はてなキーワード: 演劇人とは
けんちん・Fさんという人物がいまして。
彼はmixiを中心に、様々な映画や作品の論評を投稿しており、
その切り口は身内同士でズブズブになっている九州・福岡演劇界をバッサリと斬るものが多く、たまに面白く拝見していたのですが、
どうにもここ最近、彼の文章の質が変わってきたというかちょっと見るに堪えないものになってきました。
彼がどのくらい影響力があるのかはちょっと分からないのですが、このまま福岡演劇界のご意見番ヅラしてるのもちょっといかがなものだろうかと思いまして、
<はじめに>
私は、市原幹也氏を知りませんが、様々な記事などを見る限り今後、演劇には関わって欲しくないと思います。
但し、彼が演劇をやりたいと言う気持ち、思いを禁じる権利は私にはないと思います。(何故なら知らない人だから) というスタンスです。
人を裁けるのは司法、又はその直接の被害を受けた人だけ。というスタンスです。そうじゃなきゃ私刑だよ。
<目的>
1.昨今のけんちん・F氏の文章が論理的でない事を広く知っていただくこと
3.彼の文章が今後理論的になり、もとのキレのよい論評をしていただく事
達成できるかどうかは別ですが、この3つを目的に書いていきたいと思います。
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964252256
②あなたが本当に「演劇人」なら、市原幹也を救おうとはしないはずである
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964295122
③今そこにいる、一万人の市原幹也
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964416782
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964577327
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964600688
⑥不透明さを増す市原幹也と、藤原ちから、野村政之らの卑劣な印象操作
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964756079
記事数は多いですが、出来れば正確さのためにきちんと目を通していただければ、と思います。
<問題点>
さて、早速問題点ですがけんちん・F氏の文章、大まかに分類すると3つの問題点があると思います。
1.事実と推論を分けておらず、非常に読みにくく、推論を事実とすり替え、さらに理論を展開する
3.自論に対して反論する人に対し「擁護するから反論している」とレッテル張りを行い間違いを認めない
それぞれ見て行こうと思います。
「AということはBなのではないか、BということはCなのではないか、Cは問題だからAは非常に問題だ!」という推論に推論が重なった故の結論が、ソース不在の論理性に欠けるものが多い。
例ア
一応と言うか、市原氏は、2013年をもって、アイアンシアターの芸術監督を解任されてはいる。のこされ劇場≡の活動もそこで中断し、実質、解散状態にあるようだ。
当時はその理由が不透明だったが、こうした事件が発覚してみると、「そこでも何かやらかしたんだろうな」と判断せざるを得ない。劇団員に手を付けたか、
ワークショップの参加者に手を付けたか、そんなところだろう。彼の不始末のせいで、枝光演劇フェスティバルが開催不能になり、枝光から演劇の火が消えてしまったことは残念だが、
事情が事情なら仕方がない。 でももし本当に私の憶測が正しければ、枝光商店街はその時点で、彼の解任理由をきちんと発表すべきだっただろう。そうすれば、その後、
<以上引用>
要約するとこうなります。
2013年アイアンシアターの芸術監督を解任、のこされ劇場≡もそこで実質解散状態(事実)
↓
「そこでなにかやらかしたんだろうな」と判断せざるを得ない(推論)
↓
↓
彼の不始末のせいで枝光演劇フェスティバルが開催不能になったのは残念(事実のように記述だがソースなし)
↓
