがヘビーローテションにならないようにもう一着買うことをお勧めします。
茶色のスーツもよく目にしますがこれは偉くなってから着ましょう。おじさん色です。
好きなものを選びましょう。
太いものと細いものがあります。これについては後述のVゾーンで扱います。
ライトは2~6月頃を目安にします。お店には成人式後にラインナップが揃います。
ダークは10~2月頃を目安にします。お店にはクールビズ後にラインナップが揃います。
クールビズをしない古風な会社さんはライトの期間を8月まで伸ばしてください。
好きなのを選びます。柄物とかはおじさん臭くなります。それも好みですが。
ベースの3つ(黒灰赤2紺2の6本)は古くなったら同系統で買い直します。
そしたら流行色や好きな色を買い足します。これは流動的にサイクルさせる層になります。
そうすると10本くらいになるでしょうか。ここらへんがちょうどよく着まわせる本数になります。
襟には長さと開き具合があります。
好きに選びます。
ネクタイとYシャツの組み合わせには終る事無き戦いがあります。
流行によって揺さぶられてしまうので。(店員さんは基本流行で進めてくる。)
この3つができれば十分に思います。
黒(※)と茶があります。
上2つを揃えたら
すこし遊びを加えると良いでしょう。
シューキーパーを買っておきましょう(3000円~)
それといっしょに消臭のおまじないの10円玉をいれておきます。
こういうのって普段教わらないことだなって痛感しました。
一人だけではもったいないので、ぜひますだのみなさまもどうぞ。
番外編もできたら書いてみます。
国旗国歌への敬意の示し方ってどういう方法があるんだろう。国旗国歌の前で立って歌うのは本当に敬意を示しているんだろうか。個人の心の中を覗くことはできないのに、どうして敬意を示していると解釈できるんだろうか。
「立って歌わないと先生になんか言われるし、そういうことにうるさい人がいるし、とりあえず立って歌っておこうか」という子どもがいてもおかしくない。最近の判例をみて、「いやどうやら立って歌わないと大変なことになりそうだ」と思って立って歌う子どももいるかもしれない。はたまた「いやみんな立って歌ってるからやらないと」っていう子どももいるかもしれない。どこにも「敬意」は存在しない。
まぁこれは僕の勝手な想像だから、当てはまらないのかもしれない。でも、この国ってそういうところが寛大というか、むちゃくちゃな気がする。
ベタで申し訳ないけど、初詣に神社に行っても、そこの神様を信じてるわけじゃないし、クリスマスを祝ってもキリストを信じてるわけじゃないし、葬式を仏式でやっても仏を信じてるわけじゃない。日本って行動=内心を表すわけじゃない、ってことが社会的合意を得ている国だ。
立って歌ううちに敬意が芽生える、というのなら、毎年初詣を神社に行く人はそこに祀られている神への信仰心が芽生える、というのと一緒だと思う。で、現実は信仰心なんてこれっぽっちも生まれていない。
ほとんどの子どもたちは敬意だの何だのって、そんなこと考えていないんじゃないだろうか。僕らが初詣の神社の神のことを考えないのと同じように。
もちろん敬意を示す一番の(追記:方法は)立って歌うことだ。でも今まで述べてきたように、立って歌う=敬意を示しているとも限らない。
だから、(追記:教員に)立って歌わせることを強制することが子どものためになるという理屈がいまいちわからない。だれか理屈を教えてください。
よく言われることだけれど、ロードとかクロスバイクとかを買ったときに、必要な付属品がある。
例えばライトとかだけど、こういうのを買うと本来の自転車の値段より高くなるのが若干曲者。
楽しく自転車を乗るために、必要なものと値段をあげてみる。
絶対に必要なもの以外は、ちょっとずつ欲しいなと思ったら買っていけばよい気がする。
2010/04/17(土) 16:00 からスタートしています
http://live.nicovideo.jp/watch/lv14744006
の法話に感動したので文字起こししてみた。
(なお、「えー」は読み易さを重視して取り除いてありますのであしからず)
はい、本日はご参列の皆様、そしてまたご視聴の皆様、献花を頂きまたいろいろと温かいコメントを頂きまして本当にありがとうございます。
また、長らくのご長座、誠にお疲れ様でございました。
本日導師を務めさせて頂きました。削除動画の供養祭と聞いておりましたら、動画供養ということでございまして、少々焦った蝉丸Pと申します。本日はよろしくお願い致します。
動画供養ということでですね、法話の方を一つということで言われましてですね、さて何を話したものかなと考えましたけれども、今回ですね動画供養ということで、供養というものについてですね、一つお話ができたらと思っております。
よく一般的に供養と申しますとですね、今このように皆さん黒い服を着られましてですね、喪服を着て亡くなった方のためにする、それが、供養というふうに一般的にイメージが有るかと思います。
