はてなキーワード: 自然的とは
前文
国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。立法権および執行権の行為が、すべての政治制度の目的とつねに比較されうることで一層尊重されるように。市民の要求が、以後、簡潔で争いの余地のない原理に基づくことによって、つねに憲法の維持と万人の幸福に向かうように。こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する。
でも正直、水が凍る温度を摂氏0度と定義すると言うことを水を0度で凍ると定義すると言い換えてしまう人に科学的事実が何なのかをを分かってもらえる気がしない。
えっとwもしかして水が凍る温度を0度と定義して水が沸騰する温度が100度と定義したみたいなそういう小学生の理科レベルの話ってことですか?w
しかも指標という言葉を使っているはずなんですけどそこから上の意味合いを読み取れてないってことですよね、他の単語もあまり正確に読み取ってもらえてないのではと推測してしまいますねw
話通じなくて当たり前ですね。そうですよね、教科書に書いてある自然的に観測できることは絶対的に正しいし、水分子がH2Oなのは紛れもない事実ですもんねwそれに比べたら、傘を盗むのが悪いことなのか、良いことなのかは、人がどう考えるかで変わっちゃうかもしれないし、どっちが正しいのか、ママやパパは教えてくれないし、刑法ではなんか悪いことって書いてあるけど、それって人間が決めたことらしいから、観察できる事実じゃないもんねwwwww本当はよくわかんないですねwwwwww社会科学って単なる人間が決めた思い込みではないですけどねwwwww
こちらもさすがに呆れました、あんなにいろいろ書いたのに、小学生レベルの理科と道徳の話しか読み取ってなかったんですよね
さすがに読解力低すぎなので面倒になりました、匙投げます
大学生向けの説明をしてしまってると思うので、小学生相手ならあなたの言う通りでいいと思います
なんで正しいのか、何が正しいのかは、ご自身で判断するのは難しいと思うので、大人の方や識者の方の言うことをよく聞くのが無難かもですね
日本の女性の皆様に言いたいことがあります。この国の未来はあなた方の肩の上にあるのです。具体的にここで私が言いたいのはあなた方の生殖に関してです。
・高学歴、高収入であり、高学歴、高収入の男性と結婚し、自身の子供にも高い教育を受けさせたいという女性。
・中高時代のブルーカラー彼氏とたくさん子供を作り家庭を築きたいという女性。
です。
最初に言っておきたいのは、この2つに当てはまらない女性は生殖しないでください。日本に今必要なのは少数の「高い知能を持ったホワイトカラー」と沢山の「教育期間が短いブルーカラー」です。ダラダラと長い教育期間を経て新卒で会社に入社し、社内官僚として上司や先輩の焼き増しのような仕事をし、そのくせ「自分は一人前の社会人だ」とプライドだけは高い「無能なホワイトカラー」(現代日本で1番多い)や、高校や大学に進むことなく、かと言ってブルーカラーに就くつもりもなく何もしていない「社会不適合者」ではありません。
現代社会は国家や行政が個人の生殖に介入できません。だからこそ、日本の未来は女性が本能的に持ち合わせ、パートナー選択の際に発揮される自然的優生主義にかかっています。是非、高い知能を持った選ばれし日本人と高い知能は無いものの教育期間が短くどんな仕事でもガンガン働く勤勉な日本人を増やしましょう。
無能なホワイトカラーや社会不適合者の皆様は、孤独を埋めるために同じ階層の中から異性なり同性のパートナーを探し、子供を作らずに2人で仲睦まじく暮らしましょう。
以上です。
媒体が誰でも無料で読めるWEB漫画ということで良くも悪くも言及される機会が多く、作者さんをフォロー等してなくてもフォロワーさんのいいねやRTでTLに回って来て読んだことがある人が多いのではないかな。
以前までは特にジェンダー問題に関心が高い人の間で評判の良い作品といった立ち位置だったけど、俗称・山賊回(初対面の人の家に泊まりに行って、家主が寝ている間に食材を根こそぎ漁って、自分達だけ食事を作って食べたモラルハザード回)を皮切りに趨勢が入れ替わり、批判が増えて、遂に「つくたべ批判いいね罪」なる声に出して読みたい日本語まで爆誕したネタ漫画に…。
個人的に作者が描こうとしているテーマと描いている内容に齟齬があるというか、食い合わせの悪さを感じる作品だと前々から思っていたので、山賊回は論外としても、批判が起こるのもまあわかるんだよな。
LGBTQの恋愛というニッチ要素を商業作品として色んな人に読んで貰う為に、“食”という誰しもに身近で流行りでもあるテーマと融合させたんだろうけど、この2つのテーマの接続の仕方が、何とも雑で。
LGBTQ+食を題材にした商業作品というと「きのう何食べた?」が有名だけど、こっちは融合のさせ方にも全く違和感ないし、作中での“食”に対する言及の仕方などから作者の並々ならぬ“食”へ拘りの強さや熱量が垣間見えるので、LGBTQ当事者じゃなくてもグルメ漫画として面白く読めると思う。(だからこそBL畑のよしながふみにとってのアウェイである青年誌・モーニングでの連載ながら売れて、実写ドラマ&映画化までしたんだと思うし。)
他方、つくたべの作者さんは“食”にそこまで拘りがない人なのでは?っていうのは読んでて誰しもが感じる点なんじゃなかろうか。
一点例を挙げると、9/10現在の最新話であるバレンタイン回では、春日さんはバレンタインの催事に出掛けるも「ここはシスジェンダーの人達のための場所で私のようなレズビアンは存在を消されてしまう」と被害妄想を募らせ、野本さんは春日さんにプレゼントする為のチョコレートのパウンドケーキを6個試作する。
