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はてなキーワード: 従属的とは

2018-10-22

Webエンジニアマナーが悪いところ

Webエンジニアリングというのは労働集約産業で、人の上に構築された体制実体の大部分を占めている。半導体の上に構築された秩序は従属的立場である

そのために以下のような問題を抱えがちである:

からWebというタコツボの外でもコンピュータは話を長くすれば言うことを聞くものだと思い込んで「組み込みエンジニアは話が短く、技術の話ばかりして無礼である」とかい明後日の方向からの指摘を思いつく。なんか事実と違うとこある?

2018-10-21

anond:20181020130536

補助的な役割女性ばかりが担わされている、という主張には一見「おっそうだな」って思わされてしまうけれど、よく考えると釈然としない。

疑問その1、聞き手が男ならいいのか

レースクイーンとかラウンドガールみたいに本当に「添え物」でしかなくて、なくしてしまってもたいして問題ない役割は確かにあると思う。でも教養解説番組聞き手ってそういうのとは違うでしょう? 視聴者の疑問を代弁したり番組進行したり論点整理したりって(増田も認めているとおり)きわめて重要役割だと思うのよね。

「語り手と聞き手」っていう形式をとるコンテンツ媒体関係なく無数にあるし、インタビューやある種の対談もこの形式と含められると思うので(語り手と聞き手が適宜入れ替わるEテレの『SWITCH』とかね)、この形式じたいには普遍性がある。つまり聞き手存在じたいは許されるし、それどころか、なくしてしまうことはできない、つまり誰かが担わなきゃいけない役割なわけだ。実際、キャスティングによっては聞き手のほうがギャラがずっと高いなんてこともザラにあるだろう。

これを女性やらせるなという主張は、聞き手男性にだけやらせておくのが妥当聞き手という場から女性排除して男性に独占させろという主張になってしまう気がするんだが……。「男女比1:0にしろとまでは言ってない、せめて1:1にしろと言っている」ならば「去年は福君だったじゃん」で決着ついてるけど、そうではないらしい。ハテ?

疑問その2、聞き手は「下」なのか

女性がこれまで長いあい従属的立場に押し込められてきた、っていうフェミニズムの主張に異論はない。不公平差別の結果としてそうなってしまっているのは是正されなければならないと思う。しかし、千田先生もそうだったけど、このケースを「語り手が上、聞き手が下」っていう単純な上下関係主従関係に当てはめてしまっていいのか。

語り手+聞き手形式は多くが「知る者が知らない者に知識を与える」っていう進行をする以上、両者の理解度に勾配があることがそもそも大前提だが(じゃないと成立しない)、それは必ずしも主従関係立場上下意味しない。聞き手がイニシアティヴをとるケースや年長者や社会的立場が上の人が聞き手立場をとるケースからもわかるように、野球バッテリーのようなイーブンな分担であって、どっちが偉いとかいったものではないはず。

両者の理解度に勾配があることが前提と書いたけれど、それはまた、聞き手がアホであることも意味しない。相対的に勾配はあるが、それは語り手のほうが(そのテーマに関しては)高い位置いるからで、聞き手あくまでも視聴者代表位置づけるならば少なくとも「平均的な人物像」を想定しているはずで、「相槌だけ打たされてアホ扱いされるのはいつも女」という主張は通りにくい気がする。

別のところでも書いたけど、こんなふうに、もともと上下関係などない役割にわざわざ上下関係を作り出して「女を下に見ている!」と問題視するケースは枚挙にいとまがないけれど、これって「性役割再生産」などではなくむしろ「新しい差別生産」なんじゃないかな。(別のところ:https://anond.hatelabo.jp/20181018000112

2018-10-20

千田氏の問題提起説明してみる

はじめに

 キズナアイNHKウェブサイトにおいてノーベル賞解説記事に登場しておりましたが、そのことをきっかけに、千田有紀氏などが指摘をし、さまざまな方面から千田議論に対する批判が寄せられ、さらには社会学のものに対する批判もされているところです(これらをキズナアイ論争と呼びます)。

 ですが、そのざまざまな批判を読んでいると、「これって実はコミュニケーション不足で、伝わっていないんじゃない?」と思うことが多くなりました。いろいろあって社会学を学んだ人間として、それはちょっと悲しいなという思いがあったので、千田氏の問題提起ちょっと分かりやすくお伝えできればと思います

