はてなキーワード: オリジンとは
キエフ大公国のキエフ大公、ウラジーミル1世(Vladimir the Great)からなのは言うまでもないんだが、これだけだと単に過去の偉人でしかない。
だがウラジーミル1世はキリスト教を国教化したので同教の聖人となり、更にロシアの守護聖人となっている。
守護聖人としてのウラジーミル1世は「キエフのウラジミール(Vladimir I of Kiev)」という名で呼ばれる。
その為にクリスチャンネームとして名づけに使われるようになった。
ソ連邦時代は宗教は基本的に禁止または抑圧されていたが、ミシェルなど命名にはキリスト教由来の名前が使われていた。
サンクトペテルブルグ近くのノヴゴロドにあるロシア建国一千年祭記念碑では一番目立つ位置にウラジーミル1世像がある。
当然、ウクライナのキエフにも 聖キエフのウラジミール由来のものが沢山ある。
ルーシはノルマン系、つまりバイキング勢力がスラブ民族圏に侵入したもので、キエフ公国もその代表格。
しかもウラジミール1世はバイキングを率いて戦い、彼らを植民させる政策を行った。
ところが近代になるとロシアの民族主義が勃興、ノルマンのバイキング由来説が否定されるようになった。
これはソ連時代にも発展し、共産党機関紙などの宣伝を通して国定歴史となっていった。
しかしソ連って本当に何だったのか?こういう覇権的民族主義にも背を向けるのがマルクスの思想だったんじゃねーの?
プーチンと元KGBのカルト保守のお友達がロシア国紀みたいなのにやられちゃったのにはこの辺の背景もあるんでないのけ?
ロシアのオリジンに自らの名の由来のキエフの聖ウラジーミルを重ね、一方でバイキング由来の部分は都合よく無視する。
だとしたら親は罪作りだ。もっと穏当な聖人の名前はあったろうに。
本人の方も、「静香」なんてお淑やかで女性的な名前を親に貰ったのに、全然静かにしてなくてうるせーわ、男社会の警察組織で上り詰めた上に政治家になるわ、高速道路走行中に石原慎太郎と喧嘩して車から引きずり落として高速の路上に放置するわと親の心なんて全然知ったこっちゃない亀井を見習ってほしい。
今や誰もがその人気を認めるVTuber事務所といえばホロライブ。
先日1年数カ月ぶりに新人を迎え、年末年始に向けて更に波に乗りそう。
そんなホロライブは、今でこそ新人同士で同期の繋がりをしっかり作ってからデビューさせるという戦略がハマっているが、実はこの戦略を取り始めたのは、奇跡の世代と言われた3期生以降だったり。
それ以前の、今振り返ると草創期に当たる頃だと、1期生2期生はデビューになって初めて同期初顔合わせだったと聞くし、他に現在は0期生としてひとくくりにされている、個人でデビューしたVがポツポツいる。
このうち、0期生の筆頭に来るのは間違いなくホロのオリジンたるときのそらだが、他にも絶対見逃せない子達がいる。
2人共細かい経緯は異なれど、事実上一人きりで出発し今やチャンネル登録者数100万人以上になるまでに成長という、紛れもないシンデレラストーリーを紡いでしまった、生きるレジェンドである。
確かにホロというハコで下駄を履かされた面は否定できないが、それは彼女らが自力で培ってきた能力が、3期生+桐生ココ(OG)のシナジーにより人気を爆上げさせたハコの後ろ盾を得て、一気に花開いたという話だろう。
つまりご両人ともホロ所属がアナウンスされる前に積み重ねてきた、Vとしての鍛えられ方のレベルが違うと言える。
これ、生主時代にサクセスのキャリアを築いた3期生とはまた違った下積みというか、純粋にVとして0から出発し成功したことに、3期生とはまた違った価値があると思うのだ。
実際、さくらみこは初配信時と現在の配信では別人と言っていいキャラなのだが、これこそ彼女が知恵と工夫を限りを尽くし、配信の面白さを向上させてきた証左と言える。
など、これらは一例に過ぎないが、気がつけばこの人にしかできない引き出しをいくつも揃えてしまった。
そして星街すいせいが他の歌系Vと一線を画しているのは、その化け物じみたセルフブランディング能力だろう。
と、最終的に歌で稼ぎ、未来の目標たる武道館ライブにつなげるため、一切のブレなく、あらゆる手を尽くしている。
そしてシンデレラストーリーのとどめは、この2人がホロで出会ってしまったことだったり。
何かと気が合う自称「ビジネスフレンド」として、イベでの共演をきっかけにmiCometなどというユニットを結成したと思ったら、GTAで暴れマイクラでやんちゃし放題…と、もはや見所しかない。
共産党を擁護する義理はないのだが、共産党が「多様性の統一」の標語を掲げた事にあたって、独裁だと揶揄するブコメが目立つんだがこれらの人達どうも意味判ってなくない?
