大人になってからは食後にポテトチップ2袋食ったりチョコレート1箱開けたりしてた。
別にそんなに空腹でも無くても食べてた。
こんな食生活をしてもまったく太らず、
醜い体型にもならなかったので今まで続けてたんだけど、
いつかツケが回ってきて糖尿病とかになるかも
と考え始めたら怖くなって急に止めた。
止めようと思えば案外止められるものだな
と2ヶ月経った記念に書いて置く。
核の力を利用した大規模発電所として作られた建造物は、
今のところ核のゴミ付きの巨大な建造物に成り下がっている。
次世代へツケを押しつけないため、原発の再稼働には反対する、という人達がいる。
ちょっと前に坂本龍一が再稼働に反対してたのが報道されていた。
今も日本のどこかで、同じような活動は続いているはずだ。
まぁ気持ちは分からないでもない。あれだけの事故があったんだから。
だがちょっと待てと。
原発を作り続けた老年世代は、若年層に色々なものを押しつけようとしている。
それが当然のごとくスルーされてるのが、ちょっとおかしいんじゃないかと思ったりしている。
老年世代は『次世代のため』という題目の下、税金で原子力発電所という資産を作り続けた。
だが、発電所というものは発電して初めて資産になるのであって、
発電できない発電所などというものは、ただのゴミ施設にすぎない。
発電できないようになった原因は何かと探ると、やはり老年世代の手抜きだった。
彼らが税金を使って作り、手を抜いて事故を起こした挙句、多大な資産をぶち壊した。
若年層は発電所という資産と核のゴミとをセットで引き受ける、はずだったが
資産を回復させる、つまり発電所としての機能を回復させようにも、
老年世代には次世代にツケを押しつけてはいけない、などという台詞を吐く資格はない。
次世代にツケを押しつけるな、というのであれば
東電社長なり保安院の偉い人なりの特定個人を責めるのも結構だけど、
そういうシステムを作ってきたんだろう。
そういう政治家を何十年も選び続けた責任くらい、世代全体で取ってくれと。
老年世代の原発政策が間違っていたのなら、老年世代が責任を取れと。
老年世代の原発政策が合っていたのなら、老年世代は壊した資産を元に戻せと。
その辺を実行してもらう必要があるわけだけども、
多分どちらも実行されないまま彼らは死んでいくんだろう。
若年層は、理不尽な負担を押しつけられようとしていることに気付いてもらいたいなぁと思う。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
まさにこういう生活を(「~していたい」ではなく実際に)している・送っている人間が多崎つくるを読むと
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるためにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
ということになるんじゃないでしょうか。あとどっちかっつーと「そんな簡単にこんなキモイ奴とセックスする女はいない」が正しいような気がする。
で、それが「リアリティを欠いた『妄想小説』」という評価に帰着する、と。
というのはとてもいいキャッチフレーズだけれども、買って読んでから「こんなんで救われるかボケ!騙されたー!」的な感想を抱く読者の数を減らすことは出来ないかなあと思いましたまる。
1ヶ月ほど前の古い増田だけど、めちゃくちゃ共感したので反応してみる。
元ネタ→『バーグハンバーグバーグやLIGの作るサイトが不愉快な理由(http://komachi.anond.hatelabo.jp/20130328184532)』
オモコロはちょい苦手。
世の中の笑いを「笑わせる笑い」と「笑われる笑い」に分けるなら、オモコロは後者。
一億総ツッコミ時代では、上からの「笑わせ」より、下からの「笑われ」がウケているんじゃないかな。
でも、DPZは読ませる要素が濃いから、結果的に楽しませてくれる読み物になっていると思う。