お坊さん呼んで、ワケのわかんないお経聞かされて、焼香やったらやることがなくて、しまいに足がしびれて、あ~やれやれと。
ま、こういうね、仏式の辛気臭いイメージと言うのがあるかと思いますけれども、供養というものの種類にですね、亡くなられました方の後生安楽、次の世がね、どうか無事で平和なものでありますようにと、ま、このように拝んでいただく供養や、法の供養、こうやって教えを説くという法の供養。そして、歌舞音曲、歌や、舞や、芸能というもの、これは元々宗教行事でございました。
そういったものを捧げてですね、賑やかに供養をする、供養と言っても、一口にいっても、これだけ種類があるわけでございます。必ずしも亡くなった方のためだけのものではないと、こういうことでございますが、世の中、この供養ということをですね、脅し文句に使う人が結構いるわけでございます。
あんたが不幸なのは、先祖の供養をやっていないからだとか、七代前の先祖とかですね、水子さんがとか、こういうようなことを言ってですね、アレを買いなさい、コレを買いなさいと。こういうような人達もおりますので、供養という言葉、なんとなく、まぁ胡散臭いというか、疑ってかかんなきゃいけないのかなと、こういう世知辛いことになっておるわけでございますけれども。
今これ見ていただいているユーザーの方の中にもね、自分だけはそういうもんには引っ掛かれへんでと、ま、こういう風に考えている方もおるかと思いますけれども、人間ですね、アイドルマスターの2が発売になるとかですね、いや取りやめだとかですね、Twitter上のTL(タイムライン)にそんなものが流れますとですね、一気に心の隙を突かれまして、右往左往する。
われわれ、自分のリテラシーというもの、情報のリテラシー、これをこう過信している方もおられますけれども、案外、簡単に釣れるもんでございます。
あんまり、自分自身のね、目と耳、コレを信じ過ぎるというのは、よろしくないですよと。
話がずれましたけれども、このようにですね、供養ということ、一般的には、じゃ、なにをやったら供養なのかなと。
手合わせて、お仏壇の前でやれば供養なのか、お墓に行けば供養なのか。逆にそういうことはしてないけれども、心の中では手を合わせてますよと、やってない方に限ってこういうことを言いますけどね。
ですから、この供養ということ、一つ覚えておいていただきたいのは、仏教の本来的な意味ですね。
本来的な意味で、供養というのが何かと言うと、手を合わせて、拝んでいただきますときにですね、亡くなられました方をはじめ、自分や、自分の身の回りの人や、生きているこの世の中の他の関係のある、全てのものが、皆どうか幸せで苦しみから逃れますように。
こういう風に自分の心を養っていただく。
ここが、一番最初のですね、仏教的に正しい、一休さんの歌ではなくて、仏教的に正しい供養と、いう事になるわけでございます。
今風に申しますと、他のものに対する思いやりの気持ちや慈しみの気持ち、これを育てていただく。
心のトレーニングをしていただくというのが、仏教でいう供養の一番重要な部分なわけでございます。
ですからですね、こういう風に、動画の供養とかですね、亡くなった方のためだけのものではなくてですね、他の全てのものに対してのそういう想いを心に養うということ、この養ったものをお供えするから供養でございますと、このように言われているわけでございます。
われわれ、普段何気なく動画を見ていたりですね、歌を聞いたり、また人に会ったりと、こういう事をしているわけでございますけれども、その人が、その動画が、その歌が、自分の前に届くまでにですね、どれだけ、苦労や、喜びや、いろんなものを経て今自分の前にあるんですよという。これがですね、心というものをちゃぁんと使っていないと、ぼーっと見ているだけで終わっちゃうわけでございます。
体と同じように、心というものも鍛えていただきませんとですね、どんどん鈍くなるんですね。心が鈍くなるとどういう風になるかと言いますとですね、斟酌(しんしゃく)、いわゆる人の思いを読み取ってあげたり、人の感情を汲み取ってあげたり、「おい大丈夫か」というこういう気遣い、これが出来なくなってくる。
いわゆる、空気の読めない人っていうのはですね、気を使いすぎて空回りという、こういう場合を除けばですね、だいたいそういう部類なわけでございます。
どんどん心が弱っていくわけです。
そして、この心がどんどん弱りますとどうなるかというと、素直に物事を受け取ることが出来ない、感動することが出来ない、心を震わせることが出来ない。
そのうちに、不満と、怒りで自分自身すら支えることが出来なくなってしまう。
ですから、この心をね、鍛えるというこういう供養という意味は、かなり重要なわけでございます。
体の異変はね、お医者さんに行けばRGT-γとかですね、数値は出てきます。
言葉の方は、これもぐっと確率低くなりますけども、親しい人や、自分を心配してくれる人だったら、注意をしてくれます。
