コメあり。
それはどう考えてもやめとけってはなしだねwwwww
若干自分の考えてなかった回答が出て来るかなって期待をしていた事は事実だけど、どう考えても無理なものは無理だって良くわかった。
スパッと諦められそうだ。ありがとう。
誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰/自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる
うーん…強制してないのかな。
人をこき使うための道具に使ってる人がいるかもしれないなーと思ったんだよ。いなければぼくの完全なるミスだ。
馬鹿にしてないのかな。
8つの方法を書いた人は(もしかすると存在するかもしれない)感覚で生きてるような人をどんな風に捉えていたんだろう。
馬鹿にしてはいなくても、想像できなかったのかなあ。考えてもわからないかな…。
馬鹿にしていると書いたのはぼくの勘違いかもしれない。ごめんなさい。
もしかしたらありもしない恐怖に振り回されているだけなのかもしれない。
ぼくが間違っててぼくが謝るだけで済むならそれが一番いいのですが。
自分以下を眺めて満足したいってのはちょっとよくわからないかも。
ぼく以下って誰のこと?ぼくの考え方が理解できない人ってこと?
うん。自分だけじゃなくて誰がいなくなったとしても世界は回ると思うから
そう考えると楽なんだと思うよ。
栽培じゃなくて保管運送がかな。
今に比べれば輸送に時間がかかっただろうし、温度とか湿度とか、コストがかかるか、今ほど制御されないから痛むかしただろうし。
それはケースバイケースだと思う。
街頭のデモを「嫌なら見るな」って言うのは難しいけど、
テレビは「嫌なら見るな」って言えると思う。消せばいいだけじゃん。
個人ブログを「嫌なら見るな」って言う事はできるけど、
Twitterを「嫌なら見るな(フォロー外せ)」って言うのは少し酷。
http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/story.html?q=postseven_28857
「韓国はネットの意見を重要視します。ドラマの内容がつまらないと、視聴者からメールで怒涛のクレームが来ます。その意見でストーリーが変わることもあります」(リーさん)
ぼくもお答えします。
だんだん難しくなってきたのでついていけるかわかりませんが…
わかる範囲で答えたいと思います。誤解があったらすいません。
でもやっぱりちゃんと理解されるほうが嬉しいです。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
それもそうか…。音楽と文章を同じものとして扱っては余計わかりにくくなるのかもしれないね。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
そういう話じゃなかったのならぼくの誤解だったね。ごめんなさい。
ぼくはこう思うって話と
あなたはこう思うって話がとりあえず明らかになったのかなあ。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
わかりやすかった?よかった^^
そうだよねーぼくも同じ立場だったらどういう対応をするかちょっと悩むなあ。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
ぼくは①と②のどっちのスタンスなんだろうなあ。
わかりやすいように書きたいとは思うけど
たしかに翻弄している可能性あるなあ。
翻弄してしまうのはイヤだけど
かといって「ある程度」以上の努力をしてしまうのもイヤなんだよなあ、わがままかなあ^^;
ハードルは飛び越えられたらいいなという願望はあるけどめんどくさかったらやめてるかも…。
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
要するに、ぼくは詭弁を弄することが悪だとは思ってないってことかな。
読者に文章を理解させようとする気があるのなら
詭弁のような不当な推論はなるべくやめたほうがいいんじゃないか
もし、詭弁を使うつもりなら留保を付記しようって話だったかな(合ってる?)
うーん…。ちょっと考えてみる。
理解してもらいたいとは思ってるけど
だからといって詭弁を言ってはいけないのかどうかもわからないし
ミスリードは理解を困難にする…ような気がする。
もしそうなら、詭弁はなるべく少ないほうがいいってことになる?
