はてなキーワード: アンパンとは
以下雑感。やなせたかしが死んだ。私も幼い頃アンパンマンが好きな子どもだった。今はアンパンマンという作品が好きだが、それは幼い頃とは少し意味合いが違う。
アンパンマンは「正義とは何か?」それを考える上で非常にシンプルで明快な作品であり、それが今でも好きな理由だ。
知っての通りアンパンマンが成す正義の行いは大きく分けて二つある。
・バイキンマンと戦うこと
知っての通りこの二つである。作中でアンパンマンはこの二つを両立させている。それを可能にしているのはジャムおじさんによるアンパンの無限供給である。アンパンマンは顔が濡れると力を失う。すなわちあんぱんはアンパンマンにとって命そのものとも言える。ジャムおじさんがいる限りにおいてアンパンマンは不死身ともいえる。作者であるやなせたかしは「貧困している人がいれば、パンをあげる」それこそが絶対正義だと言っていることは、実に興味深い。それは不老不死であるアンパンマンにしかできないことでもある。さらにアンパンマンは顔をちぎっても痛みや苦痛をともわない。命が保障され苦痛も伴わない、そのうえ人々に尊敬される存在。なんとも卑怯な存在とも言えそうだ。
そこで私はひとつの思いを走らせる。アンパンマンの不死を支えるジャムおじさんの死。そのとき、アンパンマンがとるべき正義とは何だろうか?
これは大きくわけて3つある。
・自分の命を犠牲にしてお腹の好いた人に自分の顔をあげて死ぬこと
・己の命を守りぬき、できる限りの人を救うこと
アンパンマンはジャムおじさん抜きでバイキンマンと戦えば間違いなく負けるだろう。これら3つは一つとして同時には成り立たない。さてここでもう一度やなせたかしの言葉を思い出してみよう。仮にやなせたかしがジャムおじさんの亡くなった後を描くとすると、アンパンマンは正義のために3つのうち一番上の選択肢、すなわち「自分の命を犠牲にしてお腹の好いた人に自分の顔をあげて死ぬこと」ということになる。しかしながら、作者であるやなせたかしは自分の命と引き換えに貧困者を救うという選択は選んでいない。寧ろ、作者の人生は一番下の選択肢を選んだ様に私には思える。
果たしてどれが正義なのか?それは人によって答えが違うかもしれない。しかし、私としては己を犠牲にしてまで人を救えるのはヒーローであるアンパンマンだからこそ出来たことであり決して普通の人間が考えるべきことではないと思う。
ジャムおじさん亡き世界でアンパンマン、それこそを考えさせてこそ教育的に価値のある本だと私は思う。さてジャムおじさん亡き世界でアンパンマンがとった行動とは?
WEBサービスやSNSなどの発展により、パスワードを要求されることが増えてきました。
でも、パスワード覚えるの面倒くさいですよね?
かといって自分の生年月日や出身地などに関するものでは、簡単にばれてしまいます。
そこで提案したいのが、平文で保存できるパスワードの生成方法です。
複雑なアルゴリズムはいりません。必要なのはあなたの頭と思い出だけ。
それではさっそく作ってみましょう。
中学生くらいの頃の。
現在進行形でも可。
念のためアナログで。
妄想や黒歴史に登場する設定やキャラクター、ストーリーを書き出します。
ネタ帳を見てはいけません。ぱっと思いつくものだけにしましょう。
妄想から一つ、黒歴史から一つモノをピックアップして組み合わせます。
これがパスワードになります。念のため脳内で組み合わせるだけにしましょう。
パスワードが「cheesedorami」なら
”パスワードは「パン工場の飼い犬」+「青い猫型ロボットの妹」”とします。
これで、テキストが保存できる場所なら、どこでも保存できるようになりました。
ポストイットに書いてモニターに貼っておいてもいいし、EVERNOTEに保存しておいても良いです。
ブログやツイッターなら、プロフ欄に書いておくとおもしろいかもしれません。
ここで指摘されている
たとえば制限文字数8文字なら(前と同じアンパンドラでパスワードを生成します)
「主人公の妹的存在の姉(英語前3)」「嫌味な少年の弟(ヘボン後5)」
と書けば
「roltsugu」と8文字に圧縮できます。
「悪役2人の角の数合計」「主人公の姓と同じ文字の組み合わせは、主人公の家族全員の名前の中にいくつ入っているか」
覚える必要がないので、パスの一部を共有することなく、全く異なるパスワードを設定できます。
「はてなid=Anony1、パス=聖剣士ギルモアの秘剣の数+俺がはなざーさんと初めてデートした場所(日本頭2、後3)」
と書かれたポストイットが貼ってあったら大変なことになりそうですね!
