はてなキーワード: 片岡篤史とは
野球ファンだからプロ野球OBのYouTubeをよくみているのだが、
個人的に嫌なのは、その多くが女性アナウンサーを配置していること。
「すごい」「さすが」というオーバーな相槌を連発させていることや、
それに元プロ野球選手がニヤニヤとご満悦な顔をしているをみると、
あげくに、冬なのにノースリーブだったり、膝の出るスカートでソファに座らされたり。
コメントを見ると女性アナウンサーへの「かわいい」というコメントだらけ。
女性アナウンサーの存在は、明らかにオジサンの自尊心を満足させる相槌役以上の意味はない。
全く興味もない話でも、年配の男性にはニコニコと相槌を打たなければならないという、
日本の職場における女性の差別的な扱いを露骨に見せつけられている感じでうんざりする。
その結果、最近あまり見なくなってしまったチャンネルがいくつかある。
https://anond.hatelabo.jp/20180503192028
出遅れてしまったが、野球の話題がはてなで伸びることはあまりないので真面目に答えてみる。
ブコメでも大量に指摘されているが、広大なフィールドを必要とする競技は中心となる競技エリア以外の規定はアバウトに設定されていることが多い。サッカー・競馬・クリケット、ウインタースポーツ等の自然環境を利用した競技など。これらのスポーツが厳密に設定されたフィールドでしか行えないのであれば、プレイする場所が限られすぎてしまうために現実的でない。
言うまでもないことだが、敵も味方も同じ環境で行っているのであれば場所の違いによる標準化の問題は多少は許容されるのが大抵のスポーツで普通である。環境の標準化の問題でいえば、標高差・湿度・風速・道具の問題など枚挙に暇がなく、野球に限った問題ではない。
プレイが洗練されているかどうかは個人の主観に拠るところが大きいが、サッカーのシミュレーションや柔道のレスリング化等、野球に限った問題ではない。
某マンガであまりにも有名になってしまったが、個人的にはあまり問題に思ったことはない。現実に殆ど起こらないので。というか、分かりづらいこととはいえルールブックに明白に書いてあり、適用事例も示されていることを「曖昧」というのはどうか。問題にするとすれば厳密に適用されていないルール(例:バント時のバッターボックスからの足のはみだし)やチェックスイングの判定じゃないのか?
これもブコメで指摘されているが、サイン盗みが横行するとサインが複雑になり、試合時間の無駄な延長に繋がるため。
これはブコメになかったので解説する。通常バッターは打った直後、打つ方向に向けて頭(目線)が自然と向く。右打者なら打球を引っ張れば目線はレフト方向に行くし、流せばライト方向に向く。(たまに打球方向と目線の向きが異なってしまった場合が"あっち向いてホイ"状態である。)
打球をフェアゾーンに飛ばそうとしている打者はフェアゾーン方向に自然と目線が向いているのが普通なので、打球を放った直後にフェアゾーンに目線が向いておらず、打ったファール方向に目線が向いている場合、故意にファールを打っていると見なすことが出来る。日本ハムにファール打ちを故意に行っているとされる中島卓也という選手がいるが、是非動画サイト等で彼がファールを打っている時の頭(目線)の向きに着目して欲しい。センターカメラから見て三塁ベンチ方向(つまり打球がファールしていく方向)に目線が向いていることが殆どである。
しかし、故意にファールを打つ行為は打球をフェアゾーンに飛ばすことが目的であるはずのバッティングと相反する行為であるので、ルール上反則ではないものの、それに反感を覚える人が多いのは理解できなくはない。個人的には、故意のファールそのものを認定するのは線引きが難しいので、12球連続でファールを打ったらアウトぐらいのルールを設けてもいいようには思う。
なお、ファールの方向に頭が向かずにファールで粘れる選手はかなりミート技術が高いと評価でき、プロの一流打者のなかにはしっかりとしたスイングをかけながらファールで粘れる変態的打撃技術を持つ選手もいる(元日ハム阪神の片岡篤史など)。
サッカーの終了間際のボール回し、競馬で勝利が確実なときに鞭を使わない、陸上短距離で決勝進出が確実な選手は準決勝まで流す、カーリングのコンシード等、その試合のみで全てが終わるわけではない大会においては体力温存などのために最後までプレーしない行為は広く行われている。
130km/hのボールが投手から打者まで到達するのにおよそ0.45秒、115km/hではおよそ0.51秒である(リリースポイントが投球板から2m打者方向、球速が一定と仮定した場合。計算が間違っていたらスマン)。その差はわずか0.06秒だが、距離にして約1mの差。バットとボールの大きさは10cmもないので、130キロのボールと115キロのボールを同じタイミングで振っていたら全くかすりもしない。
プロの打者は数種ある投手の球種に0コンマ0何秒のタイミングでバットを数cmレベルで、さらにコースによってバットの出る角度を調整し、ただ当てるだけではなくそれなりの強度を持ったスイングで、前方45度の野手の居ない方向にボールを飛ばさなければならない。しかもこの作業は、職人が静謐でクリーンな集中できる作業場で行えるのではなく、砂埃舞うグラウンドで数万人の歓声と衆目の中で行わなくてはならないのである。誰にでも出来るようなことではなく、プレッシャーで潰れていく選手が出るのも不思議なことではない。