昨今バレンタインの催事は「チョコ好きガチ勢にとってのコミケ」状態となっており、一年でここでしか食べられない珍しくて美味いチョコを買う為の真剣勝負の場となっている為、女性相手のチョコを買いに来た女性が爪弾きにされる空気などない。(女性同士で贈り合う友チョコなどは昔からごく普通に行われている。)
野本さんサイドの方も、お菓子を手作りしたことがある人ならば全員が知っていると思うが、製菓用の材料というものは押し並べて割といいお値段がするし、本命用のチョコレート菓子を作る場合に用いるに相応しい種類のクーベルチュールチョコレートは結構高価である。
作者は6個も試作品を作るほど真剣な乙女心!を書いたつもりなのだろうが、非正規で低収入という設定の野本さんが練習用に濫用出来るほど安くはないはずだ。
試作品には普通の板チョコを使ったというならそれもおかしな話になる。本命用の、試作品を何個も作るようなチョコレートケーキを作るのにスーパーなどで売っている普通の板チョコを使う人がいないとは言わないが…。
作者はバレンタインの催事に興味がないのかな?、お菓子を作ったりしない人なんだろうな、と思わずにはいられない描写である。
つくたべという漫画ではこのように作者の“食”に対する興味のなさが随所に滲むので、“食に”興味が強い人ほど違和感を覚える仕様となっている。
まあ商業作家がご飯を食べて行く為に好きでもなければ興味もないジャンルの作品を描くのは珍しいことでも悪いことでもないし、それで成功するケースも往々にしてあるので(「キャプテン翼」なんかはその最たる例だろう。最近では「SPY×FAMILY」の作者が同様のコメントをして物議を醸したが)それ自体は別にどうでもいいんだけど、ここにつくたべの主人公の一人である「食べたい女」こと春日さんのキャラ設定を加えると、違和感が首をもたげる人が多くいるのは無理からぬことではないのかと個人的には思う。
春日さんは化粧っ気のない背が高くかなり太っている非常に大柄な女性で、齢30歳弱にして米の食べ過ぎで膵臓を悪くしている(と作中で本人が自己申告している。
彼女は幼少の頃に父親や弟と食事の量などで差を付けられていたトラウマから、実家を出て一人暮らしをしている現在では好きなものを好きなだけ食べるフードファイターもかくやの大食いとなった。
そんな春日さんと、料理が好きでご飯を沢山作りたいけど小食で食べ切れないから作りたいのに作れないという葛藤を抱えていたもう一人の主人公である「作りたい女」こと野本さんが出会う。
「食べたい」と「作りたい」の利害が一致した二人の女性同士の付き合いが始まって…というのがつくたべの導入であり骨子なのだが、やはり膵臓がやられていると申告している人に、本人が食べたいと言っているからといっても、大盛りの飯を好きなだけ食わせるのは虐待に等しいように読者の目からは見えてしまう。
そもそも大食いになったキッカケも男尊女卑な家柄でストレスを抱えた生活をしていたことから来る心因性のものなので、それは自傷行為に等しいのでは?とも思うし。
まあ二人はただの隣人同士であり、野本さんに春日さんの健康を管理してあげる義理はなく、「健康に悪いからもっと野菜を食べなきゃダメだよ!」などと口を酸っぱくして言い聞かせるような間柄でもない。
しかしそうは言っても、作中で野本さんは春日さんへの恋愛感情を自覚しているので、「野本さんは仮にも年上なのに、好きな相手の健康が気にならないの?」というのはごく自然に発生して来る疑問であるように思う。
心因性の大食いで既にブクブクと太り膵臓も悪くしているけどそれでも食べたい(まさに自傷行為、セルフネグレクトとも言える)女と、炭水化物と脂質ドカ盛りの料理を作って食べさせたい女。
この二人を読者が微笑ましく見守るにはあまりにもノイズが大き過ぎやしないだろうか。
春日さんのキャラ造形をBLのスーパー攻め様の女版的なバリキャリの美人OLみたいにはせず(※作者さんはもともとBLを描いていた漫画家さんだった)化粧っ気のない太った非正規のエッセンシャルワーカー女性にした理由も、作者さんが「女性差別・家父長」や「ボディポジティブ」や「脱コルセット」的なポリコレ要素を取り入れたいと思ったからだと推察するのだが、春日さんの大食いが心因性のものであるならば、それはボディポジティブなのか?となって来るわけで、そこにもテーマ同士の食い合わせの悪さを感じずにはいられないのだった。
巷ではつくたべを批判する人は差別主義者だと言われているようだけど、以上のことから、つくたべに対する批判が起こるのはごく自然的なことであり、作者の思想のせいではないと思うんだよな。
作者が描こうとしている、描きたいと思っているものは何となく分かるのだけど、そこに漫画家としての技量や扱うテーマに関する知識が追い付いてないというか。
もっと設定をシンプルにして、二人の女が笑いながら美味しくご飯を食べるだけの話でも良かったのでは?と思う。
ポリコレ要素を足したいのならもっと入念に取材をすべきだし、その上で物語に馴染むかどうかを吟味して、商業作品として良い物を世に送り出そうと思うのならば、足し算だけじゃなく引き算も行った方がいいのでは?と一漫画読みの立場から具申させていただきたい。
補足。マイノリティが活躍する作品の否定は差別だというコメントがあるけど、そういった作品の中にも当然だけどピンキリがあると思うんだよね。
例えば最近評判が良かった作品というとNetflixのハートストッパーなんかがあるけど、私もあれはすごく良い作品だと思ったし。
補足2。フェミが評価してる作品だから重箱の隅をつついてるんだというコメントがあるけど、上と同様フェミニズム作品の中にもピンキリry
こういう文を書くのは初めてであるのでお目汚しをご容赦いただきたい。
1年ほど前に10くらい年の離れた妹から布教されたのが大きなきっかけだったと思う。
人によってVtuberの楽しみ方は色々あると思うが、私はとくに「人と関わっている」時のVtuberを見るのが好きだ。
