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はてなキーワード: テンプラとは

2016-06-08

春以外働きたくない

全国各地で梅雨入りしているが僕は昔から梅雨は苦手だ。湿気が多い曇天がつづくと頭のてっぺん頭痛が走るようになる。

梅雨だけじゃない。夏も得意じゃない。汗っかきとかではないのだが日本の暑さはどんなに薄着になっても薄い粘々した膜を覆っているような粘着性がある。カラッとしていない。スーパー惣菜売り場に放置されているテンプラみたいだ。

冬も苦手だ。寒い。ふだんはバイクに乗るのだが冬は寒すぎて乗ることができない。こたつからでたくない。

秋と春以外活動したくない

2016-04-20

繊細テンプラ

つゆにつけると衣がはがれてバラバラになるかき揚げあるよね

http://anond.hatelabo.jp/20160420145433

2015-11-14

KAMIKAZE

自爆テロを、海外ではKMAIKAZEと呼ぶらしいが、

それが嫌とかツイートを見てそうか?と思った。

日本人自爆テロをKAMIKAZEとよべばいいじゃん。

有史以来、自分の命の代償に敵を攻撃した事例なんて山のようにあるだろうし、

爆弾発明されて以降、そういう作戦有効性は飛躍的にあがったんじゃないかな。

そういう作戦攻撃を呼ぶ名称が決まったならそれを使えばいいだけじゃん。

神風意味と違うので嫌だと言われても、

テンプラのように、もともとの意味じゃない使われ方した単語なんて

星の数ほどあるから気にするだけむだじゃないかな。

そもそも悲惨現象なはずの津波

恋の歌のタイトルにつけてしま勘違い自国内にあるぐらいだからね。

2015-05-02

千葉雅也のアンチエビデンス論について」について

10+1 web site|アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い|テンプラスワン・ウェブサイト

千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版) | しんかい37(山川賢一) | note

 最初リンクを「アンチエビデンス論」、二つめを「アンチアンチエビデンス論」と呼ぶことにする。もちろん、この文章アンチアンチアンチエビデンス論と呼ぶ必要はない。

 千葉雅也の「アンチエビデンス論」が出たとき個人的にはそれなりに楽しく読んだけれどその評価別にして、まあ批判は出るところでは出るだろうなとは思っていた。と思っていたらしんかい37氏が「怪文書」なんて比喩まで出してけなし始め、氏がまとめた批判が二つめの「アンチアンチエビデンス論」。(最終版)となっているのは、この文章はいくつかのバージョンが発表されたらしく、(完全版)を読んだつもりがまた新しいのに更新されたということのようだ。この調子で(究極版)とか(最終版・改)とか(帰ってきた完全版)とか出してみてはどうか。そんな正論はともかく、これから取り上げるのは後者の「アンチアンチエビデンス論」についての感想、とりわけその文体についての雑感である

 しんかい氏は、まず千葉の主張をこのように要約する。

千葉は論考の冒頭で、些末なことや自明なことにも過剰なまでに論拠や説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、こうした態度が現代には蔓延している、と述べました。さらに、インターネットの普及した現代では、人はさまざまな行動の痕跡ネット上に残してしまます。そのため、人はエビデンシャリズムによる際限のないあら捜しにさらされてしまう。千葉によると、このエビデンシャリズムは、現代社会を窒息させるものなのです。

 そして、その上で読者にこう問いかける――

まずこの主張、みなさんはどう思われますか。率直に言って、最近になってそんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしないのですが。

 不思議なのは、ここで「そんな気がするかどうか」という「実感」についての話からこの論を始められる図太さ、というか、ふてぶてしさだ。過剰に説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、それを批判する千葉の態度をアンチエビデンスと呼ぶなら、さらにそれを批判するしんかい氏の態度は、普通に連想すれば、説明責任擁護エビデンシャリズムの擁護となるだろう――そういう予感を持って、読者は、というか私は、読みはじめた。どのような根拠でもって(説明責任果たして)氏が主張を正当化していくか、それが私がいちばん期待していたことだ。もちろん「アンチアンチエビデンス論」の議論の射程は鋭く、こうした「実感」に訴える論法を手厳しく批判している。この論の最後

エビデンスを求めようとしなければ、人の思考個人的な実感のまわりをくるくると回るだけですし、明晰さが求められないなら、言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論がいくらでも可能になってしまます

という風にして終わるのだ。仮に、しんかい氏の主張が〈個人的な実感のまわりをくるくると回る〉だけに留まらないと仮定すれば、〈そんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしない〉と主張するに値するほどの、根拠が示されるはずである――そう期待して読む私は、またすぐに裏切られる

しかに、インターネット上の失言が多くの人に拡散され批判される、ウェブ炎上という現象は近年目立つようになって来ました。エビデンシャリズムという概念は、そうした事柄をさしてもいるらしい。