でも、心というのは自分自身でよほど気を付けないとですね、誰かが手を貸してくれるものではないんです。
ですから、仏教では自分自身の、あなたの良い心を育てるようにしてください。
供養ということ、手を合わせてね、まんまんちゃーん、チ~ンと、はいこれでおしまいと、まぁこういう方もおられますけれども、そうではなくてですね、自分自身の、他のものに対する思いやりの気持ち、慈悲の心、これを育てていくんですよと。
ここを一番、知っておいていただきたいと。
お金を払えば供養か、物をね、買えば供養か、何かをすれば供養か。何をすればいいのか分からない。
一番重要なのは、心を育てていただくということ。
このようにですね、動画再生の少ない動画ということでまた日の目を見ますようにということをですね、今村先生の故事に習って今この歌供養ということをいたしたわけでございますけれども、日々、日常の生活の中でですね、そういったものに、あたかも消えては浮かび消えては浮かびのですね、ホントに諸行無常のような、このニコニコ動画のですね、この動画の群れの中で、縁があってクリックしたわけでございます。
縁があってクリックしてですね、自分の気に入るものもある、気に入らないものもある。
指摘をしたり、批判をしたり、こういうこともある。
あるけれども、その最後に
「GJ!」
の一言か、「お疲れ!」とこういう風にですね、書いていただけるだけで、作る人間としてはですね、作り手の方としては、それを励みに、画面の向こうの見ず知らずの誰かのために、それを思ってですね、「また明日から動画作ろう!頑張ろう!」とこういう風になれるわけでございます。
なかには、純粋にね、自分の楽しみだけということで、誰得という動画もあるわけでございますけれども、作り手の方がニコニコしていただき、また受け手の方もニコニコして見られるという、こういう環境を目指していきましょうと。
そのために色々と言いたいこともある、批判したいこともある、指摘したいこともある。
それを言った後にですね、で・も、ツンデレ風にですね、
「GJ!」
「お疲れ!」
こういう風に言っていただきましたらですね、みんながニコニコしながら動画を作成してやっていけるんではなかろうかと。
ですから供養ということね、心を育てるということ。
こういう形式は、定期点検みたいなもんです。普段一番重要なのは、日日(にちにち)のご修行、一日のうちのどこかでもですね、そういう心を育てていただきまして、習慣としてください。
習慣にならないと、どんどん悪くなります。
仏教では、人間てのは善でもなく悪でもないですよと。慣れ親しんだ方向に行っちゃうんですよと。
悪い方に慣れればどんどん悪くなるし、良い方に慣れればどんどん良くなる。
心を良い方へ持っていく、そのための気持ちを養う。
ここを一つ覚えておいていただきまして、これが一番重要なことでございますのでですね、覚えていただいて、日々ご精進いただければなと、思っておるわけでございます。
さすがにそのー、そうそうたる面々を前にしましてですね、ちょっと足の震えが止まらないなということでございますけれども、これを以ちましてですね、ニコニコの動画供養の方を終了と、させていただきます。
それでは、ご床座お疲れ様でございました。
一応、行われるのが仏式か神式かくらいの情報は入手しておき、マナー講座みたいのに一通り目を通しておくんだぜ。
社長の代理で行くってことは、焼香だけってことか?それとも最初から最後まで付き合うのか。数珠は持ってるな。百均の数珠とかじゃ見劣りするぜ、一応。
受付に行ったら香典出して「本日はご愁傷様です」って言うんだぜ。で、記帳。「故人の遺志で香典はお断りを…云々」言われるケースも最近増えたから、その場合には名前書いておけば充分だぜ。
会場に入ったら、ipodで音楽聴いたり携帯ゲーム機取り出したりするなよ。本とかも読まない方が良い。悲しみに耽ってろとは言わないが、お喋りしすぎるのも基本的にはNGだ。とにかく大人しく座ってお経聞いて、で神妙な顔持ちでつつがなく焼香済ませたら基本的にはお役ご免だからな。
( ;^ω^)<へいわぼけ: 葬式とか通夜で故人の死に顔の写メ取る人ってどういう教育受けてきたの?
36 名前:番組の途中ですが名無しです[sage] 投稿日:2007/02/21(水) 17:37:57 ID:H1UyzNR00
86 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2007/02/21(水) 17:50:37 ID:eiailINCO
相手が居るものとしての行為は写真に限らず嫌われて当たり前。
間違ってたら指摘よろしくお願いします。
追記:トラバから
4と5の間が論証されていないと思うが。
”必ずしも”というとそうなんだけど、↑の引用部にもあるように、日本の葬儀が「相手が居る社会と居ない社会を区切るために」するものだとするならば、十分「宗教性を脅かすような行為」と言えるんじゃないかなあと。