一匹のうなぎを二人で分け合えば、二人で食べることができます。その二人が自分のうなぎを他の誰かと分け合えば四人で食べることができます。こうして分け合っていけば、うなぎは全員に行き渡り、誰もうなぎが食べられなくなることはありません。うなぎが地球上から消えることはないのです。
20年ぐらい前はむしろ、外国に謝罪を、第9条を全面的に守って自衛隊NO!みたいなのが思考停止して強かった。
慰安婦や、南京大虐殺事件の真偽あたりで疑惑が抱かれ、、次第にそれの化けの皮が剥がれていった。
で、逆に外国オラオラ、中韓は馬鹿にしてもいい存在みたいなのが思考停止して強くなってきた。
森友であまりにドン引きものの幼稚園を、むしろ政治家が無茶苦茶推していたと言うので一気に皮が剥がれた。
どっちのスタンスでも、社会がこういうスタンスがいいんだ!という曖昧なレッテルを掲げて優位になるとバカが寄ってくる。
バカが大量に集っても、議論の能力がないから、群れてのネットイナゴ的に、罵倒と異論を許さないようになっていく。
1.校務分掌として定めるということは、勤務時間内においてということか。
2.勤務時間外や土日の活動においては教員の完全な自由意志により、部活動をやらない、とか、土日の大会には一切参加しないということは可能か。これに対して校長が該当教員に不利益な仕打ちをしてきた場合、越権行為となるか、これはハラスメントになりうるか。
3.部活動中は教員は付き添う必要があるか。場合によっては顧問が帰らなければならない時もあるし、職員会議で顧問が付き添うことができない場合もあるが、そのような場合、生徒だけでの活動は許可されるか。
4.(原則であったとしても、また、勤務時間内であったとしても)付き添う必要があるならば、部活動の付き添い業務が合ったためにはみ出した部活動以外の業務の扱いはどうなるのか。労働法上問題がないと考えるのか。
5.付き添っていない時に事故が起こると「顧問不在」とメディアで大きく取り上げられるが、それに対してスポーツ庁はどのようにお考えか。労働法を守りながら、付き添えるような状況ではない。スポーツ庁が部活動を分掌業務扱いするならば、教員が部活動に付き添えない場合の事故についての責任の問題についてどうするかを、スポーツ庁がハッキリと定める必要がある。今は、全て現場顧問の責任になってしまっている。
ここは書きたいやつが書きたいこと書く場で、無視するのも自由な長文版匿名ツイッターみたいなものだから、いちいち煽るお前のほうが邪魔。
無論知恵袋で聞いたほうが確度は高いと思うが、攻撃する必要まではない。
まあ、わいも愚痴書きにたどり着いて、ついでにたまに答えてる感じだがな。
shitholeと言ったとか言わないとか問題になってるやつ
だって先進国の基準から見たら政情不安定なことや衛生状態が悪いことや教育水準や経済水準が低いことは事実なんだから
はてなブックマーク - 北九州市を「修羅の国」とバカにする行為は黒人差別や童貞いじりと同じである - なりらいふ
のコメの数々によれば当該地域の一部の事情をもってレッテルを貼るのは仕方ないことなんでしょ
レッテルを貼られた側が努力してそのレッテルを剥がすべきであって、貼る側はどんなことでも放言してもいいんでしょ
クソみてーな国をクソみてーな国呼ばわりして何が悪いって話になる
「ネトウヨが登場し始めた頃、連中の垂れ流すデマやヘイトスピーチを『あいつらなど放っておけばいい』『荒らしはスルー』と放置した結果、ここまでレイシズムが横行する事態を招いてしまった」…。
こういう言説を、至る所でよく見るようになった。
自分も始めのうちはそういうものかと思っていたが、最近はどうも「そういう言説自体がフェイクなんじゃね?」という気がして仕方がない。
端的に言えば、「後付け結果論」「今の基準や感覚で当時を裁いている」という感じがしてしまうし、表立ってこれに対して「そんなことはない」と反論する声が見られないのも、何か異様だ。
かつて自分の知人に、反戦市民運動系のサイトを運営している人がいた。
当時はイラク戦争の頃だったが、彼のサイトにもよくネトウヨが掲示板を荒らしにきていたようで、彼は「まーたウヨクが荒らしに来ているよ、困ったもんだ」とぼやきながら、かなりきつい調子で1つ1つ反論していた。
また、自分が当時よく読んでいた多くのリベラル・左派系ブログでも、コメント欄を荒らしに来るネトウヨに対して、放置などせず丁寧に逐一反論している管理人が多かった。
(中には放置しているブログもあったが、あくまでも管理人の方針が「賛同的なものも含めてコメントには一切反応しない」というものだったためだと思う)
卑近な例だが、こうしたことを思い出すと、少なくともこの人たちはネトウヨに対して「荒らしはスルー」などせず、きっちり対峙・反論していたわけで、そういう行為を「なかったこと」にしてしまうのは、やはり乱暴な議論なんじゃないか。