仮説として、
作り込み過ぎていて、延々とネタサイトを読まされてる感がイヤなのかもしれない。とにかく長いし。
作り込み過ぎゆえに、なにか滑ってるようにも感じる。
作り込み過ぎゆえに、もうお腹いっぱいになる割にオチがことごとく弱い、あるいは、オチらしいオチがなく、ふざけたまま淡々と終わる感じがイヤなのかもしれない。
元増田は、笑われずに笑わせてくれる、プロの芸人や笑いが好きなんだと思う。
オモコロは、インターネット中学の1年3組にいるおバカ男子(ピエロ役)だと思えばイラつかない。
DPZはハガキ職人orコント職人。(構成力がある。キャラやリアクションで勝負していない)
ojisan fukki
上手く説明してくれてるなと思えるのがあったのでメモ
愛国心があるのは普通。でも、それを口に出すのは日本人の感覚ではキモい。日本人なら母親を愛してはいても、「ママ愛しているよ」とは言わないのと同じだと思う
なるほど、そう言えば夏目漱石によると「I love you」を「月が綺麗ですね」に訳すのが妥当だという婉曲に表現するのが日本人の感性だったから、愛国や愛国心を唱えてる人の直接さに胡散臭さや気持ち悪さを感じるのか。
何度も語られてきてるとは思うんだけど、結局自分が持ってる不平不満は、他人にとっていただけないものだと知ってるからこういった場所で吐き捨てられていくんだろうな。
基本的にここの人はみんな空気読めてて、読みすぎてて、疲れてて、一生懸命な人しか居ないはずなんだよね。
自分のSNSで愚痴をこぼす人は、匿名ダイアリーの魅力には気付けないし、一生懸命な人だから匿名にしてメッセージするわけだし、みんな不満を書きながら「良くなれ!」「こんな世の中が良い。」って遠回しに言ってるようなものだし、トラックバックのコメントも発生してる時点で無視していないし。
自分のSNSで声を大にして言えない、リアルではぐっとこらえてて、こういう場所で吐き捨てられるほど起用な人しかココにはいないように思えるんだけど、そこんとこ君たちどうなの?
自分にとっての渾身を書き込んでるんじゃないの?
芸術が発生してるという事は、ここはみんなが思ってるよりも優れた環境だと思わないかい?
「匿名」という事は、裏返した「非匿名」を抱えてることになるから、みんな名前を持ってる人たちだけがココに来てることになる。
幼稚園の頃、遠足先に裸婦像があり、私はその下腹部等を撫で回していた。
後日、同輩の女子に囲まれ「このヘンタイが!」とそのコトを罵られ、
気の強い女一人が「触りたいんでしょ?」と私を蔑みながら公衆の面前で挑発してきた。
ここで言いたいのは、幼稚園児と言えどスケベだということ。
そして、女児なんてのは無垢でもなんでもなく、他人を侮蔑するような心は成人女性と変わらないということ。
いや、人間は成長する段階で慎みを覚えるのであり、それがなかった者は女児と変わらず下品で差別的なままなのではないか。
子供は無垢で純真だ、という言説にイラっときていたので書いた。
余談。母親がキリスト教であることや、通っていた幼稚園がキリスト教であったためか、
私はいつも自分のスケベ心に罪悪感を持ち、神に贖罪していた記憶がある。
そしてスケベ心がない(と思い込んでいた)女に生まれたかったと本気で思っていた。
余談2。母親とプールに行くと、更衣室で私は他の女子の着替えを(あまり見てはいけないと知りつつも)、
ちらちら見ていた記憶もある。
と結べるところに驚いてたけど、
さらにその奥に
と博打的な連結があることに、かなり驚愕。
そもそも、そういう発想ができるという時点で、
自身の感性に自信があるというか、
それだけ認められてきたという実績が垣間見えるよ。
わたしとか、そういう発想自体がもともとないもん。
わたしには博打にみえても、
そういうひとにとっては、案外勝算のあるレースだったりするんだろうな。
哲学やってる奴に囲まれた時期があったけど、あいつら哲学やって生きるのが楽になってなんかないよ。哲学やることで問題の深淵(っぽいもの)にはまってもがいている自分が大好きで、その正当化のために
