はてなキーワード: ニュートンとは
一人一人が持ち寄ればM=総数。
総数のソース。
俺さ、3月生まれ。
しかも発育も弱め。
特に無理なのが「書き方」の授業だった。
今思うと握力が根本的に足りてなかった。
めっちゃ強く握ってようやく字をかけるだけの安定性を得た。
んで教師は言う。
「もっと力を抜いて」
「抜きすぎだよ」
「ふざけてるの?」
マジで辛かった。
俺は死にものぐるいで黒板を写したよ。
内容を理解してるかどうかじゃないんだ。
黒板を写してるかどうかが全て。
全ての生徒に「内容わかってますか?聞いてます?そもそも?」とやっても限界がある。
全員に「とにかく写せよ。黒板をよ」と命じるしかない。
出来ないやつは晒し上げる。
楽とかじゃないんだ。
ミミズののたくったような字を通り越していた。
そのラインを攻め続ける。
俺ですら読めない。
教師も読めない。
でも「きっとこのコなりに頑張ってる」と信じさせる。
俺が字を字として書けるスピードでは。
チョークが走る。
内容はもう耳に入らない。
教師が待つ。
俺の指はまだ動く。
そして黒板が消える。
間に合わない。
もはや字ではない。
字ではない字を書く癖だけが積み上がる。
字は駆け抜けるもの。
そこにあるのはフィーリングだけ。
理屈はもうどこにもない。
形は失われる。
俺も読めない。
誰も読めない。
でも書きはした。
誰もが諦めた。
ギリギリで読める。
そして採点を受ける。
点数は他の子と変わらない。
じゃあもうこれでいいや。
そうして誤学習は進む。
字の書き方なんて分からない。
形だけの習字の授業。
ここでちゃんと学べていれば。
でもここでも同じだ。
教師はとにかく埋めろという。
必死に埋める。
何十枚も書く。
いつか許される字が出てくる。
それで通す。
魔法のようだった。
読めるような字が書けるようになった。
驚いた。
俺の20年はなんだったんだろうと。
地獄だった。
せめて4月に生まれていれば。
字とは読むために書くものだと学べていれば。
誰も読めない字を書くことばかりを学ばなければ。
悔しいよ。
これが俺のソースだ。
N=1でしかない。
だがここには確かな重みがある。
俺のNはニュートンのNだ。
ヘッドスライディングって走るより速いんですか? 元プロ野球選手に聞きました | となりのカインズさん
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/magazine.cainz.com/article/164673
zxcvdayo 各所で測定して検証されて10年以上前にとっくに決着ついてるのに何故か桑田がいろんなとこで遅いって言い張ってただけの話だからなこれ……
桑田がヘッドスライディング否定派なのは危険性が理由であって駆け抜けるより早いことは認めている
番組が走塁を検証したところ、ベースを駆け抜けるより、ヘッドスライディングをした方が、4人中3人が一塁へと早く到達している。
「昔はビデオやテレビを超スローとかで見れなかったので、イメージだけで伝えてこられたんですよね」と前置きしつつ、
「身体ができあがったプロ野球選手はやってもいいし、好きにすればいいんです。ビジネスですからね。
でも、成長期にある子供達は毎年骨や関節が伸びてますよね。その段階でヘッドスライディングをすると、脱臼や骨折や突き指をするんです。
https://news.livedoor.com/article/detail/5021738/
kyorecoba 福本豊「そら、頭から行った方が早いで。けどな…、ケガするからココというときだけにしとき」と野球教室で教わった。
福本はヘッドスライディングするより駆け抜ける方が早いと主張している
1塁は走り抜けた方が速いに決まっとるでしょうが。100メートル走で、ウサイン・ボルトがヘッドスライディングでゴールするか? 走り抜けとるがな。仮にヘッスラの方が速ければ、1人ぐらいゴールで頭から突っ込んでもおかしくない。
タッチが不要で、ランナーも走り抜けられる一塁では、トップスピードの状態で走り抜けた方が速い。なんでわざわざグラウンドと摩擦を生む必要があるのか。
https://www.news-postseven.com/archives/20130912_210429.html
thongirl 日頃から理系であることを自負しているはてブ民が、ニュートンの第1法則に準じない理論を支持するのは甚だ滑稽ではある