そう思うと、「ネトウヨのデマを放置した結果、レイシズムの横行を招いてしまった」と主張している人々は、どうにも主語が曖昧だし、自分からすれば、「で、あなたはその時どうしていたのですか?」と言いたくなる。
先日もあるジャーナリストが、「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置したから」と主張しているのを見かけた。
「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置したから」
という仮説がもし成り立つとすれば、逆に、
「左派リベラルがネトウヨを放置せず適切に対処した結果、ネトウヨの抑え込みに成功した」
というケースがあってもいいはずだが、そんな国はどれほどあるのだろう、と自分は思う。
世界を見渡すと、日本より左派リベラルに力があるとされる国々ですら、デマやヘイトスピーチを平然と言ってのける指導者や政党が勝利したり、日本ほどひどくはないかも知れないがヘイトスピーチやヘイトデモ、ヘイトクライムが横行したり、強弱の差はあれ「抑え込んでいる」とは言いがたい国が多い。
こういう状況を見て、「ネトウヨのヘイトスピーチを放置せず適切に対処していれば、ここまで横行することはなかったろう」と結論づけてしまうのは、どれほど正しいことなのだろうか。
かなり前、「戦争を起こした奴よりも、戦争を止めようとして止められなかった奴の方が、皆に責められ裁かれる時代が来るのかねぇ」と書いたことがあるが、「ネトウヨを放置したせいで…」という言説がここまで広まっている現状を見ると、もうそうなる下地はできているんだな、と思う。
戦争が起こるのは、戦争を止めようとした者が弱すぎて止められないせいなのか?
戦争を起こした者よりも、戦争を止めようとしたが弱すぎて止められなかった者の方が、より厳しく責められなくてはならないのか?
「戦争」を「ヘイトスピーチ」「差別」に置き換えると、完全に同じ問題になる。
そう考えると、「ネトウヨのデマを放置したせいでここまでレイシズムが広まってしまった(?)」ことよりも、「『ネトウヨのデマを放置したせいでここまでレイシズムが広まった』という言説が、多くの反レイシストの間に広まってしまった」という現実の方が、危ないというか後々響くんじゃないか、と思う。
(2020.1.14 加筆修正した)
お呼びでないです。
増田では先のみたいな噛みつきや性別に関することで的はずれなことをコメされたりしますが、そういう場なんだなと思っています。
なるほど、学生時代にやったことあるけど真面目にやらなかったことがここに来て。。余裕があるときに調べてみます。
増田さんが書いてくださった分類でいくと、たしかにマイナー思考(弱者寄り?)で、今の社会に対しておかしいんじゃないのかなと思うことが多い(社会に限らず、組織とかでもそこでは慣習として成り立ってていても他のとこでは通用しないだろと思ったりするともやっとする)のでそのレッテルに繋がったのかなと思いました。
基本はスルーのつもりでいたけど、言われたことの意味がイマイチわかっていなかった。ワープアやらそういう状態の若者の方が積極的に社会へ関心を持てという意見も気にはなっていたけど、社会よりも明日のご飯の方が優先順位が高いわけでその辺を思いつつも社会問題について知らないとなのかなと思って書き込みました。
ひとまず、言葉の本来の意味と、言われた状況やらラベリングについてはなんとなく把握できました。
書き込んでくださってありがとうございます!
「読めればいいじゃん」「中身に没入するんだから見た目とかどうでもいい」
今日知り合いの家に行った。部屋に通されてすぐに俺は本棚をつぶさに見た。悪癖と言う人もいるが他人を知るには本棚を見るのが一番だと俺は思っているのだ。
予想どおりというか、大体は文庫本である。ミーハーな彼らしくベストセラー的なのがほとんどを占める。まあそれは好きにすればいい。
問題は漫画の列だ。全巻揃っているのが大半なのだが、新装版と旧版が交ざっていたり、出版社違いだったり、版型が違ったり、ひどいのは途中から文庫版が並んでいたり。これはいけない。まったく美しくない。揃えるつもりならデザインを合わせる、せめて大きさくらいは合わせるのが当たり前だと思っていたものだから、この光景は衝撃的であった。
細かいところまで指摘しあえるほどの仲ではないから苦言はしなかったけれども、なぜこんな事態になっているのかは気になるから話のついでに触れてみた。そしたら彼曰く「読めればいいじゃん」「中身に没入するんだから見た目とかどうでもいい」。
いやーダメでしょ。紙質も大きさも本の重さも異なっていたら気持ち悪い読書体験になってしまう。言わなかったけどさ。
揃えるんなら多少はお金をかけて版を揃えてほしいと強く思った次第。