1,まず生きることは苦しく
とのたまう。なので、もがいている状況から抜け出すと自我崩壊の危機なので哲学を使って真剣に抜けだそうとはしない。せいぜい現状観察とその分析をやるくらいで、どう応用すれば自分の現実を変えられるか、ということは考えることすら思いつかない。生きることが苦しいのはお前らがわざとそうしとるだけだと言いたい。本来の哲学や歴史上の哲学者はそんな陳腐な人生や思想で哲学名乗ってないのは間違いないんだけど、哲学やってる若いのの大半はナルシストのマッチポンプ。
追記
http://anond.hatelabo.jp/20130511063805 を見ればわかるけど、頭悪いでしょ? 誰かがあずまんを評して「ユンボを操るのがすごい上手というのと同じ意味において、論理思考に長けているだけで、現実には何らの価値ももたらさない」とか言ってたけど、こういう「自称哲学者」にぴったり当てはまる表現だよ。自己正当化のために論理を組み立てるのがすごい上手(宗教的情念に訴えかけて俺を否定しようとするこいつにはその能力すらないが。「知恵を愛する」笑)。現実を見ずにただ議論で優位に立つことで自己正当化を図る連中を「無知の知」で批判し続けたソクラテスが草葉の陰でないてらあ。
楽しく書く日記のはずなのに、なぜかここの人ってイライラしてるよね。
今日こんな嫌なことがあった、って日記は多いけど今日こんな楽しいことがあったって日記はあまりみない。
まあ楽しいことはFacebookとかにかけるからかもしれないけれど、ここにはハッピーな人はもしかしたら少ないのかな。
楽しめばいいのに。不思議。
なるほど。
私が言いたいのは、通俗的帰納法から導かれた推論に別の通俗的帰納法を使って反論するのは意味のないような気がするということ。
私の周りはこうなんだ、いやボクの周りはこうなんだよって言われてもそれで?って感じ。
もちろんきちんとしたデータを取るにはコストがかかるし、日記にそこまでの厳密性があるかといえばそのとおりなんだろうけど、通俗的帰納法同士ぶつけあっても何も出てこないんじゃないか、と言いたかったのです。
iPhoneのセキュリティーを高めようと思っておとといの夜パスコードを決めた。
一晩たって、完全に思い出せなくなった。
6回連続して失敗したら1分後に試せと言われたがダメ。1分が5分になり15分になり、60分になった。
結局できなかった。
アホみたい。
iCloudバックアップから復元してなんとか使えるようになった。
これからiPhoneのパスコードは任意の会社の証券コードにしよう。
そして、会社名だけ覚えておく。
http://anond.hatelabo.jp/20130509102306
はてな村を野球チームに例えると僕は「ヤクルト」だと思う。ラミレス(ハックル)もぬけ、古田(ちきりん)も抜けたけど、それでも青木や稲葉を輩出するようなチーム。だから、1つのカラーに染まりがちで気難しいファンが多いけど、他に行っても通じる人材を作れるチーム。それがはてな村だと思う
古田の引退とラミレスの巨人移籍は2007年で稲葉の日ハム移籍は2005年。なので、「ラミレスもぬけ、古田も抜けたけど、それでも青木や稲葉を輩出する」は時系列としてどう考えてもおかしい。
ここは「稲葉が抜け、ラミレスも古田も抜けたけれど、それでも青木を輩出する」と言うべきなのではないでしょうか。
青木のMLB移籍は2012年だけど、200本安打達成で頭角をあらわしたのは古田もラミレスもいる2005年なので、古田・ラミレスが抜けてから青木が「輩出=世にでた」というのも腑に落ちない。「輩出=ヤクルトから出た」という意味で使っているのかもしれないですが。
そして「他に行っても通じる人材」の例ならば、なんで他チームに移籍した3人に混じって引退した古田が入っているのでしょうか。引退してからも野球以外で活躍しているという意味なのかもしれないけど、野球というたとえを使っている以上不適切に思えました。