花屋の店先に並んだ花は遺伝的にも最良の集団がよい環境のなかでさらに市場用の選別を経ているもので,花屋の店先に並んだという形容はどちらかといえば多様性の承認や寛容よりも優生学やナンバリングセレクションのほうに近いような.花屋に並んだ花には値段が付けられるように労働の対価も値段がつく.
「白いカラスはいない」ってことを証明すんのがどのくらい難しいか分かってて言ってんの?
男だから賢い(キリッ 的な発言、オバサンは嫌いよ
腐った公務員になるな
はいはい、今仕事から帰ってきた地方公務員がコメントしちゃうよ。
いわゆる役所や一部の大企業が、大企業病のようなもので使えないジジババで占められているというのは、まぁ、よくわかる。
偉くなることに意味が無い? いや、偉くなれば裁量が広がるし、面白い仕事もできるようになる。
つまんねークソみたいな仕事だって、面白いことを見出すことができる。
俺は採用されてまだ10年もたってないが、いろいろと面白い仕事をさせてもらっている。自分が企画したプロジェクトが報道されたり、よそから視察がきたりもした。
おかげで人脈も広がって刺激的な毎日だ。
公務員は不祥事やらかさなければクビになることもないし、ブラックでもない。これはとてもいいことだ。
でも、これは何の理由もなくそうなっているわけじゃない。
それは、安定した行政事務を遂行するためであるし、そして、私たち職員が冒険できるというためだ。
そんなシャッター街の地方都市ならなおさら行政が手を打って面白いことをやらなきゃならない。
俺だったら、そんなところだからこそ頑張ろうと思うね。
つまんないことに人生を浪費するな。
実際の女とつきあうのもいい事ばっかじゃないよ
生理前は八つ当たりされるし金はかかるし生活や趣味に介入されるしセックスはマンネリ化する、妙なトラブルに巻き込まれることもある
かりそめの承認が得られたとしても本当に些細なすれ違いで壊れたりもするし
発病中なのかw
元増田みたいなことを言おうもんなら
「段階的に脱原発の方向へ」が悪ってどういうことだよ、本当に。
新たなカルトの出現の瞬間を見てる気がする。
母親は、昔モデルをやっていたくらい美人です、正直娘の私でも「わあ綺麗!」って思ってしまうくらい。
ぱっちり二重・高くて細い鼻・小顔
でも残念ながら私は父親似でした。
なぜ、できるだけ美人に遺伝子は組変わらないんでしょうか・・。ああ、遺伝子に容姿なんて関係ないんですね、わかりません。
もう、卒業式がゆううつでたまらない・・父親似だって思われたくない、言われたくない。
細くて脂肪が分厚い目・低い鼻・大きい顔・・みればみるほどそっくりで正直話しかけないでほしい。
毎日毎日顔のことばかり考えてしまう。一度整形して新しい気持ちで人生を生きたい。顔以外のことを考えていたい。
私の友達は可愛いこばっか。一番可愛い子はむしろ美人でちょっとつんでれな性格でモテモテ。
友達なのに、近くにいるのに、あの子ばかりが男子に話しかけられて、彼氏ができて。
私は?男子には自分からじゃないと話せない、彼氏なんてもってのほか、ずーーっと片思いの人にすら振り向いてもらえない。
今までのの友達もなぜかかわいくてモテてる子が多かった。つらい、なんで可愛い子ばっかと友達になるんだろう。
将来は、高校、せめて社会人になるまでバイトでお金を27万円くらいためて、高須クリニックで全切開法の二重手術をしたい。
元々は奥二重なんだけど、もっと幅が広くて大きくて脂肪の少ない綺麗な左右対称の目にしたい。
目頭切開は、お医者さんに相談。自分ではそんなに蒙古襞がかかってない気がするんだけど、自分じゃわからないから・・。
上向きの鼻もどうにかしたい。あと、鼻を小さくしたい。
あと、涙袋を真顔でもできる状態にしたい。エラボトックスも打って、小顔にしたい。
でも、絶対失敗しないように、お医者さんにちゃんと相談して、不必要な所は絶対いじらない。
絶対綺麗になりたい。整形したら全部完成するように、今からお肌やできるだけ小顔に、目を大きくする運動とかダイエットとかガンバル。
男見返したい。今までばかにしてきた人たちとかも見返したい。整形整形言われても正直綺麗になれたらいい。
性体験がないことが増田の不全感?の原因になっているということ?