現在MLBでは広く行われるようになっている「極端な守備シフト」の出現は、伝統的な野手の守備位置を崩す大きな野球の変革といえる。かつての王シフトのような極端な守備シフトは、一部の選手に対して行われるいわば"奇策"に近いような戦術であったが、近年は非常に多くの打者に対して行われるようになった、という点で大きな変革が起こったといえる。一方で極端な守備シフトによって野球の醍醐味の一つである野手のファインプレーが減ってきているという指摘もあり、極端な守備シフトを制限するための措置が行われるのでは?という噂もある。
喫煙や肥満を推奨するわけではないが、一見アスリートとは思えないような見てくれの悪い人間が活躍するのも、ある種野球の面白さだと思う。松坂大輔や攝津正のように若い頃の面影がなくなってくるとそれはそれで悲しいのだが、バートロ・コロンのように体型を維持しながらピッチングスタイルを変えて生き残っていく選手を見るのも楽しい。
野球の不文律については、特に野球ファンでないと思われる人々から「野球の嫌なところ」として指摘されることが多いように思う。しかし、実際のところ暗黙の了解によって行われるプレーはそれほど多くはなく、それを破ることによって問題になる場面も多くはない(というか、頻繁に問題になるのであれば確実に成文化される)。"不文律"という仰々しい表現が使われているが、いくつかは慣習的に行われているマナーのようなもので、電車で騒いではいけませんとか他人の顔をジロジロ見てはいけないとかそういった類のものである。例えばwikipediaの「野球の不文律」の項で取り上げられている"投手の集中を妨害するために相手に話しかけたりしてはいけない"とか、"投手は野手に文句を言ってはいけない"などは、野球独特の暗黙のルールとして特筆するようなことでもないだろう。将棋で対局中に相手に話しかける棋士はいないだろうし(いたらスミマセン)、仕事で別部署の人がやってしまったミスをわざわざ咎めに行く人はいないだろうが、成文化されていないとしてももしそれらをやれば確実に顰蹙を買うはずだ。
wikipediaの「野球の不文律」で書かれている項目は特筆するべきことでもないことかなにかしらの説明が必要な項目ばかりで、野球を全く知らない人が参考にして見てもらいたくないことばかりである(もちろん全ての項目が気にするなというわけではなく、引退試合の忖度などは無くすべき慣習のように思う)。
つまるところ、これらの問題はささいなことであって、外の人が「これが野球の嫌なところである」と声高に主張することがある種偏狂で、野球ファンからすれば不快だと言わざるを得ない。
あまり知られていないことだが、実は野球のルールは毎年細かい変更が行われている。「野球規則改正」で検索してほしい。
MLBでは機械的な投球の測定システムの導入によって審判のストライクゾーンの精度がかなり向上したらしい。将来的にゾーンの判定が機械的に行われるようになることも非現実的ではないと思われる。
少し理屈をこねた回答をする。団体スポーツで一人の選手のスタンドプレーによってゲームが決まってしまうことは、特にアマチュアレベルにおいては決して野球に限ったことではないように思う。子供の遊びレベルのサッカーやバスケットボールで、一人の運動神経のいい子供がボールを多く扱って何得点も決めてしまう場面を見たことがないだろうか。
野球においては投手が多くボールを扱っているから投手が全てを支配しているように見えてしまうが、ただボールを投げただけでは得点は入らないのが野球の面白いところで、投手の負担だけで野球というゲームの全てが決まってしまうわけではない。もちろん1試合のみでは絶対的な投手によって試合の体勢が決まってしまうこともあるが、プロ野球においてはその点他のプロスポーツに比べて非常に多くの試合が組まれることによって、一人の投手のみによってシーズンが決まらないような体勢が整えられているのである。また投手の分業制は最早当然の戦略となっており、多くのイニングを投げる先発投手のイニング数も年々減少傾向にある。プロのみならず、最近は高校野球でも複数の投手を擁するチームが非常に多くなってきた。これは単に投手の負担を減らす意味合いだけではなく、一人の投手の能力だけではゲームをdominate出来ないことが多くなっているといえるからだと思う。逆説的にいえば、一人の選手でゲームを支配することもあるし、戦略的には複数投手制をとるチームが増えている点で、独特の興味深いゲームバランスになっているといえないだろうか。
ちなみにアメリカのbaseball_referenceとfangraphsというサイトがそれぞれに公表している「WAR」というMLB選手の貢献度を測る投手野手共通の指標が存在するが、2008年から2017年までのMLB両リーグのトップWAR20人中、reference版でトップになった投手は6人、fangraphs版ではわずか1人である。少なくとも長いシーズン戦うプロ野球においては、図抜けた投手一人より図抜けた野手一人のほうが貢献度が高いと見なされているのである。
