はてなキーワード: ソクラテスとは
ソクラテスに学んだんだと思う
お前はソクラテスの何を知ってるんだよ
タンキュウーッス
まぁ悪妻と呼ばれたのも演出なのかもしれませんし、激しく捲し立てても動じない旦那の頭に尿瓶に入っている尿をかけるだなんて現代人からすれば悲鳴が上げられるようなものなのかもしれません。
色々と物事を小難しく考えていた旦那がその性格のせいで死刑にされるだなんて、配偶者側からしたらとんでもない話ですしね。
そんな旦那と釣り合いになるには妻もとんでもない奴だと思わせないと横暴と悲劇との釣り合いが取れなかったのかもしれません。
何事もやりすぎると命まで持って行かれてしまうということでしょうか、つまり危険作業ですね。
ということで本日は【安全帯の着用よいか】でいきたいと思います。
人類共通の基準として「美」があるってのは、古代から全員が知っているし、
では「美」とは具体的になんなのかを探求してきたのが、哲学・美術の歴史だ。
プラトンやソクラテスが「美」を正義なんかと並べて考察してるのが有名だな。
なんで「美」があるのかというと、それは進化の経緯が関係していると言われているよ。
例えば、雑然としたぐちゃぐちゃした線の見た目を人間は嫌うし、整然とした線が並んでいる見た目を好む。これは人間が森林生活を離れ、草原生活に移ったからだとされているね。油や高カロリーなものを美味しいと感じるのと同様、「美」っぽいもののほうが、かつて生存に有利なことが多かったのではないかというわけだ。
小さい頃に「江戸時代の平均寿命は50歳ぐらいだったんだよ」って親から教えてもらった。
馬鹿だったからそれから漠然と「江戸時代の人はみんな50歳ぐらいで死んじゃうんだ」と思ってた。
江戸時代の人で50歳なんだから紀元前の人とかなら尚更すぐ、20歳ぐらいで死んだに違いないと思ってた。
時が過ぎて、中学生になって、倫理の授業でプラトンやソクラテスが超長生きだと知った。
まだ馬鹿だったから「哲学者みたいな凄い人は長生き出来るんだ。凄いな!」って思った。純粋だった。サンタさん信じてた。
高校生になって、やっと気づいた。
平均寿命には幼い頃に亡くなる人の数が反映されることに。
あー恥ずかしい。
なぜ、この本の読者は分かりもしないことを、絶賛するのだろう?
https://bookmeter.com/books/13714844
https://booklive.jp/review/list/title_id/611707/vol_no/001
https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/aw/reviews/404400417X/ref=cm_cr_dp_mb_top?ie=UTF8
もし、この本を読んでIUT理論が0.000001%でも理解できたなら、稀代の天才であることは間違いない。すぐに数学の論文を書くべきだ。
家から出掛けるときに「これしていって」と渡されたのはイオンの力でウイルスやら花粉やらPM2.5やらを除去できると謳うカードだった。
胡散臭くて断ったけれど、そりゃ断わられた方は機嫌を損ねる。
そんな理不尽なことがありここ数日考えていたんだけれど、ニセ科学って肉眼で見えないことをとことん利用しているなと思った。
というか前提。
騙される消費者にとっては、放射線がDNAを傷つけることと、上述のカードがイオンでウイルス等を除去することは、同時に事実として受け入れられるのだ。
なぜなら肉眼では見えないから。
ただし騙される消費者も、ただでは騙されんぞとペラペラの科学リテラシーを装っている。
メーカーはそのことを承知しているため、サイトに実験結果を載せて科学的事実であることを強調する。
それを見た消費者は、装っていた科学リテラシーや常識といった建前を全力で蹴っ飛ばし信じてしまう。
騙されないためには。
自分がその分野について無知であることを知っていれば、上述の実験も、日常生活に適応できかつ妥当性のある実験かどうか「判断できないことが自ずと分かる」ため、安易に受け入れなくなる。
自分だって科学リテラシーありますと胸を張って言えるほどじゃないし、今回だって疑心が先に立ったから断っただけだ。
なお、あとで検索したら類似の商品が消費者庁から根拠なしのお墨付きをもらっていた。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOHC230FT0T21C20A2000000/
https://www.itmedia.co.jp/news/spv/2106/25/news152.html
とまぁそんな事を考えているときに、桝太一さんが科学の伝え方を研究するべく日テレを退職したとニュースがあって、思わず拍手した。
日本に住む人々の科学リテラシー、というか科学的商品に対する消費者としての望ましい態度を向上させてくれることを願ってやまない。