いかがでしたでしょうか。
効果の実証として、以上の方法で生成した私のはてなIDとパスワードを晒して終わりにします。
はてなid=「立ち上げたイラストサイト名(ヘボン母音前3)」「漫画原作時のペンネーム(語呂2)」
パスワード=「ヘンリエッタの義兄がダンスパーティーで王女に見初められた年齢(数字)」「漫画原作時のペンネーム(独語ヘボン全)」
「何も感じさせない」がサービスの基本
うまく仕切ることができて、だれも不満を感じないようにすること。買いたいと思った物が、なんの苦もなく手元に届き、いらいらや不愉快な思いをさせない、いわば何も感じさせないことこそが、実はサービスの基本でもあるわけです。
少ない人員で、いかにこのサービスの基本を実現するか。それは、3時間半をどのようにプロデュースするかにかかっているとも言えます。
1往復目は、お客様は今すぐほしい物をお買い求めになる傾向がありますから、お客様主体です。2往復目以降からが、わたしたちのプロデュース力にかかっているとも言えます。キーになるのは、どの区間で何を売るか、販売のタイミングです。
たとえば、お弁当とお土産を放送で紹介して、同時に販売したらどうなるでしょうか。お客様にとってみれば、お弁当とお土産が同時に買えるので、メリットがあるかもしれません。でも、それでは一人のお客様と対応する時間が長くなり、お弁当がほしいと思っているすべてのお客様の手には届かないことになります。
ではどうするのか……。それはその時の時間帯や状況によって異なりますが、お弁当が積まれてくる前に、まず放送をかけてお土産を先にお買い求めいただけるよう、段取りします。お客様を、お土産のほうに誘導するわけです。時にはゆっくりと時間をかけて回って、お客様が購入しやすい状況を作ります。コーヒーも利用が集中しないように考えます。
もう少し具体的に言うと、こんな感じで段取りをつけていきます。寒い時期はホットコーヒーがよく売れるので、20分しかない郡山~福島間も必ずワゴンを押して「温かいコーヒーはいかがですか」などと声をかけながら回ります。コーヒーを飲みたいと思っている大半のお客様に、この20分でお届けすることができるからです。
そうすることで、次の福島から米沢までの1往復では、コーヒーの利用がぐんと減るのです。こうなると、ここでは別の品物の販売に力を入れることができます。お客様に興味を持っていただけるように放送をかけたり、お客様と会話を交わしながら丁寧にお土産を販売していくことも可能になります。
このように、飲み物やお土産を先にお買い求めいただくように誘導することで、米沢からは、時間との勝負のお弁当を集中的に販売することができるわけです。
飲み物やお土産やお弁当を2~3回に分けて買っていただくことには、もう一つメリットがあります。お客様と販売員の距離が縮まり、お客様が販売員に声をかけやすくなるのです。「お土産をもう一つ頂戴」と買っていただくこともあれば、「お世話さま」「お弁当おいしかったわ」「さっきはありがとう」などと、最後に声をかけていただけることもあります。こうしてお客様に満足していただくことで、わたしたちもやりがいを感じることができます。
二言目の相乗効果
特性のアンパンを売っていた時、買ってくださったお客様に「生地がもちもちしていて、すごくおいしいんですよ」と一言添えます。すると次に通った時に、「いやあ、さっきのアンパン、たしかにおいしかった。もう一つくれる?」と言って、追加注文をいただくことがあります。
すると、このようなお客様とのやり取りを聞いていた近くのお客様が興味を示し、「そんなにおいしいのなら、わたしも」と、お客様の輪が広がる、といったことがよくありました。
もちろん常にそうなるわけではありませんが、お客様の「おいしい」は、周囲のお客様に対して、何よりの宣伝効果があります。
そして、そのような言葉をいただけるかどうかも、最初にこちらから一言添えているかどうかで、大きく変わってくると思うのです。
お客様にしてみれば、単に黙って商品を差し出した相手よりは、一言でも言葉を交わした相手のほうが、次も気軽に声をかけやすくなりますし、さらにご自身の感想も口に出しやすくなるでしょう。
商品をお渡しする際に一言添えて言うことは、べつにお客様からお褒めの言葉を引き出したいがためにやっていることではありませんが、そのような思わぬ嬉しい効果もときにはある、ということです。
それに、お客様と交わすこうした会話は、車内に和やかな雰囲気をかもし出します。
旅の途中の些細な出来事かもしれませんが、たった一言から「あの時新幹線で食べたアンパン、おいしかったな」といった思いを多くの方に残せたら、素敵だなと思います。
山形駅でご乗車された50歳くらいの女性のお客様は、「ああ、間に合ってよかった!でもお土産、買えなかったのよね」とおっしゃいました。
こういったお客様のためにも、車内販売ではお土産も用意しています。
