それを言いたいなら、
タイトルは、
「twitter、ネット上の関係性は一度壊れてしまうと修復できない」ではなく、
「Twitterのみの関係性は一度壊れてしまうと修復できない」じゃないか。
1点めはあきらかに、ネット一般の話じゃなくて、Twitterのみの話としてのは同意。
「twitterネット上の人間関係は、一度壊れてしまったら修復不可能。」
これはただの考察に過ぎません。3年ほどtwitterを続けてきて思ったことを言ったまでです。ネットで出会い、ネットのみで交流している人間同士が一度でもけんか別れをしてしまったら、仲直りするのはとても難しいはずです。僕がそう考えた理由は次の3つです。
一つは、twitterにおけるブロックという仕組みが仲直りを過度に難しいものにさせるからです。一度ケンカ別れをして、どちらか一方でももう片方のアカウントをブロックしてしまったら、ブロックされてしまったアカウントの人間がいくら弁明・謝罪しようと思っても、その声は相手には届きません。この仕組み上の問題が理由の1点目です。
2つ目の理由は、文字による意思疎通がメインになってしまう点にあります。言うまでもありませんが、対面で謝るのと、文面で謝るのとでは、相手の気持ちを動かす可能性の点で、圧倒的な差があります。同じ気持ちで謝っても、それが対面での謝罪であったか文面での謝罪であったかで、許してもらえる可能性、あるいは、弁明を聞き入れてもらえる可能性には圧倒的な差が出てきますよね。当然のごとく、対面での謝罪や弁明の方が、文章でのそれよりも強い影響力を持ちます。しかしながら、インターネット上で交流していた者どうしの間で起きたイザコザにおいて、対面で謝罪する機会は、ほとんど100%の確率で設けられないだろうと推測されます。仲良し同士がオフ会をすることはあっても、ケンカした人間どうしが謝罪のためにわざわざ日時・場所を決めて対面する機会を持とうとするとは考えにくいですよね。これが2点目の理由です。
3つ目の理由は、どの人も、対面・直接での人間関係以上に強い思い入れをもってネット上の人間関係を営んではいないだろう、と考えるからです。ネット上、特にtwitterでの交流のみで、相手の人間についてどれだけのことがわかりますか?ここでいう「情報」とは、性別、職業、身長、趣味、嗜好、などのような情報ではありません。相手に対して抱いたシンパシーや嫌悪感や「好き」「嫌い」というような様々な感情の原因となる情報です。これらは、心で感じるもので文字に起こせる何かではありません。しかしながら、日常生活において、僕たちは相手からこれらの莫大な情報を受け取り処理しながら人間関係を築いています。これら莫大な情報によって、相手に対して「好き」や「嫌い」といった感情や「この人はなんか気が合う」「この人とはなんか気が合わない」という感情が生まれます。そして、相手から受け取るこうした莫大な情報から生み出された様々な感情・感覚が、人間関係の絆を規定していると考えています。そう考えたとき、インターネット上で文字だけの交流では、相手について得られる情報が圧倒的に乏しく、結果、強い絆は生まれにくいわけです。ネット外、つまり現実での人間関係において、「仲直り」という現象がしばしば起こりうるのは、喧嘩が起こるまでの当事者間に、喧嘩をしても仲直りできるだけの絆があったからです。お互いが、喧嘩したことについて相手に怒りを持ちつつも、「でも、やっぱり仲直りしたい」と考えるからです。インターネットでの人間関係は、文字だけの交流ゆえ、喧嘩後にお互いをそういう気持ちにさせるのはとても難しいことです。
以上3点が、「ネット上の人間関係は一度壊れたら修復不可能」と考える理由です。もう一度簡単に整理します。
まず1点目として、twitterの仕組み、特にブロックという仕組みによる人間関係修復の難しさについて話しました。当事者のどちらか一方が一度でもブロックボタンを押してしまっては、謝罪・弁明する機会を持つことは半永久的に不可能になるという話でした。