よくわからんけど女ならむちゃくちゃ幸せ、ってこともないんじゃないかとオバサン思うけどな
どうでしょうか。
http://twitter.com/invasivespeacie/statuses/218682205868793858
こちらのやり取りをみて思ったことを少し。
関心のあるひと・興味がなかったひとを惹きつける魅力あるエントリでした。
実際問題、全然興味なかったんですよ、読むまでは。
でもどんぐりばらまくことのヤバさはしっかりと伝わった。
関心を持つようになった。行動には、うつせないけれど。
ただ、invasivespeacieさんの言うように
http://togetter.com/li/253582 に見られる姿勢は???でした。
盛り上げることを他者に期待しちゃいけないんです。
思っていても言葉にしないほうがいい。
自分は"ひと・ブロガー"としてのアサイさんに関心があるけど、
ただそれだけで影響力を持てるっていうことじゃぁないと思うんですよ。
「覚悟のある奴しか発言するな、なんて窮屈だよ」にはまるっと同意ですが、
"覚悟のある風の態度"で議論を他者に投げるのは、誠意のない態度なのだと思います。
盛り上げるにはアサイさんがもっと惹きつけるエントリを書けばいいのだと思うし。
結局のところ、アサイさんはどうしたいの?どうなってほしいの?
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
細かいことは直に読んでもらえばいいので特に言わないが、少し書いておきたい。
最初に、市長とその周辺の人たちが何を考えているのか、手短にまとめておきたいと思う。
まず、大阪府市の負担軽減を視野に入れた、文楽に対する姿勢の見直し。たとえば橋爪紳也顧問が、
と書き、あるいは池末浩規参与も、
大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく、市が出金するとすれば、それは市民や来街者、観光客から見て魅力になっているような文楽に、必要かつ可能な範囲で援助をするというものになるはずです。
と書いているように、大阪府市としては文化保護名目での補助はしない、ということだ。(ただし、国が負担を認めるまで育成費用の補助4000万程度は出すそうだ)
そして、
再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する
と参与も書いているが、観客動員に一定の目標をおき、その達成のためより効果的なプロデュース・マネジメントが必要であるからそのために改革をしようとなる。
この点については実は私も同感で、文楽を全体として統括的にマネジメント・プロデュースすることができてないのではないかという不満は以前から感じていた。それに、どうしてもお役所仕事なのでスマートとは言い難く、大阪弁で言えば「もっちゃり」した感じにならざるを得ない。
さらに技芸員の意識改革を促している。旧来の殻に閉じこもっていてはダメではないかというわけだ。「意識改革」の具体的な中身としては、ミニ公演などのプロモーションはタダでやるべきなんじゃないのかとか、もっと観客の声を聞くべきだなどなど。
あるいはメールで技芸員の公務員化について触れられているのももっともなところで、たぶんこの辺りの感覚は長年のファンをやっている年寄りなら分かると思うし、東京歌舞伎座近くの某所で同様の会話をして嘆きあったりもした経験が私にはある。
つまり、全ては、
今回橋下市長のリーダーシップのもと、文楽は「無形文化財として淡々と維持する」(旧来の考え方)ものから、「再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する」(新たな考え方)というものにシフトしようとしているところです。
