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はてなキーワード: 酌婦とは

2023-10-03

anond:20231003104659

はっきり言えば、そんなのはお前らが勝手にやってることで、不機嫌になるやつは勝手のさせておけばいいし、そういうのでガタガタ言うアホ女はマジで信じがたい。

俺は、そういう空気を読むのが全くできないので、そんなことでイチイチ不機嫌になるやつらも、そういう連中を増長させて、自分だけいい思いしようとする、セルフ酌婦太鼓持も嫌いすぎる。空気読みやいい子ちゃんゴッコみたいなクソ茶番社会を非効率的にしてアホを偉くするようにしている。

から、俺は親族や友人など気のおけない相手との飲み会とかではない限り、コンパニオンや、女性差別って言うなら出張ホストを呼ぶ。業務としての金銭的対価の無いホスピタリティ人類の宿痾なのだ

2022-12-12

オジさん達って本性がセクハラの塊なんだよな

この増田釣りかもしれないなとは思うけど、それに集まるコメントセクハラしたがってるオジさんそのもの

おじさんは女性無料接待を期待するのをやめてほしい

pikopikopan いやいやマシやんけ。うちの会社きたら爆死しそうな増田だ。社長女性社員は酌婦なんだから会社社員旅行に率先してくるようにとか言ってたんやぞ。このご時世なのに去年ですら

timetosay いわゆる女性の「感情労働」の現場は時給が高いのに、普通事務仕事中に多めに感情労働させられるとイラつくのはわかるけど、ちょっと過剰反応だと思います

imi-x 「おじさん」全般ではなくて職場のそのおじさんがすごく嫌いなんだと思うなー。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの勢いで属性全般に広げているが。そういうことってある。

hizakabu タイトルだけみたら「分かる」と思ったけど、内容的にはあなたが思うほどおじさんは期待してないよ。過剰に期待されてると思ってる。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221212142453


もうね、完全に「俺が世の中の厳しさを教えてあげるよ、お嬢さん」って感情が見えるんだよ

キモいんだな~これが

元増田上司の方がよっぽどマシだ

2020-10-15

[]玄丹お加代

1842年、松江藩の生まれ本名錦織加代。

父が錦織玄丹という鍼医者で、そのため玄丹お加代と呼ばれた。

戊辰戦争の直前、親藩だった松江藩問責するため新政府軍派遣されてきた。

松江藩は、家老切腹など厳しい要求をつきつけられて憔悴し、

城下新政府軍乱暴狼藉を働くのにも手をこまねく有様だった。

そんな中で、新政府軍歓待するために藩が用意した酒宴に、加代は酌婦として参加した。

酔った政府高官が刀にカマボコを突き刺して振り回したとき

加代はそれを唇で受け止めたうえに「お酒も欲しい」と言ってのけた。

その侠気を気に入った新政府軍は、加代の訴えを聞いて軍規を引き締め、家老切腹も取りやめさせた。

玄丹お加代は松江藩を救った女傑として今に名を残している。

が、この武勇伝は後世の脚色も多く含まれているともいう。

2020-09-23

果名温泉あゆみ

果名温泉の泉質は硫黄泉で酸性度は高く石膏分を含み、典型的には乳白色の湯を湧出し、皮膚疾患や自律神経不安定症、冷え性に効くとされる。現在の果名温泉にあたる場所湯治が行われはじめた正確な時期はわかっていないが、戦国時代には国衆の松影氏と配下武士戦闘時に受けた傷を癒すために東屋を建て、熱した岩に湯をかけて出た蒸気を浴びる療法を行った記録が残っている。

旅館の立ち並ぶ温泉街が発展を始めるのは果名駅が完成し鉄道が停まるようになった大正初期以降で、大正年間には山形屋、鳳萊館、飛雲閣、梅風館、寶山閣が温泉旅館として営業を開始している。昭和初期には湯治客の増加に伴い、月風荘のように高層化した木造建築旅館が現れた。昭和10年発行の果名温泉旅館協同組合名簿には27件の加盟旅館記載されている。

温泉街は一大経済圏形成し、湯治客のみならず温泉での働き手を引きつけた。特に昭和恐慌時には各地の農村から子女年季奉公旅館に送り込まれ仲居あるいは酌婦として住込みで働いた他、「即席御料理」の看板を掲げた曖昧屋も複数存在していた。

温泉街でありながら閑寂な山居の趣を味わいうる果名温泉は多くの芸術家たちを魅了した。志摩名護也の「果名にて」や葛西前後の「波浪」といった小説は果名温泉旅館執筆されており、当時の果名温泉での生活垣間見ることができる。作曲家和賀英良の名曲「疑問」は、鳳萊館の露天風呂で着想を得たとされる。

戦時中には物資の統制や倹約奨励温泉旅館営業一定の影響を被った他、温泉街は疎開児童集団受け入れの場となった。終戦直後の乏しい物資供給を乗り越え温泉街の旅館営業を続けたが、高度経済成長期には急峻な地形に鉄筋コンクリート高層ビルを建てにくかったこから果名温泉団体旅行の受入地とはならず、鄙びた温泉地の形態を留めた。

今世紀に入って旅行者の嗜好が変わるにつれ、果名温泉街の伝統的な景観旅館木造建築が再び脚光を浴びている。経営者高齢化、湧出量の維持といった課題を抱えながらも、温泉旅館協同組合が主な担い手となり、地域産業振興策と一体となった新たな温泉街の魅力づくりに取り組んでいる。平成10年には青年会により温泉街で第1回オメガラーメンまつりが開催され、果名村が発祥とされるオメガラーメン温泉とともに楽しんでもらう行事現在に至るまで毎年秋に行われている。

(『果名村史 近代編』、果名村史編纂委員会、2018、p.201-203)

https://anond.hatelabo.jp/20200922195023

 
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