わたしは早速山形のシベールというお店のラスクをご案内しました。全国的に人気のあるラスクなので、このお客様もよくご存知で、今まではわざわざ山形にあるお店に買いに行っていたそうです。
その商品を新幹線でも扱っていることを知って、とても喜んでいただき、二箱お求めいただきました。
お買い上げいただいたシベールを袋に入れながら、山形のお店までわざわざ買いに行かれているというさきほどの話を思い出し、「このラスク、東京でも手に入ることをご存知ですか」と申しました。
わたしは、車内で販売する商品、特にお土産やお弁当など、地域限定で販売しているような商品は、ほかにどこで売っているかをなるべく把握しておくようにしています。それは商品情報の一つだと思うからです。情報を持っているから、このようなお話もできたわけです。
お客様は、虎ノ門(注: 現在は銀座)にある山形県のアンテナショップでたまに販売しているのはご存知でしたが、ほしい時になかなか手に入れられないご様子でした。そこでわたしは「日本橋の三越さんにも入っていますよ」とご案内しました。
お客様は、「週に1回は三越に行っているのに、気付かなかったわ。是非行ってみるわ」と、嬉しそうにおっしゃってくださいました。
時間にすれば、30秒にも満たないかもしれません。こんな会話を交わしたあと、わたしはまた車内販売を続け、そのお客様の近くに戻ってきた時に、そのお客様が手招きをされます。
「お姉さんとラスクの話で盛り上がったら、家族にも食べさせたくなっちゃった。あと二箱頂戴」と全部で4箱もお求めいただきました。
東京駅が間近になった時、またそのお客様とお会いし、こんなことをお尋ねになります。「実はうちの主人、新庄に転勤になりそうなんだけど、新庄ではラスクは手に入らないわよね」と。たしかに新庄にはお店がありません。
その時にわたしは名刺をお渡しして、「お客様、わたしたちは365日新幹線で新庄に行っております。お客様が駅まで取りに来ていただければ、お渡しできますよ。よろしければご連絡ください」と申し上げました。
すると、大変喜んでくださって、東京駅では「お姉さん、さっきはありがとう」と手を振って降りて行かれました。
このお客様、どこのどなたか存じませんが、この日、この列車だからこそ出会えたお客様です。
「東京でも手に入るの、ご存知ですか?」とたった一言お客様に申し上げただけで、こんなにも喜んでいただくことに繋がりました。
言葉をかけない配慮も必要
たとえば、お菓子はいっぱい持っているけれども、車内でどうしても何か買いたいと言ってわんわん騒いでいるお子さんがいます。でも、親としては絶対に買いたくないと思うわけです。だから、そこを通る時には子どもの気を引かないように通ります。
あるいはお昼前で、お母さんとしては、今お菓子を子どもに食べさせたくないという時もあります。そういう時も、お子さんを刺激しないように注意します。
また、お客様によって、元気に明るく対応したほうがいい場合もあれば、静かに対応したほうがいい場合もあります。
悪いところよりも良いところを見る目が必要
人の欠点を探すのは、すごく簡単なのです。ここがだめ、あそこができていないというのは、すぐに分かります。しかも、それをただ指摘するだけの指導は、決していい効果を生まないのです。
売る側が気持ちよく現場に立てなければ、お客様に喜んでいただくことはできないはずです。だから、わたしは、販売員を乗務に送り出す時には、たとえ、遅刻してきたような時であっても、「気をつけてね」と、注意をするだけにとどめています。
なかには、しかりつけてしまう人もいますが、それではかえってマイナスだと思うのです。売る側も買う側も、心を持った人間であるところが、接客業の指導の難しいところでもあるのでしょう。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
(ブックマーク数がとんでもないことになったため、元増田はうかれている。なので匿名ダイアリーなのに、ペンネームまで書いてしまった。タイトルに大きく、須江岳史、と。しかし、プロの小説家でもない一人のプータロウが書いた文章がこんなにもてはやされることを、すこし疑問にも思っている。ちょっと足を伸ばして図書館に行けば、小説の書き方についての本はいくらでも手に入るはずだ。何かを学び取る目的ではなく、長すぎるからブックマークしておいた、というのなら、納得する。というかこの論は物語と小説をニアリーイコール扱いしていて、小説論としてはちょっと古いというか、語りという小説の大問題がスルーされていて厳しい。という指摘も当然のことで、普段、一人称の小説ばかり書いている自分には、人称とか視点とかいった物語を語る上での問題について取り組む実力は無い。「小説は自己表現なんだから、各々が語りたいように語ればよいと思う」のような言葉で、逃げることしか出来ない。僕の小説の実力がどの程度かは、http://texpo.jp/texpo/disp/16732を読めばわかると思います)
Ⅰ、小説概論
