はてなキーワード: 白木屋とは
お金がないとか、特定の趣味につぎこんでるとかでなくても、価値観の違いはある程度の年齢になると現れるのだろうと思った。
大学生の頃、長い休みで地元に帰省する旅、いつも同じファミレス(ちなみに、地元にサイゼは無いので、サイゼではない低価格帯)で会って数時間喋る友人が居た(高校の同級生)。
社会人になって、2人とも地元にUターンし、数ヶ月に一度、同じような感じで会っていたが、ある日言われた。「この店飽きた。今度他のとこにしない?」と。
俺は別に気にしてなかったことだが、そう感じる人もいるのか。で、喫茶店とか地元ではちょい洒落た居酒屋とか、2人でも行ってみたんだが、どう考えてもコスパではファミレスのほうがいいし、俺は店の雰囲気もファミレスのほうが好きだったんだよなぁ。そのせいかはわからないが、なんとなく疎遠になった。
話は変わって、30歳の同窓会のとき。2次会で地元のスナックに行った後、数人で帰りながら1人がぼやいた。「あんな店でマズイ酒飲んで、何が楽しいんだか」と。するともう1人が共感した。「どうせなら、ちゃんとしたバーで、美味しい酒飲みたいよな」と。
俺は正直、そんなことは感じてなかった。ぶっちゃけ、集まって話せる場所として申し分なければ、それでいいと思ってたし。
まあ、俺の場合、普段飲みに行かないから、そういう店を知らないってのもある。お酒好きじゃないし、あんまり「食」にもこだわりないし。
若い頃のようにワイワイしたいとも思わないが、あんまり「いい店」ってのにも興味ないんだよなぁ。出先での昼食も、マックとか吉牛とかのほうが気楽だし。
ちなみに、白木屋は生活圏に無いので、行ったことはない。ただ、前に冷凍の白木屋メニューがスーパーで売ってて、家で食べたがそれは美味しかった。
サイゼは30歳のときに初めて行った。確かに安くて美味しい。ただ、メニューがイタリアン系なあたり、個人的には和食も洋食もある他のファミレスのほうが好きだなと思った。
おごってもらったのが白木屋だったな。
「俺は、毎晩こういうところで飲み歩いてるぜ。金が余ってしょーがねーから」
お前はそういって笑ってたっけな。
お前は月30万稼ぐんだって胸を張っていたよな。
「バイトの後輩どもにこうして奢ってやって、言うこと聞かせるんだ」
そういうことを目を輝かせて語っていたのも、白○屋だったな。
あれから十年たって今、こうして、たまにお前と飲むときもやっぱり白○屋だ。
ここ何年か、こういう安い居酒屋に行くのはお前と一緒のときだけだ。
別に安い店が悪いというわけじゃないが、ここの酒は色付の汚水みたいなもんだ。
油の悪い、不衛生な料理は、毒を食っているような気がしてならない。
なあ、別に女が居る店でなくたっていい。
もう少し金を出せば、こんな残飯でなくって、本物の酒と食べ物を出す店を
いくらでも知っているはずの年齢じゃないのか、俺たちは?