あなたがした行動の原理を説明してくださいと言われて、明快に説明できる人であればあるほど、人とのコミュニケーションで理不尽を被ることが多くなると思います。というのも、世の中には自分の行動原理に対して無自覚的、あるいは全くもって自信が無い、という人が多すぎるように思うからです。
AさんがBさんに告白して、結果は残念だったとしてもそれは理不尽だとは言わないでしょう。それは、恋愛に対する個人の自由という前提の元、Bさんの行動原理は、Aさんのことを(他の人間と比較して)よく思わなかったから、という明快なものだからだと思います。ここでAさんがBさんに「なんで振ったのか」と言うのは間違っているように感じます。つまりBさんはAさんに対して、「あなたの事が気に入らなかったからだ」と言えばいいからです。それに対して「でも優しくしてくれたし、デートもしたじゃないか」と醜く食い下がるとすれば、「それは対人間の一般的な気遣いである範疇だと私は思っています」とこう言えばよろしいと思うのです。
こう質問されてこう答えられることが自分の行動原理について明確に認識してるということだと思います。さらに、最後の言葉を言う自信が無い人が多く日本にいるように感じられますが、それは自分の感性に自信が無いからなのでしょうか。そもそもこの状況で自分の感性に自信が無いというのはおかしな話です、というのもここは完全に主観のテリトリーだからです。恐らく最後のセリフを言い切らない人は、なにか日本共通の「認識」があってそれとズレているかどうかを気にしているのでしょう。この2人のコミュニケーションは2人の世界で完結していないとおかしいので、日本共通の認識を取り出してくるなんて馬鹿げたことです。
ともかく、僕は相手がある程度どんなことをしてもその人が行動原理に対して、それを明確にしてなおかつ自信をもっていれば、道徳的にどんな良くない理由だろうが、尊重したいと思う人間です。それを理由に人間関係を切る事だって当然あるでしょうが、その行動に怒りを覚えたりはしません。「行動原理」が違うだけで、そんなことはよくある事だからです。
ただ、自分の行動原理が明らかでない、あるいはそれに自信を持ってない人間と対峙した時、この世界の理不尽さに直面することになります。それは言わばボクシングの会場にピストルを持って入ってきてるようなものです。いくらルール通りに戦っても殺されてしまっては意味がありませんね。ソクラテスの弁明に描かれるソクラテスのように、それを受け入れる心の強さを人生を通して持てるのは理想でしょうが、多くの人間にとってそうはいかないでしょう。それに対して自分の弱さを嘆かざるを得ないことが理不尽そのものです。なぜなら相手はそんな事考えもしないから。
これに対する対処法など多分ないのでしょうが、少なくともそういうことを考える人間がここにいることを明示しておくのはなにかの役にはたつと思っています。
今日も、何かをしなかったことによる違法行為をしてしまっているかもしれない。
それはあなたも私も同じこと。
法の不知はなんとやらと言うがそれは古代ローマだかのことわざであって、それよりも遥かに法律が込み入ってしまっている現代日本にまでこのことわざが法の原理の一要素になっているのは時代錯誤的な不条理ですらある。
違法だから犯罪というわけではないということは、裏を返せば犯罪ではなくても違法ではあったということはあるということ。
児童福祉法によれば虐待を見て見ぬふりするのは違法だし、災害対策基本法によれば災害の兆候があるのを発見したにも関わらず通報を怠った場合も違法とされる。
これは俺が知ってる限りの例を挙げただけで、他にも何かをしないことが怠慢とみなされ違法となる例はあることだろう。
しかしそうした怠慢による違法行為を避けるにはあらゆる法律を知っていなければならない。
罰則がないんだからいいじゃないかという考えもあるが、それはソクラテスに言わせれば善く生きるという態度に背くことではないか。
犯罪として責任を問われることだけに気をつけるとかじゃなく、あらゆる違法行為を慎まなけば善く生きたことにはならないと思う。
罰もない違法行為を自覚なく破ったって誰にもついぞその違法行為をした事実を認識されることはないのかもしれない。
でもそういう話じゃなくて。罰を受けないのから実害がないんだから、とかでもなくて。
自己満足かもしれないけど、違法行為をしたところでそれを定める法すらも私の悪性を認識することはないかもしれないけども、やっぱり清く生きたい。
「何故ジャパニーズはジャップと言われるとキレるんだ?単に短く言ってるだけだろ。俺らはオージーという名前を好んでさえいるのに。」
みたいな事を、お前らバカかという感じに聞かれた。
その時俺は、さー分からんけどみんな侮辱的に思うから言わん方が良いよとしか言えなかった。
しかしその後、オーストラリアの白人たちはアボリジニの人たちを過去「アボ」と言って迫害し、現在は差別語とされる事を知った。
彼らも短縮語を差別に使っていた歴史があるのに、まるで無かったかのように「ジャップ」の捉え方を批判されたのだ。
それを知ってから、あの時の事を思い出しては悔しく思っている。