国公立限定で更にそれらの学校によっても制度が違うし、再入学の際にべらぼうなコスト(=普通の入学と同じコスト)が掛かるから一概にはお勧めできないけど、退学をしても一定期間内であれば今まで取得した単位を認められる場合がある。
動揺して周りが見えなくなっているかもしれないけれど、そういう手がある事も頭の片隅に入れておいてほしい。
今後のことも考えるように言ったけど、それもまだ本人には無理な感じ。
本当のことをいうと、両親はかなりショックを受けてる。親戚にも「あの子どうなってるの」って言われてる。
妹が元気になるには時間がかかると思ってるんだけど、浪人も留年もしているし、周りの大人たちはあんまり待ってくれないかも。
そこもね、心配なんだ。
人生から中退しないでほしい。そう言われるとすごく悲しいよ。どうにか、うまくいってほしいよ。
返事ありがとう。
こんなやつが捨てられるんじゃないか
http://anond.hatelabo.jp/20130510210114
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130510210114
pachikorz 作画, 増田 作画厨という人種が好きなので面白い増田だった。直接会って話すには怖い人種だとは思うけど。 2013/05/11 Add Star
http://b.hatena.ne.jp/entry/sajiya.blog89.fc2.com/blog-entry-312.html
y-mat2006 アニメ 作画
作画オタクは優れた作画ならば普遍的に何でも愛せる者の事を言います。
「アニメーターの個性」と言われるようなキャラクターデザインを守らないスタンドプレー的な作画でも、いやむしろだからこそそこにダイナミズムやアニメーターの感情発露を受け止め感動する事ができるのが作画オタクです。
そしてより強い感動を得たいがために情報を集め、知識を高めるのです。
うつのみやさとるがフルアニメーション的リアリズムへの回帰を望みつつもリミテッドアニメーション主流の日本アニメではそれがいかに困難であるか、その壁を乗り越えてリミテッド上でのリアリズムを模索追求していったか、それでも決定的な所でユンカースカムヒア(パイロットフィルム)やTHE八犬伝の浜路再臨で大平晋也に先を越されてしまったという、アニメーションの進化と大平晋也への功績讃えつつも自分でそれを成し得なかったうつのみやさとるの悔しさを理解しているか。
作画オタクはそれを感じられなければいけないのです。
それを踏まえた上で出てくる共通言語が「たまんね」なのです。
対して作画厨は全くの逆です。
どのような状況下に対しても作画の統一性"のみ"しか要求せず、些細なことでさえヒステリックになる連中の事を指します。
「この回はギャグだから元気のある作画にしたい」とか「いつもよりシリアスだからドライな感じを出したい」といったディレクション的な要求でさえ全く理解を示さずすぐに「作画崩壊だ!!」と叫ぶ奴等が作画厨なのです。
当然作画知識的なものなど何一つ持っておらず、アニメーションの制作工程すら何も知っておらず、無知なのを盾にして勝手な事をいい散らす迷惑なクレーマーでしか無いのです。
そんな奴等のためにアニメ業界は総作画監督制を強制され、曖昧な「クオリティ」のために個性を摘み取る作業を強いられ、全てのアニメは平均化され、アニメーターや演出家の体力やモチベーションは落ちていき、業界そのものが疲労していく。
作画厨はその存在によってアニメーションの進化を阻むどころかむしろ退化させて業界そのものの崩壊に導く害虫のような存在です。
河森正治監督がアクエリオンEVOLの開始前のインタビューで「本当は総作画監督を置きたくないんだけど、今回止むに止まれず置くことになってしまった」という趣旨の発言をしていた事を忘れる事が出来ません。
本当に何年も何年も前から作画オタクと作画厨の区別は付けてくれと私達は言っているのに、未だに解ってもらえないのが本当に悲しい。
■追記
アニメーターのふくだのりゆき氏がこのようなツイートをされていました
https://twitter.com/shuu1roo/status/336685202766184448
ふくだのりゆき@shuu1roo
@yaginuma_san @BlackCatJay 原作者、出資者自身がネットの評判を恐れて、作画オタクの太鼓持ちになってる、ってのもあるかもしれません。
作画オタクの太鼓持ちになっているならば、うつのみやさん達の作画はもっと広く受け入れられていた筈です
今の状況を作り出したのは決して作画オタクのせいではありません、このエントリで書いた通りの話です
同じ事は山本寛氏に対しても申し上げたいです。
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1007/26/news010_3.html
■関連記事
http://anond.hatelabo.jp/20130520105912
作画崩壊厨と『鉄腕バーディーDECODE』の思い出
http://anond.hatelabo.jp/20130520234923 ← できれば「作画厨」じゃなく「作画オタク」に訂正してください。「作画崩壊厨」に関してはその通りなのでそのままでいいです
なんつーおまおれ
そうそうそう、それで私も人に対して何も言えないんだ。
結局自分に落ち度があるから、他人に物を言う前に自分の落ち度を反省してしまう。
それを踏まえ自分に何の資格があって人に意見や要求をできるのか、と考える。
で、結局何も言えねーし何様だ自分ってもやもやが溜まってどんどん悲しくなっていく。
わかる。わかるよ。
それでも、人との関係って100%どちらかに責任があるなんてことはまずありえなくて、関わり合ってる以上、双方に責任があると思ってる。