でも、今のお前を見ると、
お前がポケットから取り出すくしゃくしゃの千円札三枚を見ると、
俺はどうしても「もっといい店行こうぜ」って言えなくなるんだ。
お前が前のバイトクビになったの聞いたよ。お前が体壊したのも知ってたよ。
新しく入ったバイト先で、一回りも歳の違う、20代の若いフリーターの中に混じって、
使えない粗大ゴミ扱いされて、それでも必死に卑屈になってバイト続けているのもわかってる。
だけど、もういいだろ。
十年前と同じ白木屋で、十年前と同じ、努力もしない夢を語らないでくれ。
そんなのは、隣の席で浮かれているガキどもだけに許されるなぐさめなんだよ。
正確には、就活の準備をしたら答えが出た。結果から言うと、私は始まってすらいない就活をやめることにした。
中学生の時は、「なんでどうせ死ぬのに勉強しなければいけないんだろう」
高校生の時は、「なんでどうせ死ぬのに受験しなければいけないんだろう」と思っていた。
中学3年の時、担任に「生きがいってなんですか?」と聞いた。暗い人間と思われるのが嫌で、笑いながら聞いたけれど、本当は「何で生きてるんですか?」と聞きたかった。
高校に上がっても大学に入っても理想と違っていたのは、「いつかどうにかして上手くいく」と信じていたからだ。自分で変えようとしないと、楽しくはならない。だからいつも、上手くいかないと悩んでいた。
入学する前は漠然とした輝かしいイメージがあって、人と比べると落ち込んでしまうけど、だからといって生きていくのに他人と関わるのをやめてしまうのも意味がない。自分に見合った人生を楽しむ必要がある。
そして大学生の今、「なんでどうせ死ぬのに就職しなければいけないんだろう」と思っている。思っていた。もちろんこれから約60年くらいかを生きるためだ。じゃあ何のために生きているのか。ありきたりだけど、私は幸せになるためかな、と思う。
幸せは人によって違うし、上を目指そうと思えばきりがない。
インターネットが普及して、人の生活を見る機会が多くなった。見られることを意識した投稿は少なからず演出がされている。それを見て、手が加えられた人の幸せを、自分の幸せだと錯覚してしまう。
就職活動は自分がやりたいこと、やれること、やらなければいけないことを、その会社が求めていることとすり合わせる作業だ。
そして何よりも就職活動で重要なのは、今まで何をやってきたかに加えて、その企業で「何をやりたいか」なのだ。10年後のビジョンがないのなら、入ったって意味がないと思った。
今までは、未来を上手く想像出来ないでいた。そこそこに名の通った大学に通っても、目標がないまま過ごす大学生活は当然のことながら面白くなかった。
ずっと考えていた。馴染めないことや、違和感について。
今まで生きてきて、やりたいことがひとつだけある。それを今、見つけた。見つけたというより、今までもずっと傍にあって、でもどうせ無理だからと目を背けていた。
そのために雇われることをやめようと決めた。並行してできる人もいるかもしれないけど、そこまで器用ではないことにはもうとっくに気づいている。
今から私が言うようなことを、昨日までの私が読んだら、「夢がある人はいいなあ」と思っていたと思う。私はそちら側にはなれない、そう思っていた。自分も当たり前にみんながやっている生活が、自分にとっての幸せだと信じていたからだ。
本当は、挑戦するきっかけは気付いてないだけでたくさん転がっている。
きっと私はこれから5年もすると、世間の平均から大きくずれてしまうだろう。友達のする仕事の話や家庭の話に付いていけなくなるだろう。生活水準にも差が出来ると思う。病気になった時、生活保護に頼るかもしれない。でもそれで良い。毎日あってもなくても変わらないような生活をしていたけど、今はもう違う。目標ができた。
目標を叶えて、私は生きていて良かったと必ず思う。今度はちゃんと想像ができる。高い買い物が出来なくても、立派な家に住めなくても、家族が出来なくても、自分が何の為に生まれて、社会に組み込まれるかがやっとはっきりと分かった。同時に、やりたくない仕事をやって、もしもの時のためのお金を蓄えるために働いて、好きな物を買っても、きっと私は幸せになれないことに気付いた。みんなの幸せに自分も当てはめて、納得することができないと思う。
いままで不安だったのは、周りと同じように出来るだろうか?という不安だったと思う。同じように就職できるだろうか?という心配だ。
高校のときに白木屋のコピペを見て、こうはなりたくないな、怖いな、とずっと思っていた。しかしあれは他者の視点であって、自分の視点ではない。他者にとっての幸せは自分の幸せではないし、自分の幸せは他者の幸せではない。一般的な道を外れるからには、一般的な幸せを獲ることを諦める覚悟が必要だ。視界がクリアになった。この人生で、やりたいことが明確になった。
一般的な幸せがぴったりとあてはまっている人は、私の言っていることに違和感があると思う。なぜならこれはあなたの幸せではないからだ。
このまま就活をして、内定をもらって正社員になって、夢を見ていたことも忘れて、たまの休みに自分のやりたいことをやって、そして私は「こんなもんか」と思うのだろう。それは絶対に嫌だから、何でも出来る今、リスクのある方を選ぶ。時間は有限だから、私は就職活動をしない代わりに力の限りを尽くして夢を叶える準備をする。そのためにここに書いておく。叶えたらまた書きにきて、次の目標を書く。叶えられないときは、死ぬときだ。