実感に則さなくても、当てはまる事例があることはすぐに認めている。いったい、しんかい氏の「実感」を裏づけする根拠は、いつになったら出てくるのだろう? (「落ち着いてください!」と隣にいた貴婦人が言う。「まだほんの初めの方の十数行を読んだばかりじゃありませんか。議論は始まったばかりです。これから先も慎重に読み進めていけば、きっと〈個人的な実感〉なんかとは無縁の、素晴らしきエビデンスとやらに出逢えるはずですよ! さあ、続きを読んでください!」)

 さらに読み進めていくと、千葉文章引用したあと、しんかい氏はこのように述べている。

このくだりを読むと、今の企業ではどんどんマニュアル化(「機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除」)が進んでいて、ロボットのようにふるまうだけで給料がもらえる状況になってきている、といっているように思えます。えっ、世の中そんな風になってますかね。フリーターならともかく、現在でも正社員ともなればみなさんいろいろな判断要求されていると思いますけど。むしろ日本では長い不況のせいで、高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている気さえします。

 「思えます」! 「思います」! 「気さえします」! 実感に訴える主張のオンパレード! 「フリーターならともかく」――どのような根拠でこの要素を除外したのか? 「長い不況のせいで」――いったいいつからいつまでのことなのか? こんなにも曖昧表現で何が指し示せるというのか? 「高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている」――さっき例から排除されたフリーターはこの例には含まれないのだろうか? 確かに最初の例のフリーターが、元からアルバイトなんかしていなかったのなら辻褄は通るけれど……ところで、引用されている千葉文章は〈企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで〉といった範囲の広いものであるのに、しんかい氏は勝手企業だけの話にすり替えているし、しか千葉文章に〈給料〉という言葉はひとことも出ていない。

マニュアル化が仮に進んでいるとしても、それは効率化のためであって「個人の責任回避」するためじゃないでしょう。企業に、各社員責任をいちいち回避させてあげるインセンティヴなんてありませんから

 なぜ「効率化のため」という目的だけに話を限定できたのだろう? もし仮に、企業(そもそもなぜ企業だけの話になったのか? しんかい氏がそうすり替えたからの話でしかないのではないか?)が、しんかい氏の思いつきによる目的で動いているとしても、そうすれば、そもそも前段のマニュアル化が進んでいることを否定するような数々の圧倒的「実感」とはいったい何のために書かれたというのか? これらは全てただの思いつきで、論旨を整えずにただ手当たり次第に条件反射的に反発してみただけのことで、最初から根拠なんかなかったのだろうか? 〈千葉はその不明瞭な文体のせいで不評を浴びたわけですが〉と、その次の「不明瞭な文体について」の章で氏は書いているが、確かにしんかい氏の文体千葉に比べればまったくもって明瞭ではある。場面ごとに言いたいことは分かる。ただ、自身の主張に対する根拠ほとんど書かれていなくて、全体を繋げると辻褄が合わないというだけのことだ。しかし、最初から言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論〉がしたいのならともかく、アンチアンチエビデンス論としては、これは致命的なことではないのだろうか?

 この後も、しんかい氏は「アンチエビデンス」的な、説明責任を果たさず、ただの思いつきで主張を言いっぱなしにするだけの批評を展開している。

ぼくもひどい評論ハンターとしていろいろひどい評論を読んできたわけですが、この手の文章を書く人って粘土細工作るみたいな思考回路評論というものを考えてるんですよね。思考論理によってつなげようとするのではなく、とにかくぐちゃぐちゃつき混ぜてれば一体になるにちがいない、という信念に導かれている。

この手の人は、どうやら混ざっている粘土の種類が多ければ多いほど強い、と錯覚している節もあって、批判されるとすぐ、もっと勉強してくださいとか文脈を読んでくださいと言い出す。見ろ!こんなに多くの粘土を混ぜているんだぞ!このすごさがわからないのは、お前が粘土の種類にくわしくないからだ!というわけ。一般社会には通じない理屈ですが、文壇アカデミズムには粘土細工愛好家が一定数いて、ほう見事なマーブル模様ですのうと褒め称えたりするので、彼らの自信はますます高まっていくのです。

 対象になる文章に「粘土細工」という比喩を与えて、その粘土細工のイメージ攻撃する。ありがちな比喩の乱用だが、このあとソーカルによって批判される「科学数学」の乱用に比べれば、反証のしようがないために、確かに優れた方法ではある。

ただし、いまや世界的に、ドゥルーズ的な文体にたいする風当たりはかつてより強くなりました。

 これなどはまだいい方で、一冊の参考文献が提示されている。そのピーターバリーによる教科書引用部分だけで、どうして「世界的」な思潮についてここまで断定的なことが言い切れるのかはさっぱり分からない。