これって頻出スローガンだよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/jcp_cc/status/1452192530871697413
最近だと多文化主義(multiculturalism)と文化多元主義(Cultural pluralism)の橋渡しというか良いトコ取りの標語として使われる事がある。
多文化主義っていうのは人々の属する文化が並置されて存在している状態。〇〇人っていう属性、特色を捨てる必要ないよって考え方。でもこれだと国家内がモザイク状になって対立が発生したり、特定宗教の原理主義とかはどうする?「自由の敵」に自由を与えて多文化主義の基盤を破壊するのはどうする?って問題が発生する。
文化多元主義は色んなオリジンを持つ人々が集まるが、個々人は一つの公共的モデルに集約され、主体の改変を求められるって考えだ。
人種のるつぼって色んな人種が居る事を指していると思ってる人が多いが「るつぼ」は坩堝と書いて金属を溶かす溶鉱炉の容れ物だ。だから「人種」は溶けて元の色や性質を失っている。
そして坩堝の湯(溶解金属)は型に入れられる。冷えて出来上がるのが「アメリカ人」という合金のインゴットだ、という考えに立脚している。かなりイデオロギッシュな言葉なのな、実は。
ハワイ空港の名前にもなっているダニエル・イノウエはその尤もなモデルケースだろう。
日本軍が真珠湾で奇襲攻撃を掛けてアメリカを戦争に巻き込んだので、ハワイの日系人は立つ瀬がない。そこでイノウエは自分がアメリカ人である事の証に陸軍に志願してかの有名な442連隊に配属された。死傷率300%以上という有名な部隊だ。海兵隊では新兵訓練の際に442連隊の事は必ず触れると聞く。「アメリカとは何か」を象徴するからだ。
イノウエはそこで日系人じゃなくてアメリカ人のインゴットになった訳だ。戦後は政治家となって上院仮議長まで登りつめた。
だからこれ書いてる増田はイノウエに日系人としての親近感なんて抱かない。彼は立派なアメリカ人だった。
この生き方を強いたのが文化多元主義であり人種のるつぼ論なのだ。
イノウエの例は戦争という情況が強いた極端だが、この抑圧的な文化多元主義と、バラバラで政治主体としても弱くて実効性にも疑問符が付く多文化主義の良いトコ取りしようぜって言い方で使われることがある。
あと有名なのがインドネシアの国是、「パンチャシラ」。意味は「多様性の中の統一」。
インドネシアっていうのはこれはもう完全に人口国家であって「インドネシア人」なんて人種も民族も無かった。言語も違う。旧ユーゴと似ている。
そこにまだ統一国家も無いのに「インドネシア人」という国民意識が立ち上がっていった。「国民」はトップダウンだけで出来たのでは無い。
この意識の成立の鍵になったのが植民地下での出版業で、同一言語での大量出版がやがてその頒布される広範囲で公共心や共同性を立ち上げる事になった。
これを観察して書かれたのがかの有名なベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』なのな。アンダーソンはインドネシア歴史を研究していて、そこから国民国家の成立を発見したのだな。
パンチャシラを提唱したのは国父であるスカルノで、重要な理念として憲法前文に入れられた。
共産党を叩いている人の中には旧日本軍人がインドネシア独立に協力した事を重視する人が多いはずだが、インドネシアの有名な国是を思い出さないとはどういう事だろうか?
この流れはTTP参加決定時に似ている。
民主政権がTTP参加を決定した折、ネットは大炎上した。すると炎上の仕方が厨房っぽいので一歩ずらして「そもそも米国の利権に”環太平洋”と名付けるのがおかしい」とかかしこぶる人が出てくる。
ところが「環太平洋」という概念はソ連との冷戦が終結した90年前後からある。そして実際日本の周囲では環太平洋での経済的結びつきが強化されてきた。製鉄大国で「鉄のハブ」になっている日本の最大原料輸入国(鉄鉱石と石炭)は豪州になった。
そういうの知らんのな。知らんというか20年以上知らないを継続してきたって事だ。
因みに環太平洋の当初のアニキ役は米国と日本が想定されていたが、日本に代わって中国がアニキ役になりそうな塩梅になってる。これはGDPの伸びだけじゃなくて、日本は震災で港湾が壊滅したり鉄道民営化の上に貨物分社化して海コン扱いが出来ないなんてクソ失政を重ねたせいで物流(コンテナ、航空)の拠点が中国になっちゃったせいだ。
「多様性の統一」に噛みついた人らは、物流的に日本が中国から出てるローカル盲腸線の扱いになってるのとか知ってる?