筆者の立場

 筆者は、社会学修士号を得ています。今は大学から離れているのですが、離れてそう長くはありません。専門は千田とも重なる領域家族ジェンダー)もありますが、教育メディアでした。

本稿のスタンス

 あくまで、千田問題提起がどのようなものに基づいて行われているのかを解説するもので、その意見妥当性とかは議論しません。私個人としては、千田立場に立てば理解でき一理ある議論ではあるが、だからといって、それは多くの人の理解を得る話法ではないし、その背景事情を一切踏まえていないのは、学術的に一定ポジションにある人のする作法としては疑問を感じているというところです。また、千田学術的貢献はいろいろな批判があるようですが、私は一定程度は評価しています

 なお、アカデミック作法は基本呼び捨てですので、ここでも、基本千田として書かせていただきます

千田氏の問題提起について

 キズナアイ論争のはじまりは、千田投稿記事です。https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/]

 ちなみに、現在10月13日)、追記もなされており、社会学者にはそれなりに分かる文章にはなっているのですが、一般の人はなおのこと分かりづらいことになっています。後に公表された、『「表現の自由」はどのように守られるべきなのか? 再びキズナアイ騒動に寄せて』記事による補足を踏まえて、まず、千田議論の要点をまとめてみましょう。

 (1) キズナアイNHK解説記事において「相づち」をする役割となっている

 (2) 「相づち」をする役割は、従来から女性が担ってきた役割である

 (3) 従ってキズナアイ解説記事における役割は、従来の女性が担ってきた役割を担っていることになる

 (4) そのことは、理系と呼ばれる分野で活躍する女性などに対して、好ましい状況を生むようなものになっていないのではないか

というところに整理できるかと思います

 社会学特にジェンダーフェミニズムを学んだ人だと、この4つの間を頭の中でこうかな?と繋ぐわけですが、普通の人はフェミニズムを体系立って勉強するわけでもないと思うので、「はて?」となるわけです。更にいえば、一つ一つの要点が「え?!」という感じになるかと思います

 千田議論理解するためには、とりあえず(1)は正しいものとして引き受けておいてください。そこが正しくないとなると、そもそも議論の前提が崩れてしまい、議論そもそも成立しなくなってしまうので、ご理解ください。

千田議論理解するための知識

千田議論理解するためには、いくつかの知識必要となります。一つは、千田の専門でもあるフェミニズム、もう一つは会話分析というものです。順に簡単に紹介しておきましょう。

社会学とは

 社会学は、社会対象とした学問です。といえば、早いのですがそれではよく分かりませんよね。社会学は、社会がどのように成り立っているのか、つまり社会の秩序はどのような形で形成されているのかを探求する学問です。例えば、古典的社会学特に日本戦後社会学では「農村」が特に注目されました。農村における人々のネットワークや、家族の在り方、そういうものに関心を持っているのが社会学です。

フェミニズムってそもそも

 フェミニズムを正確に定義することは困難ですが、フェミニズムを雑にまとめると、「女性地位を向上させようとする取り組みであったりそれを支える理論」というような言い方ができると思います歴史的には大きく2つのターニングポイントがあったとされています。それが「第1波フェミニズム」と「第2波フェミニズム」です。

 第1波フェミニズムは、1900年代ごろ、19世紀から20世紀へ移りゆくタイミングに起こりました。西欧諸国で主に婦人参政権を獲得する運動が中心に展開され、1920年代にはイギリスアメリカで実現をすることとなります。(ちなみに、日本はというと戦後婦人参政権が認められるようになるのですが、新婦協会青鞜社運動は同時代運動です。)

 第2波フェミニズムは、1960年代頃、社会運動が盛んになった時期に、女性らしさへの問い直しが運動として行われます代表例ではキリスト教社会では長らくタブーとされていた中絶合法化が挙げられます。また、この時代には女性が自らの自由に性を語るということが積極的になされるようになります

 いずれにせよ、その理論根底には、女性男性と同等の状況にないという認識に立っているということがあります

 第1波フェミニズムで焦点化されたのは、法律社会制度というものでした。第2波フェミニズムはというと、法的制度平等であっても、職場ではお茶くみに甘んじてしまっているし、男性と同じように性を語ることはできないというような、日常性差別特に焦点を当てていくようになるわけです。

