一晩経ったらはてなブックマークが増えてて、なんだか申し訳ない元増田です。
元増田の言及はとてもいい加減なので、この件の正しい事の顛末は 「ヒナニー事件」でニコニコ大百科を探せばいい。『なお、この発言に関して運営は、発言直後、ロウきゅーぶ!終了後、アニメクルーズ終了後の計3回謝罪している。』(現時点の当該記事より引用)といった対応から、今回の件は生放送内だけの事件として、あとは関係者が視聴者の見えないところで責任取ったり取らされたりお金の問題で決着つけたりしてるんだろうと思う。
ていうか未成年キャラ相手に性的な話云々については、たとえばニコニコチャンネルではR-15も放送してるんで、気にし始めるとキリがない。それに、品のないコメントで溢れかえるのはニコニコならではのことなので今更気にしなくともよい。最近では、何の脈絡もなく淫夢厨(ゲイビデオに端を発する一部独特な言い回しをよく使うユーザーを指す。ブロント語みたいなものと思えばよい)が沸く中で配信を完走したAチャンネルという例もある。今回問題になったワードは、新たなニコ厨発のネットスラングとして、ロリキャラが出るアニメに対して末永く使われることだろう。なんだよ結局権利者にコメント誘導されてんじゃねーかばーかばーか、というのはニコニコチャンネルの動画で言ってはいけないお約束なので大目に見てほしい。
面白がって例のワードを乱発する輩はたいてい他の動画でも同じ事をやっているため、キーワードでNGをかけるのではなくIDでかけるとよい、ということが上記ニコニコ大百科のスレ内でコメントされていた。これも一種の馬鹿発見器になっているのだろう。このような点を踏まえ、元増田の選択肢には、
5. 184コメントは非表示 を 強制的にデフォルト にする。
という選択肢を付加しておきたい。そういう機能がニコニコ動画にあるかどうかは知らない。無かったとしても権利者が申し入れれば機能追加は容易だろう。有料にせずともコメが荒れにくい、馬鹿を特定した上でNG可能、という点で、個人的にはいい方法だと思ってる。
神様のメモ帳→ロウきゅーぶ!と繋いで1時間小倉唯でまったりするのが最近のマイブームです、と一応日記のようなことを書いて終わり。
http://www.caa.go.jp/seikatsu/kojin/houritsu/index.html
第二条
この法律において「個人情報」とは、生存する個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と容易に照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)をいう。
つまり、生年月日だけで個人を識別可能かどうかが判断のポイントになる。当たり前だが結論は「不可能」。だから「生年月日」は、それ単体では「個人情報」ではない。
ただし、職場の住所といった他の情報と複合させると個人情報だと見なされる可能性はある。
生年月日「だけ」ならばいくら集めようがそれを公開しようが法には触れない。それが本人自ら進んで公開した情報が典拠であるならば尚更。
http://anond.hatelabo.jp/20110810073908
ツイッターのアカウントと生年月日だけで個人を識別するのは不可能だし、機械的に収集してるとなると悪意や故意の認定も難しい。
繰り返すが、ツイッターに書き込まれた情報は当人によってネット上に公開されたもの。世界中の誰に見られても構わないという前提の情報。
問題は本人が公開した個人情報を他人が取得して勝手にインターネットに公開していいのかどうか。
誰のことかは存じませんが、東京界隈がそんなものだと素で思ってるんですか?
狭い視野から得た情報を無闇に一般化するよりは、その経験も語った方が良いと思いますよ。単なる雑言でしたら、そのままで大丈夫です。
分かってない。
グローバスルタンダード時代だから人間はみんな同じ文化や価値観を共有するの。だから国なんていらない。
日本は豊かな国だから、外国人だって当然日本に来たいわけ。なのに来るなっていうのは差別だよね?
