攻撃的自己表現は、非主張的自己表現と対照的に、自分の言い分や気持ちを通そうとするものです。例えば「言い放しにする」「押しつける」「言い負かす」「命令する」「操作する」「大声で怒鳴る」などは、攻撃的自己表現です。
ただ、攻撃的自己表現にはこのような明らかに「攻撃的な」表現もありますが、そうでないものもあります。ハキハキと表情豊かに自分の意見を述べているように見えるとき、丁寧で優しい言葉や態度でおだてたり甘えたりしているときでも、自分の思い通りに操作するとしたら、攻撃的自己表現にあたります。雑談での「押し付けがましいダメ押し」や「不必要な一言」なども、優位に立つための攻撃的表現といえます。
セクシャルハラスメント、パワーハラスメントなどは、攻撃的自己表現の典型的な例です。相手の同意や善意に依存し(つけこみ)、自分の発言を通すことにばかり気を取られ、相手の反応は無視/軽視する自己表現です。
攻撃的自己表現では、自分が正しいかのように言い張り、相手を黙らせようとしたり、同意させようとしたりします。自分と異なる意見やものの見方に耳を傾けようとせず、雑音、異物、脅威ととらえて無視、排斥しようとすることもあります。
このような表現をしている人は、一見堂々としているように見えますが、どこか防御的で、必要以上に威張ったり強がったりしがちです。
結果としてたしかに意見は通るのですが、本人が後味の悪い思いをすることも少なくありません。自分の言い分が通れば、一時的には満足感も覚えますし、優位に立って勝った気分になります。しかし、そんなことを続けていると、利害関係で付き合う人は周りに残るでしょうが、それ以外の人々には敬遠され、孤立することになります。
先に非主張的自己表現で我慢を続けた末にキレることがあると述べました。そのようなケースは、普段は非主張的自己表現をしてきた挙句、いきなり攻撃的自己表現の方に大きく針が振り切れて爆発するケースと考えることができます。
権力や権威のある立場の人、知識や経験が豊富な人、役割や年齢が上の人は、このような攻撃的自己表現を無意識のうちにしてしまいがちです。また「地位や年齢差、権威などによって人権は左右されるものではない」ということを理解していない人、常に自分が優先されるべきだと考える人、自分の思い通りに人を動かしたい気持ちが強い人がとりやすい言動です。攻撃的態度を向けられるのは、部下や弱い立場にある人、子供などです。
この攻撃的自己表現も、先の主張的自己表現と同様に、二つの心理と繋がっています。一つはその人自身の心理、もう一つは社会的・文化的背景による心理です。
まずその人自身の心理です。例えば自分の考えは正しい、優れているという思い込みや、自分の言い分を絶対に通したいという欲求、あるいは自分の考えや気持ちが通らないことへの不満といった心理です。
注意すべきことは、この攻撃的自己表現も、非主張的自己表現と同様に実は、相手に依存し甘える心理に繋がっているということです。
すなわち、社会の常識や習慣から無意識に「攻撃的」になり、社会や組織でそのことは許容されていると思い込んで、無自覚なまま、さらに権威、権力、地位、役割、年齢差、性差などを利用して自分の意見を通すために相手を操作してしまうのです。
例えば上司が部下の事情を無視して休日出勤を押し付けるとか、親が子供に怒りをぶつけるとか、立場が弱い人に対して相手の反応を待つべきところを一方的に命令するなどのケースです。
攻撃的自己表現が習慣になると、他者の従属的態度や支えなしには自己を維持できなくなっていきます。挙句の果てに、周囲からは横暴で自分勝手な甘えを撒き散らしている人と見なされていきます。その結果、先に述べたように、いつのまにか孤立を招いてしまうのです。
攻撃的な対応をされた相手は、不本意な行動をとらされ、軽く見られたとか、人格を無視された、馬鹿にされたという気持ちが残るでしょう。その結果傷つき、恐れて、相手を敬遠したり、怒りを感じて復讐心を覚えたりするようになるかもしれません。
