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死が代わりに飼われるとい未来が来たら、
どなるだろ。
死を飼ったりするのだろか。
朝は、死に顔面を舐め回されて、起こされるのか。
帰宅すると、死がシッポを振って飛びかかって来るのだろか。
「私の事分かってくれるのは、モーちゃんだけだよ」などと
死の顔を軽く両手で押さえながら言のだろか。ハイヒールのままで。
千余の缶切りも必要だな。
第一、屋内で飼には場所を取り過ぎるか。
マンションでは飼えないかな。
「また死なんか拾ってきて」
「こ、これからはちゃんと、しゅ、宿題もするよ。い、家のお手伝いもするよ。だ、だから〜」
「ダメなものはダメです。空き地の段ボールの所に戻してらっしゃい」
といったやりとりをする親子も出てくるのだろ。
逆に「死OK」の物件も出てくるかもしれないな。
死の散歩に行っても、フンの始末をしない不心得者の飼い主もいるに違いない。
死のフンってとてもでかいんだろな。そしてホカホカなんだろな。
佐野パクリ騒動と小保方捏造騒動とで、同業者たちの反応がまるっきり違うわけだけど、
これって結局、やり玉に挙げられてる人を「同じ」と見るか「違う」と見るかなんだろうね。
小保方さんの行為が明らかになったとき、研究者は小保方さんを研究者とは違う何かだと思った。
だからこそ「こいつと一緒にされたらタマラン!」と、小保方さんを叩いて切り離しにかかった。
「彼女は研究者じゃありません」、「あんなの研究といえません」と立場を明確にして発言することが、
研究界隈や自身の仕事の正当性を世間に説明するための手だったわけだ。
でもさ、佐野さんの騒動の場合は、それが逆だったんだろうね。佐野さんのパクリ騒動が持ち上がったとき、
多くのデザイナーは「佐野さんがやってる程度のことはデザイナーなら普通のこと」と思った。
つまり、佐野さんと自分は同類であり、佐野さんが叩かれるなら自分も叩かれるという状況だと理解した。
だから、「デザインが似るなんて当たり前の事なんです」、「彼は何も悪いことをしてません」と佐野さんを擁護した。
それがデザイン業界や自分の仕事の正当性を示す唯一の手だった。
だって、佐野さんも自分もみんなも同じなんだから。佐野さんを叩くことは自殺行為だ。
おれがフォローしてるのは漫画家とかイラストレーターばっかりなのに、ツイッターがおすすめしてくるのはなぜかお笑い芸人とかタレント。
つかえねーなと思っていたら今日は筒井康隆がツイッターしてるってメールがきたわ。
たまにはやるじゃん。
素敵だと思うので、やってみたいと思うのですが、
それとも、特定せずに、いつか誰かに、というものなのでしょうか。
(はたまたその両方?)
ある人が時間をかけて学んだことは、その人にとっては重要に感じられる。
政治に詳しい人は、選挙権を持つ者なら政治の勉強は必須だと思うだろうし、
プログラミングに詳しい人は、これからの時代は誰もがプログラミングをすべきだと語るだろう。
学ぶと有益なことは無限にあるんだけど、人生において勉強ができる時間は有限だ。
個人レベルでは、生存に必要な学びの組み合わせを考えなければならない。
学習指導要領は、無限にある学問の中から国にとって最も重要なものを選択しなければならない。
インターネットはどういうプランを契約したらお得かって議論をネットで見ると、ケーブルテレビが検討にはいってないことが多いね。
俺が契約してるのは、ケーブルテレビの10Mで2800円のプラン。
20代の頃は夏冬参加してたけど、もういい年だし、
炎天下で待機とか重い荷物持って広い会場歩き回るのとか体力的にきついから、最初は参加を迷ってた。
実際、アスファルトの上で2時間座っていたら、日傘をさしていても気分が悪くなってきて焦った。
しかし、入場すると目の前いっぱいに広がる光景に、本当に疲れがふっ飛んだ。
わあ~!これよ、これ!楽しい!
