はてなキーワード: ハイキックとは
私は五輪へのe-sports導入に断固反対だけど、これは会長&増田の言い分が変だと思うわ。
別に実際に人を殺しているわけじゃない。死ぬのはゲームの中のキャラクター。
ゲーム内でも人を殺しちゃいかんのか? ゲーム内での殺人技術を競っちゃいかんのか?
それはリアルの人物に向かってフルーレを向けたり大外刈りかけたりするよりタックルするより危険な行為か?
リアル人間にハイキックしたりリアル人間同士で殴り合ったりする方がよっぽど野蛮だろ……
でもそれなら、e-sportsは導入するが、倫理に背くものは排除する、といえばよくない?
格闘ゲームとか、人殺し要素のない冒険ゲームとか、レーシングゲームとかを導入すればよくない?
なーんか会長さんの言ってることは筋が通ってないように思う。
しかしそれはそれとして、e-sportsは断固として五輪に導入すべきではない。
なぜならそれは不公正だからだ。
サッカーを例にしよう。仮にある業者が、サッカーボールの供給を一手に握っていて、有力選手は事実上そのメーカのものを使わないといけない状況だとする。
しかしそれでも、私的に作った規格外のボールを使って草サッカーすることは自由である。新しい業者が規格を満たしたボールを作って競争に参入することも自由である。ルールブックは万人に開かれており、特定のメーカのものを使わなければならない、という決まりはどこにもない(あるメーカの技術力が卓越しているおかげで寡占状態になっているとしても、より優れた技術をもって参入する余地は常に残されている)。
あるいは、e-sportsではないがマインドスポーツを例にしよう。囲碁もチェスも将棋も、ルールを知ってさえいれば誰でもどんな道具を使ってもプレイできる。ノートに線を引いてそれを盤面にしてもよいし、頭の中だけで完結させてもよいし、地面に木の枝で書いた盤を使ってもよい。
ルールが同一であるならば、名人や竜王と地面に駒を書き入れる子供たちは同じゲームを遊んでいることになるはずだ。たとえ使う盤がどんな業者に作られていようとも。ネイマールや本田圭佑と、スラム街でボロボロのボールを蹴る子供たちもまた、同じくサッカーをプレイしていることになるはずだ。
e-sportsの問題は、この公平性がまったく存在しないことだ。特定のゲーム会社から特定のタイトルを購入しなければ、そもそも遊べない。お金がない囲碁好きの子供でも、ノートに書いた盤面に白と黒の点を書き入れていけば囲碁を遊べる、というような余地はどこにもなく、まずゲームをスタートするためには特定の業者から特定の商品を購入する必要がある、そんなものを公的団体が競技として公認すべきじゃないと思う。
これは単なる理想論ではない。一歩間違えば癒着にも繋がる。なにせ、ある競技を採択するかどうか、が、そのままある特定の民間企業を優遇するかどうか、につながるのだ。寡占状態にあるので事実上そうなってしまう、という話ではなく、ある競技を採択することは論理的にある民間企業を優遇することとイコールになる、というのは大きい。
IOCが高潔な組織というのならばまだしも、そうでないことは幅広く知れ渡っているというのに、なんでこんな腐敗臭に満ちたものを競技として採択しなければならないのか。
スポーツあるいはマインドスポーツは、皆に開かれているべきだと思う。ルールの策定の段階である程度権力が絡むのは仕方ないにせよ、そもそも特定のメーカによる特定の商品を購入しないと遊べない、ようなものを、公的なスポーツの大会であるオリンピックやアジア大会などに持ち込むべきではない。
もちろん、ゲーム会社が自社のゲームを使った大会を企画するのは、経済の自由、趣味の自由として大いに肯定されるべきだ。何も悪いことではない。日本法でそういうレジームが賭博にあたる場合があることについては、不当なので賭博罪に関する条文を改正する必要があるとすら思う。
しかし、e-sportsは公的なスポーツ大会にはそぐわない。むしろ積極的に排除されるべきだ。ゲーム内で人を殺そうが殺すまいが、それは公平なスポーツという理念に反しているのだから。
そこからはもみくちゃの大乱闘に発展。「アイドルだからってナメんじゃねぇぞ!」地元・藤沢で鳴らした不良の血が騒ぎ、啖呵を切る中居。その直後、カメラの前に歩み寄るキムタクの背後で、ある光景が映し出されます。森クンが自慢の長い脚を目にも止まらぬ速さで旋廻させ、上段廻し蹴り一閃! いきった素人の即頭部を打ち砕き、一撃にしてノックアウトしたのです。
そのスピード・正確さ・鮮やかさは、00年代前半、PRIDEで活躍したクロアチアの総合格闘家ミルコ・クロコップにも引けを取らないクオリティ。アクション俳優の道を歩んでいたなら、ショー・コスギを超える国際派スターとなっていたに違いありません。
ハイキックされた素人が救急車搬送されたため、この一件は当然かなり問題になったそうですが、同時にメンバー間の絆が強まったとも後に語られています。空中分解してしまった今のSMAPには、もう一度この「森クンの一撃」を見てもらい、結束を誓った日の記憶を思い起こして欲しいものです。
思い出したり、話そうとするだけで当時の感情が甦るもの、というのは誰しもあると思うのだけど、私のそういうものの1つに「2010年のピーター・アーツ」がある。
