はてなキーワード: 終戦直後とは
昭和22年の労働基準法の改正により生理休暇という制度ができ、法文の中に「生理日の就業が著しく困難なる者は」といって、生理日という言葉が突如現れたのです。
しかも、生理日とは何を指すのか、ここでは全然説明されていませんでした。
それまで生理という言葉は、月経に対しては普通使われていなかったのです。
当時は終戦直後の混乱期で、法律をつくる際の国会審議などもあまり十分ではなく、アメリカ軍のGHQが「よかろう」と言えば、それで法律が通ったような時代ですから、そういうことも起こり得たと思います。
果名温泉の泉質は硫黄泉で酸性度は高く石膏分を含み、典型的には乳白色の湯を湧出し、皮膚疾患や自律神経不安定症、冷え性に効くとされる。現在の果名温泉にあたる場所で湯治が行われはじめた正確な時期はわかっていないが、戦国時代には国衆の松影氏と配下の武士が戦闘時に受けた傷を癒すために東屋を建て、熱した岩に湯をかけて出た蒸気を浴びる療法を行った記録が残っている。
旅館の立ち並ぶ温泉街が発展を始めるのは果名駅が完成し鉄道が停まるようになった大正初期以降で、大正年間には山形屋、鳳萊館、飛雲閣、梅風館、寶山閣が温泉旅館として営業を開始している。昭和初期には湯治客の増加に伴い、月風荘のように高層化した木造建築の旅館が現れた。昭和10年発行の果名温泉旅館協同組合名簿には27件の加盟旅館が記載されている。
温泉街は一大経済圏を形成し、湯治客のみならず温泉での働き手を引きつけた。特に昭和の恐慌時には各地の農村から子女が年季奉公で旅館に送り込まれ、仲居あるいは酌婦として住込みで働いた他、「即席御料理」の看板を掲げた曖昧屋も複数存在していた。
温泉街でありながら閑寂な山居の趣を味わいうる果名温泉は多くの芸術家たちを魅了した。志摩名護也の「果名にて」や葛西前後の「波浪」といった小説は果名温泉の旅館で執筆されており、当時の果名温泉での生活を垣間見ることができる。作曲家和賀英良の名曲「疑問」は、鳳萊館の露天風呂で着想を得たとされる。
戦時中には物資の統制や倹約の奨励で温泉旅館の営業は一定の影響を被った他、温泉街は疎開児童の集団受け入れの場となった。終戦直後の乏しい物資供給を乗り越え温泉街の旅館は営業を続けたが、高度経済成長期には急峻な地形に鉄筋コンクリートの高層ビルを建てにくかったことから果名温泉は団体旅行の受入地とはならず、鄙びた温泉地の形態を留めた。
今世紀に入って旅行者の嗜好が変わるにつれ、果名温泉街の伝統的な景観と旅館の木造建築が再び脚光を浴びている。経営者の高齢化、湧出量の維持といった課題を抱えながらも、温泉旅館協同組合が主な担い手となり、地域の産業振興策と一体となった新たな温泉街の魅力づくりに取り組んでいる。平成10年には青年会により温泉街で第1回オメガラーメンまつりが開催され、果名村が発祥とされるオメガラーメンを温泉とともに楽しんでもらう行事が現在に至るまで毎年秋に行われている。
2013年にアベノミクスがスタートして以来、日銀は「年率2%のインフレを目指す」
で、政府は2度にわたり消費税を増税して、見た目の物価は上がったが
増税分は税収として国庫に入るので、小売店もメーカーも儲からない
マスクが不足、トイレットペーパーが不足、次はあれが不足これが不足と
品薄を原因とした物価上昇が本当に起こるかもや知れない
「これはインフレ到来の徴候か!」と思っている者もいるかも知れない
肺炎騒ぎが沈静化してもまずは国内の物流が優先で輸出は後回しだろう
となれば100円ショップなんぞの安い中国製品は供給不足になるだろう
あれれ? この10年近く喉から手が出るほど「年率2%のインフレ」を
待ち望んでいた日本銀行の思惑にぴったり合致しすぎなぐらい合致してるぞ
そういや終戦直後の日銀幹部は旧731部隊関係者だったらしいなあ(棒読み)
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朝から首里城が燃えてるのをニュースで見て陰鬱な気持ちになった。沖縄の方や血縁の方、首里城を訪れたことのある方はなおさらだろうと思う。
私もルーツを沖縄に持つ一人として、ほんの少し心が痛い。といっても、沖縄を訪れたことはないし、今となっては戸籍に証拠も残ってない。このまま消えてしまう私のルーツ、個人的な沖縄との関わりを書き残しておこうと思う。