ってなって、顔がにやにやしていることに気付いて慌てて引き締めた。
私は最近とあるジャンルにはまり、二次創作を読みたくてたまらなかった。
しかしナマモノなため、ネットで検索しても普通には見つけられない。
ヤフオクで出品された同人誌を、表紙だけ眺める寂しい日が何ヵ月も続いた。
結局前日になって行くことを決めた。
本当に行って良かった。
サムネイル化された小さな表紙を見ただけで惹かれたサークルさんの本か買えたことも嬉しかったし、
ネットでのあまりの見つからなさに、もうジャンルとして斜陽なんじゃないかという予想に反して
同類のジャンルの中では2番目の大手で、壁サークルがあったことも嬉しかった。
「売ってほしい」と「買ってほしい」が全く同等で、
こちらは「少額のお金でこんな楽しい、個人的に作ったものを分けてもらえるなんて」と思っているのに、
向こうは満面の笑みで、本のみならずあれやこれやとオリジナルのおまけをつけてくれる。
本もおまけも工夫が凝らされていて、楽しさのエネルギーが凄い。
そして帰宅してじっくり読んでいると、やっぱり行って良かったと思う。
コミケのとき、参加者の位置情報を追跡したら日本中に散らばっていて、
誰かが「8月は東京が神在月」と言ってたけど、買い専の私からすると本気でそう思う。
こんな凄い話を書く人がOLさんだったり学生さんだったり、しかも日本中に散らばっていてはとても見つけられない。
周囲に同人文化がない身には本当にありがたいイベントだと思う。
というようなことをつらつら考えている。
現場では爆買いしたつもりだったのに、2日で全部読み終えてしまった。
それでも何回も繰り返し読んでいる。
ああ楽しかった。
自分は人生のある段階で、誰かに物を贈るときにお金を何かに変えて渡すという行為が嫌になった。
つまり買ってあげるというのが嫌になった。
なんか貢ぐという関係性の、与えるもの<与えられるもの、という非対称な感じが気に食わなくなった。
そこで発想を転換して、自分の持ち物の中からその人に持って欲しいものとか、
その人が喜びそうなものを渡すということをし始めた。
街に出たり、旅行に行った時、自分で何か作った時、いつか誰かに贈るかもしれないという
想像を働かせてると、自然と自分の持ち物が素敵なもので溢れた。
実際に物を手渡すときも、気取らずに、カッコつけずに受け取ってもらえるようになった。
送る相手が特定の人なのか、はたまた不特定の誰かなのかは大きな違いではないです。
ログインしてみると、フレンドが1人減っていた。挨拶も何もないが、フレの誰かから解除されたらしい。
フレといっても、それまで交流があったわけではない。この手のゲームにありがちな、
最近はガチャの引きが悪く、私のレンタル枠はカードが数か月ほど更新されていない。
どうやら見切られてしまったようだ。
もちろん、その人を恨む気持ちなどない。自分だってログインしなくなったフレ
(ログインしていないフレからはカードを借りられないシステムなので、単に枠の無駄なのだ)
は普通に切っていた。フレの申請は初級者からも来るが、彼らは大抵、最初にもらえる弱いカード
しか持っていない。一応古株の私にはほぼメリットがないので、毎日のように門前払いしている。
珍しく最強クラスのガチャレアを持っている人から申請が来た際には、その人をフレに入れる代わりに、
おそらくログインボーナスだけもらってまともに遊んでないのであろう、いつまでたっても
手持ちのカードが成長しないフレを切っていた。要するに、お互い様である。
とにかく、1人減ってしまったフレを補うべく、そこそこのカードを持っているプレイヤーから
数人ぐらい見繕って適当に申請を飛ばす。すると運よく、そのうち1名から了承を得られた。
こうしてフレは再び元の数に戻ったが、切られたフレの名前はおろか、
この二人を持ち上げてきた人たち息してんの?
両方ともいなくなったけどどうせしばらくしたら復活するんだろうな。
そうであったとして自分の正義が貫けない人は結局正義を秘めた悪人になるんじゃないの?
なにを秘めてたかって証明できたら酌量の余地があるもんなのかいな
本当は押したくなかったみんなを助けたいという気持ちがありながら正義心と上司の命令との板挟みで
ガス室のボタンを押した人がいたとしたらその人はいい人なのかもしれないけど
善人と呼んでいいのかどうか俺はなやむな
いや悩まず悪人と呼ぶと思うんだが