その人と関わることを選んだ責任、そういう環境に落ち着いている責任とかは、自分で負わんといけない。
むかーしの身分社会ならいざしらず、今の日本では自由に環境変えようとしたら選択肢あるからね。
究極的なはなし、人との関わりを断つのもまた自由。
簡単に人を責められる「おまえが悪い!環境が悪い!自分は正しい!」ってタイプの人がたまに羨ましくなる。
ああいう無邪気な人たちにとって、自分の気に入らない物は悪で、そこを変えるのが絶対的に正しいことだから。
自分は変わることをしない。とっても楽そうだ。
私は今職場でそういうタイプの人に目を付けられ、絶対的に自分は正しい譲らない、おまえの考え方はおかしい、とちくちく攻撃され絡まれているところ。
周囲の人はまあそれなりに理解してくれてるけど、結局は自分で対処して自分を守らなければならない。
その時に、どうしても上記の自省がでてきて、強くいえない。
歳が大分違うから遠慮してるのかもしれないけど、でも根本的には、相手を責める勇気がない。
そのうちだんだん自分のことを棚に上げて相手を責めるような感覚になってきて、なんだか勝手にこちらが申し訳なくなってきてしまう。
増々ナメられ責められる。
うーん疲れた困った。
いっそ海外で生活したほうがまだ意志が通じるんではないかと思う。
話が逸れた。
自分が悪い、と対人関係のトラブル全ての責任を自分に向けようと追い詰める考え方は、苦しい。
関わり合いの中では、逃れられない責任を、各々が持つと思います。
自分の分を自覚して、反省して改善の努力をすればいいと思います。
頭ではそう思ってるんだけどなあー。
結局自分を責めて溜め込んで、わたしも苦しいです。
少なくとも2000のアカウントは彼の存在が必要なんだよ。こんなに多くのアカウントから追いかけられている人は普通じゃない。日本人の平均被フォロー数は約300。
やはり彼は特別な存在だ。
返事ありがとう。
家族は、やっぱり卒業はしてほしかったと思っている。その単位のために留年もしてるし。
他の人はわからない。妹は、友達や教授などに悩みを相談に行くような性格じゃないんだ。
「流して書いてしまうと170字~200字程度は掛かってしまう表現内容を、
いかに自らのボキャブラリーを駆使して、140字以内に収めるか?」という能力が問われるのでは?
自分も、流して書いたら5文字のワードを3文字にしたり、極力句読点を詰めたり、
外来語を日本語にしたり、或いは逆に日本語を外来語にしたり、で、
ギリギリ140字以内に無理やりまとめ上げたりしている。
そういう時代では、「美しいが、少し文字数長いワード」は淘汰され、
「ぶっきらぼうだが、短字数で抑えられるワード」が優位になって、ゆくゆくは日本語に影響していくと思う。
「こないだの合唱の話あれないよな」
「ゾウを貸してください、おやつ代でw」
「鬼かよ!」
「ググったら餌代すげぇんだって」
「借りたら高いので、子供に言わせました」
「なんということでしょう、あんなに高かったレンタル料がおやつ代で済んだのです」
以下ふざけた言葉遊びが続く……
今もかわいそうな象やってるのかとか、
何より小学教師がんばれ
哲学には常識を疑えるようになる、という非常に重要な効能があるんじゃないかな。
『方法序説』のデカルトも、当たり前だと思われてることを疑って疑って疑って……
でも疑ってる当の俺の存在は疑えなくね? という思想で有名だよね。
多分哲学をやれば、哲学しない人に比べたら、一般に常識としてまかり通っていることが疑えるようになると思う。
極端な話、みんなが哲学してデカルトくらい疑り深くなったとしたら(デカルトですら不徹底だという人もいるみたいですが)、
世の悪癖とか、形骸化した悪習みたいなものは完全に撤廃できるかも知れない。
「その風習、今も続ける意味あんの?」と声を大にして問えるようになるかも知れない。
それによって世の中が良くなる、と言えるかも知れない。
理屈こねまわすことに楽しみを感じない人に哲学やらせるメリットとして俺が思い浮かぶのは、まあこんなもんかなぁ。
やらされた本人は別に楽しくないかもしれないけどね。世の中としては多少マシになるかも知れない、という感じ。
もちろん社会全体が懐疑主義なのであれば、議論の時間がクソ長くなる、というデメリットもあるかもしれない。
卒研も終わってるし、もったいない。もうちょっとがんばってほしかった。でも「単位取れなかったという事実は重い」とか「だめなものはだめ」と頑なに言うばかりである。
だめなものはだめ、といわれると、すごくつらい。本当につらいのは本人だろうけれど、私も、なんだか心の中の柱みたいなのが折れた気がする。
どうがんばっても無理なのか……
今は何の助言も拒否されてしまうし、どうしようもない。どこかに助けはないだろうか……
http://anond.hatelabo.jp/20130511144625
すべての仕事は高尚である。残念ながら仕事という意味では法に抵触する泥棒でも強盗でも高尚である。言い方を変えればその仕事を良き物にしようとするときその仕事は高尚になる。
コンビニは厳しい。最低賃金にちょっと色がついたぐらいの時給でメチャメチャ厳しい。どこかで手を抜かないとマニュアルすらこなせない。ん?手を抜いたらマニュアルがこなせてないことになるな。まじめに店長をやると人生観が変わるぐらいキツイ。経営的に厳しい店のオーナーになるとブラック企業なんて給料が出るだけマシ、辞めて借金で破産する人だって結構いる。
コンビニの世界は広い。今現在の小売業のカリスマはセブンイレブンの鈴木さんだ、ダイエーの中内さんが大きく育てた日本の小売流通業は、カリスマというにはあまりに紳士的な鈴木さんで日本の小売流通の地位を固めた。小売価格は小売店が決めることに固執した中内さん、仕入れに責任を持つ小売店を思考の中心に置く鈴木さん。コンビニ前の日本の小売流通とコンビニ後の小売流通はずいぶん変わった。僕らの生活が変わったように。