http://anond.hatelabo.jp/20090311015518
ことし40歳になる有名人
「今年30歳の有名人」と違って、もう既に若者扱いされることもなく立派な中年。芸人なら中堅、スポーツ選手は半分以上は引退して指導者になってたり、芸能人になったり、政界に転出してたりする。
90年代の日本の音楽シーンの中心だった人たちもこの世代。ミスチル、LUNASEA、ラルク、コーネリアス、渡瀬マキ、大黒摩季、槇原敬之。福山雅治と加勢大周と東幹久って同い年なんだね。ジャンル的に同じでも、出てきた時期が微妙に違うからそう思わなかった。
あとこの年齢だと、既に他界している人もいる。年を取るってそういうことなんだね。
アスリートを対象に失神するほど笑ったのはあれが初めてだったかもしれない。長渕剛が暴走していたアレのことです。2008年のプロ野球珍プレー・ナンバーワンは間違いなく清原の引退セレモニーだ。
僕はどっちかと言うとデリカシーというものを大事にする方だが、あんなもん笑うなという方が無理だ。突っ立ってるだけの清原の周囲をぐるり徘徊しながら熱唱する長渕剛、このカメラワークがおかしくておかしくて仕方が無かった。軽い挨拶程度で流されると思っていた「とんぼ」が、フルコーラスだとわかった瞬間も僕の呼吸困難に追い討ちをかけた。ネット上での感想を読んでいても僕と同じような印象を受けた人は結構居て、「引退セレモニーですら笑いを取ることが出来る清原はさすが上方出身だけある」みたいな皮肉も沢山見受けられた。
あのセレモニーで爆笑した人と、本気で感動した人との違いはまんま、世代の違いだと言えると思います。KK時代の直接世代でない人たちから見れば、あそこは笑うしかない。悪気が無くても笑うしかない。そういう構図だ。
でも笑いから覚め、落ち着いて考えているうちに、プロの世界はやはり非情で厳しいものなのだなぁということが理解できてきた。笑ってはいけなかったのではないかとじくじたる思いにもかられたのです。
僕が小~中学時代の頃、西武ライオンズファンだったので当然清原も大好きな選手の一人であった(特別熱を上げていたのは郭(泰源)と秋山だったが)。あれほど好きだった清原がああいう形でしか選手活動に終止符を打てなかったというのは、考え方によっては実に残酷な話ではないですか。
個人的な印象では巨人移籍以降の清原は全然パッとせず、とても巨額の投資に見合うだけの働きはしていない。巨人もオリックスも実は最初から戦力としての清原には興味が無かったのではないかと思ってる。ショービジネスなのだから、何も球団への貢献方法は、ホームランを打ったり三振を取ることだけではないはずだ。経済効果が見込めれば賞味期限の切れたヘタレだって獲るのだろう。それはそれで利口だけれども、清原獲得への投資が、氏のタレントとしての存在価値でペイするしか無いというのは、本人にとってはある意味屈辱的なのではないかと思います。
なんせ、「打ったら拝まれる。三振したらどやされる」という、選手としての結果主義を説いていた当の清原だけに、あのフィナーレは耐え難いものがあったのではないか。そんな気がする。
あと、別の理由として考えられるのが、清原が本気で試合で活躍すると信じて獲得した人々の存在だ。僕は球団運営について何も知らないので想像だけど、仮にも一法人がバカ高い買い物をするのだから、数多くの幹部の同意が必要だろう。おそらく書類につかれたハンコの数も一つや二つではないはずだ。そんな彼らが手がけた獲得劇である。「獲得は失敗だった」という口ざまだけは避けなければいけない。片岡篤史もそうなんだけど、つまりどんなに期待はずれに終わった元・超大物打者でも、「獲得は成功だった」と周囲に印象付けなければ困る人たちが、あのような滑稽なフィナーレを演出したのではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。
ファンにも同じことが云えます。自分の青春時代、球界で華やかに活躍していた清原が、往年すっかり落ちぶれたことを認めたくは無いのでしょう。華やかだった青春時代から一転して、パッとしない日々を送る今の自分と清原とがオーバーラップするのではないでしょうか。でも、それでは駄目です。本当のファンならば選手の衰えという現実をしっかりと直視して、それでも尚愛し続ける勇気を持たないと。
今の10~20代なら松坂やダルビッシュといった選手の大ファンという人も多いだろう。だけど、いつかは彼らにも衰えが来ます。打てなくなり、あるいは被弾し情けなくベンチに下がることが多くなるでしょう。そのとき、彼らのみじめな姿をちゃんと見ていてあげてください。世間から注目されなくなり、ひっそりと球界から去っていく彼らを、ファンだけは最後まで見守ってあげるべきなのです。
偽りの労い、偽りの賛歌に彩られた引退セレモニーに声援を贈るような、そんな残酷な仕打ちだけは避けなければいけない。清原和博のような犠牲者をこれ以上増やすべきではないのだ。
("物書きの才能があるのかしら")