マシュマロや配信コメント、コラボ配信など、ほかの人と仲良くしている人を見るのが心地よい。
自分が友達と仲良く話すことはあっても、完全な第三者として仲良くコミュニケーションをしているところを見る機会は、メディアなどを通じてでないとめったにない。町中で人間観察をするのもそれはそれで楽しそうだがしくじると不審者になりそうだ。
話を戻す。
Vtuberの行うコミュニケーションは、創作物のそれと比べてナチュラル、自然的に感じる。未来は定まっておらず、実際にリアルタイムでそれが行われる。
また、配信者ではなくVtuberならではのいいところは、見えているのがアバターであることによって、自分が第三者であることをより感じやすいことだ。
ナチュラルな会話でありつつも、自分のいる場所とは別の場所で行われているような錯覚を覚えるわけだ。
配信上に乗らない裏でのやりとりや考えがあることも想像を膨らませる。
こういった理由で私はVtuberのコミュニケーションが好きだ。
結局アバターを被った人間じゃんなどと揶揄されることもあるが、アバターを被っていることに私は意義を感じている。
やはり結局何が言いたいのかわからない乱文となった。
右翼は本来、大衆の理性などは信頼に値するものとせず、連綿と受け継がれてきた伝統や、個人を超越した民族などを重視する立場であるはずだが、長らく続いた保守政権の結果、「大衆に支持されている」ことに自分たちの正当性を依拠する単なるポピュリズムに堕してしまった。
他方で、左翼は本来、人間が生まれ持つ自然的な権利を至上の価値として、それが脅かされるときには現状変更のための暴力も是とする(少なくとも起源に暴力があることは否定しない)立場であるはずが、いつの間にかお題目のように法治主義を唱えるだけの腑抜けに成り下がってしまった。
戦後民主主義は右翼、左翼の両陣営を虚勢してしまったのであり、この思想なき政治こそ、大企業や宗教団体などの利益集団が跋扈する空隙を与えてしまっているのではないか。
山上の行為を民主主義に対する挑戦と呼びうるとすれば、事件後の両陣営の反応を見てもわかるように、右翼も左翼も戦後民主主義の無謬性を疑っていないことを明らかにしたことだろう。
20になったあたりで、大事なことが起きているのに今それに気づけていないのかもしれないという強烈な感覚があり、それがすごく恐ろしかった。だけど、そこから2年ほど経ち就活も終わって、自分がどんどん全てのことに自覚的になってしまっていることに気がついて、なぜかものすごくがっかりした。これは自分が望んでいた形ではなかったのか、?
そこで思い返すのはもっと昔、子供の自分で、あの頃はやっていること感じていることがなんなのか言語化なんてしたことがなかったし、もちろんそれが役に立つとかたたないなんてことは考えたことがなかった。そんな必要を感じたことさえなかったと思う。「なんとなく」がまかり通る世界で生きていた。
今は、これは自分にとってなんの意義があるのか、あれは自分にとってどんな役に立つのか、そんなことばかり考えてしまう。どんどん自覚的になろうとしてしまうのは、きっと自分の行動に責任が生まれてきたり自分の能力の大きさが見えてきたからで、それは仕方のないことだとは思うんだけど、今よりも幼い頃の自分の、無自覚で損得を超えた行動のほうが、自然的で美しかったように感じてしまう。あの時の自分は相対的ではない絶対の万能感に満ちていた。今まで、大人が抱いてる空想にも近い「純粋なものとして子供像」みたいなものってマジで謎でしかなかったけど、こういうことなのかなと思ってしまい、一気に10歳くらい心が老けた感じがした。とか言っていると子供の自分にそんなもんでもないよ、と言われるような気もするし、これもまた大事なことが起きているのに今それに気づけていない状態なのかもしれないけれど。
ただ、あの自然な欲求に身を任せるような美しい自分はもう消えたのだとすると、じゃあ今の自分ってどんな形をしているのだろう、と思うのだ。
あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手は応援したい、というジレンマ。
全国的に感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。
wikipediaによると以下。
認知的不協和とは、人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手を軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和の典型例なんじゃないだろうか。
しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。
例としては、うなぎは大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみは規制すべき等も思いつく。
自分の欲求と社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分のなかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。
うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。
うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共的判断は成立しない。
うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法のひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的な制度設計だ。