アーツは、K-1に最初期から参戦して、94年、95年、98年と3度世界一になったキックボクサーだ。
なかでも98年のK-1GP、3試合連続ハイキックでの1ラウンドKOは「20世紀最強の暴君」という二つ名に相応しい圧勝劇だった。
アーツは70年生まれだから、その頃はちょうど20代半ば。全盛期、ということになるんだろう。
そして当時中学生だった僕は、周りの男の子と同じように、その眩い存在感に憧憬の眼差しを向けていた。
空手出身の選手たちの華麗なそれとは違う、あの、大木を力づくでなぎ倒すようなハイキックは、中学生に「ああ、この人が世界一強いんだ」と思わせるには十分な説得力を持っていた。
そんな絶対的な力を誇ったアーツも翌年以降は優勝から遠ざかり、2000年代以降は若い選手の台頭もあって徐々にその存在感は薄れていく。
格闘技も一時の隆盛は終わり、年末に誰もが見る、という状況はあっという間になくなっていった。
そして2010年、アーツは40歳だった。彼はまだリングに立っていた。
試合前のPVでも40歳の誕生日ケーキを頬張る場面とともに「もう若い頃のようにはトレーニングできないよ」と話すシーンが流れるような、
優勝を争うファイターというよりは、完全な「往年のスター」扱い。
それでもファン投票で席を与えられたベスト16からなんとか勝ち上がり、準決勝にまで駒を進めていた。
212cmの長身から打ち下ろす角度のある攻撃を武器に、05年、06年、07年、09年と世界一になったディフェンディングチャンピオン。
05年の参戦以来、K-1GPでは一度も負けたことがないという無敵の絶対王者。
試合前の正直な思いは「どちらが勝つか」というものではなく「アーツはどこまでシュルトに抗えるか」というぐらいのものだったと思う。
「なんとか最後まで立っていて欲しい」とも思っていたような気がする。
それほどシュルトは強かったし、アーツの全盛期は既に過ぎ去ってかなりの時間が経過していた。
試合が始まっても、やっぱり展開は一方的だった。
アーツも192cmと大きい方だが、それでも212cmのシュルトとの身長差は20cmある。
全ての攻撃が上から非情に降り注ぎ、アーツの攻撃は腕や肩に阻まれてうまく当たらない。
何度もふらつき、目の上から流血しながら、それでもアーツは懸命に前に出続けた。
アーツの突進をいなしながら、シュルトは笑っているように見えた。
とでも言いたげな表情は完全に余裕で、あまりにも憎らしく、そして試合の行方についての見通しはどこまでも絶望的だった。
一方的だった試合の流れが変わったのは、2Rの終盤。
本来は端正なフォームのアーツが、のめるように、のしかかるようにして放つ、やぶれかぶれと紙一重の攻撃が何度かシュルトを捉え始めていた。
それでも、インターバルでコーナーに帰ってきたアーツは全身がボロボロで、シュルトの顔には傷一つなかった。
映像を見返すとシュルトの表情には明らかな困惑の色が浮かんでいるのだけど、当時はその時点でもまだまったくアーツの勝利を信じることができずにいた。
「できれば最後までこのまま行って欲しいけど、さすがにそれは難しいんじゃないか」
でも最後のラウンドが始まると、リング上の景色は一変していた。
アーツの鬼気迫る攻撃に押され、シュルトがクリンチに逃げることしかできない。
振り回すように放つアーツのパンチが顔を捉え、キックは脇腹にめり込んだ。
有効なダメージは通っていない。それでも、シュルトは完全に気圧されていた。
防戦一方のでシュルトに消極的姿勢で減点が与えられた後もアーツの攻勢は止まず、そのまま3分間が過ぎた。
僕は「倒してくれ」と願うよりも「反撃しないでくれ」と祈っていたような気がする。
そして終了のゴングが鳴った瞬間、アーツは勝利を確信して両手を突き上げた。
目の上から流れる血をタオルで押さえるアーツと、無傷のシュルト。
それでもどちらが勝者かは、2人の表情が何よりも雄弁に物語っていた。
2-0の判定で勝利したアーツの、控え室へ戻る足取りは、全てを使い果たし歩くのも精一杯なほどに重たく見えた。
その後行われた決勝戦は、1RでKO負け。
覚えているのは、巨大な、絶対的な強さを誇るチャンピオンを、40歳のアーツが圧倒していたあの数分間だけだ。
僕は今でもこの光景を思い出すたびに涙が出そうになるし、あの瞬間のアーツは世界一格好よかったと思っている。
最後の相手はアーツが初めて世界一になった時と同じ、24歳の若者。去年のヘビー級トーナメントチャンピオンだ。
でも僕は1998年と、2010年と、そして2013年のピーター・アーツを見られたことを幸せに思うし、あの、勇気に溢れた数分間を忘れることは絶対にないんだろうと、今はそんな風に思っている。
相手の意識の向きというか、相手の自我を、それが画面なり何なりを通してでも想定ししまって、
さらに、こちらが見ること見られることは想定の範囲なのか、それを画面なり何なりを通してでも意識してしまって、
その結果、今の環境が想定の範囲外であると、例えばプライベートとかを侵害している気分とかに、たとえ単なる画面の印象・思い込みでも、そう感じるとキモさに繋がるのでしょう。
・そいつがカラテの大会かなんかでハイキックしてる画像→あなたに見られるためのものではない
・栗山千明がハイキックしている画像→映画のワンシーン的な沢山の人に見られるためのもの
・いい歳して女優やアイドルの写真→いい年した人に見られるためのものではない