次に2点目として、文字による意思疎通の難しさ、また、文字が相手に及ぼす影響力の低さについて話ました。文字によるやりとりは、表現の微妙なニュアンスの違いなどから誤解を生みやすく、また、対面で話し合うのに比べて圧倒的に影響力に劣るため、人間関係の修復は難しいという話でした。
最後に3点目として、ネット上の人間関係に対する思い入れの弱さについて話ました。僕だけでなく、そして貴方もまた例外でなく、ほとんどの人が、ネット上の人間関係に対してそれほど強い思い入れを持っていないと考えられます。それは、相手に関する情報の圧倒的乏しさがもたらす「絆の弱さ」が原因であると考えられます。喧嘩後もお互いが「でもやっぱりもう一度仲直りしたい」と思えるだけの「強い絆」を築くのは、ネット上の交流だけではやはり不可能に近いと考えます。このレベルの絆は、対面での人間関係においても、短期間で築かれ得るたぐいのものではありません。ましてや、文章でのやりとりでは何年かかっても築かれうるものではないように思います。
僕の意見を変えさせたいなら、この僕を納得させるだけの全うな反論を以て、意見を変えさせるなり、撤回させるなりしてください。貴方方の反論に納得できれば、素直に発言を変えます。 しかしけして不可能でしょうね。僕は正しい。
京都大学の例を見ると(リンク先最後のグラフ参照)、戦直後に数%しかなかった女子学部学生比率が、1998年ころから20%を越えている。
http://www.cwr.kyoto-u.ac.jp/tokei/
京大が他の上位校と傾向が違う特殊例であると考える理由は特にないから、
主にamazonの小口で売買していたが、嫁に部屋のフィギュアの量を突っ込まれ始めたので損得さておきでFBA導入。
とりあえず、
という一文が議論に全く必要ないという事に気がついていない。という事に気がつけ。議論は罵倒したり、上から目線に成ったりする場所ではない。
そういうのを全般して、社会常識がないという
学歴コンプレックスも妙なプライドもなく、目の前の仕事にまい進して稼いでいて、恋愛にも積極的で健康な男性の一人勝ち状態である。
結構条件に当てはまるのに、一人負けでしたwww
すごい頑張って、いろいろトライして、超絶 女性不信が増した。
信用不安、信用不安というけれど 人間そのものの基本的なコミュニケーションに信用不安起こすような 上辺だけ社会(笑)
※いいたいこと=もっと 人と人が信用しあえるような社会がいいが、なんでそうならないんだろう。信用を壊す人が多すぎる。なんとかしようよと。言っては見ても無駄なんだろうな。
http://anond.hatelabo.jp/20100606171830
萌えアニメに適用すると、スカートめくりしてあんちゃんがんばれーしてくれる少年が出てこないってことか?
なるほど、興味深い視点だ。
西又葵原画のエロゲー(Nableの、と表現するより適切だろう)だと毎回出てくるんだよな。
エロゲだと肝心のパンツの中身は主人公(プレーヤー)だけのものなのだから、おこぼれとしてのパンツぐらいなら少年に見せてやっても許容範囲だ。
またエロゲユーザーは18歳以上の大人だから、エロを若い少年たちに分け与えてやるのが大人の役割だと認識している。
一方、萌えアニメならパンツの中身は本編には存在しない。同人誌では補完されるが。
せいぜいパンツか、パンツ放映禁止ならお風呂がサービスの本体なのだから、それを主人公(視聴者)以外に分け与えるなどとんでもない!
スカートめくりしてあんちゃん支援してくれる少年が萌えアニメに出ないのは無理もないだろう。
だが、スカートめくりしてあんちゃん支援してくれる少年がいたら厚みのある萌えアニメになるのだろうか?
えっちなことはいけないとおもいますと言って分かってくれない壮年層に圧迫される青年層の主人公とヒロインが、無邪気に曇りのない純粋なスカートめくりする少年層を見て自分も凝り固まっているのではないかと悩めば、みっしりした萌えアニメになるだろうか?
この手の話を聞くたびに毎回思うが、こういう明らかなサボりに対して、どうして会社は何も行動しないの?
「半日で終わる仕事を一日かけてやる」みたいに擬装してる場合はなかなか難しいだろうけど、「一日中ネット」「寝てる」みたいな明らかなサボりは解雇事由になるだろう?