ウソはついてないつもりだけど「つもり」なだけかもしれない。
なるべく詭弁を書かないつもりでいたいなら
この理解であってるなら、それに対するぼくの答えは
まず書いてしまいたい!ってことかな。
したくなったらやろうかな~。
ちょっと勉強する手間を惜しんでいるだけで
かなり間違ったことを言ってる可能性はあるのかもしれない。
そんなこと言ってる場合じゃないのかなあ。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
悲しいまでの経緯か~うーん・・・
的確に表す言葉が思いつかないけど
頭では誤解されることは仕方ないことだと思うけど
でも、実際に誤解されたときにはっきりと心がきしむ。
そう言いながらも実は「わかりあえるはずだ」と思っているのかもしれないけど。
「こいつはウソをついている」と思われているのならぼくは悲しい。
そう思われていないなら悲しくない。これはたぶんハッキリしてる。
誤解されること自体が悲しいということだと思います。
それは「(あなたに)誤解されることが悲しい」と言ったわけではないのです。
ぼくも「あなたに嘘つきだと誤解されている」とは思いません。
「もし誰かに誤解されることがあるとするならば、それは悲しい」ということです。
うーん・・・わかりにくかったらまた言ってください^^;
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
おおむねそんな感じです。
悲しいけど否定しないんです。
でも、諦めるってことでもないなあ。なんだろう。
ある程度の努力をしてみて
どこかにボーダーがあって、もうそれ以上は努力をやめようという気になる。
あれ?矛盾してる?
うん、「否定しない」はたぶん違う。
否定しないんじゃなくてぼくと相手の理解を近づけようとする。
それで…どこかはわからないけど
ぼくが相手に対して「この人はわかってくれたかも」と思ったら
理解を近づけることは一時停止する。
「この人はまだわかってくれてないかも」と思ったら
引き続き理解を近づけようとする。
でも、「まだわかってくれてないかも」と思う人でも
ぼくは理解を近づけることを一時停止することがある。
そのスイッチがどこにあるのかわからないけど、そんな場合があります。
「まだわかってくれてないかも」と感じるだけでも悲しくなります。
加えて、「わかってくれたかも」と感じる人でも
こんな感じです。
んー…ウソがあるかもしれない…。
あらゆる状況下でぼくの言ってることが
必ずしも再現されるかというとそうじゃない気もします。
まだわからなかったら遠慮なく言ってください。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。
批判や指摘は大歓迎です(でもやっぱり心がチクチク痛いです)。
わーい応援ありがとう^^
私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
ちょっと救われました。ありがとう。
よかったらどうにかして繋がりましょう。
テレビ局の方針や地上波番組の内容なんて「ほぼ全く見ない」人には本来どうでもいい話題なはずなのに、わざわざ首を突っ込みにやってくる人種も俺には理解出来ないね。
元増田だけど君の事嫌いじゃないぜ
テレビ局が何を放映するのが正しいのか?
という問いに対して、ちゃんとした解答が得られてないと思う。
得られています。
何が正しいのかが判らないのなら、何が正しくないのかを考えてみては?
「得られています。」じゃ分かんないでしょ。あなたの意見を教えてほしい。
正しくないってはっきり言える理由はどこ?あなたが韓国を嫌ってるだけじゃないの?
個人的には人類滅亡に向かわせるような倫理感を植え付ける放送は正しくないと思うよ。
それが奇麗ごとだって言うなら、
テレビ局の主要な株主になって自分にとって都合のいいことを放映させるのが
資本主義的には正しいと思うよ。
韓国人が日本の法律に違反する量のフジテレビ株を持っていることは大きな問題だと思うけど。
それにしても、大多数の人が見たくないと思えば自然になくなることなのに、
ネット上の一部の韓国嫌いの人間がつるんで頭ごなしにぐちぐち言ってるのを見ると反吐が出る。
正しい日本人としてのありかたっていうのはそういうものなんですかね。
他者を理解できる心の持ち方っていうのは必要ないのかな。
地上波をほぼ全く見ない僕は、嫌なのに観る人種が理解出来ないんだけども。
税金の問題は確かにって思うけど、公共性ってのはよくわからない。
広告収入で成り立つビジネスモデルなんだもの、公平な局なんかあるわけないじゃん。
総合局はNHK総合、教育番組はNHK教育、あと韓流局があっても別にいいかなと。
あと、スポーツ専門局とローカル情報専門局と国会中継専門局、これでいいんじゃん?
