はてなキーワード: Meceとは
30代前半、外資系IT業界勤務、非エンジニア、給料は1000万程度、現在転職活動中。
新卒で入社してからずっと現在の会社に勤務。もちろん面接ではそれなりに飾った理由を言うのだけど、本音の理由は下記。
1、仕事がつまらない。現在オペレーション系の仕事なのだが、基本本社から言われたことをやるだけ。つまらない。日本法人の影響力ってすごく少ない。
2、人がつまらない。ブランド力ある企業で仕事していることだけで満足している人が大多数。同じような仕事を何年も十何年もやっている人多数。新たなチャレンジ嫌う人多数。刺激を受けることが少ない。
3、新しいことができない。本社で決められたことを日本風にアレンジすることはできるのだけど、そこまで。全く新しいことを生み出すことはできない。
4、大企業に飽きた。スピード感がなく、部門ごとの役割分担が細かく決まっていて、がんじがらめ。**の仕事は@@部署で、それ以上の話は**部門です、みたいなことばかりやって仕事遅い。
仕事がつまらないのであれば、面白くすればいい。人がつまらないのは、面白い人を探す努力が足りないからだ。新しいことができないんだったら本社いけばいいじゃん。スピード感持って仕事探せる部署探せよ。
とか色々反論は思いつくのだけど、もういったんリセットしたいわけ。そろそろ今の会社という温室から出ないと将来ヤバイと思うわけ。今のような好業績、好待遇がずっと続くとはとても思えない。
現在の仕事と同じ業界、同じ職種を今後もやりたいのであれば、比較的すんなり決まると思うのだけど、私のように職種を変えたいとなると、これがなかなか決まらない。
同業他社を受けてみて、比較的すんなり決まったのだけど、これは断った。年収はいまより上がるけど、同じことやっても正直面白くないからね。
そして給料。今と同じくらいの給料を職種を変えてもらうことはかなり難しい。そして現在は給料もらいすぎ。
仕事そんなに忙しくないんだけど、上司とうまがあうので高い評価もらってる。給料も上がってる。
だけど内実はここ数年大した成長してない。
周りで転職活動している友人が決まっていくのをみて、焦る。自分に能力ないじゃん、とも思う。
だけど今、本気で転職活動して良かったと思う。
自分の市場価値というものを、正しく理解する素晴らしい機会だと思う。
お前の給料のかなりの部分は、今の会社のブランド力から出ているんだよって。
お前がやっている仕事は大したことなくて、市場ではそれほど高く評価されないよって。
お前より優れた人は世の中には山のようにいるよって。
さ、今日もがんばるぞ!えいえいおー!
まず、この主張はまったく個人的なものであり、厚生労働省の見解でもないし、
仲間の医系技官のコンセンサスでもありません。このことをご了承いだけますと幸いです。
私は現在、臨床現場を離れ、医系技官をしております。臨床は4年ほどたずさわっておりました。つたない経験ですが、小児の診療にかかわる機会に多少恵まれたこと、また自分自身に娘がいることから、小児診療のあり方については興味を持っているところでした。そこで、ツィッターで小児の夜間休日診療について、意見交換をしていたところ、私のツィートをYosyanさまがブログにてまとめていただきました。
URL:http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20110225
このブログは昔から注目をしているブログでしたので、御意見をいただき光栄でもあり、大変興味深く思っております。内容についても示唆に富むご指摘であり、私自身の理解も深めることができました。大変ありがとうございました。感謝しております。そこで、Yosyanさまの御意見も踏まえ、いろいろ考えてみましたので、そのことをこの日記にまとめたいと思います。
Yosyanさまの主張は2つに整理できると思います。それは次のとおりです。
① | 「一部の児の親の受療行動によって小児科医は疲労しており、制度として介入すべきである」 |
