はてなキーワード: ペットロスとは
●見舞いに来た関係者に「この度はご迷惑をお掛けしてすみませんでした」と言いながらも可愛く口を尖らせてそう。
●マネージャーや周りの世話役に可愛いから許せる程度のワガママを言いそう。
●暇な時間は鏡や本を見て、髪型やお化粧の研究に余念がなさそう。
●来る関係者全員に本気で「この度はご迷惑をお掛けして申し訳ございません」と深々と謝りそう。
●気のおけるマネージャーや世話役に「もぅ…やだぁー…」とか弱音聞いてもらってそう。
●入院中はスッピンで芸能人オーラ消えてどこにでもいそうな人になってそう。
●ペットロスになってため息ついてそう。
●暇な時間はツイッターと2ちゃんとインスタサーフィンしてそう。
2人とも大好きで、指原は出てる番組を選んで見るほど好きだけど、私の中のこじはるのイメージが完璧で可愛いでしか構成されてませんでした。
私は専門家ではありませんが
何か参考になるかもしれないと思ったので書かせていただきます。
ある日父が犬を連れ帰ってきました
犬がいても暴力が無くなったわけではありませんでしたが
犬が闘病中の期間だけは家族で協力し合え
それから犬は亡くなりました
私はペットロスになりました。
「何で動かないんだ」「強制的に見合いしろ」とまるで暴力団の様に責め立てました。
それからは転がり落ちるようにいろいろな事がありました。
たぶん、各所相談に回るうちに
自分の事も踏まえて私が思うのは、
あなたのご家族はわんちゃんに愛や癒しを感じておられたのではないか。
そのわんちゃんが亡くなって心の中の暖かい物が消えてしまったのでないか。
外部の手を借りた方がいいと思います。
妹さんの事は相談できる所がありそうです
そこを突破口にしてみてください。
今私が思いつくのは、保健センターです。
わんちゃんの死を看取らせてあげられなかった事が原因ではないです。
ご自分を責めないで!
友人とは趣味が似ている。そして友人曰く情緒的にも似ているらしい。
料理上手いしお魚だってさばけちゃう。お嫁さん代表格である(旦那さんが羨ましい)
私なんかと一緒にするほど貴方は阿呆な人間じゃないんだと陰ながら思う。
よく感受性が豊かと言われる単細胞。しかしそこが似ているらしい。
アダルトチルドレンというタイプは少し違うが共通点があるのだ(友人のおかげで気づいた)
お互い寂しがりなので旦那がいない時はお互い電話して凌いでいた。
そんな繊細な友人がペットロスで酷く落ち込んでいる。
私は死が怖いのでペットを飼ったことがないし、友人のようなベストな気遣い方もろくに知らない。
相談は聞いてもらう側だったので、恐ろしく何も出来ない。
今朝ふと、
「一度、曼珠沙華を見に行きたいな。両親を誘って泊まりで行っても良いな」
「あ、わんこの餌はどうするか…」
わんこは10年も前に死んでるのに、そんな事を考えた事に気付いた。
わんこは1階で寝てた。
私と両親は2階で別の部屋で寝てて、
夜中トイレに行くときは「起きちゃうと悪いな」、と階段の明かりはつけない事が多い。
たまにわんこが階段で寝てることがあるので、階段は一段ずつ慎重に確認しながら降りてた。
わんこが登れる限界の段ってのがあったので、その段の上まで来ると殊更慎重になる。
わんこが居なくなってしばらくは、夜中にその段の上で一旦止まる自分がいた。
10年経ってもたまにその段の上に立つとよぎる。
家族3人とも淡白なので、目に入れても痛くないといった可愛がり方をしてたわけじゃないし、
死んだ後もペットロスになるわけでもなく
十数年の間家族でいてくれてありがとう、って気持ちで思い出を語ったりしてた。
息を引き取った瞬間は、自分はこんな泣き方が出来るんだと思うほど号泣した。
「ベイマックス」の原題はBig Hero 6で、日本の感動主導のPRには問題がある!という意見を見る。
しかし、マーベル・コミックスに馴染みのないナイーブな日本人には限界のPR方法なのだ。
ディズニーの施したローカライズは実に巧妙で、とても良く考えられている。
大量の批判があるのを承知のうえであえて単純に言えば、マーベルヒーローは近親者の死がヒーローを生む構造が多い。
その為、Big Hero 6というヒーローモノを観に行って近親者が死んでも、米国ではそういうものとして受け止められる。
スーパー戦隊シリーズ好きやプリキュア好きの親子で観に行こう!とヒーローを全面に押し出して、
映画館に親子でやってきて、仲の良い兄弟のアニキがハッキリと死ぬシーンを描かれて、後半ついていけるだろうか。
未だに、鳥人戦隊ジェットマンの衝撃が語られるように、基本的に日本では人の死はとてもナイーブに受け止められる。
……まあ、世界に冠たるディズニーが、となりのトトロを観に来た母娘が火垂るの墓を観て茫然自失となったエピソードを知らないはずも無かろう。
映画全体として、兄タダシの死を乗り越え成長する弟ヒロの姿が描かれているので、
CMを観て感動モノかなと思って観に行った人は十分満足して帰宅できるレベルにある。
が、それだけでは無い。
主人公である14歳の天才少年ヒロは、兄タダシの友人達と共に、兄の死に関係がある犯人を捕まえようとヒーローにバージョンアップする。
勢いのあるカーチェイス、迫力のある戦闘シーン、そして過激な女性も可憐な女性も、それぞれの長所を活かして活躍する。
だから、戦隊好きは勿論、プリキュアが好きな女の子にもオススメできる映画なので映画館に行こう!
