はてなキーワード: コーンスープとは
昔から缶詰の食べ物だとか乾パンだとかがたまらなく嬉しかった。
最近完全栄養食品のパスタがニュースになっていたのでいつか試してみたい。
小さい頃からうちのご飯はうまかった。北海道育ちというのもあるのかもしれないが肉も野菜もゴロゴロしていてしかし白米に合うので未だに実家で両親が作るご飯は大好きだ。滋味だとか、手間がつくる食事の良さを私はちゃんと知っている。
しかし、仕事がうまく行った時、うまくいきそうな時に食べるカップヌードルはなんだか完璧な感じがするんだ。
ちなみにうまくいかない時にはコンビーフ。コンビーフを皿に盛らずに剥いたらスプーンで食べる。自分はどこででも自分だと思い出す。
昔ドラえもんの映画でボタンを押すと美味しいご飯が出てくる他の惑星の話があった。私はひどく興奮して母にプラスチックの器に親子丼をご飯と具を分けて盛ってくれと頼んで困惑された。
うまくいったときだけのカップヌードルを今日はなんでもない日に食べてみたが、なんでかやっぱり安心する。
健康のために自炊をしている。だが特別な日は缶詰か、カップヌードル。
今までこの感情はなんなのか考えてきた。
おせちに飽きてマックに行くのとは全然違う。カップヌードルはうまいが、おせちもとてもうまい。
食事に興味がないのか?いや、食べることは普通の人間よりずっと好きなようだ。というかカップヌードルもコンビーフも缶のスープも乾パンもめちゃめちゃうまい。
しかしうまいから好き、よりさらになにか、私の根源に関わることが潜んでいるような気がするんだ。
もしかしてと思ったことは、この食品はおんなじ味で安全に食べられる。大量生産できるから皆んなお腹が空いたら食べられる。という、そういうでかい話の安心だったのかなということ。私めっちゃいいやつ…本当に?
なんかこう…上手いこと説明できる人いない?
・ドラえもんのあれは日本誕生の畑のレストランでした。ボタン押してないね。
・オススメしてくれたディストピア飯を眺めながら限りなく良いな…と思った。今度仕切りのついたプラ皿買ってきてミキサーにかけたコーンスープを注ぎたい。主食は牛乳でふやかし切ったシリアルを潰して入れよう。オートミールが良さそうだけど食べたことない。そしてコンビーフ。これはポルノなんじゃないか…?プラスチックのフォークにするか金属のフォークにするか悩ましいな。人間がダメになりそう…
・ままごと感については、ああ〜それっぽいと納得。自分では考えつきもしなかった。自分へのもてなし感が確かにある。もてなせて、もてなされてダブルの安心感なのかもなあ。カップヌードルで?って言わないでくれ。
・最後に
コーンスープのコーンが残るのは諦めるけどタピオカドリンクのタピオカが残るのは諦めない。
タピオカドリンクの蓋を取ることがコツ。そうして、ストローの可動域を最大限にする。
序盤は好きなように飲み、ある程度ドリンクが減ってきたら、ドリンクが無くなるまでにタピオカの一粒一粒を狙って吸う。蓋を取ることによってスナイパーのように確実にタピオカを仕留めることが可能になる。
蓋を取って、ストローで飲みながら、スプーンも使ってタピオカをすくって食べちゃう。スプーンで一気にすくいあげてスプーンに盛られたタピオカをたくさん口に頬張って食べるのも幸せ。
とにかく蓋を取ることが重要。タピオカドリンクを飲むときは全力でタピオカに集中したいので一人で飲むのがベスト。タピオカドリンクって最後の方「ズズズッ」って鳴ってしまい勝ちだから友達がいるときや、デートのときは飲みたくないんだよね。女友達とキャッキャしながら飲むのも楽しいけどさ、一人で人の目を気にせずタピオカに集中するのが一番楽しい。
しかしながら、半年に一度程度の感覚で猛烈に焼きとうもろこしが食べたくなることがあるし、冬場に体を震わせながら飲むコーンスープなどは格別である。
最近はトルティーヤのうまさにも気づいた。ポップコーンなどは言うまでもなく、うまい。
だが、我々に最も近しいコーンとは、なんだろうか。
それは、「なんとなく料理に入っている具材としてのコーン」である。
具体的には、こうである。チャーハンの具に交じるコーン。クリームシチューをかき混ぜればコーン。カレーライスにコーン。オムレツを開けばコーン。コロッケをかじればそこにはコーン。
これは、世の飲食店とお母さん(若しくはお父さん)たちの裁量によって差はあれど、おそらく数多くの人々が目に、いや、口にしたことのあるコーンであるといえる。
コーンそのものは世界三大穀物という看板を背負う、多大なるポテンシャルを秘めた素晴らしい具材である。
にもかかわらず、とかく料理の具材としては雑に扱われがちである。
もちろん、そのコーンが悪意を持って加えられていると言いたいわけではない。料理の彩り、アクセント、栄養素の補填といった意図は持っているではあろう。
だが、前述の通り、なまじコーンという具材が万能であるがゆえ、ポテンシャルに頼り切った雑な使い方をされていることもまた、事実であると思う。
雑に使われたコーンは、本来の魅力が損なわれるばかりか「なんとなく入っているとがっかりするもの」というイメージに繋がりかねない、危険なゲートウェイ・コーンである。
我々は今、なんとなくコーンを料理に散りばめることを止めるべきではないだろうか。
ほんとうに美味しく「とうもろこし」という野菜を味わうため、コーンとの向き合い方を、距離感を、真剣に考えていくべきではないだろうか。
そう思い、筆を執った次第である。
うちではそれにコーンスープがついてきた。