 現代は第2波フェミニズムの延長線上にあります。#Metoo運動を始めとして、第3波フェミニズムがやってきているというような主張も時折みるのですが、第2波フェミニズムより後のフェミニズム運動について、多くの社会学者が納得しているような分類はまだ確立していないのが現状です。

マルクス主義フェミニズム

 上野千鶴子理論などを理解する上で重要キーワードが、マルクス主義フェミニズムです。そういう立場だと、だから上野千鶴子はそういう立場なのね、と理解できます千田議論もとりあえず、マルクス主義フェミニズム解釈すると、理解がしやすくなると思いますので、こちらを説明します。

 (フェミニズムにはさまざまな立場があります。ラディカル・フェミニズムリベラルフェミニズム等です。フェミニズム一枚岩ではないと、理解しておくと良いでしょう。)

 マルクス主義フェミニズムとは、先ほど、フェミニズム女性男性と同等の状況にないという認識に立っていると説明しましたが、そのような社会状況を生み出しているのは、今日資本主義社会システムなのであるといいます。で、これを理解するためには家父長制というキーワード理解しないといけないのですが、本題より長い解説になるので、そこら辺は上野千鶴子の『家父長制と資本制』をとりあえず参照してください。

上野理論を厳密に言うと、上野は、従前のマルクス主義フェミニズム教条的であるということで、それを乗り越える必要があると、主張をしています。)

 シンプルにいってしまますと、そのシステム資本制)の成立と密接に性差別を生む家父長制制度が続くため、性差別再生産(半分マルクス主義用語ではありますが)されていくということになります

会話分析

 会話分析というのは読んで字のごとく、会話を分析するというものです。まずは、社会学会話分析がなぜ重要になってくるのかをエスノメソドロジーというワードを使って説明したいと思いますそもそも社会学社会秩序はいかにして可能かを明らかにする学問です。そこで出てくる問いの一つにこの社会生活を営む人びとがやっていることを、研究者はどのように理解できるのかという問題です。

 この問題に答えたのが、ガーフィンゲルという人です。ガーフィンゲルエスノメソドロジーという手法提唱しました。エスノメソドロジーというのは、日常生活している人々が言動をどのように理解し、成立させているのかを、日常生活している人々の視点に立って記述するという手法です。

 エスノメソドロジーは、私たちの当たり前が、いかに「うまいこと」成立しているのかを見せてくれます。例えば次のような実験は非常に有名です。

A(被験者)「おはよう! 調子はどう?」

B(実験者)「調子ってなんだい?」

A     「いや、元気かどうかってことだよ。」

B     「元気かどうかって? どういうこと?」

こんな調子で話されると、本当に調子おかしくなりそうですが、こういう実験します。ここで浮かび上がってくるのは「調子」という言葉が、体調や近況を意味しており、それをお互い分かっているという「期待」をもって、Aは会話をしているということです。このような形で、秩序が形成されており、それらは記述可能な形で示すことができるとするというのがエスノメソドロジーです。

 会話分析の多くはこのエスノメソドロジーの考え方を踏まえて行われます。つまり、先ほどの会話のスクリプトのようなものを読んで、そのなかで、AとBはどのような「期待」をそれぞれ持っており、そこにどのような秩序があるのか? ということを考えているわけです。

千田議論を振り返ろう

 冒頭で、千田議論を強引に4点にまとめました。ここまでの道具を用意すればある程度説明ができます。それぞれの項目ごとにみていきましょう。

(1) キズナアイが「相づち」をする役割となっている件について

 そもそも実在人物は「先生役」とNHKサイトでも記載がありますように、ここで想定されているのは「先生」と「生徒」というコミュニケーションです。したがって「生徒役」となるキズナアイ基本的に「相づち」をする役割に当然のことながらなるでしょう。そもそも「生徒」の方が詳しいというのなら、「先生」が「生徒」の役割を担うことになるはずですし、「先生」と「生徒」という形で双方「期待」をもっていることは分かります別にこれが、男子生徒であろうと、まあこういう会話になるだろうなという感じではありますよね。