そいつにやらせるべき仕事がないけど法令上または契約上解雇できないから放置されてるのが社内失業。
サボってるんじゃなくて仕事がないからそうならざるを得ないだけ。
仕事をもらおうとしても嫌な顔されるだけで、何日も食い下がってようやくどうでもいい雑用を探してもらえる感じ。
よくわかりませんが、ダークヒーローなんじゃないですか?話を聞く限り。
スポーンみたいな?悪の力を借りて正義を成すみたいな。ちょっと違うか。私刑の力を借りて私刑を止めようとしてるんですね。
ああ、「犯罪」という言葉がまずかったね。別に刑法でも民法でもいいんだよ。
ここで言いたいのは、私刑禁止論者の「権利者に直接通報するだけでいい」理論に則るならば、
私刑禁止論者こそ「私刑」とやらの執行者をネット上で攻撃してないで、
横体が『いじめ』はたいてい無視とか犯罪性のない方法が取られるが、犯罪性がないから通報しないだと、自殺者が出るぞ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121104-00000006-rnijugo-bus_all
この手の話を聞くたびに毎回思うが、こういう明らかなサボりに対して、どうして会社は何も行動しないの?
「半日で終わる仕事を一日かけてやる」みたいに擬装してる場合はなかなか難しいだろうけど、「一日中ネット」「寝てる」みたいな明らかなサボりは解雇事由になるだろう?
こんな明らかなサボりを首にできないのに、非現実的なノルマ押し付けられて、毎日深夜まで頑張っている人の首を切れる理由が分からん。
労働組合の力の強弱とか?
社内のコネの有無とか?
犯罪性のないものを個人が勝手に「私刑」だと判定して攻撃するならそれはネット上の私刑禁止論者が批判している「私刑」そのものじゃないか。
黒板ばかり見て、僕はこんな底辺大学の生徒を教えるはずじゃない。もっと能力が高いんだ!と念じてるような、旧帝国大学出身の客員教授なんかをみると
社会常識は欲しいなって思うぞ。研究者としての才能≠教育者としての才能だ。
200人以上受講してるはずなのに、聴講してるのがヒトケタとかウケるぞ。
もちろん、極端な例なんだろうが・・・3年程度の社会経験もないとな、ちょっと突拍子もないのが混ざることがあるから、いいフィルタリングだと思うよ。
そんなことより、教員採用者は強制的に3年ぐらい一般企業に出向してほしい。
そっちのがよっぽど一般常識が身につく。
どういう常識?いや、これ真面目な話ね。
「日本社会特有の常識を知っている≠学校で教えるべき、教師が備えてあるべき資質」だということは教師にならない人間でも分かりそうなものだが。
そういう疑問は俺も持ったことがあるんだけどさ、国語学習を通じて論理学を学ぶというのはそもそもの設計上の問題があるかのように思う。
語学。
論理学は語学に内包されるような学問ではなく、哲学に内包されるべき分野なのでさ。
国語って名前だけど、学制がしかれた当初の設計だと、要するにリベラルアーツのトリウィウム(文法・修辞学・弁証法)にしたかったんじゃない?
国語という科目の枠に納める都合上、教材は日本語文学を使わないといけないということで、古文漢文から文法と修辞学を学ばせて、現代文から弁証法を(弁証法は無理なのでとりあえず論理学を)学ばせる、という風にしてるんじゃないかなって思うんだけど、その悪魔合体に無理があるんじゃね?
ハリウッド映画を通じて歴史を学んでも、それは歴史学と言っていいのか、そんな感じ。
みたいなもので。
いや、もっと豪快で雑だな、
くらいの感じじゃないかと。
もし、どうしても文学を通じて論理学や弁証法を学ぶというのならば、論理学の基礎になったような文学、古代ギリシャの書物とその注釈書あたりから教材をセレクトしていくのが王道なのではないだろうか。
訳本を「国語」学習として教えるのはうん、まあ難しいような気がするけど。
とはいえ、原著がギリシャ語とはいえ日本語訳されてしまえば日本文学と言えるのか?