そう考えると、現代の民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。
個人的には好きではないけど自分が社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。
そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。
近代の民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカの建国者のひとりジェファーソンは、
公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共的課題を自分の欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政に必要な市民の資質だと考え、他方、代表者(議員)に必要な資質をアリストクラシー(自然的貴族)と呼んだ。
しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。
社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき、
ふつうの人々は、自分の内面を整理するために、どちらかの認知に一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知を修正してゆくことになる。
今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。
オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。
社会の規範に合わせて自分に対して一貫性を要求しがちな日本人は特に、自分の欲求を我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。
別の例を挙げれば、60年代にセクト化が加速したサヨクの動きが典型例。
また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知の一貫性を他人に求める一例。
サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。
自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。
党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、
それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。
ますます両極化が進んでいき、相手方の一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやすい立場の人とと
そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。
コロナ対策では人流の抑制が課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。
しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、
次第に言葉の力は失われ、今では行政も政治家も口にしなくなってしまった。
もっとも同時に、自粛警察もあんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。
ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。
思い出すのはベトナム反戦運動。ベトナム反戦真っ盛りの60年代のアメリカでブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たちに
反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全な場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。
コロナ禍でのステイホームのムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。
自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしまう業界。
それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。
オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会の安全と自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。
以上の話は、人々のジレンマを構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、
自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在の自分の社会的立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、
知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性がアピールされているに過ぎない。
しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。
重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、
オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、
そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。
飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。
タレコミも減ってきたという声もきかれる。
こうした寛容さは、行政の飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。
人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。
こうして考えてみると、自粛要請をベースとした日本流の政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすいタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。
自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人のメンタリティと、同じ社会の構成員にも同じ一貫性を要求したがる相互監視のムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルールや判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。
などと、都合のいい解釈で認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、
人々は、ルールへ従うことの意味が不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視は機能せず、自分の生活を変えることなくコロナへの懸念も自分の認知のなかで両立させてゆくだけだ。
しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢の限界をとっくに超えているしで、
人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当な自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。
自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナは心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。
本来の政策というのは、そんな人々の認知(世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。
例えば、自分の考えと相反していても、オリンピックは応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、
あるいは、オリンピックは懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。
「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元で政策を決めるべきではない。
むしろ「個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民の判断を見極めたほうがいい。
しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。
いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。
将来シナリオを示さない。予測や分析を共有しないから、いつも唐突に首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。
https://anond.hatelabo.jp/20210126012231
こっちの歴史の流れをざっと説明しただけでこんなに反響があるとは思わなかった。
後で書くように、そちらとは現代の情勢がいろいろ違うのでレスポンスが遅くなってしまった。
まず、いろいろとツッコミが並んでるけど、そちらの世界線とは前提が違うからこそ西軍が勝ったわけで、そちらの物差しであーだこーだ言われても困る。
それから、ツッコミの中にそちらの世界の悪いところを全部抜いた世界だ、みたいなのもあったけど、こっちはこっちで悪いこともある。
せっかく興味を持ってくれたみたいなので、少しだけ補足しておこうと思う。
ちなみに、歴史修正主義者の悪質な書き込みだというような反応もあったけど、相手にしないでね。彼(?)のいうことも全部が全部間違いというわけではないのだけれども、彼(?)のようにいまだに野蛮な武士を崇拝するカルトがごく少数ながらこちらの世界にもいて、そちらのネトウヨと同じようにネット上でだけいろいろと騒いでるというだけのことなので。
それから、はてな記法は使えないので見づらいかもしれないのは勘弁。
じゃあ少しだけ前の記事に補足して失礼することにしようかな。
・石田三成について
前に書いた通り、そちらとは前提が違うので関ケ原の戦いも徳川家康と石田三成の戦いというわけではなかった。というわけで石田三成はこっちの世界ではそれほど目立った存在じゃない。関ケ原の戦いで勝利に貢献したのは間違いないけど、1607年に出家してからはどうなったかよくわからない。
・天皇について
小早川秀秋や豊臣秀頼が関白になったのだから、当然その時代には天皇はいた。これは間違いない。しかし、その後商業が発展していくにつれて国民代表議会から「なんで我々の収入から税金を彼らに支出しなければならないのか」という不満が高まっていった。天皇は何もしない・生み出さないわけだから。しばらくの間は国民代表の議会と貴族代表の議会との間でせめぎあいが続いたけど、APS設立後しばらくして天皇は退位した。今も天皇の子孫というか、天皇家みたいなものはあるけど、「だから何?」という程度の扱い。