という参与の意図に集約されるのであって、これは賛否様々な意見があるところではないか。
私は、過去、文楽劇場に足しげく通い、図書閲覧室へもよくお邪魔をして勉強させてもらい、職員の方々にも大変にお世話になった経験を持っているけれども、文楽に関しては非常に悲観的な立場をとっている。
文楽はもうすぐ死に絶える。事実、文楽協会ができたころ、「文楽という芸は苔むした立派な梅の古木のようなものであって、じきに枯れる運命だが、無様な姿で枯らしてしまうのは忍びない。だから、せめて姿かたちはそのままに美しいまま死んでもらおう」という発想が背景にあったように記憶している。
文楽というのは本当に維持が難しい事業で、語り一つとっても、過去と現在でこれだけ音楽環境が変わってしまうと、語りを成立させる音感がまるっきり違ってしまう。成長してから訓練でどうにかなるレベルの問題では、おそらくないはずだ。もちろん、浄瑠璃を理解するための前提知識なども違う。
だから、近い将来、死亡宣告を言い渡す時期がくるし、税金を投入するならなおさら、本物・本格の保存が不可能になったときに、とっとと文楽の維持なんぞやめるべきであり、それこそがこの偉大な芸の先人たちを辱めない、唯一の道だと、私は思う。
その意味で、安易に文化を守れ伝統を守れと言ってみたり、反橋下の立場からついでに文楽を守れと言ったりする人たちとは、私は全く異なる。税金を投入する以上、真に偉大な芸としての文楽の古格が維持されなければならないし、それが無理なら文化だろうが伝統だろうが、潔く捨ててよい。今に生きない伝統など意味はない。本当に感動的な人形浄瑠璃は、過去の記録映画となって保存されている。無意味に惜しむ必要も必然性も、どこにもない。
逆に言えば、まだ今の年寄りの技芸員が生きている間、なんとか細々とでも古格が出来ているならば保存するべきであって、それは与えられたミッションが達成されているとして認めればいいんだろうと思う。
観客が入るか入らないかは、この際どうでもよい。文楽は昔から客の入らない芸で、貧乏話極貧赤貧エピソードに事欠かない。問題は本格ができるかどうかだ。それに尽きる。
そこで、大阪市のプロジェクトに話を戻すと、これをそのままやると、もちろんマネジメントの改善など賛成できる部分もあるのだけれども、人形浄瑠璃の中身そのものに大きな影響を与えると思う。
ある大物タレントさんが、これまた大物歌舞伎役者に歌舞伎に誘われて歌舞伎を観に行きましたが、つまらない、分からんと言ってすぐに帰ったそうです。その歌舞伎役者さんは、この大物タレントさんにどこがつまらないのか、どこがダメなのか必死になって聞き出し、これまで自分では気付かなかった新たな視点での指摘事項を改善しつつ、歌舞伎の面白さを説き続け、誘い続けたそうです。この大物歌舞伎役者さんは、観客からの厳しい指摘が公演を面白くする一番のカギと言われています。
全くその通りで、歌舞伎ならこれでいい。だから歌舞伎はどんどん変質していった(いっている)し、古格を守ることはそもそもできず、またそれで構わない芸能だという一面がある。
わざわざ語り手である太夫と三味線弾きの前に毎日座る客というのが大昔はいた。誰が出てきてもとりあえず批評批判する怖い客として知られ、しかし語り手も三味線もこういうお客を大事にしたらしい。
今でもこの種の客気質は、こと大阪の年寄りに関する限り健在で、今の源太夫が綱太夫のころ、あるお爺さんが私に、
「織太夫でまだ若かったころは将来どんなもんになるかと思てたけど、綱太夫はホンマあかん。感動がないわ」
と言い、また、文楽の人間国宝としてたびたび言及される住太夫についても、
「もう限界やっちゅうのは本人がよう分かってるやろ、あの年やし」
と言いきっていたものだ。あるいは別のお婆さんは、