(2) 「相づち」をする役割は、従来から女性が担ってきた役割である

 これは、先ほどのフェミニズム議論が役に立ちますお茶くみとかの補助業務に当たっていたということは、先の説明でもしましたが、今日でも、「相づち」をする役割は、女性となっていることが多いです。例えば、新春の、一体誰がみるのかよく分からない県知事が語る!みたいな番組がありますが、あのとき大抵女性アナウンサーが話を聞いたりしていないでしょうか。このとき女性アナウンサーは、多くは男性である知事に対して、その発言がしやすいようさまざまな配慮をしながら、質問を重ねていきます

 そこでは、主役はあくま知事です。アナウンサーが主役となって、知事いじめていくというような内容になっていないでしょう。これが、でも、田原総一朗との対談だったらどうでしょう。一気に様相が変わってきますよね。また、地元財界知事の対談だったらどうでしょう。そこに「相づち」はあっても、「相づち」をする役割知事の対談者は決して担っていないと思います。会話の主体になっているわけですね。地元財界の人が女性でも、この場合だと「相づち」の役割はまあしないかと。

 ここでポイントになるのは、知事一方的に語るというような形式を取る時には、女性アナウンサーがその役割を担うことになり、他方、双方共にしゃべる場合には、女性活躍機会が途端に減ってしまうというということです。これは、私たちイメージレベルでも大体共通しているのではないでしょうか。(もちろん、個別具体で違う話も多く、徹子の部屋黒柳徹子をどう評価するかは難しいところですが。)

 もちろん、これは、女性知事と同等の立場役割を担っている機会が開かれていないから、そのようにならざるを得ないという側面も当然ありますが、男性アナウンサーがそうそうなっていないということは、一つこのことを証明するものであるとも言えます

(「相づち」をする役割も高度な役割であるということは決して忘れないでください。)

(3) 従来の女性が担ってきた役割キズナアイ

 ここで、議論はもどってきて、キズナアイは「生徒」役ではありますが、「先生」の発言を引き出すという意味で「相づち」をするということで、記事トップにも出てくる主役のはずが、補助的な業務を担わされていることになります。このときキズナアイ女性と見なすと、これまで女性が置かれていた立場女性積極的に前に出られる環境制度上はなっているにもかかわらず、結局はそうはなっていないという状況と重なる部分はあるでしょう。

 再び、徹子の部屋黒柳徹子イメージすると良いかも知れません。徹子の部屋における黒柳徹子は独特の立ち位置で、徹子の部屋を見て黒柳徹子は単に「相づち」をうつ役割だけではない、ということが理解できるでしょう。なんなら、黒柳徹子の方が目立っていたりします。対談の形式が、黒柳徹子お客様を招いて話をしてもらうというホストであるためであり、従属的関係になっていないというところに、このキズナアイ対談と徹子の部屋の決定的違いがあるのだろうと思います

 そうして比べてみると、キズナアイ女性役割再生産するということになったというわけです。これは、性別役割分業を進めていくものであり、女性にとって活躍の機会が減ってしまうというのがフェミニストたちの主張と結びつけて考えることが可能なのです。

(4) 活躍する女性への影響

 この時、女性は従たる役割を担わされるわけで、その期待が持たれます。そうなると、女性は、主たる役割を担える存在なのにもかかわらず、その期待から、従たる役割を担い続けなければならない、そういった状況にはまってしまうのです。そして、そうした悪循環から脱却しなければならない、というのがフェミニズム基本的な主張です。

 このような女性観で考えられると、女性にとって好ましい立場ではないという千田の主張はそう的外れものではないということは理解できるでしょう。

千田氏の議論の失敗

 千田議論をするという状況を作り出したことでは成功していると評価できますが、その議論の中で、自らの論理妥当性を提示し納得してもらえたかというとそうではないと思います。後の対応によるところも多いのですが、それは、実は最初きっかけともなった記事の一番最後文章であると私は考えます

なお10月3日、9時の時点で、スマートフォンから見ると、キズナアイバストショットしか見えない(パソコンでは、へそなどの下半身が見える)。

 この一文が最後にあることで、キズナアイの見た目(容姿)を問題にしたいのか、と思ってしまう人も多いと思います千田氏は、後の議論でも、キズナアイ役割に焦点を当てており、容姿問題にしていないといっているのですが、冒頭の太田氏の議論あいまって、多くの人が混乱したと推察します。そもそもキズナアイってあくまAIであって性別を超越した存在なはずなのに、性別二元論に回収されちゃうのって、なんだかなと。