共産党を揶揄したいって気持ちは判るよ。なんせ彼らは「民主集中制」について破棄したのかちゃんと説明も総括もしていない。
プロレタリアート独裁だってソ連や韓国、東南アジアの開発独裁の評判が悪くなってから言わなくなっただけであれってどうなの?ちゃんと破棄したのって事は有耶無耶になっている。
欧州なんかは左翼ポピュリズムが押してきているが、そういう訳なのでその流れに乗るの?って事もよー判らん状態。
だから「多様性の統一って字面が民主集中制そっくりでんなぁ」とかイヤミいうのは判るが、わざわざこんな有名な語彙を出しているのに悪意の解釈しているっていうのは、単に「国民国家の成立とか、多文化主義が起こす軋轢とか、人種のるつぼの本来の意味とか、ハワイの空港が何で日系人のイノウエの名前付けてるのかとか、インドネシアの建国理念とか知らねぇし、興味も無い生活送ってるんだろうなぁ」という情報しか外部に与えんよ。
表現規制に関してオタクは山田太郎以前の自分たちと山田が出てきた意義を忘れている。
また、オタクがわざわざ表現規制派の議員に惹かれ、彼/女らを支持するという問題がある。この構造を説明する。
山田太郎以前、二次元表現規制問題でオタクは強い党派性に駆動された言動をして人を遠ざけてばかりいた。
具体的には自民党の中でも二次元表現規制に前のめりな議員を支持して反表現規制で実績のある野党議員を攻撃する、内紛、と云うより粛清を繰り広げてしまっていた。
オタクの中にもこれらに異を唱えて社会性と利益の客観視を訴える人は居たが忽ちにパージされ、またその粛清の動機や行動が幼稚なので周りの人らは呆れて散逸してしまう。これをずっと繰り返して反二次元表現規制活動は何も成果を残さなかった。
元々社会性が比較的低い界隈で、「反オタクは反日」のようにアイデンティティと社会観が至近距離で両者間に経験が無い、特に社会性が無くて幼稚な人が支持を集めやすく攻撃性が高い。自我が傷つけられそうになると防御モードに入ってアイデンティティ発世界観の固持に入ってしまう。
製作で喰っている人間も「そんな政治家支持すると食っていけなくなりますよ」と説得されても「自分より日本の方が大事だ」とかの話になってしまう。それは自分と国家を直結視させる、社会性の低い人を釣る活動をしているからで、カルトの合宿セミナーに参加したみたいな状態だ。
こんな状態の所に現れたのが山田太郎で、「表現規制の世俗化」を行った。内側から理路整然と表現規制の各種問題を説いたのだ。特に優れていたのが熱心なフォロワー達で憲法上の権利と法益、などの自己と社会との回路を示して回っていた。実は法学の教養的な意味は法文の暗記ではなくこういうリーガルマインドにある。世俗化とは神を殺す事であり自分と世界は違う事、その疎外を意識する事だ。
山田の登場で何も生まなかった反二次元表現規制界隈は目を見張るほどの変化を遂げ、リーガルマインドに基づく表現規制問題が論議される土壌が出来つつあった。少なくともアイデンティティドリブンな人によるパージが横行するのは抑えられていた。
オタクが自民党の中でも表現規制派の議員を支持してしまうのは「憲法、教育、表現規制三点セット問題」による。
90年代までの自民党は世襲と族議員の世界でそれ以外の外様が入り込んで活躍する余地はない。一方自民党は神道関係でニッチな右派老人固定票を持っており、そこにアピールするのに使われたのが憲法教育表現規制三点セットだった。これらの特徴は前提知識が不必要である事で、経済問題や業法、国際問題となると知識と経験が必要で、そのアピール先の有権者もそれらを持っている。
憲法問題は今では左派は憲法論の前提知識で自民案に反対しているが90年代はそうではなく「憲法はリベラルで良いことが書いてある本」という扱いで、憲法の名宛人が国家という事すらあまり認識されていなかった。故に憲法は法学の中でも微妙な扱いがされていたのである。
三点セット議員の言う事はこの「良い事」の羅列を保守的な羅列に変えただけで、それでニッチな票田にアピールしていた。これは最初は「敢えて」だった。
三点セットの結果を見てみると:
・憲法:改憲派の先鋒だった小林節をパージ。2012年に「良い事」だと思うことを羅列した三点セット憲法案。論点を「憲法に国民の義務が無い」事に設定。
PKO派兵等で9条の限界に至った時に改正をする運びで20年以上活動してきたのに東スーダン問題で国民に改正や議論を訴えずに政局の為に隠蔽を指示。しかも自衛隊に後ろから刺される。
・教育:道徳を教科化して学習時間を削る。日本の大学の地位が地滑り。
・表現規制:法益ではなくアイデンティティに基づいたニッチな有権者の扇動と議員立法
と碌な結果は無い。
議員立法の評価を下げているのも三点セット議員の特徴で、閣法に比べて議員立法が廃案に成り易い原因を作っている。