ヘッドスライディングの方が早いと主張する人たちはヘッドスライディングをすることで(普通に駆け抜けるより)加速できると言っているわけではない
2024.03 追記
上記記事の13年前に放送されたS1の僅か3年前にはイチローが、放送以降にも上記の福本、屋鋪など複数のプロ野球関係者が駆け抜けたほうが早い説を主張しており
'07年の北京五輪予選の台湾戦で、ソフトバンクの川崎宗則がチームを鼓舞しようと平凡なショートゴロで一塁へヘッドスライディングし、師匠と仰ぐイチローから「カッコ悪い。俺のいちばん嫌いなことをした」と説教を食らった。
一塁ベースまでの到達時間は駆け抜けた方が速いと言われているし、足でベースを踏んだ方が審判も見やすい。さらにヘッドスライディングは、ケガのリスクも高まる。そのため、イチローは非合理的で、プロらしからぬプレーだと切って捨てたのだ。
https://number.bunshun.jp/articles/-/828787?page=2
走塁は盗塁王の屋鋪さんが担当し、打者の打撃のタイミングに合わせたリードの取り方などを指導。「ヘッドスライディングは危険で、プロでも何人もけがをした。駆け抜けた方が早いし、一生懸命しているというアピールでしかない」と語り、指導者に「しないように指導してください」と念を押していた。
https://www.sankei.com/article/20140928-I2QBD3JMNVMZLOGHYKOLYXXQUE/
おもしろだから、カジュアルに話題に出してもなんか許されたりするし
話題どころか場のノリとして正解なのであれば現物だしてもおもしろくて許される
女性器はだしたら完全に空気凍るのにキンタマはそうじゃなかったりするのがうらやましいらしい
寒いとあんなに縮こまるのに、お風呂に入るとダルンダルンにたれてんのがおもしろい
ニュートンは絶対りんごじゃなくて夏の暑さで垂れてるキンタマを見て重力に気付いたにちがいない
っていう話をしてもやっぱりゆるされたりするんだから羨ましい
ひらがなでもカタカナでも漢字でも全部なんかおもしろいしかわいい
きんたま、キンタマ、金玉って文字にするとわかるけどやっぱかわいいし、これがオス共通の弱点でみんな外に出てるんだとおもうと意味わかんなくて笑えてくる
男はキンタマなんて最高におもしろい無敵なもの持ってるんだから女性の言うことくらいもうちょっと聞いてくれてもいいと思う
こんな感じのこと言ってた
ただニュートンが考えたような絶対空間ではなく、質量によって歪んだり、ダークエネルギーで膨張したりする。
空間自体は物理法則が当てはまらないようなので光速を超えられるけど、その空間内にある事象は準絶対空間の座標を基準にした光速までしか出ないと考えればいい。
でもちょっとややこしい。
準絶対空間の座標AからBまで1光年だとする。光がAからBに到着するまでに空間が一定速度で2倍(AからBまで2光年)に膨張したらかかる時間はいかほどか?
移動しながら膨張によって距離も変わってくるので積分が必要になってくる。
ニュートンの絶対空間なら「空間が膨張することはない」で話が終わる。
膨張したとしても現在の空間の範囲の外側に新しいエリアが追加されると考えるのが正しいのかもしれない。
例えば方眼紙で10cm×10cmから四方に5cmずつ追加して20cm×20cmになる。でも元の座標は動かないのでAとBの距離も変わらない。
一方、準絶対空間だと方眼紙のマス目を2倍に広げるので座標間の距離も2倍になる。でも速度を考えた場合は元のマス目の大きさ(距離)で考える。
うん。ややこしいね。
実際に観測結果から宇宙(空間)は光速よりも速く膨張しているとみられている。だから地球から見て光速を超えた範囲は観測できない。
その範囲では地球に向かってくる光も膨張の速度に負けて遠ざかっていくように見える(観測はできない)。
暗闇で知らんやつから腕を掴まれることと、友人とじゃれあって腕を掴まれることって、行為そのものは同じでも意味合いが全く違うじゃん。
これをニュートンとか力の入れ具合とかで規定したら全部同じだよね。
有形力の行使ってある種抽象的な文言にしてるのは、そういった「社会通念」を判断に入れ込む為にあるんだよね。
暴行罪って傷害罪があるなら不要に感じるんですけどどういう意義があるんでしょうか?