まず話の筋の作り方を考え、次にそれをどのように小説として表現するかを見、最後に小説を書く上での国語的諸注意事項を述べる。
そもそも小説がどのような構成要素から成り立っているかを考える。
まず、小説だけではなく物語一般の話の筋がどのように出来ているかを考える。
多くの物語は、欠損-充足の形を持つ。多くの物語は主人公に何かが足りない状態から始まり、それが満ち足りた状態で終わる場合が多いということである。
また、満ち足りた状態にたどり着くためには満ち足りた状態になるための行動が必要になる。そして行動をとるためにはその機会が与えられないとならない。
ここまでをまとめると、物語の筋は
欠損 – 機会 - 行動 - 充足
となる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来た(充足)。
ただ、物語の面白みのためには、充足が起こらないほうが良いかもしれない。行動の結果が、充足の起こらない失敗に終わり、それが新たな欠損となり次の話の筋を紡ぎだすこともありうる。
よって、物語を構成する基本的な四つの要素は
欠損 - 機会 - 行動 - 結果(充足または失敗)
であるとする。この一連の流れが組み合わさることによって、物語は出来上がる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来たが、十二時の鐘がなったので帰宅しなければならない(失敗に終わった結果、新たな欠損)。
少女は名乗り出て靴をはく(行動)。
後味の良し悪しの面から見て、最終的には充足で終わった方が良いように思われる。
また、欠損があって、それを解決する機会を与えられれば物語が始まることがわかる。
また、欠損を細分化したうえで見つかる欠損というのも考えられる。
たとえば、
鬼を退治するためにはお供を仲間にしなければならない。お供を仲間にするためには黍団子を持っていなければならない。
黍団子を持つためにはおばあさんから黍団子をもらわなければならない。
おばあさんから黍団子をもらうためには黍団子の材料を買ってこなければならない。
というように。
このようにすれば物語はいくらでも引き伸ばすことが出来る。書くべき物語の分量によって、どの程度まで細分化できる欠損なのかを慎重に選ばなければならない。
一つの物語で充足される欠損は一つとは限らないし、主人公たちの欠損が充足されるとも限らない。『ロミオとジュリエット』では、主人公たちの恋愛は成就しないが、キャピュレット家とモンタギュー家の関係が、対立から和解へと移り変わる。
物語は、話の筋それ自体で面白いことが最善であるけれども、それが出来ない場合には伏線によって面白さを増幅させるしかない。
ここでは、仮に伏線には四種類あるとする。
ⅰ)質問―答えⅱ)ある現象/行為への意味の付加―行為/現象の再現
ⅲ)行為・現象―行為・現象のリフレイン
ⅳ)思い込み―認知
それぞれ、順を追って説明する。
物語冒頭に置かれた質問に、ラストシーンで答えることで感動を増す。
具体例:どうしてキノはこの汚い世界を旅しているの?(冒頭の質問)
ある現象・行為にはある意味が隠されている、と登場人物が語り、その現象・行為が実際に現れる。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『「(とにかく面倒だから、神様を閉じ込めて、全部なかったことにしてもらえばいいって。そうすれば、ばれない)」』(70ページ)という免罪の方法を提案して、実際に物語の最後付近でそれを行っている。
物語の中で起こった行為・現象が物語の終盤で再現されることにより、面白みが増す。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『聞いてるわたしにも、どうやらこの姉弟がレッサーパンダを盗む気らしい、ということはわかった。』(216ページ)『動物園を振り返って、「さっきの子供たち、うまくやり遂げるかな?」と。』(222ページ)
というようなレッサーパンダを盗むという行為があった上で、
『「あれ、レッサーパンダだ」』
『「盗んだんだよ、あの子供たちは」』(339ページ)
間違った方法を目的を得るための方法だと思い込み、それが間違いであったことに気づく。多くの場合、気づくまでに行ってきた行為が主人公に、行為の目的とは反対の結果を持って跳ね返ってくる。
物語の筋が悲劇的に終わっても、ⅰ、ⅱ、ⅲの伏線が幸福を含意していると悲劇性を和らげることが出来る。
目的達成を阻むものが、あるものだと仮定して行動していたが、その仮定が正しくなかったことに気づくタイプの伏線。多くの場合、気づく前の行動が気づいた後に本来の意味とは反対の意味を持って主人公に跳ね返ってくる。
認知は、約束―報いの伏線によって引き起こすのが最も容易である。
主人公の目的を阻むものは四種類ある。カッコの中の左側は存在場所、右側は存在原因を意味する。
(自己,自己)例:主人公の性格の欠陥(他者,自己)例:主人公に対して恨みを持っている敵