関東平野が何で開拓されてないのか?というツッコミもあったけど、こちらは良くも悪くも商業中心なので、いちいちそんなくだらないことはしない。前にも書いた通りここに至るまでの前提が違うので、自然的な条件も違う。周辺の標高の高い山(名前があるのかは不明)が頻繁に噴火して灰まみれだし、あんなところを開拓する価値なんてこれっぽっちもない。それでも関東に住んでいる・住んでいた人はもちろんいる。こっちはリベラル化していったと話したけど、当初はそっちの世界でいうところの古典的リベラルであって平等主義的リベラルではなかった。というわけで、関東に住んでいる・住んでいた人に対する差別はひどいものだった。そちらの世界ではとあるアルピニストの野蛮人が外国で子猫を射殺した挙句、それをとがめた友人の脚をも撃ちぬいたという痛ましい事件があったらしいけど、こちらでは19世紀半ばころまで、関東平野に猟銃を持って出かけていく人がたくさんいた。何をしていたかは説明するまでもないと思うのでご想像にお任せする。関東地方の人間は「バン」(坂東の別称?)とか「アズマ」(東日本の別称?)とか「エビス」(これはよくわからない)とか言われて蔑まれ、わざわざ関東から連れてこられて顔にこういう差別用語を焼き印されたり、20世紀の後半くらいまで就職すらできないということもあった。今でもお年寄りがこういう言葉を使って顰蹙を買うことがある。
もちろん、他の連合国家にも差別的な構造はある。そっちの世界と同じように研究は進んでいるけど、やはり周縁部の人に対する中心部の人の態度は冷たい。これは増田も心を痛めてる。
・今の社会について
こちらは母系社会で、近代ヨーロッパの父系主義と激しく対立したこともあった。というか今も対立している。ヨーロッパの人に言わせれば、ふしだらだとか家族像が理解できないとかそういうことらしい。ヨーロッパの人はそこまで潔癖なのかというとそれもよくわからないし、言いがかりなんじゃないかと思わなくもない。こちらでは割と早い時期に子どもを作って働く人が多い。大学に行く人はあまりいない。大学まで行かないと就けない仕事はそこまで多くないので。そっちの世界はどうでもいい仕事をするためにわざわざ大学に高いお金を払って行かなきゃいけないっていうのは本当にかわいそうだと思う。しかもそこまでして就職してもつまらない仕事して不味いご飯食べて結婚もできないって本当にかわいそう。しかもそっちは昔のヨーロッパの真似と武家社会の慣例をミックスしてめちゃくちゃな家族制度つくって、父親にも母親にも訳の分からない責任がのしかかってるんだよね、本当にかわいそう。あんまりかわいそうを連呼すると反感をかいそうなのでこのくらいでやめます。こっちはこっちで子どもがたくさんいて大変だし。
こちらは原発がなく、火力発電と風力発電がメイン。原子力はほとんど理論研究で、これを発電やら何かに応用する研究は全然ない。それと関係があるかどうかはよくわからないけど、そちらほど技術は発展していない。スマホもない。いろいろ反応があったのになかなか返答できなかったのはこういう事情がある。しょっちゅう停電するし、ネットはいまだにPCに回線をつながないとできないし、1人1台所有するのはちょっと厳しい。まあスマホみたいな小さい画面でネットして何が楽しいのかよくわからないけど、もう少し発展したらこちらでも同じようなものができるのかな。ネットの速度はADSLと同じくらい。今これを書いているPCは妻の母のもの。起動に3分くらいかかる。メモリは500メガ。時々接続が勝手に切れる。ちなみにこれを書いてるときも2回切れた。うっかり更新ボタンを押してしまって書いたデータも消えてしまった。
そっちの世界の人ってほんとに首都とか中心がどこなのかとか、権威的なものが好きなんだね。ちょっと理解に苦しむけど、今の首都は京都や大阪じゃない。APS設立当初は広島が首都だったけど、そっちでいうところの日本海側の方が便利ということで首都機能は福井にある。これもこっちの人間からすると「だから何?」なんだけどね。何から何まで福井に集まってるわけじゃないし。そっちの首都は昔江戸だった東京ってところなんでしょ。東京って変な地名だよね。笑える。あんなところに1000万人も密集してるとか信じられない。どうやって暮らしてるの?ブタ小屋にでも住んでるの?あ、失礼。あんまりバカにするとまた怒られちゃうね。こっちの前提が違うのと同じようにそっちの前提も違うんだもんね。ネットの接続が切れたりしてイライラしてたみたい、ごめん。
沢山の識者が言っていることだろうし、意識の高い増田には耳にタコかも知れない。
ペットを飼う前によく考えろ。
自分の経済状況をひいき目なしに評価しろ。仕事の展望も考えろ。
ペットには金がかかる。
俺は過去動物病院に何年か勤務して、公務員として動物愛護行政にも関わった。
今やペットは中間層以上の趣味だ。低所得者が手を出していいものじゃない。
もちろん低所得でもきちんとしている人はいるさ。高所得者でもダメやつだっている。
でも行政が関わる動物事案で深刻なものには、低所得者や生活保護受給者によるものが少なくない。
何かしらの精神障害を抱えていることも多い。
少しでも金や精神に不安があるやつは動物の命に責任を負ってはいけない。
ペットは家畜化された動物であって存在そのものが自然的じゃない。
まあモノによってはある種の利権になっているのは否定しない。でも予防しない理由にはならない。
動物が死ぬ感染症なんてその辺に転がっている。お前が知らないだけだ。
そしてお前やお前のペットが享受する衛生環境は降って湧いたものじゃない。
お前みたいなのが増えると壊れるんだよ。
「手術はかわいそう」だって?