私の母方の祖母は沖縄出身。母は昭和一桁生まれ、戸籍は大阪市内。小学四年生で父親が亡くなり、母ひとり子ひとりで苦労したらしい……と、母からは聞いていた。祖母が亡くなったのは私が三歳の頃。当時は沖縄はアメリカ占領下にあり、本土復帰が成されてから実の弟さんが訪ねて来られた。たしか夜だったと思うが、フェリーを見送りに行ったのか迎えに行ったのか、夜の港へ行った記憶はある。後に聞いた母の話を繋ぎ合わせると、ようやく連絡がとれたものの、祖母がすでに亡くなっていたので、分骨して持ち帰られたのだという。だからおそらく、祖母は生まれ育った土地に帰ったのだと思いたい。しかし、母はその後積極的には沖縄の親戚とは連絡を取らなかったし、向こうからも連絡はなかったと思う。今でも実家に手書きの電話帳が残っていれば、沖縄の『Tさん』の名前と電話番号が残っているかもしれない。
(私が、親が亡くなってから実家と没交渉なので確認するすべが無いのが残念なのですが)
……と、思っていたのだ。母の話は整合性あったし、墓には祖母の名前が刻まれていて、分骨はしたものの祖母の骨が入っている。沖縄から来たおじさんの記憶もぼんやりとながらある。
しかし、母が亡くなった時に確認した戸籍に、母親(私の祖母)の名前はそこにはなかった。
そこにあったのは、親戚より仲良くさせていただいていた、とある女性の名前が書かれていた。親戚よりも仲良くさせていただいてはいたけど、戦争直後に母子家庭同士で助け合ったから仲良かったんだろうなと勝手に思ってたんだけど、そうじゃなかった。
そこから遡って、いつぞや母から聞いた細切れの情報を繋ぎ合わせると、えらいややこしい話が出来上がってしまった。
母が生まれた頃(昭和一桁代)、沖縄は日本ではなかった。出稼ぎに本土へ来た人は、港湾関係、女性は紡績工場で働いてる人が多かった。沖縄出身者は差別を受けてたんで、コミュニティを作ってその中で生きるか、もしくは沖縄出身だということを隠して自活するかのどちらかだったと思う。
祖母は沖縄のコミュニティを離れたのだと思う。で、何らかのきっかけがあって、大阪のとある商家の長男の娘を授かることになる。が、ここで祖母の戸籍が問題になる。
たぶんここで、母の記憶にある『杖に長刀を仕込んだおじさま』が絡んでくるのではないかという推測ができるのだが、これはあくまでも推測であるので置いておく。とにかく、何らかのすり替えが行われて、母はH家の長女に納まった。『大事な一人娘に掃除なんかさせなくていい』と言われるくらいのお嬢様だったらしい。小学四年生で父親が亡くなったというのに、終戦直後の私立のキリスト教系女学校に入学して高校まで通っているので(同級生だった友人もいたし、写真も残っているので与太話ではないはず)、お嬢様だったのは間違いない。
母は小学校の学童疎開で生駒の方に行ったという。そこに時々、会いに来てくれていたとも、祖母が食料を求めて京都の奥だか北陸の方だかに度々買い出しに行ってたらしいという話も聞いた。
で、なんだかんだあって、次男坊だった父が婿入りって形で結婚したわけですが、祖母と母はずっと一緒にいたわけで。子供が二人出来て、下の子が1歳になるとほぼ同時に祖母が亡くなったんだけど、この時に葬儀ができないってんで大騒ぎになったとかで。
今考えると、戸籍がない、娘もその事実を知らないって、大騒ぎにもなりますわな。
でも、また何らかの大人たちの仕事により『H家のS子』として葬儀をあげて、H家の墓に収められたんですけどね。
小さい頃、祖母のことも知ってる知り合いに、よく言われたんですよ。黒々とした髪や、大きい目が祖母によく似てるって。
写真で見る祖母はすでにおばあちゃんなので、本当に似てるのかどうかは自分ではよく分かりませんが。でも、沖縄の血を引いてるから目が大きいんだって言われるのは、ちょっと、いやかなり子供心に嬉しかったのを未だ覚えています。
でも、祖母本人から沖縄の話は聞いたことがなかったし、祖母が沖縄へ行った(帰った)話は聞いていない。
私が知るのは、祖母の旧姓が『多和田』だということ。その苗字の弟が、亡くなった祖母の骨を沖縄へ持ち帰ったということ。
母は沖縄のどこに祖母の遺骨が埋葬されてるか聞いてるはずではあるが、それを書き残してはいなかった。その理由はわからない。ただ、電話帳に弟さんの名前と電話番号が書かれていた。一度も電話することはなかったけれども。