② | 「小児の緊急性の評価は不可能であるため、全てのタイミングで小児科医が対応する必要がある。しかし、実際にそのようなリソースは無いので、夜間休日診療は制度として抑制すべきである」 |
① | 「一部の児の親の受療行動によって小児科医は疲労していることには同意、共感。しかし、介入の方法には検討が必要であり、制度的な介入よりも普及啓発を重視すべき。そのためには普及啓発を促進するためには緊急性の判断の基準を示す必要がある。」 |
② | 「小児についても緊急性の評価は可能。緊急性の評価を小児科医師以外の人間にデリゲーションすることによって、夜間休日診療を適正化でき、小児科医の疲弊を防ぎたい」 |
では、次の章からYosyanさまの2つの主張に対してそれぞれ、検討をしてまいります。
Yosyanさまは夜間・休日診療を受ける児の親を以下のように分類しております。
類型 | 説明 |
---|---|
1群 | 救急の本当に必要な群 |
2群a | 親が心配して救急にかかる群(前向き群) |
2群b | 親が心配して救急にかかる群(後ろき群) |
3群a | リピーター群(社会的背景あり) |
3群b | リピーター群(親の意識に問題あり |
この中で3群(とくに3群a)の存在によって、物理的にも精神的も小児科医が疲弊をしているので、3群のリテラシーの改善が必要である。そのためには時間外料金の値上げとか、救急車有料化などの制度的な仕組みが必要であると主張されています。
まず、「Yosyanさまらの児の親の類型化」ですが、いわゆるMECEになっておらず、不思議な感じがします。1群か否かは医学的評価なのに、2群や3群やリテラシーや受療行動について類型化をしているからです。3群のリピーターの中にだって救急の本当に必要な群もいるはずです。そこで、「医療が公共財であるかどうかの認識の有無」「緊急性の判断能力の有無」にしたがって、つぎのように類型化してみました。
公共財の認識あり | 公共財の認識なし | |
---|---|---|
緊急性判断能力あり | 1群 | 3群 |
緊急性判断能力なし | 2群 | 3群 |
このように捉えれば、いわゆる「3群」に対処するには、「医療は公共財であるという」という認識を持ってもらう方法を考えればいいことになります。
つぎに、介入方法を検討しようと思います。3つの方法枠組みから考えてみました。それは次のとおりです。
ア | 法律、罰則などを用いた強制的な方法 |
イ | インセンティブ(+も-も)を使う方法 |
ウ | 普及啓発、教育を用いる方法 |
この枠組みで考えるとYosyanさまは「時間外料金の値上げとか、救急車有料化(主体は国)をすべき」と主張されていますので、主にイの方法を用いるべきと主張されていることになります。
Yosyanさまの主張に対して、私は「ウの普及啓発を重視・先行すべき」だと考えます。理由としては次の4つの点を挙げます。
・共有認識がができていない現在の状態では、アやイを導入すること自体が政治的に困難。 |
・時間外料金の値上げは病院単位で可能であり、それをしないことを病院や自治体が選択している。病院や自治体のが選択していることをを頭ごなしに国が否定するのはおかしい。 |
・普及啓発ができていない状態では、値上げをすることによって、お金さえ払えばみだりに夜間休日に受診してもよいという価値観を誘導する。 |
・普及啓発の余地があると思っていて、一番実効性があると思っている。 |
実はこの中で私がもっとも言いたいことは、最後の「普及啓発の余地があると思っていて、一番実効性があると思っている」というものです。特にこのことについて、つぎに補足します。
まず、3群の中でも、緊急性の判断ができている者(マトリックスの右上の部分)は「確信犯」ということになります。たしかにそんな方はいて、現場の先生方を脱力させているもの理解しています。しかし、3群の中では、緊急性の判断もできない者(マトリックスの右下の部分)がいて、この群は「ひたすらイノセント」な者です。実は、「確信犯」よりも「ひたすらイノセント」な方が多いのではと私は思っているのです。つまり先ほどの分類に従えば、夜間休日に外来を訪れる親御さんは、実は右下の「イノセント」な群がいちばん多いのではと思っています。