バリーが述べていたように、いまや世界的に「詩的に書く自由」は認められなくなってきたわけですが、じつは、そうした変化を引き起こしたのは、一冊の本でした。二人の物理学者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『知の欺瞞』。そしてこの本が刊行されたのは、九七年のことなのです。

 また「世界的」なことを一冊の本だけで理解している。しんかい氏は〈千葉が、九〇年代エビデンシャリズムからいまだ自由時代だったと称えている〉ことと、ソーカルの影響によってポストモダニスト難解な記述スタイルに〈致命傷を与えた〉話を、そのまま繋げている。〈それを踏まえると、〇〇年代以降エビデンシャリズムが強まっていったという千葉の主張と、見事に合致します〉。……。時系列ごとに並べると、受験生に嬉しい真っ白な年表ができそうだ。これも千葉世代論に比べると、中身をスカスカに抜いたからとはいえ(ほとんど粘土は混ざっていない)、確かに言いたいことは分かりやす世代論ではある。そこにエビデンスがあるかはともかく。

 だいたい、千葉ポストモダニスト的なよく分からない文体を使っている(これもしんかい氏の主観であり、論の後半にはある部分の引用について〈率直に言ってぼくにはほとんど意味が取れません。おそらく全人類にとってそうなのではないかという気がします〉などと豪快なことを言う。論の冒頭で〈発表直後はネット賞賛の声に包まれました〉という例示と「批判の声」を対比させたのは何だったのか、賞賛の声を上げた人たちは最初からしんかい氏にとっての人類には含まれていなかったのだろうか?)ことと、過去に著名なポストモダニスト問題と論争を巻き起こしたことには、いったい何の関わりがあるのか? ただの連想ゲームしかないのではないか? こうしたカテゴリー混同した主張と、「ジャック・ラカンは、虚数無理数混同している」といった事実に、どのような違いがあるのだろう? 

 しんかい氏はなぜ、ソーカル事件千葉雅也を結びつけて論じようと思ったのだろうか。「おそらく……」などと仮定を挙げてエビデンスのない主張をする気は今のところない。それよりも、根本的な疑問がある。「アンチアンチエビデンス論」において、しんかい氏は、アンチエビデンス批判するどころか、むしろそれに則った、説明責任なんてお構いなしの自由闊達批評をしている。それはそれでいいことじゃないかと思うし、それとは逆にエビデンシャリズムを徹底させた批評の道もあるのではないかと思う。しかし、今回のように、ある種の世代論や、ある人物をどのように評価するかなど、すでにある程度の文脈が与えられた人文学的なテーマ場合科学数学におけるような厳密な方法論などないし、徹底して証拠を走査することは(この私の文章のように)不毛ものになりがちなのではないだろうか。そもそも戦う土俵を間違えているんじゃないか、という疑問がある。「アンチアンチエビデンス論」において批判されている(かのように見えるが、どういう理屈でかははっきりしない)「実感の正当化だって、たとえば何らかの世代論であれば、いくつかの本から有益そうなところを引用して、それなりに理解が深まれば、反事実的条件と現実世界関係に関する考察などといった面倒そうなところから論を始めなくても、それで充分なのではないか、という気はする。これは純然たる思いつきである

 貴婦人はとっくに寝てしまったので無駄話を続けると、だいたい意味が分からないかどうかで評価するのなら、数学科学プログラミングなどの高度な専門書だって(〈一般社会には通じない理屈〉とまで表現するかはともかく)私個人にはまったく意味不明ものだし、別に大陸哲学だけの話ではなく分析哲学の本でさえ、少し高度になるといまの私にはさっぱり分からない。意味不明なことを言っているのと意味がないのは(いわゆる「説明と理解」といった哲学的テーマになるのだろうか)まったく異なるはずだし、ここを突き詰めて考えると分析哲学的にも絶対にややこしい問題に直面すると思うのだが、しんかい氏はその辺りをどうも曖昧に片づけている気がする。

 ところで、「形骸化したエビデンシャリズム」それ自体は、いつから・どの程度顕在化したかはともかく、いかにもありそうな話ではあると思っている。最近某所で話題になっている広島大学モニタリングの話とか分かりやすいんじゃないだろうか。

徹底した大学のモニタリング | 広島大学

2013-05-22

http://anond.hatelabo.jp/20130522133437

海外ではこう!っていうやつって白人の「スシテンプラハラキリー!」って言ってるようなもんだから

2013-04-18

飲み会行くと、不安ゲロ吐く(♂)

 飲み過ぎよりも、食いすぎを気にしてゲロ吐く。

 普段の食事は

  朝:森永ダースくん

  昼:その辺の定食屋(ここで我慢すると体が持たん)