憶測が正しければ、枝光商店街が解任理由をはっきりさせれば犠牲者は防げたかもしれない(推論)
2013年の解任と解散は事実だが、そこの理由ははっきりしていない。にも関わらず、枝光演劇フェスティバルの中止を彼が原因かのように記述、
有名な言葉がここにあります。「なんかそういうデータあるんですか?」
「枝光演劇フェスティバルは市原氏の不始末で開催不能になった」
推論を並べ立ててもいいけど、そこに至った経緯、又は根拠を示さないと説得力ないよ、けんちん氏。
例イ
自主的に引退してくれるのが一番マシではあろうが、どこぞの議員みたいに、どこかにずっと居座り続けそうだよね。周囲もそれを許してしまいそうな気がする。
つまりそれだけ日本の演劇界がユルい社会であるということだ。それも日本の演劇レベルが沈滞し続けている原因の一つかもしれない。
<以上引用>
↓
周囲も許しそうだよね(推論)
↓
それだけ日本の演劇界はユルい社会で、演劇レベルが沈滞する原因かもしれない(推論)
はっきり言ってウケる。脳内妄想垂れ流してもいいけど経緯又は根拠を示さないと説得力がねえよ。
例ウ
逆に言えば、なぜ市原幹也は別の道を選ばず、また彼の仲間もそれを勧めないのか、ということなのだ。市原だけでなく、彼の周囲の人間も、演劇を愛してはいない。
演劇に対する愛があったのなら、とっくの昔に、彼を制止していたはずだ。
<以上引用>
↓
↓
データと経緯がないのは先の例と一緒。さらに、さも自分が部外者かのようにけんちん氏は記述しているが、それ以前の文章に「悪い噂は流れてはいたようだ」とか書いてんだから
同じ論法だとアンタも周囲の人間に一人に入っちゃうよ。ブーメランだよ。
あと、文章③において
<引用>
彼は、市原の舞台に出演していた当時、既に、「ウワサ」は聞いていたようである。けれども、面倒ごとに関わるのは嫌だと、市原に意見することを控えてしまった。
そのことが、次の被害者を生んでしまったと気づいて、今、深く責任を感じてしまっているのだ。いじめの現場を目撃していながら見て見ぬふりをして、その結果、被害者が自殺をしてしまった、
そのことを悔いるような心境になっているのだろう。もともと心が弱い方であるから、このショックは相当にキツかったと思われる。
<以上引用>
一個前の論理で行くとこの人完全に「別の道を勧めなかった周囲の人間」に入るわけで「演劇を愛してはいない人」になるわけですけど。
知人と分かった瞬間この手のひら返し。まごう事なきダブルスタンダードです。
例エ
野村氏は、市原に電話で「死ぬな」と言ったとか書いているが、はっきり言って芝居がかっていてかえって白ける。電話でどのような会話をしたのかを
「公的な報告」として記すのなら、本来は今後の対応をどうしていくかについて書くべきで、こんなプライベートな心情吐露を垂れ流してはいけない。まるで、泣きを誘って、
市原の方が被害者的な立場に見えるように、話を粉飾しているようにすら見える。 野村氏もここですっかり忘れてしまっているよ、被害者は女の子たちなんだって!
「死にたい」と思った女の子たちが、今も「沈黙」するしかない被害者たちが、いったいどれだけいるのか、それを認識していたら、
たとえ本当にそのような会話をしたのだとしても、申し訳なくて公表なんかできないって。 野村氏もまた、人間として最低な部類に属するのである。
<以上引用>
この文章には山ほどの問題点があるのだけれど、とりあえず推論のすり替えについて言えば
野村氏は、市原に電話で「死ぬな」と言ったとか書いた(嘘だけどここでは事実としましょう)
↓
まるで、泣きを誘って、市原の方が被害者的な立場に見えるように、話を粉飾しているようにすら見える。(推論・感想)
↓
野村氏もここですっかり忘れてしまっているよ、被害者は女の子たちなんだって!(事実のように記述)
↓
野村氏もまた、人間として最低な部類に属するのである。(結論)
ものすごいとんだ論法。あと、後述するけど「死ぬな」って言ってないしね。「死ぬな」の意味合いも違うしね。
例オ
いつでもどこででも、これだけ派手にやらかし続けていれば、福岡の演劇人が、あるいは市原と関係があった人々が、「知らなかった」人間ばかりのはずはない。