皮肉だが、それによって二次元表現規制法案が取らないという効果も発している。彼らの無能な働き者っぷりが表現規制法案をブロックしているのだ。
オタクはその社会性の弱さから三点セット議員の票田となっているのである。その循環を止めるには社会性を上げるしかない。
リーガルマインドの啓蒙によって表現規制問題に限り疑似社会性、自分と社会の疎外とそこから発生する知恵を撒いたのが山田とフォロワー達だった。
山田が自民党から立候補した時に支持者の間で蝶ネクタイマーク(機種依存で入力不可)を入れるのが流行っていたが、これは結構危ういというのが判るだろう。支持表明からアイデンティティへの傾斜が大きくなると山田以前に逆戻りだ。
現在、自民党総裁選で二次元表現規制派の高市早苗が立候補していて「オタクはどうするの」という問題提起がされている。高市は三点セット議員のオリジンだ。
オタクが昔と同じアイデンティティドリブンの行動やパージを繰り広げたら、山田とフォロワー達が耕した黒い土壌は実を結ばなかったという事になる。
知らねーよ。勝手に認定すんな。文句あるならそのアカウントに直接反論すりゃいいのに匿名でコソコソしてんなよ。
そして来ると思ったこのクソ無知な発言。確かにゆめかわを言い出したのは原宿系モデルの人だが、反応したものは男のロリコン的感性によるものなんだぞ。その大元となったのは魔法少女アニメで、しかも決定的に影響を与えているのがクリィミーマミやミンキーモモって、もう答え出てるんだよ。しかも元祖魔法少女モノのサリーちやん、元祖変身少女モノのアッコちゃん、どっちも原作者は男。
建前では女の子向けとして売られているアニメが暗に成人男性もターゲットにしてるって、いまさら言うまでもない事実だけど。子供向けに括られているからマジでそう捉えるとか今どき純粋すぎるぞ。特撮ヒーローでも敵役の女がやけにエロいってことあるし。特に美少女が主役のアニメはロリコンの感性がガンガンに入り込んでる。たとえばゆめかわに影響を与えたものにセラムン(特にアニメ)があるけど、これも世界観を作ってたのは男のクリエイターたちだし(原作者も自分の作品の同人誌買ってたロリコン女)、セラムン放送前までやってたポワトリン等の女児向け特撮もアイドルに主役やらせて、ドルヲタからの支持を言わないだけで意識してた(ポワトリン=フランス語で胸)。
マドンナやシンディ・ローパー?あれは「男が女に要求してきた女性性をあえて自分から過剰に纏うことで主体性を演じて見せる」というやつでオリジンは男なんだよ。あれも安売りしないタカビーな売春婦みたいなもんだろ。今となってはやっちゃいけない類のフェミニズムだから。
(といっても今の海外女性アーティストってマドンナ的手法を悪化させたような主体的セクシーみたいなのが跋扈しててヤバいことになってるが。ガガ様のグロ推しとか)
「女が作った言葉や文化」なんてゆめかわ、ファンシー、フェアリーには存在しないよ。きゃりーぱみゅぱみゅの曲を作っているのもビジュアルを作っているのも男だ。
だからといって女が作ったり好きと言ったりしたからといってそれが「女のもの」というアリバイには全くならないんだよ。そういうのを表現するのにふさわしい言葉が「名誉男性」なんだけど。
Wikipediaによると、DaiGoは幼少期にいじめられていたらしい。
彼はお金=社会的承認に飢えている一方で(あるいは飢えているがゆえに)、既存の倫理観に対してかなり挑戦的だ。
彼のこうした人格には、当時の経験がかなり尾を引いているのではないかな、と思っている。
いじめられるに至った経緯は不明だが、興味は無い。いじめの経緯なんていつも些細なことだし、どうでもいい。
道徳の授業で、暴力はいけない、揉めたらよく話し合おうと教えられる。相手の人格に問題があったとしても、暴言や暴力を向けていい道理は無い。いじめは許されない。法に触れていれば犯罪だ。
しかし、建前がどうあれ、学校というコミュニティにおいては往々にしていじめが発生してしまう。学校には何故か警察は介入してくれない。彼の場合、頼みの綱の先生も助けてくれなかったようだ。
社会に適応的な人間からすれば、虐められた原因を正して社会と和解すればいいだけのことかもしれない。
しかしいじめられっ子は、たまたま生贄に選ばれてしまっただけだ。仮にいじめられる側に原因があったとしても、どこを正せばよいのか伝えられないまま、突然暴力によって存在を否定される。いじめられっ子からしてみれば、理由はどうあれただ理不尽に暴力を向けられただけである。気に入らない奴に暴力を振るい、尊厳を踏み躙り、見て見ぬふりをするという社会の悪性を一身に向けられたいじめられっ子は、果たしてそんな社会の仲間でありたいと思うだろうか?