私には沖縄をルーツとする遺伝子があるはずなのだけれども、戸籍がなんだかよく分からないことになっているので証明する手立てはない。
ただ、無口で気が強いという祖母という、周りの人から聞かされる印象が『沖縄出身』というフィルターを通してみると違ったものに見えてくる気がする。
気が強いのは、強く在らねば生きられなかったから。沖縄出身者のコミュニティにいれば居心地は悪くなかったろうけれども、大阪の人達からは差別を受け続け、港湾付近の状態の良くない場所に住み続けるしかないわけで。それを抜けるには、そうするしかなかったのではないだろうか。
祖母は沖縄へ帰らなかった。母がいたから。沖縄が戦場になった時も、祖母は沖縄へ帰らなかった。帰れなかった。だから、戦争が終わったあとも帰らなかったし、連絡も取れなかったのかもしれない。
戸籍では繋がりがないけれども。でも、私の祖母なんだ。どこに埋葬されたのか、今の私ではもう探せないけれども。探すなら、母が生きてるうちに言いくるめてやれば良かったとは思うんだけど。今更言ってもしょうがない。
戦争中、首里城が燃え落ちた時、それを聞いた祖母はどう思ったのだろう。帰れない故郷を思って泣いたのだろうか。
私が3歳になる直前に亡くなった祖母の心を今更知ろうとしても難しいけれども。祖母が沖縄から大阪へ来て、何を考え、何を隠し、どう生きようとしたのか、もう少し考えてみたい。
終戦直後にGHQは、日本人に贖罪意識を植え込む「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」という洗脳政策を実施しました。
具体的には、「アメリカが憲法を起草したことを報道してはならない」「東京裁判を批判してはいけない」などがあるのですが、
その一つに「朝鮮を批判してはいけない」という項目があるのです。韓国への批判を自主規制するのは、東京裁判史観の表われです。
日本のメディアはすぐに「日本人は軍隊を持つとすぐに戦争を始める」と言いますよね。これはGHQのセリフなんです。
いまどき、というか終戦直後こそそんな奴いたのか…という
将棋ファンなら知っているであろう升田がGHQに乗り込んで論破したって有名なエピソードがあります。
Wikipediaにも載っていた。
終戦直後、日本を統治していたGHQが、「将棋は相手から奪った駒を味方として使うことができるが、これは捕虜虐待の思想に繋がる野蛮なゲームである」として禁止しようとした。将棋連盟の代表としてGHQと相対した升田は「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」と反論した。
升田といえばショーマンシップ溢れる男だったから、「白髪三千丈」的な誇張されたエピソードに過ぎないのかもしれない。
ソース知ってる方いたら教えてけろ。
現在の日本人の摂取カロリーが戦後直後以下というのをご存知だろうか?https://treasurenews.jp/archives/5436/
終戦直後よりエネルギー不足となっており、不健康で、ほとんど飢餓状態にあるといえる人が少なくありません。そういう人たちは、不妊のリスクも抱えています。
順天堂大学らと共同で実施した『卵巣年齢共同研究プロジェクト』の結果では、20代で卵巣年齢が40代相当だった女性は体脂肪が少ない痩せ型で、30代ではビタミンD不足、つまり栄養失調だったんです。https://www.huffingtonpost.jp/2018/01/25/working-women-body-shape_a_23343129/
ところで諸兄らは知っているだろうか
100円ローソンのヨーグルトは低脂肪と脂肪0しかないことをhttp://store100.lawson.co.jp/product/valueline/category/1263786_5033.html
つまりローソンはその商品展開により日本人のカロリー摂取量を漸減させ、もって女性の妊娠を妨害することで国家の弱体化を企てる国賊である
ドラマ「この世界の片隅に」を見ていて、横柄で大袈裟に騒ぎ立てる憲兵さんが登場したところでふと祖父から聞いた話を思い出した。
