はてなキーワード: 学童疎開とは
朝から首里城が燃えてるのをニュースで見て陰鬱な気持ちになった。沖縄の方や血縁の方、首里城を訪れたことのある方はなおさらだろうと思う。
私もルーツを沖縄に持つ一人として、ほんの少し心が痛い。といっても、沖縄を訪れたことはないし、今となっては戸籍に証拠も残ってない。このまま消えてしまう私のルーツ、個人的な沖縄との関わりを書き残しておこうと思う。
私の母方の祖母は沖縄出身。母は昭和一桁生まれ、戸籍は大阪市内。小学四年生で父親が亡くなり、母ひとり子ひとりで苦労したらしい……と、母からは聞いていた。祖母が亡くなったのは私が三歳の頃。当時は沖縄はアメリカ占領下にあり、本土復帰が成されてから実の弟さんが訪ねて来られた。たしか夜だったと思うが、フェリーを見送りに行ったのか迎えに行ったのか、夜の港へ行った記憶はある。後に聞いた母の話を繋ぎ合わせると、ようやく連絡がとれたものの、祖母がすでに亡くなっていたので、分骨して持ち帰られたのだという。だからおそらく、祖母は生まれ育った土地に帰ったのだと思いたい。しかし、母はその後積極的には沖縄の親戚とは連絡を取らなかったし、向こうからも連絡はなかったと思う。今でも実家に手書きの電話帳が残っていれば、沖縄の『Tさん』の名前と電話番号が残っているかもしれない。
(私が、親が亡くなってから実家と没交渉なので確認するすべが無いのが残念なのですが)
……と、思っていたのだ。母の話は整合性あったし、墓には祖母の名前が刻まれていて、分骨はしたものの祖母の骨が入っている。沖縄から来たおじさんの記憶もぼんやりとながらある。
しかし、母が亡くなった時に確認した戸籍に、母親(私の祖母)の名前はそこにはなかった。
そこにあったのは、親戚より仲良くさせていただいていた、とある女性の名前が書かれていた。親戚よりも仲良くさせていただいてはいたけど、戦争直後に母子家庭同士で助け合ったから仲良かったんだろうなと勝手に思ってたんだけど、そうじゃなかった。
そこから遡って、いつぞや母から聞いた細切れの情報を繋ぎ合わせると、えらいややこしい話が出来上がってしまった。
母が生まれた頃(昭和一桁代)、沖縄は日本ではなかった。出稼ぎに本土へ来た人は、港湾関係、女性は紡績工場で働いてる人が多かった。沖縄出身者は差別を受けてたんで、コミュニティを作ってその中で生きるか、もしくは沖縄出身だということを隠して自活するかのどちらかだったと思う。
祖母は沖縄のコミュニティを離れたのだと思う。で、何らかのきっかけがあって、大阪のとある商家の長男の娘を授かることになる。が、ここで祖母の戸籍が問題になる。
たぶんここで、母の記憶にある『杖に長刀を仕込んだおじさま』が絡んでくるのではないかという推測ができるのだが、これはあくまでも推測であるので置いておく。とにかく、何らかのすり替えが行われて、母はH家の長女に納まった。『大事な一人娘に掃除なんかさせなくていい』と言われるくらいのお嬢様だったらしい。小学四年生で父親が亡くなったというのに、終戦直後の私立のキリスト教系女学校に入学して高校まで通っているので(同級生だった友人もいたし、写真も残っているので与太話ではないはず)、お嬢様だったのは間違いない。
母は小学校の学童疎開で生駒の方に行ったという。そこに時々、会いに来てくれていたとも、祖母が食料を求めて京都の奥だか北陸の方だかに度々買い出しに行ってたらしいという話も聞いた。
で、なんだかんだあって、次男坊だった父が婿入りって形で結婚したわけですが、祖母と母はずっと一緒にいたわけで。子供が二人出来て、下の子が1歳になるとほぼ同時に祖母が亡くなったんだけど、この時に葬儀ができないってんで大騒ぎになったとかで。
今考えると、戸籍がない、娘もその事実を知らないって、大騒ぎにもなりますわな。
でも、また何らかの大人たちの仕事により『H家のS子』として葬儀をあげて、H家の墓に収められたんですけどね。
小さい頃、祖母のことも知ってる知り合いに、よく言われたんですよ。黒々とした髪や、大きい目が祖母によく似てるって。
写真で見る祖母はすでにおばあちゃんなので、本当に似てるのかどうかは自分ではよく分かりませんが。でも、沖縄の血を引いてるから目が大きいんだって言われるのは、ちょっと、いやかなり子供心に嬉しかったのを未だ覚えています。
でも、祖母本人から沖縄の話は聞いたことがなかったし、祖母が沖縄へ行った(帰った)話は聞いていない。