軽くネタバレすると、ヒロとタダシという兄弟の両親は、ヒロが3歳の時に亡くなっている。
今は、キャスおばさん(叔母か伯母かは不明)に引き取られて生活している。
当然、兄のタダシが死んでしまって、弟のヒロは、ショックを受ける。
劇中、キャスおばさんは、ヒロの前では一度も悲しい顔を見せない。
他の人物もそうだ。
人のつながりがそこには間違いなくある。
アナと雪の女王で有名になったが、ディズニーは単純な和訳を行って吹き替え版を作成したりしない。
劇中に出てくるパーソナル・ヘルスケア・コンパニオンであるベイマックスというロボットは、
米国版では、「I cannot deactivate until you say, You are satisfied with your care.」と言う。
日本版では、「『もう大丈夫だよ』と言ってくれないと離れられません」と言う。
他にも細かいセリフのニュアンスが違っているが日本版は「タダシの死を乗り越える」部分に焦点が当てられている。
「I'm satisfied with my care.」というセリフと
その為、ロボット工学者についてのみ、字幕版での鑑賞をオススメする。
ベイマックスは、「I cannot be sick. I am a robot.」という様に、徹頭徹尾ロボットとして描かれる。
ロボットが自分のことを人間だと考えたり、自らの存在意義に悩んだりはしない。
ベイマックスは、最初から最期まで、ヒロのパーソナル・ヘルスケア・コンパニオンとしての使命を全うしようとする。
ロボットをロボットとして描き、人間とは異なる存在として描きながらも尚、人間との触れ合いを描く。
心の痛みへの対処法すら学んでみせたロボットの「Your health is my only concern.」というセリフや
「Are you satisfied with your care?」と言うセリフには、限りないロボットへの愛情が込められている。
治療法の詰まったディスケットにTadashi Hamadaと書かれている事の意味を、重く受け止められるだろう。
自分の研究室をWelcome to the nerd lab.と言えるロボット工学者は、映画館に行こう!
全方位隙無く万人にオススメできる映画ベイマックスは、是非映画館で観よう!
字幕版を観た人は吹き替え版を、吹き替え版を観た人は字幕版も観に行こう!
一応お伝えしておくと、現在ペットロスで療養中の人にはオススメできない。
ペットロスってどうすりゃいいんだろう。怖くて飼えない。
グッピーが死んだ。ちょっと前までぴんぴん泳いでいたのに。帰宅して水槽を見てみたら、ぷかりと水面に浮かんでた。
すごくかわいかったのに。エサがもらえると思って近づいてくる姿がいじらしかったはずなのに。
あんまり胸を塞がれることもなくて、ああ、死んじゃったんだって。ドラマとか漫画の登場人物みたいに、呆気なく認めてしまってた。
グッピーだからなのかな。大切にしていたつもりだったけれど、所詮はたんなる小魚でしかなかったのかもしれない。
ただ、例えば犬や猫だったら、もっと悲しむことができたのかもしれないと思う。ペットロスになって、色々なことに手が回らなくなっていた可能性も、なくはないような気がする。
そうじゃなくても、ハムスターや小鳥だったりしたら、もっとしっかり悲しめていたのかもしれない。トカゲやクモだったらどうだかわからないけれど。
わたしにとってグッピーは、結局観葉植物のようなものでしかなかったのかもしれない。気をかけて世話はしていたけれど、それ以上の思い入れはほとんどなかったのかもしれない。
そういえば、小学生の頃、クラスでメダカの飼育係をしていた時もそうだった。登校して、メダカが浮かんでいるのを見つけたとしても、あんまり衝撃は受けなかった。
命の大切さとか、生命のうんたらかんたらとか、あんまりよくわからなかった。メダカは所詮メダカでしかなくて、それ以外の何ものでもなく、最後まで淡々と世話をする対象でしかありえなかった。
わたしは、大きな生き物じゃなければ、生死の比重をうまく判別できないのかもしれない。グッピーをかわいがってはいたけれど、大切なものとしてはみなしていなかったんだと思う。
動いていることと、生きていることの決定的な差異を見つけるのって結構難しい気がする。線引がどこでなされているのか、すごく曖昧なんだと思う
今更になって、ちゃんと弔ってあげられたらよかったのになって後悔してる。馬鹿だったなあって。