怪我してないのに司法が介入できるほど大事に捉える余地を残す意味がまず分かりません。 百歩譲ってそれには目を瞑ったとしても「有形力」なんてわけわからない概念を使って規定する意味がわかりません。
そのせいで「人に触れるだけでも有形力の行使ではあるが、不法性が低いので暴行罪にあたらない」みたいなこねくった論理を持ち出す羽目になってますよね。この国大丈夫かって思います。
djsoraの件で腕を引っ張った人が暴行罪で被害届出されてますよね。これも気持ち悪い。
腕を引っ張るというのもその字面だけで常識的に判断すれば日常的に行われうる行為であって、そういう意味では不法性は低いと私は思います。
それは腕を引っ張るという言葉がその引っ張り方について無数の行為を内包するからでしょう。
触れることについても腕を引っ張ることについても、どれだけの力を相手に加えたかとニュートン等の単位を使って規定すればそもそも有形力なんて概念を持ち出さずとも今までの判例とも矛盾しないスッキリした論理で今後も裁けるようになると思います。
今の暴行罪の定義だと初めて会った人などには法律に触れるかが怖くて何も積極的なアクションなど起こせません。いたずらに人々の行動を萎縮させるだけだと思います。
dorawiiより
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・03 氷室 ひむろ
・05 [子どもだけ][3択]2(番
・06 [子どもだけ]6 3/4
・08 [親子で]クレーター
・09 阿倍仲麻呂 あべのなかまろ
・10 [近似値]27(人
・11 [すべて][順番4答]イギリス ブラジル トルコ スリランカ
・14 吉田修一 よしだしゅういち
・15 岩手(県
・18 湊川《みなとがわ》の戦い
・19 ピラルク
・20 19
・25 [3択]しょくぱんまん
・26 市松(模様
・27 12(名以上
・29 鼻緒
・30e 『ねないこだれだ』
元増田(このツリーの元エントリは誰かがコピペしたやつなんだが)だけど、俺は個人的には統計的因果推論は意味がないことが多いという立場だな。
誰かがF=maって書いてたけど、ニュートンの運動方程式も本質的に因果か相関かを区別することは出来ないように思う。物理学はそれが因果か相関かはどっちでもいいという構造になっていてそれで問題ないんだよ。場の運動方程式のグリーン関数みたいな話は因果っぽい発想が表に出てるけど、運動方程式そのものが因果かどうかというのはやっぱり分かんないしね。
あと、「擬似相関」という言い方は「相関関係はあるけど因果関係はない」という意味で俗に使われているけど、相関は相関で因果とか関係ないので、相関そのものが「擬似」ということはない。擬似相関という言い方はやめろと思うね。
これも直接元増田と関係あることじゃないのだが、理論を理解することの難しさで学者としての評価を判断する人がいたらそれは違うと思う。
ぶっちゃけ誰にも理解できない理屈を作ること自体はそれ自体を目的とするかぎりではそこまで難しくないんじゃないかな。
誰にも分からない文字や暗号を作るのがそこまで難しくなさそうなのと同様に(まあこの場合は暗号とかの解読法さえ教えちゃえ解読できてしまうし、解読法を理解すること自体も容易なので、例として拙いかもしれないが)
望月の場合、問題を解決するのに必要だったのが、誰にも理解できないような理論だったというだけで、それはあまり重要な事実ではない。
問題を解決できたとされるのが望月一人だったということが重要なのだと思う。
そういう考え方でいけば、mRNAワクチンの根幹技術の理論を作った人も、その人がその技術を作った段階ではその人しか作り得なかっただろうという意味でやはり凄いのではないか?
