はてなキーワード: キャメラとは
"I feel Coke"は1987年から89年にかけて展開されたコカコーラ社のキャンペーンで、CMにはたくさんのバリエーションがある。映像はYouTubeにまとめて上がっている。
1つ目は、松本孝美、ケン・ブレニスらのモデルが出演する20代後半くらいの、都会の会社員の男女の生活を書いたもの。
2つ目は、一般人が登場し、日本らしい日常生活の風景を描いたもの。
とくに1つ目の系統の映像は、何度見ても目が離せない。これは日本が舞台なのだろうかと、いぶかしく思ってしまうほど、垢ぬけている。
出演しているのが美男美女のモデルだということもあるのだけれど、描かれている日本の会社の風景が、あまりにもパワフルで、アメリカンで、楽天的なのだ。
今から30年前、日本がもっとも経済的に自信にあふれていた時代につくられた映像であるせいか、東京にある日本の会社はこのようにとにかくカッコいいものというイメージで徹底して作り込まれていることが、衝撃的ですらある。
こんなふうに楽天的に青春を謳歌できる時代に生まれたかった、と氷河期世代の自分は思う。
I feel Cokeで検索してネットサーフィンしているうちに、このCMを作っていたらしい人のブログを見つけてしまった。
その人によれば、「このキャンペーンは、日本人の普通の暮らしの中に入り込んだコカコーラの世界を描こうという企画だった。だから、今までのような美しいモデルは使わず、できるだけ素人っぽい人をキャスティングした。全員素人だと緊張してしまうので、ところどころにモデルを配して撮影する。モデルの演技や笑顔に、いつのまにか素人の人たちも撮影の雰囲気をつかんでいく。キャメラは、モデルを撮影していると思わせて実際は素人の表情を狙うという作戦」だったそうだ。
函館で1か月間のロケが行われ、運動会のシーンは、実際に、このCMの撮影のためだけに本物の運動会を開催したらしい。
このCMの世界観が普通にあったらしい時代と同じような日本を、自分は生きたいが、生きることができるのだろうかと思う。
訂正:88年→89年
写実的で実存感に溢れる流麗な映像と共にかかるThe WHOのMy Generationに、山田尚子監督と京都アニメーションの円熟と"私(達)の時代の話をしているんだ"という監督の高らかな宣言を感じた。
単行本7巻分の原作を2時間にシェイプアップされた映像は、大胆な再構成と説明要素の排除で進行される。
原作で描かれた硝子の主観はほぼほぼ排除されている。硝子は聴覚障害があり、手話と不明瞭な言葉でしかコミュニケーションを取ることが出来ない。
それは劇中でもありのまま描かれ、我々健聴者は彼女が何を言っているのか正確に理解できない。
将也や、その他の登場人物の反応で保管できる部分はあるが、原作のように硝子の視点も用意されておらず、想像の範疇を出ない。(なんとモノローグすらない)
つまり観客は彼女に同化することを構造上許されていないのだ。(これは字幕上映を観ることで考えが変わるかもしれない)
物言えぬ硝子を介して、将也はコミュニケーションを、人の間で生きていくことを学ぶ。
しかし原作で大きく扱われていた周辺登場人物との関係(欺瞞に満ちた映画作り〜かつて失くしたコミュニケーションの復活・その崩壊・硝子による再構築)も排除されている。
将也の成長物語のみに徹底的にフォーカスした結果、将也の成長を促す硝子を含むすべての周辺登場人物へのフォーカスを切り捨てたのだ。
それでは山田尚子監督及び京都アニメーションのスタッフ陣はどのような物語の演出方法を取ったのか?
それは徹底的なリアリズムと情感を託された映像密度と、そこにあるもの以外語らない、という選択だったのだと思う。
ノイジーでインダストリアルな劇伴と静かに喋る将也と物言えぬ硝子。大きなカタルシスを用意するでもなく(物語上には存在するが、ここで挙げるのは演出上のカタルシス)、ただただ丁寧に心の機微は描く。
その役割は言語化されたコミュニケーションが大前提な劇映画では異常なほど、人物(言語)ではなく映像に委ねられている。
象徴的に繰り返し映し出される様々な花のモチーフにも、それぞれ意味があり、雄弁に語る。しかしそこに言語はない。
とても静かな映画だった。
それは聴覚障害・コミュニケーション・少年の成長、という大きな主題を映像化する上でベターな選択だったし、原作モノを再解釈して色を付ける、しかしあくまで原作の範疇から出ることはせず、映像化にあたっての最良の選択だった。
「けいおん!」で見せた山田尚子監督のバケモノ級の構成力がいままさに円熟しているのを感じずには居られなかった。
もちろんその演出を選択できる体力としての京都アニメーションのスタッフの技量があってのこの映画だったと思う。
「響け!ユーフォニアム」で到達点を見せたと思われた、写実的で被写体とキャメラの存在を追求した京都アニメーションのレイアウト〜撮影までの画作りの更なる進化があってこそ、将也の心情に寄り添った雄弁な映像は生まれたのだ。
先週観た「君の名は。」で新海誠が描いていた、印象だけで構成された陳腐で空虚でしかないセンスの欠片もない映像と退屈で死にそうなほど単純なボーイミーツガール、ポストエヴァ世代の終わりなき呪縛を今作は問題外と言わんばかりに完璧に凌駕していた。比較対象が雑魚すぎるきらいもあるが、あらゆる意味で次元が違った。
新海誠に代表されるセカイ系の次世代として2000年代後半に登場した、近景に特化した所謂空気系の旗手として君臨した「けいおん!」は物語の歴史の中でノスタルジックかつアブストラクトなエポック的作品だったが、その監督である山田尚子と京都アニメーションがさらなる次世代を紡ぐ、体制側・システムとしての完成をみたのが今作だったと思う。
オルタナティブとしての物語を自分のストーリーとして受け取る現世代のための物語装置を創りだすシステムとしての京都アニメーション。
圧倒的なクオリティと確実なチョイスで、先陣を切りそれを体現していく山田尚子。恐ろしいことに今回は萌えを武器にもしていないのだ。
派手な爆発も、世界を救う大いなる力も、悩める個人と直結したセカイも、今作の持つ超弩級の冷静さの前では旧態依然とした使い古されたアイデアでしか無かった。
それでも丁寧に丁寧に人の手で作られたアニメーションは、絵が動き、実写以上の実存感を持って我々の心に寄り添い訴えてくる。
同時代に生きられることに感謝し、最大級の賛美を持って新時代の幕開けを向かい入れたいと思った。
必見。
これから先 君が
動き回る非処女となって
ギクシャクと 夜を歩いたり
まるで クモのように
地面を這いずる姿を見るのは
あまりに 忍びない
ごめんなさい! 許してください!
ごめんなさい! ごめんなさい!
ごめんなさい! ごめんなさい!
ごめんなさい! 許してください!
もし 願いが叶うならば
リテイク リテイク WOWWOW リテイク
WOWWOW リテイク リテイク リテイク
そうだ! 撮り直すんだ!
ボクは それを知っているじゃないか!
ロールは カラカラと回るんだ
スクリーンに 閉じ込め
永遠に 誰もが君の美しさ
可愛さを、哀しさを
ポップコーン片手に
見つめることが出来るには
シネマ
スポンサーを騙せ!
デニーロを呼んで来い!
タランティーノより 上手く撮る
君の人生を 撮り直すんだ!
今度は ハッピーエンドだ
ニューシネマパラダイスより 涙を振り絞る
リテイク!
照明さん! 音声さん! 小道具さん!
回して! 回して!
回してください!
本番行きます!
よーい!
スタァーーーート!!!