(他者,他者)例:絶対悪
敵の仮定が4パターン、真実の敵が4パターンあるので、認知型の伏線には全てで16パターンあることになる。
これは、『あらすじ.com』の三匹のモンスターの概念を内包している。
(自己,自己)狼男(自己,他者)対応しない
(他者,自己)フランケンシュタイン
(他者,他者)ドラキュラ
物語には六種類の登場人物がある。
主体:物語の主人公。欠損を解決する。送り手:主人公に、欠損を解決する動機を与える者。
援助者:主人公に、欠損を解決する能力を与える者。
受け手:欠損の解決の享受者。
敵対者:主人公の欠損解決行動を阻む者。
それぞれ、同一人物が複数の行為項を演じても良いし、ひとつの行為項に複数人が入っても良い。たとえば、送り手と援助者が同一人物であることは大いにありうる。また、それぞれが必ずしも人間である必要もない。
欠損ごとに行為項モデルは立てられるので、ある場面では敵対者であった存在がある場面では援助者になることもありうる。
物語に出てくる全ての欠損について、行為項モデルの六つの登場人物を生めることが出来れば、それ以上の登場人物は物語に必要ではない。
物語の冒頭やクライマックスを盛り上げるためにシチュエーションは使われる。
面白いシチュエーションとは、即ちギャップである。
それは場所と行動のギャップであるかもしれないし、それまである登場人物のそれまでの行動とはかけ離れた行動かもしれない。いずれにしろ、「~であるにもかかわらず」という言葉で表される。
たとえば、「日ごろ温和な性格であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか「静粛でいなければならない図書館であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか、「たかが100円のアンパンを食べてしまっただけのことであるにもかかわらず、暴れ狂う」とか。
物語を組む順番として、『欠損-伏線とシチュエーション-細分化されていない欠損の話の筋-細分化されていない欠損の行為項モデル-細分化された欠損の話の筋-細分化された欠損の行為項モデル』といった順番で組んでいくのがスマートに行く。なぜならば、欠損がなければ物語は動き出さないし、伏線とシチュエーションは話の筋や行為項モデルあとから考えるとそれらに縛られて上手くいかないからである。
①、主人公が向かう目的を定める。②、主人公が見舞われる危機を定める。または、どのようなギャップがある状況に立たされるかを決める。
③、危機・ギャップが何故起こるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
④、危機がどのように回避されるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
⑥、必要ならば、下位物語にも①~⑤を施す。
⑦、物語(下位物語も含む)の適所に、ギャップによる面白みを与える。
⑧、整合性を与える。
また、どのような魅力的な登場人物・伏線・シチュエーションでも物語の自然な流れを妨げるなら切り捨てるべきである。
場面では、人物、場所、時間が描かれる。人物、場所、時間のうちのいずれかが変わったとき、場面が転換されたという。また、場面は一人称であれ三人称であれ場面に登場する一人の人物の視点を通して描かれることが多い。
場面の特徴として、行為・現象の一回性が挙げられる。場面は、一度しか起こらない行為・現象を場面に登場する人物の感覚を通じて読者に体験させる。
場面の始まり方として、人物・場所・時間を指し示して始まる場合、登場人物の行動から始まる場合とがある(台詞から始まる場合は、登場人物の行動から始まる場合の特殊例とみなす)が、そのいずれにせよイメージすることが出来るか否かが読解の容易さを決めるので、場面の開始からまもなく人物・場所・時間を明らかにしなければならない。
小説を読む上では情景をイメージしやすいほうが読解が容易であるといわれているので、色彩や位置関係を表す語を使って場所や時間を説明するべきである。
場所・時間の説明は描写法的だといえるが、その場所・時間におかれたものを登場人物の行動の目的語にすると、スムーズに場面を始められる。
何かが起こるたびに、その場面に登場している人物全員の反応を描くべきである。また、その感情は、どのような身体的動作を持って表情として表されたかを描くべきである。なぜならばイメージしやすいほうが読解が容易であるからである。
要約法は、登場人物が何度も行った行動や何度も起こった現象を記述する。場面法とは違い、複数の時間や場所をまたがる事が出来る。そのため、時間や場所の離れた場面と場面をつなぐのに要約法は用いられる。
要約法は場面と場面とをつなぐためにしか存在しない。
場面法が動画だとすれば、描写法は静止画である。
描写法は、場面が行われている空間にあるものを描写する。場面が行われているなか描写がはさまれると、場面の時間を止めることが出来る。