威張りくさって周りから怖がられていた憲兵さんは、終戦と同時に夜逃げ同然に姿を消していた、相当恨まれていたらしい、と。祖父自身特に憲兵さんと関わり合いになることはなかったのでその話はそれでおしまいだが、祖父から聞いた戦時中の話を忘れないように記しておこうと思う。
終戦の年から二、三年前、東北地方出身の当時十代の若者だった祖父は、軍需工場で働いていた。工場の持ち主は、今でも名を変えて現存する大企業だった。
私の父は戦時下の話をあまり聞いたことがなかったそうだが、祖父は孫達にはよく話して聞かせてくれた。もちろん辛いこともあったろうが、祖父から話を聞くと「結構楽しそうだな?」と子供心に思ったものだ。
何故なら、ある時祖父にパソコンでインターネットの使い方を教えていた時、GoogleMapを開き見たいところがないか聞いたら、祖父は「昔働いていた東京を見てみたい」と言ったのだ。
そこで当時の蒲田区があったところを見せると、祖父は懐かしそうにここに工場があって、ここの川で昼休みに水浴びして、休みの日に遠足でここまで行って…といろいろ説明してくれた。
聞けば祖父が働いていた工場の寮はとても待遇が良く、特に食事が良かったと。
祖父はそこで生まれて初めてライスカレーやカレーうどんを食べたそうだ。とても美味しかったらしい。今でも祖父の好物はライスカレーだ。
近くに他の工場もたくさんあったが、そんなに待遇がいいのは珍しかったそうだ。休み時間に別の工場の人と話をすると、そんなにいいものを食べられるなんて、と羨ましがられた。
そんなに食事がいいのにはもちろん会社側の「健康な若者をこの工場から徴兵して貰って、国から褒めて貰おう」的な思惑があったそうだが、祖父が徴兵される前に終戦を迎えることになる。
祖父に話を断片的に聞く限り、戦時中で大変なこともあったろうが、田舎から出て来た若者らしく都会で楽しく過ごしていたようだった。
ちなみに東京大空襲の時はどうしていたの? と聞いたら、祖父がいた寮から遠くの夜空が明るく光って見えた、とだけ教えてくれた。防空壕に逃げたという話は聞いていない。とにかく直接被害は受けなかったらしい。おかげで私の父も私もここにいる。
(後で調べたら東京大空襲で蒲田区はあまり被害がなく、その後の別の空襲で爆撃を受けたと知ってぞっとした。よく生きていたな…?)
終戦の直前、国の広報は日本は勝ってると言い続けていたが、みんな負けていることはわかっていたらしい(それこそ憲兵さんに聞きつけられると面倒なことになるので、誰も口にはしなかった)。米軍が撒いた「日本は負けるよ」と書かれたビラもよく落ちていた。
それと同時に祖父が働いていた工場は操業を停止した。軍需工場だから戦争に負けた今、工場で作るモノなんて無いから。そこで祖父は同じ地方出身の者達と相談して、故郷に帰る電車の切符を手に入れるのに奔走した。
交代で列に並び、四、五日かかってようやく切符を手に入れられた。その時に町を出て、祖父は荒廃した東京の風景を見て愕然としたという。今現在、よくテレビで目にする終戦直後の驚くほど何もない東京の映像や写真そのものだった。
その後祖父は一旦故郷に帰ったが、働く場所を求めて親戚の伝手ですぐに遠く離れた地へ渡り、現在に至る。
祖父は現在91歳。もう少しいろいろ話を聞きたいと思っている。私が作ったカレーライスも食べて欲しい。
祖父から聞いた戦争の話はここまでだが、ちょっとしたおまけがある。
ある時、祖父が不思議な顔をして郵便で届いた書類を見せにきた。「これはどういう意味だ?」と。
それは『ねんきん特別便』だった。よく見てみると、祖父が戦時中に軍需工場で働いていた頃に納めていた年金がいわゆる「宙に浮いた年金記録」となっていたことが発覚し、年金受給者の祖父に支給されていなかったのだ。祖父自身、その頃に自分が年金を納めていたことなど全く知らなかった。
インターネットで検索したら「全国消えた年金相談センター」のウェブサイトによると戦時中の宙に浮いた年金記録はたくさんあるらしい。知らなかった。
とにかく書類に書いてある通り、記入して返送すればお金が貰えるよ、と説明した。書類には覚えてる限りの勤めていた会社の名前、住所を書いてくださいとあった。祖父はきちんと記入出来た。きっともう覚えてなくて書けない人もいたんだろうな。
後日、祖父にお金が振り込まれた。祖父曰く「案外少ない」でした。
おわり