私が知るのは、祖母の旧姓が『多和田』だということ。その苗字の弟が、亡くなった祖母の骨を沖縄へ持ち帰ったということ。
母は沖縄のどこに祖母の遺骨が埋葬されてるか聞いてるはずではあるが、それを書き残してはいなかった。その理由はわからない。ただ、電話帳に弟さんの名前と電話番号が書かれていた。一度も電話することはなかったけれども。
私には沖縄をルーツとする遺伝子があるはずなのだけれども、戸籍がなんだかよく分からないことになっているので証明する手立てはない。
ただ、無口で気が強いという祖母という、周りの人から聞かされる印象が『沖縄出身』というフィルターを通してみると違ったものに見えてくる気がする。
気が強いのは、強く在らねば生きられなかったから。沖縄出身者のコミュニティにいれば居心地は悪くなかったろうけれども、大阪の人達からは差別を受け続け、港湾付近の状態の良くない場所に住み続けるしかないわけで。それを抜けるには、そうするしかなかったのではないだろうか。
祖母は沖縄へ帰らなかった。母がいたから。沖縄が戦場になった時も、祖母は沖縄へ帰らなかった。帰れなかった。だから、戦争が終わったあとも帰らなかったし、連絡も取れなかったのかもしれない。
戸籍では繋がりがないけれども。でも、私の祖母なんだ。どこに埋葬されたのか、今の私ではもう探せないけれども。探すなら、母が生きてるうちに言いくるめてやれば良かったとは思うんだけど。今更言ってもしょうがない。
戦争中、首里城が燃え落ちた時、それを聞いた祖母はどう思ったのだろう。帰れない故郷を思って泣いたのだろうか。
私が3歳になる直前に亡くなった祖母の心を今更知ろうとしても難しいけれども。祖母が沖縄から大阪へ来て、何を考え、何を隠し、どう生きようとしたのか、もう少し考えてみたい。
よく調べると、そんなはずはないのに、そういうことになっている話ってないですか。
微妙な問題かもしれませんが、当り障りのないものを示してくれるとうれしいです。
有名なところでは、
当時は青春御三家を聞いていたくせに、いつの間にか本人の意識ではビートルズ世代ということになっている。
バブル時代の象徴としてジュリアナ東京の画像が出てくるが、ジュリアナ東京のオープンは、統計的にはバブル後だった。
戦時中の学童疎開で田舎ライフを結構楽しんだが、悲惨だったということになっているので、そういうふうに記憶を書き換えてしまった。
10年ぐらい前のNHK「Project X」で、某社企画の功労者として出てきた人の中に、当時は反対派だったはずの人が紛れ込んでいる。
20ミリシーベルト問題だが、実は放射線医学専門家は引き下げを主張したが、
文部科学省側が20ミリシーベルト維持を押し切った、という未確認情報がある。
真相は未確認だが、私見では「さもありなん」という気がする。
より深刻なんじゃないか、と思う。
「自分たちが気付きあげた教育メソッドこそ最高」と固執して方針転換が遅れたり、
他学会から「教育界の常識を否定」された際にも直視しなかったりする。
例えば「教室の天井高は高ければ高いほうがいい」と教育界では信じられてきて、
文部官僚は地方自治体から申請あった「天井高の規制緩和」をかたくなに拒否してきたが、
しぶしぶ埼玉県で認めたところ、「かえって天井高が低くした方が、児童は心理的に落ち着く」という
あるいは「教育効果を上げるには少人数教室が最善」と教育関係者(文部官僚も日教組も)は主張し続けているが、
経済学者から「少人数教室にすると、トップ層が切磋琢磨しなくなり、かえって全体の平均学力は落ちる」と
今回の件についても、文部官僚は「屋外での体育活動が重要」とか
「子を疎開させて親と別離することは精神的に問題」という「もっともらしい理由」で
「できるのであれば20ミリシーベルトを貫いて、中通りで極力平常どおりの教育をしたい」という思惑を貫こうとしている。
彼らは「体育活動が重要」「親子のコミュニケーションが重要」という「従来からの教育メソッドの固執」という発想しかできない。
緊急時には、それこそ体育授業の1年間停止とか学童疎開という非常手段も求められるのに、
そういう「従来の延長線上からかけ離れた措置」を文部官僚は非常に嫌がる。
前例踏襲主義、という点では、文部科学省、もっと言えば旧文部省こそ、「官僚の中の官僚」である。
福島の児童の不幸は、官僚の中の官僚に学校運営権を牛耳られたことである。