台詞は音楽で言えばフォルテ、地の文は音楽で言えばピアノのような効果を持つ。多くの場合、台詞はカッコにくくられる為に強調されるが、台詞続きの中で地の文が出てくると大きな強調効果を持つことがある。たとえば強調すべき台詞をあえてカッコでくくらずに地の文で処理することで大きな強調効果を与えることができる。
台詞と台詞の間の間をつなぐために、地の文をおきたくなることがしばしばある。こういったときのために、場面の情景を刻々と変化させるとか場面の登場人物に場面開始と同時に何か動作をさせる方法がある。
書き手の中で起こった感動が読み手の中でも起こるためには、文が書き手の意図するとおりに伝わらなければならない。誤読を少なくする方法をここでは述べる。誤読を避けるために、修飾語と被修飾語、主語と述語は可能な限り近づける必要がある。
「私は走る車に飛び乗る」のような文は、読者が「私は走る」と理解した後で、走っているものは車だと改めて理解する。このような事をなくするために、「走る車に私は飛び乗る」のように主語と述語を近づける必要がある。
主語と述語の対が二個以上あり、どちらかがどちらかの文の成分になっているような文を複文という。
「私はリンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと思う」というような文は読解が難解である。これも、主語と述語を出来る限り近づけ、「リンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと私は思う」とすると読解が容易になる。また、複文を単文(主語と述語の対が一つである文)に分解し、「彼はリンゴを片手で握りつぶす。彼は握力がとても強いと私は思う」というようにすると、誤読は少なくなる。
日本語は上から下に修飾が行われるため、様々な不都合な事が起こる。
「美しい獣と女」は、美しいのが獣だけなのか、獣と女の両方が美しいのかが判然としてない。美しいのが獣だけである場合は、「女と美しい獣」のように順序を入れ替えるか、「賢い女と美しい獣」のように両方に修飾語を与えてしまう方法がある。
「地中海で育った少年からもらったトマト」は、トマトが地中海で育ったのか少年が地中海で育ったのかはっきりしない。トマトが地中海で育ったのであれば、「地中海で育った、少年からもらったトマト」のように読点を打つか、「少年からもらった地中海で育ったトマト」のように順序を入れ替えればよい。ただし後者の場合、地中海を少年からもらったように誤読される可能性が無くもない。
ガーデンパス文や修飾の範囲の判然とない文を作らないために、長い修飾を伴う語を文の始めに持っていく方法がある。
「僕は地中海で育った、青白い肌をした細身の少年から貰ったトマトを食べた」よりは「青白い肌をした細身の少年から貰った、地中海で育ったトマトを僕は食べた」の方が誤読が少ないとされる。
一文の中に含まれる用言(形容詞、形容動詞、動詞)と難読語の量、読者の視線の移動距離に依存して、文章の体感時間は定まるとされている。
たとえば①、「彼が作った美しいサッカーボールを僕は強い力で蹴飛ばす」よりは②、「彼が作った美しいサッカーボール。それを僕は強い力で蹴飛ばす」の法が一文に含まれる用言が少ないために体感速度が短いとされる。③、「ええい、お前は畢竟、俺が死ぬのが怖いだけだ」の『畢竟』が難読語だと見なす人にとっては④、「ええい、お前は結局、俺が死ぬのが怖いだけだ」の方が体感速度は短いかもしれない。また、⑤、「やわらかいネコ」よりは⑥、「柔かい猫」の方が、視線の移動距離が少ないために体感時間が短いとされる。
小説の場合、論説文とは違い改行は自由に行える。
行を改めたときは一段下げる。
「しかしカギカッコで新たな行が始まるときはその限りではないというのが最近の主流である。また、主流では閉じカッコの前では句点は打たない」
――また、三点リーダー(…)とダッシュ(―)は二つで一つの扱いをする……。
最後にアンパンチでほぼ必ずやられるのだけれど、
繰り出す様々な作戦、多彩なメカ、嫌われることを全くおそれない行動力
バイキンマンがいるから全ての話がまわっている。
これは大人の穿った見方などではない。
女の子はドキンちゃんが好きだ。
バイキンマンが必ずやられる&イヤな目で見られる→そんな存在いじめてもOK
といった影響が全くないとは言わないが、
もっと多面的な見方があるし子供もそのような見方をしているよ。
文部科学省推薦だか何だか知りませんが、アンパンマンが嫌いです。
ばいきんまん派とか、カレーパンマン最強とか、擬人化同人とかそういう事を言ってんじゃありません。
暴力(アンパンチ)で毎回事を解決するようなアニメが、本当に良いのか?という問題については、ネット上でたくさんの方が既に議論されています。