(微分法をライプニッツとニュートンがほぼ同時期に独立して考え出した例もあるので、こういう書き方をした)。
望月とmRNAワクチンのもとを作った人のどちらが凄いかということについて現段階で社会に与えてるインパクトとしては後者のほうが上だろうが、そういう有用性みたいな視点から凄さなるものを判断するのは前者が数学である以上フェアじゃなくまた複雑な問題を孕むので、判断を留保すべきだろうとは思う。(役に立たないと思われた数学の証明が後世になって応用法を見出される例はざらにあるわけで、数学では現世利益みたいなものは考えず研究するのは基本だと思う)
ただ、mRNAワクチンの技術が望月の論文に比べて理解しやすいという観点から、mRNAワクチンの技術を作った人が望月に比べてすごくないみたいな考え方をするのは絶対に的外れだと思う。
理論を発見することの難しさと、理論を理解することの難しさはわけて考えないと。多くの人々がその難しさを肩代わりしてほしいと学者に期待しているのも普通前者なのであるから。
知的作業の本質を論じることは困難。数学の最も重要な特徴は、自然科学、もっと一般的に言えば、純粋に記述的なレベルよりも高いレベルで経験を解釈するあらゆる科学との、極めて特異な関係にあるとノイマンは考えていた。
ほとんどの人が、数学は経験科学ではない、あるいは少なくとも経験科学の技法とはいくつかの決定的な点で異なる方法で実践されていると言う。しかしその発展は自然科学と密接に結びついている。
まず幾何学。力学や熱力学のような、間違いなく経験的な他の学問は、通常、多かれ少なかれ仮定的な扱いで提示され、ユークリッドの手順とほとんど区別がつかない。ニュートンのプリンキピアは、その最も重要な部分の本質と同様に、文学的な形式においてもユークリッドと非常によく似ている。仮定的な提示の背後には、仮定を裏付ける物理的な洞察と、定理を裏付ける実験的な検証が存在する。
ユークリッド以来、幾何学の脱皮は徐々に進んだが、現代においても完全なものにはなっていない。ユークリッドのすべての定理のうち、5番目の定理が疑問視された最大の理由は、そこに介在する無限平面全体という概念の非経験的性格にあった。数学的論理的な分析にもかかわらず、経験的でなければならないかもしれないという考えが、ガウスの心の中に確かに存在していたのである。
ボリャイ、ロバチェフスキー、リーマン、クラインが、より抽象的に当初の論争の形式的解決と考えるものを得た後も、物理学が最終決定権を握っていた。一般相対性理論が発見されると、幾何学との関係について、全く新しい設定と純粋に数学的な強調事項の全く新しい配分で、見解を修正することを余儀なくされた。最後に、ヒルベルトは、公理幾何学と一般相対性理論の両方に重要な貢献をしている。
第二に、微積分学から生まれたすべての解析学がある。微積分の起源は、明らかに経験的なものである。ケプラーの最初の積分の試みは、曲面を持つ物体の体積測定として定式化された。これは非軸性で経験的な幾何学であった。ニュートンは、微積分を基本的に力学のために発明した。微積分の最初の定式化は、数学的に厳密でさえなかった。ニュートンから150年以上もの間、不正確で半物理的な定式化しかできなかった。この時代の主要な数学的精神は、オイラーのように明らかに厳密でないものもあったが、ガウスやヤコービのように大筋では厳密なものもあった。そして、コーシーによって厳密さの支配が基本的に再確立された後でも、リーマンによって半物理的な方法への非常に独特な回帰が起こった。リーマンの科学的な性格そのものが、数学の二重性を最もよく表している例である。ワイエルシュトラス以来、解析学は完全に抽象化、厳密化され、非経験的になったように思われる。しかし、この2世代に起こった数学と論理学の「基礎」をめぐる論争が、この点に関する多くの幻想を払拭した。
ここで、第三の例。数学と自然科学との関係ではなく、哲学や認識論との関係である。数学の「絶対的」厳密性という概念そのものが不変のものではないことを示している。厳密性という概念の可変性は、数学的抽象性以外の何かが数学の構成に入り込んでいなければならないことを示す。「基礎」をめぐる論争を分析する中で、二つのことは明らかである。第一に、非数学的なものが、経験科学あるいは哲学、あるいはその両方と何らかの関係をもって、本質的に入り込んでいること、そしてその非経験的な性格は、認識論が経験から独立して存在しうると仮定した場合にのみ維持されうるものであること。(この仮定は必要なだけで、十分ではない)。第二に、数学の経験的起源は幾何学と微積分のような事例によって強く支持されるということ。
数学的厳密さの概念の変遷を分析するにあたっては、「基礎」論争に主眼を置くが、それ以外の側面は、数学的な "スタイル "の変化についてであり、かなりの変動があったことはよく知られている。多くの場合、その差はあまりにも大きく、異なる方法で「事例を提示」する著者が、スタイル、好み、教育の違いだけで分けられたのか、何が数学的厳密さを構成するかについて、本当に同じ考えを持っていたのか、疑問に思えてくる。
極端な場合には、その違いは本質的なものであり、新しい深い理論の助けによってのみ改善されるのであり、その理論の開発には百年以上かかることもある。厳密さを欠く方法で研究を行った数学者の中には(あるいはそれを批判した同時代の数学者の中には)、その厳密さの欠落を十分認識していた者もいたのである。あるいは、数学的な手続きはどうあるべきかというその人自身の願望が、彼らの行動よりも後世の見解に合致していたのだ。たとえばオイラーなどは、完全に誠実に行動し、自分自身の基準にかなり満足していたようである。