はてなキーワード: 不細工とは
セックスもできないのかもしれないし、セックスすらできないのかもしれん。
セックスする方法は知っている。風俗に行くとか(経験が無いから本番出来ると思ってる)
身銭を切らないなら(それでも費用はかかるが)上手く立ち回ればいけるぐらいには顔は整ってる。ただそれを活かすコミュスキルやファッションスキルの積み上げが絶望的に足りないので自分の顔はあてにしないでおく。
もういっそのこと、オーラルやその他色々を含めればさらに選択肢は広がる。
ざっと挙げただけでもこれだけある、じゃあ何故出来ないのか
これに関してははっきりしている、めんどくさいのだ。そこまでして性行したいという気がおきない、そもそも性行に嫌悪感を感じている、ついでに自慰行為にも。その2つは要するに、前者はちんぽこビンビンの状態で素っ裸で女と抱き合って汗だくになるわけで、ヤってる当人はいいかもしれんが、最中に行為を俯瞰する第二の自分が出てきてそれどころじゃなくなる。後者はなおさらだ、開始二こすり目ぐらいで後ろから肩を叩いてくる。「ナニヤッテルンデスカ」って
といってもちんぽこいじくって気持ちよくなれるならこんなにコスパの良い事はないから性欲と不細工な行為を行っている自分への嫌悪感を勝手にせめぎ合わせている。性欲が勝った時は「サイテイダオレッテ」となる
何故か
恐らくだが、誰かに格好悪いと思われるのがイヤだからという理由ではないように思う。自分が格好悪い状態、つまり悪い状態なのだからそれを改善しようとするのは当然だからだ。
逆にカッコいい事はしたい、ように思う。これも同様に誰か他人に評価を求めているわけではなく、自分がカッコいいと思う事をするだけだ。カッコいいと思う事には後悔がない。だから是非とも自分に評価を求めて欲しい、自分以外全員他人なのだ、そいつら全員を納得させるより一人で納得したほうが良いだろう。
まあでも、割と本音だよ。
言ってみればさ、合コンとかの女子グループで、明らかに一番二番に可愛い女がさ「でっもー。わたしぃ、脚太いしぃ」とか「髪ぃ失敗しちゃってぇ」とか甘ったるい声で愚痴を言いながら、団子っ鼻の不細工女子である我(怒りの表現)をチラチラ見てくるときの気持ちだよ。
そういうのはブスで不細工で男子から視線外される側の特権なんだよ。
大卒の人間が、就活で苦労してとかお祈りされてとか、うちのゼミ程度のコネじゃホワイト企業はないとかさ、そういう浅い絶望をふりまくのは、まさに「でっもー。わたしぃ、脚太いしぃ」なんだよ。
わかんないのなら、仕方ないわかんないだろうさ。
でも正直むかつく。
そうかなぁ。イケメン優遇って実質不細工への差別なのは、実質事実だからなぁ。実質事実だと思うんだよなぁ。確実に採用されないし。確実に女に差別されるし。あんまりそういうこと容認するのって良くないと思うんだけどなぁ。そういうことが無い社会にいたいなぁ。
イケメン好きだとかはどうでもいいけどそれを人前で露骨に言うと、不細工を否定してるんだよ、生まれつきの要素を否定してるから質悪いわ。それを会社の名前出してやってしまう勘違いっぷりは叩かれても仕方ない
お前頭悪いこと連投して頭大丈夫か?一般論が書かれてるだけなのに、なぜか投稿者が自分を不細工だと認識して治安悪くしたいと思っていると思い込んでるな。頭悪い族かよ
生まれながらの要素で不条理を被るのは無くしていくのがいいよなぁ。美人を褒めるならその陰でブサイクが自尊心傷つけられてんだよ。美人なだけでフォロワー集まるこの不条理な社会に、ブサイクは募らせるもんあるんだよ。生まれながらの要素なのに。そんなのはよくないだろ。
せめてさぁなんか美人に税金がかかるとか不細工にお得がありまくるとかならいいよ。そういうの全然無いじゃん。ただただ生まれながらの要素で差別されるのは不条理だから治安悪くなるよ。
大勢にとっての「美」というのは、建前をどう取り繕おうと厳然として存在していて、ミスコンが無くなろうが表現を法律で規制しようが、消し去ることは不可能だ。
「建前から始めずに何から始めるんだ」というが、臭いものに蓋をするやり方では本質的な解決には決して至らない。
統計的に「大勢の人が美しいと感じる容姿」「大勢の人が不細工と感じる容姿」は確かに存在するのだから、それを単にオープンにしようという行為を圧力で規制するのは、それこそが「統計的な美の基準であっても公表すべきではない」という価値観の押し付けであり固定化だとさえ言える。
大切なのは2つ。
「統計的な美の基準」のもとで「評価が劣る者」が、不当に差別されることのないようにしていくこと。
そして、「統計的な美の基準」とは異なる「個人にとっての美の基準」を正当に評価していくことだ。
私たちの社会は先天的な能力の優劣に応じて、得るもの失うものが異なる社会を肯定している。
それこそ知能に応じて、その後の人生が人それぞれになるのは周知の通りだ。
しかし一方で、極度に知能の劣る者(知的障害を抱えたもの)に対する不当な差別は肯定されていない。
能力が劣るものでも、ある一定水準以上の生活を行うことは基本的人権の範疇として保障されているし、例えば「運動能力に難があるから頭脳労働であっても雇用を拒否する」などといったような因果関係のない不当な扱いは一切認められないとされている。
「統計的な美の基準」において劣ると評価されたものが、優れると評価されたものと異なる人生を歩むことは肯定する。その上で、特段に外見が醜いとされる者であっても極端な不利益を被らないよう適切な保護を行っていくこと、容姿の美醜とは因果関係のない事柄についてまで容姿の劣る人間に不当な扱いを行わないようにしていくことができる社会を目指す方が、よっぽど直截的でしかも現実的だと私は思う。
また、元増田が危惧している「統計的な美の基準」が「個人にとっての美の基準」を侵食して価値観が画一的に固定化していってしまうリスクについては確かに存在すると考えられるが、これを防止するため「統計的な美の基準」の公表(表現)自体を規制しようという発想は、如何にも筋悪だ。
問題の本質は個々の人間自身が「自身の価値観がマジョリティのそれと異なっていても良い」という自信を持てず、安易にマジョリティの意見に流されてしまうことの方にこそあるのだから、マジョリティの意見を覆い隠してしまっては、自分の価値観に自身の持てない人間は、実態の不明瞭となったマジョリティの価値観と自分の価値観の食い違いを今以上に恐れるようになって、今以上に「空気を読む」ことに神経を使い、自身の価値観をマジョリティのそれと一致させようという忖度を誘引するキッカケを生むことにさえ繋がる可能性がある。
「統計的な美の基準」と「個人にとっての美の基準」が異なっていても良いのだと啓蒙すること。そのために必要なのは「統計的な美の基準」の実態を隠蔽することではなく、それを明らかにした上で個々人の価値観を尊重することの大切さを知らしめていくことにこそあるだろう。