が、少なくとも今の教育は「STOP THE 暴力。ダメ、絶対」を貫いているようですし、「問題解決の為なら暴力OK」なんてのを真に受けて大きくなる子ってそんなにいないと思うんですよね。多分ですけど(少なくとも、最近のU-35が引き起こす傷害事件・殺人事件はアンパンマンのせいではないと思う。ソース無いけど)
それよりも私は、アンパンマンがチビ達に植え付けているもっと深刻な思想があると考えています。
それは、
「汚い(汚そう、清潔感が無い)存在は、それだけで悪なので敵とみなしてよろしい」
です。
実際のアニメ作品の中で、アンクル・ジャムもアンパンマンもそんな事言いやしません。
しかし、あの世界の住人達は大概、ばいきんまんが例の乗り物に乗ってうろついているのを見かけるや否や、特に何も仕掛けてこなくても、恐怖の顔や怒りの顔を見せます。現実の社会で言う「差別」とかいうやつです。
え? 差別もクソも普段から悪い事しているんだから、そんな待遇当たり前? 確かにそうですね。常識的に考えて。
でも、小学校に上がりもしないようなチビ達がそういう常識を頭で理解するのはもう少し先だと思います。
チビ達はただ、「あ、キタナい悪いのが出てきた。アンパンマンはいつぶっ飛ばしてくれるのかな?」と、目を輝かせるだけです。
そして、最後にお約束通りアンパンチが繰り出されると、チビ達も溜飲が下がると。毎回視聴の度にその繰り返し。
決して浄化することの無い、毎回変わることの無いの汚いやつを、繰り返しフルボッコにするシーンを見てスカッとしながら(快感を得ながら)大きくなっていく訳です。
ターゲットを虐める理由として(自分自身が虐めて、見に覚えのある人も多いでしょうが)「汚いから」が本音のケースがよくあります。「汚い」と認識する理由には、「鼻をほじっているのを見ちゃった」「この間授業中にゲロ吐いてた」「いつも同じ服」「いつもボサボサべたべたの頭」等、ぶっちゃけ言いたい分からんでもないよ…みたいのもあります。
でも、ある程度の知識が身に付けば分かることですが、他の人と比較した時群を抜いて存在自体が汚い人ってまあ居ないです。何故か。
水やせっけんで洗えば大体キレイになるし、匂いも取れるからです。
しかし、アンパンマンとばいきんまんの攻防を繰り返し見てきたチビはそういう風に認識しません。
ばいきんまんは、存在自体がばいきんだから、何をやっても悪いし許されないし、他の存在とは一線を画す汚い存在なのです。
ちゃんとお風呂にも入らせているし、歯も磨くよう教えているし、毎日清潔な服を着せていて、とても優しい子なのに、学校で「汚い」と虐められている子供がいて戸惑っている親御さん、この記事をご覧の人の中にいませんか?
アンパンマンは、表向き「歯を磨こう、手を洗おう!好き嫌いしないでなんでも食べよう!」と教えているように見せかけて、実際には「汚いやつには「汚い、悪い」のレッテルを貼れ。存在自体がばいきんだから、何をやってもきれいにならない。ばいきんまんみたいな待遇をし続けろ」と、チビ達に命じているのです。
原作者はもちろん、文部科学省もアニメ制作に携わった人たちも、子供たちにそんな悪影響を与えているとは思いもしないでしょうけどね。
毎日上に怒鳴られ遣り甲斐のない仕事をこなし、だからといって特にこれといったやりたい事もなく、自分という存在から脱却しようとするだけの人間を見てすら羨ましがってしまう。
自分は何のために生きているのか。
昔からこうだった。得意分野?ありませんね。見えぬ誰かよりも堕ちない様に努力するだけで精一杯。生きる目標なんてものはない。いっその事堕ちてしまおうか。いや、だから今の生活があるのかもしれない。こんな大きな口を叩いておいて今で十分平均未満だ。生まれてからずっとこうだったのだし恐らく死ぬまでもずっとこうだろう。
失うものは何もないと自暴自棄になっても得られるものも何もない訳で。本気で自分みたいな人間は居ても居なくてもどちらでも良いというか居ても害悪しかないと思う。何でもかんでも逃げてばかりで。『死ぬの怖い』じゃないけど、痛いのは嫌だし耐え難い苦痛を味わって自らを死に追いやる明確な理由もないし。
某所で非常勤講師をやっている者です。
専門学校なので相手は高校生を卒業した人が中心なんですが、2割ぐらいは主婦というか、年配の方もいらっしゃります。
教えている内容は調理の基本的なことと、包丁とかレンジの使い方で
「今更こんなこと教える必要あるんだろうか?」
と思うような内容。さすがにそれだけでは申し訳ないような気がするので、
これからの時代に必要とされそうな調理のリテラシー的なことも教えています。(調味料はいいものを使おうね、とか)
で、そういう非常勤講師をやっていて気づいたのだけれど、割と多くの人は未だに
「魚焼き器って何?」
という認識である、ということ。いや、それ以前に
「調理って何?」
という認識の人が割といるという現実。若い人とかに限らず、年配の人でも多い。
出刃包丁どころか文化包丁ですら使えない。うろこ取りや三枚おろしなんて全然できない。
「基本なので、しっかり覚えてください」