じゃあ性的衝動を抱えたまま放置されるのはかわいそうじゃないとでも言うのか。
将来乳腺腺癌だの子宮蓄膿症になった時、余計に苦しむのは動物だ。お前じゃない。
そんなことを言っている時点でお前は想定が甘い。そして思慮が浅い。
「生き物として子を産ませてあげたい」?
ならあらかじめ貰い手を10人以上用意しておいてくれな。
そうだよ!エゴだよ!
エゴとか言い出すとペットを飼うことの是非にもなってくるけど、
飼うことを否定したいわけじゃない。
ペットを飼うということは、動物を、強制的に、自分の人生に付き合わせることだ。
ペットとは飼い主のエゴにより己に、そして人間社会に縛りつけた命だ。
1度縛りつけたならば、飼い主は動物の命に責任を持ち、尚且つ社会と共存させなくてはいけない。
せいぜいペットを飢えさせず、苦痛は最小限に、そして社会との共存のため
エゴを貫いて欲しい。
けっこうな頻度で、ランニングするようになった。死にたい気持ちが襲ってきてからでは遅いので、今のうちにせっせと走る。ランニングによって海馬に誕生したピチピチの新生ニューロンたちが可塑性の天才児なので、ランニングしたあと28時間以内に記憶したい情報を海馬に叩きこめば、パンチされた粘土のように、長期間記憶に残りやすい。もはや肉体の鍛錬というよりも、脳の鍛錬のために走る。ピアノのうまい子どもは数学を習得するのが早いという事例があるように、ある運動によって形成された複雑な脳内ネットワークはその運動以外の学習でも使用できるので、ランニングによって汎用可能な脳のバイパスを張り巡らせることができる。いろいろ本を読んで研究した結果、週4日の中強度ジョギングをして、そのうち隔日週2日の強度ランニングをまぜることによって、新生ニューロン生成とBDNF生成・放出を効率的に促進できるとわかった。強度ランニングでは全力疾走30秒を5回はさむことで、HGHの増加と全成長因子の大量生産を促進しチートモードに突入する。ランニング終了後トマトジュースの摂取で活性酵素を除去し、バランスボールを使用した平衡運動によりBDNFを倍加する。政治的義務の形而上学的な根拠は、制度の正義性を維持し促進するという自然的義務のテーゼに集約されるが、制度からつま弾きにされたところのプロニートにあっては、精神衛生を維持し促進するの一条に全ての義務が集約されている。
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うちは父がほぼ空気だったので男という存在に私が慣れていない。
そして母の存在
そんな父に私が生まれる前に愛想をつかした母は父以外のいろんな男に堂々とうつつをぬかしていた。私の絶対的支配者である母が安易に男には媚びる様。その嫌悪。
ここかなと思う。
「男性不信」について何度目かのサーチ
きっかけは人それぞれだ。
また極端に潔癖な女性もいる。
しかし私の嫌悪感はインターネットにあるものとはちょっと違う気がする。
「女だから頼りないなー。ああわかるお前も不安だよな?大丈夫俺が従わせてやるから安心して身を任せろよ。お前も嬉しいだろ?」
とそんなセリフを シミだらけ、ほつれだらけの服を着、イオンで買ったようなボロボロなシューズを履いた小太りで出っ歯な口呼吸の男性が臭い息を吐きながらなにかでベトベトな手でこちらに触ってくる 感じ。
・・・・・・・・・・結論的にろくな男性に合ったことがないだけのような気がする。
