私は、先生によく
いじめられている子の世話を
させられる子だった
私の母は正義感の強い人で
人に嫌われるのが怖かったし
大人のいいなりで
自分に自信のない子だった
周りのために何かをすることで
私はいじめられている子を
喜んでお世話します!
なんてもちろん思ってなかった
正直めんどうだった
でもなぜかやらなくてはいけないと
思っていた
小学3年の頃
いじめられていたNさんは
いま思えばたぶん、
栄養が足りてなくて
体が小さかったんだとおもう
給食ではNさんと机をつけて食べた。
友達が
「ほっとけばいーやん、なんでかまうの?嫌じゃない?」
といった。私は、、嫌だった。
Nさんと少ししか会話しなかった
Nさんは食べるのが遅かった
ある日私が先生に頼まれたことは
「帰ってからも一緒に遊んであげて」
だった
どうしてそんなことを言うのか
いまはわからないけど
そのときは、しなくちゃと思った
私はNさんの家に行くことになった
絵に描いたようなボロアパートだった
すぐドアがあって、そこを開けると
6畳ほどの部屋がひとつあるだけ。
お母さんが顔を出し
「Nにお友達が来るなんて初めて!」
と言い、ビックリするくらい嬉しそうだった
Nさんは誇らしげにしてみせた
部屋には仏壇があって
置いてあった
お母さんが、すぐに説明をした
「Nにはお兄ちゃんがいたんやけどね、裏にある川で溺れちゃってね、
死んじゃったの。
生まれ変わりなんやで」
私はお母さんがそう言ったのを
子供ながらに強く覚えている
私の顔はどんな表情をしていたのか
わからない
でも、私は来たことを後悔した
お母さんの顔をまともに見られなかった
お母さんは
「何もなくてごめんね、お茶のむ?」
と言ったけど
と断った
Nさんは私に
とまた先ほど見せた
誇らしげな顔をした
不思議に思った
ないとおもってた。
でもNさんにとって
私はNさんが苦手だった
それだけ。
そして、
「仲良くしてあげてるなんて思わんといてや。こっちが遊んであげてるねんで」
と小さい体で言った。
先生に言われて
ここへきたことを
知っていたのだとおもう
Nさんが家で作った
(お母さんがかなり協力してたし、お母さんもいじめのことを知っていた)
配りにまわった
その日はバレンタインだった
Nさんは一生懸命
好かれようとしていた
私の分は無かった。なぜかというと
主に Nさんをいじめている人に
ある日、Nさんは壮絶ないじめを受けた
教室の角に追い詰められて
腹を膝蹴りされていたのを
私の学校は荒れていた
やったのは女だったけど
家庭環境が悪い子だったとおもう
どうしてNさんをいじめるのか
という学級会が開かれた
先生が
Nさんをいじめたことのある人は
起立しなさいといった
そして、一人一人何をしたかを言っていくのだ
ある男の子が
「ぼくは、Nさんの髪の毛がボサボサだったので
ちゃんとクシでといているのかと言いました」
といって少し泣いた
それに先生が答える
Nさんはくせ毛なのよ、反省しなさい
私が立とうとすると、周りの子達が
あんたは立つな、と言って私を座らせた。
私はNさんが苦手だった
一緒に遊びたくなかった
でもNさんのお母さんは
とても優しい人だった
Nさんのいないところで、
陰口に対しても、そうだねーとか
わかるー!とか言ってたし
だから立たなきゃと思った
Nさんの陰口を言いましたって
答えなきゃいけなかった
でも、私は立たなかった
なぜ私は座ったままだったのか
いまでもよくわからないけど
いまでもそれが自分を苦しめる
みんなそれを望んでいたようだった
私を苦しめたかったのかな?
いい子ぶってろよって
みんな、自分の罪悪感をそこで
発散させて、ラクになったみたいに
みんなを救ったのかもしれない
Nさん以外を。
息ができなくなるくらい
とても苦しい時間だったのを
覚えている
それからNさんは
血尿を出したらしく、そして
転校していった
私はなんてことになったんだという気持ちと
Nさんのあの優しそうなお母さんの
悲しんでいる顔が浮かんだ
でも心底ホッとした
正直な気持ちはそうだった
もう、終わったんだって
思いたかった
はやく忘れたかった
私はいま31歳
しており苦しんでいる現実と、
家族の苦しみもわかる
両親も年老いていく中で、
この出来事を思い返した
Nさんがいまどうしているかは
わからない
知るのは怖い
怖くてでられなかった
母いわく声は元気そうだったらしいが
わからない
何が言いたいのかわからないけど
イジメはかっこわるいよと諭すようにしている
それだけ、している
ここまで年収低いなら、さすがに何やっても同じ収入は稼げそうなので、個人事業主って手もありそうだ。国外で働くという選択肢すら出てくる気がする。問題なのは、家族いるのにこの年収ってところかな...
昔使っていたサービスから来るメールをunsubscribeしたい時、英語圏のサービスなら大抵は1クリックかログイン後すぐに解約できる。
だが日本のサービスはそうはいかない。大体の場合ログインが必須で、unsubscribeのリンクは自分で発見しないといけない。
「お客様確認のため、電話番号、生年月日を入力してください」なんてのもざらにある。もちろん登録時に本物の電話番号と生年月日なんて入力するはずがないので、詰む。
どうにもならないし、うんざりする。
専門外の分野については、パフォーマンスを正当かつフェアに評価する方が難しくなるので、難しい問題だなぁ。
評価の為の第3者機関とか置いても、そのうちそいつらにちょっかい出す奴等が後を絶たずで、そのうち不正まみれでズブズブに...