「骨の場所だけを覚えてください。それだけでほとんどの魚はおろせるようになります」
とお願いしても、授業中は頑張るがそれっきり。次の授業では綺麗さっぱり忘れて骨ごとぶつ切り。
オーブンとか魚焼き器を教えて、
「大型オーブンが無料で使える(学校の)環境は恵まれてますよ!」
とか言っても全然興味を示さない。そもそも、キッチンなんて授業で使ってるだけで普段の生活では見たくもないらしい。
だから使わないし、いつまで経っても覚えられない。まぁ、それでも全然普段の生活には困ってないんだろうけど。
半数以上の人は、そういう面白い情報を教えてあげると喜んで飛びついてくれる。低温調理とか教えたら喜んでやると思う。
現にオーブンでパンの焼き方を教えるだけでアンパンやらクッキーやらを喜んで作る。
友達と食べ合って非常に楽しんでいる。
でも、一部の人は何をどう頑張っても無理な気がする。
じゃがバターの作り方(といってもジャガイモを電子レンジにかけるぐらいなのだが)を教えても、
授業で調理を求められているから作るのであって、ジャガイモを食べるのにレンジを使うなんて考えられないらしい。
そもそも、調理なんて言ってみれば服の縫製とか、壁紙の張替えのようなもので、
できる人が上手くやってくれればそれでよくて、自分たちが何かをする所じゃない、という認識なのだろう。
昔から個人的な意見として一人暮らしの世帯はもっとキッチンを有効活用すべきだ、と思っていたが、
こういう現実を目の当たりにして、それは全くの間違いだと気付いた。
キッチンを通して見える世界っていうのは、本当に偏った世界なんだ、と。
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アンパンマンは伝染性(伝達性)餡子状脳症(Transmissible Beanjamform Encephalopathy, TBE)に侵されており、アンパンマンの餡は異常プリオン蛋白(プリオン - Wikipedia)により脳が餡のようなものに変質しているという事をここに報告する。
調査の結果、
アンパンマンの脳に感染していると思われる異常プリオン蛋白は経口感染によってしか感染しない事が確認されており、
頭を食べさせるという行為は感染を拡げるという行為に他ならないと判明。
その手口は近年の人間社会において極めて有用で、まずは相手を信用させる所から始まっていると思われる。
身近な人が「あたしを食べて」、「ボクのをお食べ」などの台詞を用いた場合は病院での検査を強くお勧めする。
餡子のような状態の脳(脳のような餡子)についてだが、
頭を分け与えても生存が可能であり、「考える筋肉」のようなものとされる。
またアンパンマンの必殺技が一向にアンパンチだけな事、一話毎に話の流れが変わらない事から、
通常の脳にはあるはずのシナプスの伝達による思考、創発などは行われていないと思われる。
これらから餡子のような状態の脳(脳のような餡子)は脳のある程度の機能は保持するが、同等のものではないと判断される。
また同時に調査した宿敵のバイキンマンについて、
バイキンマンはアンパンマンに感染している異常プリオン蛋白に対して非常に危機感を抱いており、
「人を信用させて感染させるなど卑怯極まりない。
これからも明るい菌社会の未来の為、粉骨砕身の思いでアンパンマンの餡と戦って行く」
とコメント。
もはや彼の脳にはそれ以外の新たな友達、又は概念、知識が生まれる事はないという無慈悲な事実だったのだ。
異常プリオン蛋白に侵される前の彼への祈りを込めて、ここに報告を終了する。
あるとき「おなかが空いた〜、たすけて〜アンパンマ〜ン!!!」と叫ぶと、空の彼方から飛んで来たのは
(途中省略)
そして背中のバックパックからけんだまを取り出すと
(途中省略)
しかし、財布の中には木の葉が入っていた。「くそっ、だまされた!」と叫ぶ暇もなく
(途中省略)
「じゃあね、お兄ちゃん」と呼ばれることなんてありえない。オタクの妄想だ!しかし、いくら叫んだところで「お兄ちゃん」と呼んでくれるのはいかついオッサンばかりで
(途中省略)
ガタンゴトンと揺れる列車の中から見えるゴールデンゲートブリッジが夕陽に赤く染まり、それはいつ崩れ落ちるとも知れぬ恐怖を
(途中省略)
だからと言って右クリックと左クリックの戦いをこのまま黙って見ているわけにもいかず、思わず声をあげて仲裁に入った。しかし、歴戦の勇士たちの腕力はすさまじく、私の必殺5ボタン同時押しが相手に届く直前、世界はぐるっと一回転した。次に気付けば私は芝生の上であおむけに倒れていた。しかも何だか左頬が痛い。
(途中省略)
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私の数千ページにもわたる黙示録、、、いや日記、、、これも違う。うーん、とりあえず、伝記?いやいや、とにかくだ、私の旅の最後で出会った怪物は、、、え、怪物だったっけ?いやいや、吸血鬼?それはもっと昔だな、、、。
えっと、、、、なんだっけ。