・実際に女優と付き合ってる人の場合→相手にとっても自慢してもらっても良いもの
・その近くに居る人の場合→個人的な思いのためのものではない
・自分の赤ちゃん→その人に絶対的信頼をもってるorそもそも自我が薄い
・恋愛対象にしたいと思っている→相手もそう思ってるとは思えない
対面でもおなじじゃないかな。恋人を見つめるのは良いけど、見ず知らずの他人を見つめるのはキモイ。
でも、女優さんとか、見られるためにいる人はOK
会社をやめた奴が使ってた新しいPCがおさがりで俺に回ってきたのだが、立ち上げたら壁紙が、そいつがカラテの大会かなんかでハイキックしてる画像になってて噴いた。
「やれやれ、どうせなら栗山千明がハイキックしている画像にでもしといてくれよ。そしたらそのままにしておいたのに」と思いながら一応個人情報ということで削除する。
そこでふと思った。
そこでさらに思った。
「なんで女優やアイドルの写真が壁紙だとそもそもキモいような気になってしまうんだろう?」
思考は進む。
「いい歳して女優やアイドルを好むことは、現実では手に入れられないものを追い求めているように見えて、現実が見えていない印象になってキモいと感じるのだろうか」
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「仮にそうだとすると、女優やアイドルを壁紙にしていた人が、実際にその女性を手に入れることができた場合、キモい印象はなくなるだろうか」
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「うん、なくなる。少なくとも俺の目の前にそんなやつが現れたら、天晴れな奴だと思ってキモいとは思わない」
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「つまりキモいかキモくないかは、そう感じる側が、キモいと思われてしまう側が追い求めているものをどれだけ現実離れしたものと認識しているかによるんだよ!ナ、ナンダッテー?」
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「ではもし仮に栗山千明のマネージャーやスタイリストなど、その近くに居てともすれば彼女を手に入れられる立場の人が彼女を壁紙にしてたらキモくないのか?」
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「それはそれでキモい」
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「それは芸能人どころか、普通に身近な知り合いを壁紙にしてたらキモいもんな」
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「うーん、なんでだ・・・」
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「結局増田達の好きな、”人をモノ扱いしている”というような理由でキモいというのが一番しっくりくる落しどころになってしまうのだろうか。く、悔しいビクンビクン」
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「でも自分の赤ちゃんを壁紙にしている人はキモくないぞ。自分の赤ちゃんは自分のモノ扱いしても許されるような風潮だからか?」
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「ん?赤ちゃんだけでなく、おじいさんおばあさん辺りでもキモくはない気がする・・・(怖いかも知れんが)」
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「それは身近な知り合いに限らず、芸能人でも菅井きんとか、森繁久弥とかを壁紙にしてたらキモくないな」
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「やはりそこに絡むのは”恋愛”対象たるかどうかなんだろうか? 恋愛対象たる年頃の人を壁紙にするのはキモいということ?」
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「でも、ようじょを壁紙にしてたら最高にキモいよな・・・ってそれは恋愛対象にしてると見えるからか?」
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「つまりキモいかキモくないかは、そう感じる側が、キモいと思われてしまう側が鑑賞しているものを恋愛対象にしたいと思っているだろうと推測するかどうかなんだよ!ナ、ナンダッテー?」
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「そもそも恋愛対象にしたいと思っているとなんでキモいんだ?」
↓
「現実では恋愛関係になれないものを恋愛対象にしようとしているように見えて、現実が見えていない印象になってキモいと感じるのだろうか」
↓
「あれ?これ確かさっきも通った道?・・・思考がループしてる?」
↓
「わ・・・わからん。仕事になんなくなってきた。誰かタスケテー」 ←今ココ