テレビなんて録画してみる時代じゃん。
横並びで同じ似たような番組を似たような時間帯にぶつけてどうすんのよ。
月曜九時はドラマなんて誰が決めたの?
「嫌なら見るな」というのは「テレビ局がどんな番組作っても自由だ」というだけの話で、
一般人がネットで「韓流は嫌いだ、見たくない」と書いたり、街頭でデモやるのも同じように自由だから、
デモやネットの書き込みが嫌いな人に対しても「デモが嫌なら見るな」「ネットが嫌なら見るな」と言えるはずだ。
さらに「嫌なら見るな」という発言を批判する人に対しても、「『嫌なら見るな』が嫌なら見るな」と言えばいい。
堂々巡りで、結局誰が何をやっても批判せず、目を逸らし続けることになってしまう。
最終的には誰もが自分と違う考えの他人を見ない状態になるんだろうか。
働いていません。
別にTV局の「入れ替わり」だけが競争の必要条件じゃないでしょ。
テレビ局が何を放映するのが正しいのか?
という問いに対して、ちゃんとした解答が得られてないと思う。
得られています。
何が正しいのかが判らないのなら、何が正しくないのかを考えてみては?
しかし法律に書かれているのはあくまで何が正しくないのかだけ。
何を放映するのが正しいのかまでは法律に書かれていない。
という問いへの回答は得られていないのだよ。
したがって海外ドラマを他局より多く放送しようが、
書店においてある発達障害者向けの本を企業の人事さんがよく読むようになりました。
ついに一般人にも広く知られるようになりました。
一般人へ知らしめる事、これは発達障害者をより追い詰める結果となりました。
というのは、企業の人事さんが発達障害に注目するようになったからです。
(発達障害者への福祉やサポートは遅々として進まない状態のままにもかかわらず!)
人事さんには次の考えがあります。
「高学歴の発達障害者を正しく面接で弾くにはどうしたらいいか?」
「面接で発達障害者を見分けて弾きのけるための対策本」になっているのです。
悲劇なりっ!
ほら、目を瞑って自分の心にゆだねてごらんよ
聞こえてくるはずだよ、今一番自分が聞きたいと思ってる音楽がね
ちなみに俺の頭の中では今日は朝からずっと「はじめてのチュウ」のサビがリフレインしてる
ノリノリで
俺のやりたいことって、そもそも何だっただろう。
サブカルが好きで、マイノリティな文化に触れていて、大衆が絶対見向きもしない、
けど、一目置かれるような存在。
そんな風になりたかった。
今は、できているだろうか。
へたくそでも、どんだけ関心もたれないようでも、
何かをやれているだろうか。
うん、やってはいるんだと思う。
自分なりの作品作って、それなりに使われていて、
たぶん、
やることに高揚するんじゃなくて、
自分の想う人に見てもらいたいんだと思う。
一番見てほしい人は、もう見てくれない。
一番伝えたい人には、創りだすものは伝わっているのだろうか。
永遠に叶わないと知りながら、もくもくと、その命尽きるまで生み続けるのだろうか。
そんなの儚すぎるよ。
働いていません。
競争しているというなら、何故TV局の「入れ替わり」がないんですか?
テレビ局が何を放映するのが正しいのか?
という問いに対して、ちゃんとした解答が得られてないと思う。
得られています。
何が正しいのかが判らないのなら、何が正しくないのかを考えてみては?