  夜:ポテチ1袋 or サバ缶

 という感じ。朝昼晩食べるから、それなりにバランスを取っている、はず。

 これに飲み会が入るとヤバい。酒を飲むとリミッターが外れる。自分のもんとか人のもんとか関係なく、目の前にあるものを食わずはいられない。エビフライ5本、とんかつ5~6枚。もつ鍋ほぼ半分。とにかく目の前にあると、食べずにはいられない。〆のおじやとかでるともうダメ。みんな腹いっぱいなのをいいことに。独りかっ込んでる。さら飲み会が終わってみんなが部屋を出ると、忘れ物チェックするふりをしながら、他人の皿に残ったから揚げやらテンプラやらを、こっそり食べるわけだ。ハイエナです、はい

 で、とりあえず飲み会終わって「お疲れ様でしたー」とにこやかにお別れする。と、突然恐ろしい後悔が湧きあがるわけだ。「食べ過ぎてしまった」と。さらに「食べ過ぎたから、食べたものを出さねばならない」という妙な義務感が湧くわけで。で、歩きながら、手近な溝を探し(大通りから外れているのと、なるべく水が流れてそうな床を選ぶ)。おもむろに前かがみになり、人差し指と中指を喉の奥に突っ込み、あとはわかるな。

 最初の2、3回は空えづきで終わることが多い。せいぜい、若干菜っ葉っぽいものが交ざるぐらい。しかし、あきらめずに指を突っ込んでいると、固形物が出てくるわけだ。エビフライの残骸、テンプラの残骸、おじやの残骸。色々交ざり交ざって何が何だかからないけれど。確実に、何らかの質量をもった物体が、口を通して自分から出ていく。その達成感と言ったら、貯まらない。もっと出さないと。もっと吐かないと。とりあえず今日ノルマはあと8回ぐらいはかないとなー、とか思いながら。ひたすらのどに指を突っ込む。

 んで、そろそろ吐けなくなって来たり、水物しか出なくなると。その日はお開き。やり遂げた男の顔で、口を拭いつつ、幸せな気持ちで家路へと着く。

 などという生活を、一人こっそり5年以上続けているから、これが異常がどうか分からない。吐くまで飲む人ならいっぱいいるしね。

2010-09-24

1人暮らしの食生活で心がけてること。

野菜食えって言われるけど、砂糖や油にまみれた煮物や炒め物が健康的だとは思わない。

野菜テンプラなんて存在理由がわからない。

・揚げ物はしない。

フライパンよりもグリルオーブンを多用(油不用なため)

・生で食べられるものは生で食べる。

ドレッシングは極力使わない。たまにノンオイルタイプを使うが基本はポッカレモンと塩

・ひき肉、脂身は使わない。

・鶏肉の皮は向く

脂肪分は魚から。(ω-3系の脂肪酸を多くとるため)

・果実をつとめて食べる

・ナッツ類を少量だけ努めて食べる

かれこれ8年目くらい。

2009-07-12

http://anond.hatelabo.jp/20090711202305

白人はどこの国行っても似たような食事しか食わない。

秋葉原観光中の外人がこぞってマクドナルドに並ぶのは悲しくなる。

すぐ近くに蕎麦屋も寿司屋テンプラ屋もあるじゃないか。

なんではるばる旅行に来てマクドナルドなんぞ食うんだ。

カツカレーのほうが絶対満足するだろお前ら。

2009-06-09

http://anond.hatelabo.jp/20090607002856

スシ・サシミ・テンプラスキヤキこそが「日本料理」だと思ってるのなら、まあ、その感想もしかたないか。

真の「日本料理」はラーメンカレーライスとんかつうどん・そば、焼き鳥だよ。

あと日本菓子はすさまじくうまい羊羹・あんこ系はもちろんチョコレートの質も相当なものだし、柿の種かっぱえびせん系のスナック菓子も実はかなり外国人うけする。

2009-06-07

http://anond.hatelabo.jp/20090607093752

イギリスは、ロンドンランチに2000円出せるのならおいしいんだけどね。

西部の方は金だしても素材から死んでた。ジャガイモが不味いって何事・・・


海外日本食は、日本人が作っていること少ない(中国人韓国人が殆ど)影響か、ちゃんとした日本料理じゃないことが多い。

鉄火丼テンプラとかでも@バンクーバ

中華料理日本人海外旅行するときのライフライン

豆腐関係は、ヘルシーだから海外で人気が出始めている。

日本旅行しに来た外人男性トンカツ食べたがる。超人気。

どんぶりは、オーストラリアで開いた店が盛況って記事を見たことがある。


あ、あとカップメンはメキシコの出稼ぎ労働者にめちゃくちゃ売れてます。

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