なのに彼らの殆どが、自分はセクハラ行為とは無関係だと強調するか、全くの沈黙を守り続けるかのどちらかしかしないのがどうにも解せないのだ。
前回の日記にも書いたように、市原のセクハラを知りつつ看過したことを恥じて自らを責めたのは、私の知人一人だけである。
他の「知ってたやつら」は、今どこで、何をしてるんだよ。 中には、市原が誘ったか誘われたかで、一緒にセクハラ行為に及んだ演劇関係者もいるはずなのだ。
市原はその人物の名前を明かしてはいないし、本人が名乗り出て謝罪する気配もない。市原同様の行為に及んでいながら、今ものうのうと「演劇人」の仮面を被り続けている人物が、
福岡の演劇界に居残り続けている可能性を否定できないのである。
<以上引用>
市原と関係があった人が知らなかったばかりのはずがない(推論)
↓
↓
中には、市原が誘ったか誘われたかで、一緒にセクハラ行為に及んだ演劇関係者もいるはず(とんでもない推論)
↓
今ものうのうと「演劇人」の仮面を被り続けている人物が、福岡の演劇界に居残り続けている可能性を否定できないのである。 (結論)
一緒に及んだ人がいる根拠を示せ根拠を。バックデータのない論理はただの言いがかりだぞ。
<問題点2:主語を大きくすることで、拡大解釈とレッテル張りを行う>
彼の文章はよく「個人の問題」が「福岡・九州演劇の問題」に主語が大きくなっているように感じます(感想)
「福岡・九州演劇界は腐ってる!」という意識が根底に根付いているのでしょうか(推論)
例カ
自主的に引退してくれるのが一番マシではあろうが、どこぞの議員みたいに、どこかにずっと居座り続けそうだよね。周囲もそれを許してしまいそうな気がする。
つまりそれだけ日本の演劇界がユルい社会であるということだ。それも日本の演劇レベルが沈滞し続けている原因の一つかもしれない。
<以上引用>
さっきも出てきた文章ですね。引退しない、が周囲が許しそう、の周囲の話になり、日本演劇会の話にどんどん主語が拡大していく。しかも推測なのに。
一泡沫演出者の話を日本演劇界に持ってくんなよ。日本演劇界も迷惑でしょうよ。それなら一連の騒動が大物の米映画女優の話からはじまってんだから、「米映画界はクソだ」くらい言ってもいいんだよ?
例キ
それどころか、事件発覚から十日余りが過ぎて、事態は早くも風化しつつあるような印象である。 いやホント、Twitterをずっと追いかけてみても、九州の演劇人の間でも、ろくに話題になっちゃいないのである。
2ちゃんねるでちょっと取り上げられて、あと何人かがブログで「市原擁護」としか取れないような文章を書いている程度。何だよ、それ。 ジャーナリストの江川紹子さんが、セクハラ告発が相次ぐ世界の情勢を俯瞰しながら、
市原についても触れた文章を綴っているのは非常に貴重だが、それくらいだ。
<以上引用>
個人個人が発言しない事がいつの間にか九州演劇人全体の問題に。え、だって市原のこと知らない人も結構いるよ?
身近に被害者もいない九州演劇人はどういう声明出せばいいんだろう?もしも、具体的に声明を発表して欲しいのにしてない人がいるならその人に言いな。
自分が知ってる演劇人が発言しないからって、責任を演劇界・演劇人全員に持ってこないでくれる?
例ク
九州の演劇人たちが、沈黙するか、あるいは市原擁護に回った理由はそこにあるのだろう。 やはり「同じ穴の狢」を追及することができないでいるのだ。
指導と称して、セクハラ、パワハラが当たり前の世界に堕してしまっているのだ。もしかしたら、九州の演劇界だけでなく、全国的に。
<以上引用>
目の肥えた読者さんなら「あ、推論が置き換わってる」と感じ取れたかと思います。
どの世界にも、同様の問題はあるだろう。けれども演劇界は特に腐っている。仮に日本の演劇人が全部で二万人いるとしよう。
そのうちの半分が加害者で、半分が被害者になる。そう考えてもらった方がいいくらい、どいつもこいつも腐っているのだ。
<以上引用>
「なんかそういうデータあるんですか?」
君の知ってる演劇人に腐ってるやつが多いのかもしれないけどその井の中のレベルを日本演劇界の話に拡大しないでくれるかな。ちゃんと統計取った?