(私自身は偉そうにより好みできるような顔面はしていないのだが。)
しかし悲しかな印象に残るのはそういうやばい、強烈な男性ばかりなのだ。
父の不在により生まれつき男性というものに私は慣れていない。学校はかなり女子が多かったし職場も女性だらけで。
そこで出会った男性は少しずつ↑のような人だらけで、それが男だと思ってしまった。
だけど私は技術職で。
就いた技術職はことごとく女性ばかりで、そうなると自然な流れで女性の会合にばかり参加することになり、女性主体な会合で堂々と参加されるのはどうしても悪目立ちをする男性が多く(具体的にいうと話に女性同士の会話に無理やり入ってきて長時間つばを飛ばしながら一方的にいかに自分がすごいかと自分の話ばかりする人だ。女性主体な会合はまとも?な男性の参加率は低いし、参加されたとしても空気を読んで女性主体の輪を壊さぬようにアシストしてくれるのだ。それはあまりに自然的だから印象的に残らないのかもしれない。)
ようするに私は男性について「愛」がないのか?
じゃあどうしたら男性に「愛」を持てるのか?
自分が唯一知っている方法は、母のやり方。嫌悪のケース。子供に平気で暴力を振るう強すぎる女がそこらへんのおじさんに弱く家庭的な女アピールする、あれ。参考にならない。しかしあれしか知らない。
誰か教えてほしい。
しかし現状それを教えてくれそうな男性で思い当たるのは上のような勘違い男性しか浮かばないのだ。負のループ。困った。
そしてもうひとりの私が言う。「今まで私を支えてくれたのは女性ばかりだったよ。(女性ばかりの世界で生きてるので実は傷つけてきた人だって女性ばかりなのだが)男性って本当にいるの?今で十分幸せじゃない?」と。
だけど世界中の1/2の人達に不信を持つのはあまりにもったいない。もったいないのだ。わかってる。いやしかし、
例えば鎧をまとえば変われるだろうか。もっとブリーチを掛けて舌にピアスでも開けようか。そうすると普通の男性は避けてくだろう。こっちが普通じゃないんだから。ああ、どこまでも負のループ。
選択交配とかDNA手術で遺伝子的に奴隷向きのホモ・サピエンス(あんまりやったらもう違う生き物?)を作ってソイツラを奴隷にしたら、この社会から不幸な奴隷はいなくなると思うんだよね。
今どうして奴隷が問題になっているかと言えば、奴隷として生きるのが幸福だって思えない生き物が奴隷をさせられているのが駄目なわけでしょ。
だから頑張って禁止しようとしているけど、今度は普通の労働者が奴隷っぽい感じで働かされてて結局解決してないのが現状じゃん。
そこでもう法学だけじゃどうしようもねえからロボットで補おうっていうのが工学的なアプローチなわけだけど、じゃあここは農学や生物学的なアプローチとして奴隷に向いてる人間を作ろうっていう方向もありなんじゃね?
脳科学や心理学の方向からも人間を調べていって、突然変異なり自然的な遺伝なりで生まれてくる超奴隷向き人間を交配させていって、奴隷になるためだけに生まれて奴隷として生きるのが一番幸せになれる種族「奴隷」って感じのを量産して、ソイツらを奴隷にすればさ、名前だけ奴隷じゃないけど実質奴隷にされてる労働者はいなくなるじゃん。
もしも種族「奴隷」の中で突然変異的に奴隷じゃない方が幸せな「奴隷」が出てきたら、そいつは人間として扱ってやればいい。
人間の奴隷からは想像できないけど、それをみて「奴隷」は羨ましいとは思わずむしろ可愛そうにって思うんだろうね。
どうだろう。
「奴隷」
作ってみないか?