90年代の初め頃だったろうか。
フルオープンにした真っ青なロードスターが入ってくるのを目にした。
運転してたのは髪も薄くなったお爺さん。
その横には上品そうなお婆さんが乗ってた。
その二人には不思議とよく似合っていた。
仲が良さそうに談笑し、土産を買い、
伴侶もおらず、あんな風にはなれないっぽい。
まったく開発費が投資されない所で、大きな成果を上げている研究者がいる。
方や、開発費(税金)をふんだんに使っているのに、大きな成果を出せないでいる研究者がいる。
実績を明るみに出さないと、やっぱ反省して改めようとは思わないんだよね。
まあ、失敗を明るみにされる方は嫌がるだろうけどね。
@meerkat_hatena: あと無関係な方との会話のツイートをひとつずつ増田に貼り付けられたら、そりゃ消しますよ。ご迷惑をおかけしますので。
にんじんの専業主婦ブロガーへの妬みツイートをわざわざブログに貼り付けて、
セカンドレイプになるからやめてください」という第三者からのツイートを無視しておいて、
よくそんなこと言えるな。
ブクマで、29歳はアラサーって言わない、20代って言う、とかあったけど、たぶん、私も26歳越えるくらいからはアラサーって言うと思う・・・。
また、クライアントに怒られた。
ぼくの仕事の粗さが原因。
31歳にもなって、人からこんなに怒られるなんて思ってなかった。
言われた言葉が頭に残ってる。
「僕は50歳を越えて、部長になった時も怒られてるよ」
と言われた。
31歳になってもまだ伸びしろがあるんだろうか
プロデューサー費用をケチるのはプロデューサー業が上だと思っているから。
使われたくないという思いや嫉妬心からプロデューサーが疎ましくて、PJから省きたがる。
だけど、アイデアだけはしっかりと盗む。
あと、プロデューサー業を甘く見すぎているんだろうね。
皆が上と考えるだけあって、仕事量が他のどんな仕事よりも多い。
無から有を産む作業と、
あと責任も持ってる、
それが、どれだけ大変かということを全く分かっていない。
プロデューサー業をケチるということは、この作業量の多い場所に対しケチるということなんだよね。
プロデューサーという肩書きとブランドだけ見て嫉妬してるから、
プロデューサー業を省こうとする思いがやめられない。
本当に猿だな~と思う。
プロデューサー費用をケチるのはプロデューサー業が上だと思っているから。
使われたくないという思いや嫉妬心からプロデューサーが疎ましくて、PJから省きたがる。
だけど、アイデアだけはしっかりと盗む。
あと、プロデューサー業を甘く見すぎているんだろうね。
皆が上と考えるだけあって、仕事量が他のどんな仕事よりも多い。
無から有を産む作業と、
あと責任も持ってる、
それが、どれだけ大変かということを全く分かっていない。
プロデューサー業をケチるということは、この作業量の多い場所に対しケチるということ。
プロデューサーという肩書きとブランドだけ見て嫉妬してるから、
プロデューサー業を省こうとする思いがやめられない。
本当に猿だな~と思う。
とりあえずiPad縦で数字キー付き4段(スペースバー入れて5段)のキーボードをくれ
なんであんなにスペース余ってるのにいちいち数字入れる時切り替えなきゃいけないんだ
祖母と母と三人で祖父の墓参りに行った。
お彼岸まではまだ遠いし、命日が近いわけでもなかったが、祖父母と実家の家が遠いので
行けるときにお参りをするのが習慣になっている。
実家と私の家は同じ関東圏といえど、父とは折り合いが悪かったことがあって
何のかんのと理由をつけて仕事を理由に家を出た後戻ることはなかった。
あるとき家に立ち寄った学生服の妹が、実家にある私の部屋は今お父さんのパソコン専用になってるよと
教えてくれた。多分、サーバールームかなにかなのだろう。そこまでするのかと当時はただただびっくりするばかりだった。
そんな次第で、母と会うのは久々だった。
記憶ではもっとふっくらした方だったのが、その面影はあとかたもなく、様相は一変していた。
20kg痩せたらしい。
ナイトメアビフォアクリスマスにまじっていても気付かないと思う。
祖母は変わらない。祖父が亡くなったことを機に髪染めを止めた頭は、
薄茶と白のまだらな髪だったはずだが、真っ白になっていたことくらい。
いつも穏やかに微笑んでいる姿はそのままだった。
会話が面白かった。
「私の孫です。」
娘をおいて挨拶するあたり、昔からなぜか自分に大甘の祖母らしかったが、その紹介がまさかの誤解に。
母とセットで兄弟に間違われたまま会話が進んで、
檀家さんが孫だと思っていた人が娘と知って目を丸くしていた。
東京オリンピックって何年だっけ。母の歳の計算を脳裏で思わずしてしまう。
恰幅がいいとは、親父のような男性に対する上品な言いかえだと知ったのは社会人に入ってのこと。
部署編成で久々に顔を合わした同期に先日も言われたが、仕事帰りにお酒で潰すほど呑ませた。
「まぁ、そんなに大きなお子さんがいるの」と対面のご近所さんに何度も言われて、
おかしいと思っていたら姑さんと奥さんと造作がよく似た二人に交互に言われていたのよと
祖母に自慢する母の姿は、確かに若かった。