主語の拡大はもう少し散見されるのですが、周囲はどこまで責任を持つべきか、というのには正解が出しにくいため
個人的に「明らかにデカすぎない?」と思うもののみ掲載しました。そのほかは是非皆さんで探してみてください。
その2に続きます。
http://anond.hatelabo.jp/20160117091941
自信だけ満々の奴がいて、専門用語を間違って使ってるのに気づかんとか、
後輩にも煙たがられてるのに、予定調べて練習に顔を出して「俺やで?」みたいな雰囲気を出してきたり、
クラスの文化祭でいっちょ仕切ったろうとして、でも人望が薄くて
空中分解させて、温厚な担任にすら見放されて軽く拒否になったり、
Twitterで有名演劇人と絡んでるのを人脈自慢したり、光と闇の世界が闘う「オリジナルの」脚本を書いて
周囲に感想を強要してたりっていうのが、確かにいくつでも思い浮かぶけど、
嘘だと思ったら、映画「幕が上がる」を是非見てみてください。
数年ほど演劇に携わっていたが、色々な事情が重なって現在、演劇の2文字をみるのも嫌で嫌でたまらない状態になっている。
特に、金も人も時間も足りない小演劇界隈は、劇団を抜けるのにも相当覚悟がいる。
何でもそうだが、特にこういう表現系の活動は、よっぽど好きじゃなきゃ続かない。本当に。
昼もなく夜もなく、生活のすべてを芝居に捧げ、寝る間も惜しんで舞台に立つのが楽しい――そういう人間でなければ、あの界隈で活動を続けていくことは出来ない。
たとえ金がなくとも、創作さえ出来れば幸せ。そういう人でなければ向いてない。
寝不足の目をギラギラに輝かせ、狭い市民センターで稽古や、あるいはサイゼリヤで一番安いドリアをつつきながら打ち合わせをし、劇団評に花を咲かせ、チキンを1個ずつ分け合う。
そして3時過ぎに布団に入り、翌朝早くからバイトに打ち込む。夜にはまた稽古。そんな人間ばかりだった。
はっきりいって全員病気だ。
だが、本人たちにとってみればそれは、エネルギーに満ちた充実した生活なのだ。
ある日、自分の将来をふと考えた際、とてつもない虚無感に襲われた。
このまま生活していけるのか。一度考え始めると、不安はどんどん膨らんでいった。
結果、どんどんモチベーションは下がっていった。
もともと小演劇に疎かった自分は、仲間内のトークにもついていけていなかったのも辛かった。
やがてフラストレーションが積み重なっていった結果、日常で突然泣き出してしまうほどになり、結局その後、演劇活動から手を引くことにした。
これはきっと、演劇だけの話ではない。
あらゆる創作活動、表現のジャンルでも、貧乏を飲み込んで打ち込む覚悟がなければ、とてもじゃないが、続けていくことは出来ない。
ラッキーなことに、家が金持ちだったり才能があったり、そういう人はその分の補正がかかることもあるかもしれない。
もし、これから何らかの表現に携わろうと考えている人は、そこのところをよく考えてみるべきだと思う。
自分は貧乏でも続けていく覚悟はあるのか。それほどに病気であるか。
中途半端な意志と覚悟で、下手に表現へ深く足を踏み入れると、取り返しのつかない痛手を負う可能性がある。
それでも構わない、という人をあえて止めるつもりもないけど、
そこにいる関係者がどんな人たちなのか、どういう年代層の人がいて、どんな暮らしをしているのか。
話をよく聞いて、よく確認したうえで、飛び込むべきだ。
深く関わるのは、それからでも遅くはない。
表現を志す人にはまだ若い人たちが多いので、時間はたっぷりあると思うかもしれない。
自分の適性をよく考えて、限りある時を有効に使い、有意義と思えるような生活を過ごして欲しい。
昨晩ね、『ケータイ刑事 銭形愛 「カメラは見ていた!ワンシーン・ノーカット〜BS−i連続殺人事件〜」』再放送(本放送は2002年)見たんだわ。伝説の。スゲーのな。半ばネタアイドル番組なのに、ここまで本気で叙述トリックを仕掛けてくるとは。久々にテレビで感動した。
で、鑑識柴田役の金剛地良かったよー。ケレン味と演劇人の渋みがイイ感じにミックスされてて。
まぁそれにも増して、宮崎あおいが最強だったわけですが。
前半みんなに邪険にされて「こいつらみんなバカ」って顔してスネつつカメラ見切れるか見切れないかの背景でフワフワフラフラしてる制服姿のあおい可愛いよあおい可愛いよハァハァ(AAry