ひとたび社会の強烈な不正義に晒された人間からしてみれば、適応は不正義への降伏に過ぎない。
彼がナタを投げるという脅迫によっていじめを克服し、しかも本人がそれを成功体験としているのも悲しい話である。
周りの大人や先生が助けてくれたなら、まだ世の中捨てたもんじゃない、正義だってある、自分には味方もいると思えたのだろう。そうした経験を欠いた彼の世界には、おそらく未だに愛も正義もない。自分の行動によって世界は変えられるという本人の言は、承認は行動によって勝ち取るしかないという不安の裏返しではないだろうか。
無条件の承認も社会への帰属意識も身につけられなかった人間は、自分に居場所があることを確認するため、社会的承認をかき集め続けなければならない。
これこそ彼が、目に見える成果が出るまで時間のかかる心理学研究でなく、すぐにお金を稼いで世間に自分の非凡さを思い知らせられる、うさんくさいパフォーマーとしての生き方を選んだ理由ではないだろうか。
私は、彼の信じられないほど酷薄な発言も幼少期のいじめに由来するのではないかと考えている。
非納税者を蔑視する発言は、相手にされないことへの不安から来たスタンドプレーという一面もあるが、既存の倫理観への不信からくる本音でもあるのだろう。暴力はいけないという一般論を教育されつつ暴力を振るわれた過去故に「口でいくらヒューマニズムを謳っても、本心は違うに違いない」と思っているのではないだろうか。
別に私はDaiGoも被害者だから哀れむべきと言いたいわけではない。理由はどうあれ、非納税者への福祉に関して無理解なまま、倫理にもとる発言をしたことは批判されてしかるべきである。
しかし「悪い奴だから懲らしめてやる!」と義憤に燃えている人は、自身が正義などではなく、気に入らない人間を積極的に排除しようとする側、いじめっ子気質の人間であることを認識した方がいい。
自分の非を認めていない人間に数の暴力でサンクションを与えたところで、暴力によって従わされたという心の傷が残るだけではないだろうか。
DaiGoの件に関して言えば、浮浪者への差別発言の問題点を大して理解していなそうな人まで「レイシズム=ナチス=悪」という借り物の価値観で脊髄反射敵に叩いているのも気持ち悪かった。Twitterで支配的な反レイシズムという規範に沿わないという理由で叩くのなら、クラスの空気に沿わない人間を吊るすいじめと大して変わらない。
DaiGoのように成功者になって世間を見返すのに躍起になり、果たしてそれが上手くいったとて、こんな風に問題行動を起こしてしまう。
逆に完全にいじけて人生を放り投げれば、黒子のバスケ事件の犯人のように社会の敵になる。
これらは元いじめられっ子の中でも極端な例である。しかし私には、帰属意識の喪失や社会の正しさへの不信、自尊心の低さ、自分の影響力を確認することへの執着といった、いじめによってもたらされる人格の歪みが遠因になっていると思えてならない。
手立ては色々ある筈だ。
これまでの話は全部私の臆測であり、一から十までこじつけである。どこかに論文があるわけでもないし、私は何の専門家でもない。
しかしDaiGo本人がオリジンとして語っている以上、暴力による自力救済でいじめを克服するしかなかった経験は、彼にとって大きな意味を持っていたのだろう。
DaiGoをいじめたりそれを傍観したりしていた同級生、彼を救えなかった教師、もしかすると「やっぱアイツ変だったしな〜」などと考えていないだろうか。
お前らが歪めたんだ。