 さらにいえば、表現問題に回収してしまったのがかなり難しい問題にしています表現問題にすると、結局妥当表現は何かということに行き着き、その線引きは複雑になってしまい、誰も理解できなくなるため、神々の審判でも仰がなければ、なんとも言えないと思います

 まあ、この発言が全てのオチかと思います

本人が個人的に自説を語るのは「自由」の範疇だが、それを公共空間に置いたらどんな意味もつのか、少しは配慮すべきだったのでは?

https://twitter.com/chitaponta/status/1051615591004438529]

2018-05-23

anond:20180523155025

普通の人は、そこまでセックスしたいなら捨ててるんだよ。アイデンティティなんてその程度のもんでしかないよ。

私は彼女がいるし、いたこともあるが、アイデンティティを捨てたことはない。

あなたのそれは、一般論ではない。

誰のアイデンティティであれ、基本的には本人にしか価値はないものだよ。

第一優先というなら、そうだね。

唯一、相手尊重しあえる相手とお互いのアイデンティティも共有して分け持てるという状態が「理想的恋愛」。

実際はどちらかが従属的になったり、子供が出来たり年老いたりすることで分け持つバランスが変わるものだし、

どちらかまたは双方が相手自我を踏みにじったり不当に浸食したりして離婚したり殺し合ったりすることもある。

非モテアイデンティティは、踏みにじられ、侵食されないと基本的欲求も満たされないのですが。



唯一無二不変のアイデンティティなんてないし守るべき価値があるものでもない。増田のように自分アイデンティティ固執する人には人と付き合うこと自体が無理。

ならば、いますぐ全人類アイデンティティを消し去って見せろと言いたい。

私の案は、性に関してはそうする案だ。

アイデンティティ固執しないんだろ?だったらいいじゃないか


私は、自分アイデンティティ大事にするゆえ、自分以外の非モテアイデンティティ大事だと思ってる。

非モテに「変われ」と大上段からアドバイスする連中は、所詮自分アイデンティティ非モテ理解できないアイデンティティ固執してるだけ。


アイデンティティ固執しないなら、非モテアイデンティティに合わせてやれよ。

それができないから、怪物になる非モテが出てきてるんだよ。きれいごとを言うな。

anond:20180523153912

基本的欲求のためには捨てろと言われるアイデンティティ

普通の人は、そこまでセックスしたいなら捨ててるんだよ。アイデンティティなんてその程度のもんでしかないよ。

誰のアイデンティティであれ、基本的には本人にしか価値はないものだよ。

唯一、相手尊重しあえる相手とお互いのアイデンティティも共有して分け持てるという状態が「理想的恋愛」。実際はどちらかが従属的になったり、子供が出来たり年老いたりすることで分け持つバランスが変わるものだし、どちらかまたは双方が相手自我を踏みにじったり不当に浸食したりして離婚したり殺し合ったりすることもある。

唯一無二不変のアイデンティティなんてないし守るべき価値があるものでもない。増田のように自分アイデンティティ固執する人には人と付き合うこと自体が無理。

2018-05-03

[]攻撃自己表現とは

攻撃自己表現とは

攻撃自己表現は、非主張的自己表現対照的に、自分の言い分や気持ちを通そうとするものです。例えば「言い放しにする」「押しつける」「言い負かす」「命令する」「操作する」「大声で怒鳴る」などは、攻撃自己表現です。

相手を巧妙に操作する場合

ただ、攻撃自己表現にはこのような明らかに攻撃的な」表現もありますが、そうでないものもあります。ハキハキと表情豊かに自分意見を述べているように見えるとき、丁寧で優しい言葉や態度でおだてたり甘えたりしているときでも、自分の思い通りに操作するとしたら、攻撃自己表現にあたります雑談での「押し付けがましいダメ押し」や「不必要一言」なども、優位に立つための攻撃表現といえます

セクシャルハラスメントパワーハラスメントなどは、攻撃自己表現典型的な例です。相手同意善意依存し(つけこみ)、自分発言を通すことにばかり気を取られ、相手の反応は無視/軽視する自己表現です。

敬遠され、孤立しがち

攻撃自己表現では、自分が正しいかのように言い張り、相手を黙らせようとしたり、同意させようとしたりします。自分と異なる意見もの見方に耳を傾けようとせず、雑音、異物、脅威ととらえて無視排斥しようとすることもあります