20代女性です。私はipodがないと不安なんです。音楽をいつもボリゥムを最大にしてイャホンで聞ける状態でなければ電車に乗ることができません。出掛けに忘れたりする事があってとても不便な思いをします。その場合はたとえ約束があっても取りに戻ります。そうしないと音楽をイャホンで聴いていない状態で外出を長時間続けると背中やこめかみ足の裏掌に汗をかいてきます。不安で顔を上げることができません。なるべく他人に見られないように脇をしめて肩幅を縮めて両肩のラインより後頭部を上に出さない心持ちで早足になっていきます。そうして早くこの状態から逃れるためにipodのところへ向かいます。この時が最も危険で心臓の鼓動も早くなり耳鳴りと頭痛で倒れそうになってしまいます。光の粒が頭の周りを囲むようにたくさん浮遊しながらジグザグに降りてきます。その数が段々増えてくるとまた動きも早くなり、見てはいけないと思いながらもつい目で追ってしまい眩暈を起こして転んだ事もあります。また出かけるときになってipodを用意していると充電が不十分ですぐに電池が切れてしまいそうな時があり、出かけるのを中止してしまう事もあるのです。出先で電池が切れてしまったら恐ろしくてどうしていいのかわかりません。ですから電池が満タンの時でも常に充電するためのコードを持ち歩いています。コードはカバンの底の進行方向右手のポケットの中とカバンの外ポケットの中と肩掛けベルトの中に(縫い目をほどいておもて地と裏地の間にはさみ込んで軽く縫い合わせてあります。我ながらとてもうまく考えたものだと思います。)、それぞれ計3本を常に持ち歩いていて不測の事態に備えています。しかしご存知かもしれませんがipodは充電式なので電池が切れてしまった場合はたとえこうして充電コードを持っていてもコンセントがなければ意味がありません!そのことを考えるとまた掌が湿ってきて心臓も早くなり息を吸っても苦しくなって耳も聞こえなくなってきて頭が朦朧としてきてしまいます。みんな他の人は平気なのでしょうか? 私だけがこんな風になっているのでしょうか。
最近よく思うのですが耳にイャホンやヘッドホンをつけてなくっても音が直接聞こえる新しいバージョンのipodが出ていてみんなはそれを使っているので平気なのではないでしょうか? そしてその新しいバージョンは直接頭脳に音楽が聞こえてくる仕組みでもちろん手術で頭の中に埋め込まなくてはいけないでしょう。高いのではないでしょうか。今の私には新しいバージョンで手術を受けるだけのお金が用意できないでしょう。でもとっくにみんな多くの人がその手術で新しいバージョンになっていてそうしたらどんなに楽しくて快適でいやなことがひとつもない暮らしなんだろうと羨ましくて悲しくなってきます。相談できる友人にも聞いてみたのですがそんなことはないと私だけではないと言ってくれるのですが私はやっぱり信じられないのです。その友達がイャホンをしていないのに音楽が常に流れているように楽しそうに笑ったりしているのを見ると憎くて裏切られた気持ちになってきます。私だけが新しいバージョンの知らせを受けていないのでしょうか?ご存知かもしれませんがipodはパソコンに繋げると時々新しいバージョンのお知らせが来たりします。ある時私は間違ってその時のお知らせをいいえでクリックしてしまったのです。その日からお知らせがくる回数が随分減ってしまっているようなのです。その友達のパソコンを覗いたことがあるのですが私に来ているよりもたくさんのお知らせが来ているのです。もちろんそう言って見せてくれるように頼んだのですが友達は意地悪でそんなことはないと見せてくれなくなりました。どう考えてもその時を境にパソコンのガードが固くなったとしか考えられません。クリックでいいえをしてしまった(たとえ間違っていたとしても)場合はその人に絶対に情報を教えてはいけないというようなお知らせも同時に送られているのかもしれません。私はしてしまったのでもうそのお知らせも見る事ができませんが。どうかいいえをクリックしないままでそのお知らせを見せてもらえないでしょうか。そしてあたらしい最新の直接聞こえてくるタイプのバージョンのipodの手術を受けさせてもらえないでしょうか。万一お金が高くて足りない場合もこれからちょっとずつ貯金をしていくのでその具体的な情報が知りたいのです。お願いします。