あるいは、相手も攻撃的自己表現の強い人の場合は、自己主張の押し付け合いや喧嘩が起こり「勝ち負け」の人間関係になっていくでしょう。
いずれにしても、対等で親密な人間関係や、安定した人間関係を築くことは難しくなっていきます。
ここまで述べてきた二つの自己表現のタイプ、非主張的自己表現と攻撃的自己表現は、ともに年齢や地位の差、権威や力の差、ジェンダー・バイアス、差別意識などの強いところで無意識のうちに使われがちです。この二つのタイプは、凹凸のような関係とも言えるでしょう。
非主張的自己表現では、弱い立場の人が強い立場の人の攻撃的態度や表現に屈することになり、ストレスを蓄積させ、心理的不適応を抱えることになります。
一方、攻撃的自己表現では強い立場にある者が弱い立場にある者の弱みや善意を利用することになります。利害関係のあるところでは、弱いものいじめをしながら自分を支えることができても、そのうち周囲から敬遠されていくでしょう。
先に、非主張的自己表現の傾向の強い人が突然キレる例をあげました。誰でも状況や相手によって両方の自己表現が出てきますが、「非主張的自己表現」と「攻撃的自己表現」が交互に現れる人もいます。例えば外では言いたいことは言えないのに家では暴君の内弁慶タイプ 、DV で妻をいたぶる夫、不登校児の家庭内暴力などです。
非主張的自己表現とは、自分の意見や気持ちは言わない/言いそこなう、言っても相手に伝わりにくい自己表現です。これには、曖昧な表現や、人に無視されやすい自信なげな小さな声での話し方や消極的態度も含まれます。「自分はダメだ」とか「言っても分かってもらえない」など諦めの気持ちが潜んでいたりします。
非主張的自己表現は、相手から理解されにくいことがあります。また、相手を優先し、自分を後回しにするため、結果として相手の言いなりになってしまうこともあります。相手と意見が異なるときでも自分の意見を言わないため、理解されなかったり、無視されたり、同意したと誤解されたりします。自分としては主張を抑えて譲ったつもりでも、配慮したことは伝わらず、感謝されることもないでしょう。
非主張的自己表現をした後には、「やはり分かってもらえなかった」「自分が引いて/譲ってあげたのに」「惨めだなあ」という気持ちがどこかに残ります。心から相手を配慮し、尊重して同意したり、譲ったりした場合とは違うからです。
例えば、家庭の事情があっても残業を引き受けるおとなしくかつ有能な人、セクハラやパワハラにあってもその辛さや不快な思いを伝えられない女性や部下などは、非主張的になっています。長電話を切りたいのに言い出せない人、行きたくない誘いを断れない人なども非主張的です。
このタイプの表現をする人は反論しないために、葛藤やもめ事を回避してくれる「いい人」と思われていますが、一方で「都合のよい人」ともみなされがちです。排除されることはないのと引き換えに、本人は心理的負荷を負い、メンタルヘルス被害に陥っていくことにもなりかねません。とりわけ「攻撃的自己表現」の傾向の強い人との関係では、その危険がより高くなります。
一方、自分も相手も非主張的自己表現の傾向が強い場合はどうでしょう。話が弾まず、そのため互いに分かり合えず、苛立ちを感じながら突破口もできないまま、靴の底から足を掻いているような状態になっていくでしょう。
非主張的な自己表現の傾向が強い人は、相手を立て自分が遠慮することで、相手を不愉快にさせまいと配慮しているつもりなのでしょう。
しかし、自分をないがしろにして、相手の言いなりになってしまうため、だんだん自分でも言いたいことが分からなくなっていきます。自分で決められない、あるいは言い方が分からないと言った状態になることもあります。
幼いときから命令に従うこと、譲ること、他者の言う通りにすることを当然として育てられていたりすると、自分で判断することに慣れておらず、つい相手の言いなりになり、その結果、自信がなく引っ込み思案になっている人もいます。
非主張的自己表現の人は、自分の人権を自ら侵すようなやり取りを招くこともあります。葛藤を避けようとして相手に大事な決定を任せてしまうからです。また、考えを明確にしないことで、自分にも相手にも無責任になってしまうこともあります。