このような表現をしている人は、一見堂々としているように見えますが、どこか防御的で、必要以上に威張ったり強がったりしがちです。

結果としてたしか意見は通るのですが、本人が後味の悪い思いをすることも少なくありません。自分の言い分が通れば、一時的には満足感も覚えますし、優位に立って勝った気分になりますしかし、そんなことを続けていると、利害関係で付き合う人は周りに残るでしょうが、それ以外の人々には敬遠され、孤立することになります

先に非主張的自己表現我慢を続けた末にキレることがあると述べました。そのようなケースは、普段は非主張的自己表現をしてきた挙句、いきなり攻撃自己表現の方に大きく針が振り切れて爆発するケースと考えることができます

どんな人が?

権力権威のある立場の人、知識経験豊富な人、役割や年齢が上の人は、このような攻撃自己表現無意識のうちにしてしまいがちです。また「地位や年齢差、権威などによって人権は左右されるものではない」ということを理解していない人、常に自分が優先されるべきだと考える人自分の思い通りに人を動かしたい気持ちが強い人がとりやす言動です。攻撃的態度を向けられるのは、部下や弱い立場にある人、子供などです。

どんな心理と繋がっているのか

この攻撃自己表現も、先の主張的自己表現と同様に、二つの心理と繋がっています。一つはその人自身心理、もう一つは社会的文化的背景による心理です。

まずその人自身心理です。例えば自分の考えは正しい、優れているという思い込みや、自分の言い分を絶対に通したいという欲求、あるいは自分の考えや気持ちが通らないことへの不満といった心理です。

注意すべきことは、この攻撃自己表現も、非主張的自己表現と同様に実は、相手依存し甘える心理に繋がっているということです。

第二には、社会的文化的背景による心理です。

すなわち、社会常識や習慣から無意識に「攻撃的」になり、社会組織でそのことは許容されていると思い込んで、無自覚なまま、さら権威権力地位役割、年齢差、性差などを利用して自分意見を通すために相手操作してしまうのです。

例えば上司が部下の事情無視して休日出勤押し付けるとか、親が子供に怒りをぶつけるとか、立場が弱い人に対して相手の反応を待つべきところを一方的命令するなどのケースです。

攻撃自己表現が習慣になると、他者従属的態度や支えなしには自己を維持できなくなっていきます挙句の果てに、周囲からは横暴で自分勝手な甘えを撒き散らしている人と見なされていきます。その結果、先に述べたように、いつのまにか孤立を招いてしまうのです。

安定した人間関係が築けない

攻撃的な対応をされた相手は、不本意な行動をとらされ、軽く見られたとか、人格無視された、馬鹿にされたという気持ちが残るでしょう。その結果傷つき、恐れて、相手敬遠したり、怒りを感じて復讐心を覚えたりするようになるかもしれません。

あるいは、相手攻撃自己表現の強い人の場合は、自己主張の押し付け合いや喧嘩が起こり「勝ち負け」の人間関係になっていくでしょう。

いずれにしても、対等で親密な人間関係や、安定した人間関係を築くことは難しくなっていきます

非主張的自己表現攻撃自己表現は凹凸の関係

ここまで述べてきた二つの自己表現タイプ、非主張的自己表現攻撃自己表現は、ともに年齢や地位の差、権威や力の差、ジェンダーバイアス差別意識などの強いところで無意識のうちに使われがちです。この二つのタイプは、凹凸のような関係とも言えるでしょう。

非主張的自己表現では、弱い立場の人が強い立場の人の攻撃的態度や表現に屈することになり、ストレスを蓄積させ、心理不適応を抱えることになります

一方、攻撃自己表現では強い立場にある者が弱い立場にある者の弱みや善意を利用することになります利害関係のあるところでは、弱いものいじめをしながら自分を支えることができても、そのうち周囲から敬遠されていくでしょう。

先に、非主張的自己表現の傾向の強い人が突然キレる例をあげました。誰でも状況や相手によって両方の自己表現が出てきますが、「非主張的自己表現」と「攻撃自己表現」が交互に現れる人もいます。例えば外では言いたいことは言えないのに家では暴君内弁慶タイプDV で妻をいたぶる夫、不登校児の家庭内暴力などです。

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