「綱太夫の発声は変や。高音に行くと喉がつまってくる。あんな語り方はあらへんよ」
とばっさり批評したものだった。ちなみに、この綱太夫はその後人間国宝になってしまうわけだが。
そういう厳しいことをいう熱心なファンがいたからこそ、この芸に携わる人たちは鍛えられていったわけだ。
しかし、そういう耳も目も肥えた客の厳しい意見と、観客動員を増やすための批判は異なる。観客動員を増やそうとすると、中身が変質して古格が維持できなくなるのは、火を見るより明らかだ。そこで上演されるものは、300年続いてきた人形浄瑠璃ではない、何か別のモノだろう。
実際のところ、今でも中身は変質している。例えば、もっとも重要な場面を語る「切場語り」を今やっている人たちのあと、一体だれが後を継げるのだろうか。おそらく、有資格者は誰もいない。
あるいは、今は文楽を「見に行く」というが、そもそもは「聴きに行く」ものであった。人形浄瑠璃と単なる人形劇は違うが、視覚の刺激に慣れた現代の観客にとって「見る」を重んじた方がはるかに分かりよくなっている。
その他、細かい部分で古格と言えるものが本当に継承できるのか、できていたのかどうか、はなはだ疑問だ。
とはいえ、それでも歌舞伎とは比べ物にならない程度に本格の古格を守って来たのが文楽であって、それはかつてある歌舞伎ファンが文楽を見て「古いのが残っていていいなぁ」と言ったように、もう比較にならないと思う。
そこに、この大阪市のプロジェクトとなると、人形浄瑠璃は完全に変質してしまう。本当に守るべき古格は、もうどうでもよくなってしまうだろうし、決定的に死んでしまうだろう。
と書くと、やや刺激的かもしれないが、なんのことはない、文楽の死なぞ最初から知れたことであり、それがちょっとばかり早くなるに過ぎない。「苔むした立派な梅の古木」がもう枯れると、知れ切っていたことなのだ。
このプロジェクトを書いた池末参与は善意に違いないし、文楽の再興が魅力ある観光都市としての大阪にとり大きな資源だと考えているはずだ。また、文楽に携わる人たちも、継承にはチャレンジや変化が必要だとする人たちも少なくないだろう(私は、文楽がいろいろなチャレンジや、同時代に観客に受け入れられる努力もされてきたこともまた知っている)。
よく分かる。
もしこのプロジェクトをそのまま実行するならば、人形浄瑠璃・文楽という看板は取り下げてもらいたい。
300年続いた本当に偉大な、世界のどこにも負けない本物の芸は死に、何か別の人形劇、「文楽のようなもの」が続いていくことになるだろう。そこで「人形浄瑠璃・文楽」の看板を掲げることは、ウソだし、なによりも文字通り命を削ってこの芸に打ちこんできた偉大な先人たち、まさに大阪の先人たちに対する侮辱に他ならない。
この人形劇を観光資源としてどう活用したって構わない。だけど、文楽はもう死んだことを認めてほしい。いや、認めるべきだ。そうして、過去のものとなった文楽の真の偉大さだけは、せめて守ってほしい。それだけが、せめてもの私の小さな希望だ。
(追記)
以下は私のTwitterアカウントなので、もしご意見などがあれば、ぜひ遠慮なく私に書いていただきたいと思う。文楽は私にとってただ好きというだけでなく、重いものでもあるから。
https://twitter.com/#!/SignorTaki
認められるってどの程度のことを指して言ってんのよ
同じようなことを思ってた
最終的に全廃するとしても、即時停止ではなく段階的に進めていけばいいのにと思うんだけど
怖くて言えない
米ドラとか「すげえ日本じゃこんな描写できねえ」だらけじゃん
例えば、私がセックスをしたい場合、女性を捜してセックスをお願いするだけ。または、女性と息があったときを狙う。
ここに他人は出てこない。
オバサンの私に言わせてもらえば、頭の悪い時期に価値が高いのは逆に不幸