長い間にわたってこのような非主張的な自己表現を続けていると、理解してもらえないという寂しさ、自分の欲求を抑えている苦しさ、相手から大切にされていないという思いや惨めな気持ち、欲求不満などが積もっていきます。相手に対して「思いやりのない人だ」「鈍感だ」と心の中で恨みを募らせることにもなります。
その蓄積した欲求不満や怒りは、相手や、時には関係のない人に向けられ、突然暴力的になったりすることもあります。そうなると「普段は大人しくて優しい〇〇さんが、突然キレた」と言われたりします。本人にとってはそろそろ出してもいいと思っていた溜まった怒りの率直な表現のつもりでも、相手には理解されにくく、「八つ当たり」と思われることにもなります。
一方で「キレる」こともなくひたすら忍耐強く自分を抑え、他者の要求に応じ続ける人もいます。揉め事を起こさず、相手をなだめ、その場を収める責任を一定に引き受けることで、自分に「頑張れ! 頑張れ!」と言い続けるのです。周囲を立てることに必死になって、過重な負荷に耐えることにエネルギーを使い果たし、心身ともに疲れ切っていきます。
その結果、頭痛・肩こり・胃痛などの体調不良に陥ったり、あるいは不快感やストレスの原因になりそうな場面や人に近づくことを避けたりするようになります。密かに孤独に耐え、感情が固まってしまい無表情になったり、突然うつ状態や心身症になることもしばしばです。いずれの場合も自分を大切にしなかった結果、相手も大切にしないということになりかねません。
非主張的自己表現は、どのような心理と繋がっているのでしょうか。
自分の思いや考えを表現することで、相手に不愉快な思いをさせ、相手から嫌われる可能性が生じたり、相手と違った意見を言うことで葛藤やもめ事が起きたりするのを避ける心理です。
そこには、穏やかな人間関係を求める心理と同様に、他者とのやり取りに自信がなく、自己を表現することで起こるマイナスの結果を恐れ、相手に合わせることで安全を確保しようとする心理も働いています。
また、前に「自分を大切にしなかった結果、相手も大切にしないことになる」と述べましたが、相手に合わせているつもりでも、実は相手に甘え、依存している心理も働いていることがあります。
世の中で当たり前とみなされている習慣や常識に従うことによって自らの尊厳や権利を無意識に否定する、という心理が働くのです。
例えば権威や経験がある大人は立てる、先輩に逆らってはならない、といった常識や習慣は、未熟だとされている者の自己表現を制約しがちです。そのような常識や習慣を破る者は、集団や社会から罰せられ、排除される可能性もあります。そこで、思っていることや気づいたことの表現を避けることで、相手や社会に順応し、認められようとする心理が働きます。
非主張的な自己表現をしていると、自分の気持ちや能力を確かめるチャンスも、自発性や個性を発揮するチャンスも失ってしまいがちです。他者に合わせるあまり、気づかぬうちに自分を否定・否認してしまうからです。
しかし、そのような人は学校や職場にとっては、どんな存在になるでしょうか。アイデアや考え方を表現することによる貢献がないので、評価もされにくいでしょう。また、所属するグループや組織にとってもその人の存在は、「宝の持ち腐れ」になっているかもしれませんし、厳しい言い方ですが、損失をもたらすものとなってしまいます。
非主張的自己表現の傾向の強い人は、一見控えめで相手を配慮して一歩引いているように見えるので、相手は「同意してくれた」「気持ちよく譲ってくれた」と受け取るかもしれません。ところが実は、「分かってもらえていない」「感謝が十分でない」などの不満や恨みを持たれているとしたら、相手はたまったものではありません。
また、常に遠慮されたり、自分の意見を引っ込められたりするのも、相手にとっては居心地が悪いものです。フランクでない対応に、居心地の悪さだけでなく、苛立ちや優越感、時には哀れみを抱くことにもなりかねません。