日本は韓国と戦争して本当にひどい事をしてきたから、島ぐらいは譲ってあげてもいい。中国やロシアに対しても同じ。
そうやって友好の輪を広げていけばいずれ国境なんてなくなって、同じ文化や価値観を共有して仲良く暮らしていけるようになるわけ。
企業は採用活動に多くのカネと時間をかけているので、リスク回避が最重要課題だと知っておくべき。
文章作成能力は、就職活動において履歴書・エントリーシートなどで確実に問われることになる。
なぜなら、自分が応募する企業に向いていることを、根拠をつけて論じなければいけないから。
・人脈作り
第一条 日本国の電力は、電力会社以外に、強欲禿によっても発電されうる。
第二条 強欲禿によって発電された電力は、再生可能エネルギーの美名の下にある限り、経済および環境的合理性に背反することができる。ただし、電力会社の利権はなんら変わることはない。
第三条 強欲禿によって発電された電力の買い取り価格は、首相によって決定され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、買い取り価格は原価によらず一定とする。買い取り価格の設定には市場的合理性の裏付けを必要としない。
第四条 強欲禿による発電の設備も、本法の有効期間においては、国産であることを必要としない。
「経済学部です」と答えると、最近の世界情勢のせいか多くの人が
「日本の今後はどうなるの?」と聞いてくる。
でも「すいません。専門は統計学なのでよく分かりません」と返すのには飽きたので、
「日本の電機メーカーは技術力はあるんだけど日本人の特異なニーズに対応して変に多機能・高価格化した為に国内市場でしか通用しなくなってしまった」とよく言われていたけど、iPhoneが世界中で売れて「携帯で単に通話するだけじゃなくメールもネットも音楽もゲームもしたい」という欲求は日本人特有のものではなく世界共通であることがわかった。
結局、日本勢の目指していた方向性はガラパゴス化してたというよりはむしろ世界の最先端をいっていたのだが、単にクオリティが低かったので海外で成功できなかったという理解の方が正しいのではないか。
コンピュータサイエンス分野だけど、おおむね同意。
位置づけにあわせて論文の内容に要求される水準もちがっていて:
だいたいこんな認識で良いと思う。
人との付き合いで未熟なところとか強い思い込みがあって、
そんなの、友達同士の間でも普通に経験できることであって、その嫁に「恋愛経験がなかった」のも、「結婚できる年齢になっても家族や友人関係その他から人間関係の基本を学ばずに来た」ような人格からくる一つの結果に過ぎない、と思われる。つまり
で済む話ではないかな。
「人それぞれ」と、何かあるごとに言う人がいます。言う人は、どうやらこれを「他人に対して柔軟で寛容な考えかた」だと思っているようですが、それは大きな間違いです。「人それぞれ」というのは非常に危険な言葉なのですから。そのわけを説明します。
まず、「人それぞれ」と口にするのは、どんなときでしょうか。それは、誰かとの間で意見が割れたり、衝突したり、とにかく相手の考え方が理解できなかったりするときでしょう。大げさに言えばそれは、「他者」との出会い、異文化との接触、の場面です。
しかし、考えてみてください。異文化との接触において必要なこととは何でしょうか。「柔軟性」?「寛容さ」?確かにそれらは必要です。しかし、それはあくまで「手段」ですね。柔軟で寛容な態度が求められるのは、それが相互理解のために必要だからであって、真の目的はその「相互理解(その結果としての両者の平和的共存)」なのではありませんか。
もちろん、異文化の間に完全なコミュニケーションが成り立つというのは、まあ幻想です。最後の最後、越えがたい壁は残りますね。そして、それでもこの狭い星の上で、相互に平和的に共存する道を模索しなくてはならない私たちは、理解しがたい相手との間に、「私たちは互いに相手を理解できないが、その一点においてのみ同意しあえる」という極地の理解に至ります。それがすなわち「人それぞれ」という言葉に象徴される事態です。それは、人間が最後の最後に発揮できるやさしさであり、つまり、最後の最後、絶対の理解不能地点で用いられる、最後・最大限の相互配慮なのです。
ですが、この言葉は最近ずいぶんと軽く、かる~く、用いられています。ひどいときには、人は、他者・異文化と出会った瞬間、抜き打ちのように「まあ人それぞれだから」という言葉を発し、それによって最初から相手に関する一切の理解を拒絶するのです。「人それぞれ」だから私はあなたを理解しない、あるいはあなたに理解してもらうための努力を放棄する、いわばその言い訳として「人それぞれ」という言葉を使っている。そんな風に使われる「人それぞれ」は、他者に対する柔軟でも寛容でもなく、むしろ積極的な他者の排除とディスコミュニケーションのための隠れ蓑に過ぎません。
「人それぞれ」という言葉をかる~く使う人は、その言葉で実は相手を自分の人生から切り捨てているのです。これは、優しさに見えて実は冷たい「人それぞれ」です。道ばたに倒れている人の横を素通りする際に、「まあ道を歩くのも寝転ぶのも人それぞれだから」とか言ったら、さすがにおかしいと気付くでしょうが、実際にはそれと同然な「人それぞれ」を、いろいろなところで見受けます。
相手がどのような立場・状況の中で、どのようなコトを考えて生きてきて、どんな経験をして、今そのように考えているのか、そしてそれは自分の人生や経験とどのように異なるのか、両者の意見に妥協点や共通点、接点は全くないのか、それを確認するためにはどのような努力や試行が必要か……「他人同士理解なんてできない」とものごとを一瞬で切って捨てる前に、自分は相手を理解するための努力をどれほどしたのか、胸に手を当てて考えてみるべきです。相手を理解するためにでなく切り捨てるために、「人それぞれ」を使っていると、その人の世界は果てしなく狭く、閉じたものになっていくと思います。
他者に対して自分の考えを主張する、「私はこう思う、考える。これこれこういう理由に基づくものである」…そういう風にモノを言うのは、それは「考えの押しつけ」ではありません。それは「相互理解にたどり着くための努力」というのです。「人それぞれだから」と相手を切って捨てることは「やさしさ」ではありません。「他者を切り捨て自分の殻に閉じこもる」行為でしかない。そこのところを、なんだか真逆に考えていたりはしませんか。
さて、ここからは下のリンク先の方へのコメントですが、結婚というのは、自分と彼女のプライベートな閉じた関係を、社会に対してオフィシャルなものとしてオープンしていくということです。恋人同士の閉じた世界を、他者に認知させ、社会の中に定位する作業ですね。その最初のステップで、他者との相互理解を拒んでしまっては、話は一歩も進みません。「ワカッテクレナイ」とすねても、誰もあなたを助けてはくれません。「ワカッテモラウ」ために「ワカロウ」と努力することが、今一番必要なのではないかと思います。