公共財の認識あり | 公共財の認識なし | |
---|---|---|
緊急性判断能力あり | 「賢い人」 | 「確信犯」 |
緊急性判断能力なし | 「遠慮深い人」 | 「イノセントな人」 |
もし、「イノセントな人」の群が一番多いという私の仮説が正しければ、普及啓発をする余地がまだあるのだと思うのです。
では、「イノセントな人」の群に対して、どのような普及啓発が有効かを考察します。普及啓発の方法は次の2通りがあると思います。それは次のとおりです。
ア | 緊急性の評価のやりかたを伝える(上を目指す) |
イ | 医療は公共財であることを伝える(左を目指す) |
私は、ア→イの順番で普及啓発するのが有効だと思います。これは完全な自分の体験ベースですが、「イノセント」な群に緊急性の判断の方法を理解してもらうと、そのまま上に行かずに、左上の「賢い人」になる印象があるからです。一方で、「イだけ」もしくは「イ→ア」と説明をしたらどうなるでしょうか。つぎのようになると思います。
イだけ説明した場合 | 「公共財なのはなんとなくわかるけど、いつ病院につれていけばいいのかわからない。なんだかんだで、夜診てくれるなら連れて行きたい」となりそう。 |
イ→アの順番で説明した場合 | 「医療が公共財といってもそんなの提供側の問題。消費者としてはしったこっちゃないよ。とってつけたように病院に連れて行かなくてもいいパターンを教わっても、それって夜間休日診療を抑制するために方便じゃないのか」となりそう |
ですから、ア→イと説明することによって次のようになってくれるとありがたいと思っています。
「なるほど、夜間休日にわざわざ連れて行く必要があるとき、連れて行かなくていいときがわかった。自分自身や子供の負担も少ないし、これで先生方にもご負担をおかけしなくてもよくなりますね。」 |
ア | 「確信犯」よりも「イノセント」群の方が多く、普及啓発の余地がある |
イ | 「緊急性の評価のやりかた」がそもそも存在しするし、小児科以外の人間も担うことができる |
というのが、前提条件となっています。Yosyanさまはおそらく、アとイの両者とも、私との見解の相違がありそうです。アについては定量的な議論が必要ですが、おそらく水掛け論になりそうな気がします。イについては、ある程度、実のある議論ができるような気がしています。この部分については次の章で論じたいと思います。
「児の親をどのように類型化しても結局どの群にも重症者が含まれているため、何かしら症状を持つ児の親は、緊急性があり小児科受診が必要である」というのが、Yosyanさまの主張だと理解しております。Yosyanさまはほかの部分でも次のように述べられています。
「それと表を良く見て欲しいのですが、2群でも3群でも重症者は確実に含みます。正直なところ実際に診察してもこれを全員確実に見抜けるかと言えば、私如き の技量では自信はありません。「発熱性疾患」で「見た目上元気そう」の保護者判断で、「2日ぐらいは様子を見る」の対応が全員に適用できるなんて事は、経験を重ねた小児科医(小児科医でなくとも)まず口にしません。ましてや電話相談で安請け合いなどしようとも思いません。」
つまり、まとめると、
小児科医でも重症者を見抜くのは不可能。ましてや保護者判断なんか意味がない。電話相談も意味が無い |
ということです。それゆえ、
重症者を見逃さないためには、24時間365日、小児科医が根こそぎ診察するしかない」 |
ので、
「実際にそのようなリソースは無いので、夜間休日診療は制度として抑制すべき」 |
Yosyanさまの主張はロジック(論のつながり)としては矛盾が無いものであると思います。ただ、私の意見との最大の違いは、議論の前提となっている「小児の緊急性の評価は不可能である」の部分にあります。私は「小児の緊急性の評価は可能」だと思っているのです。この前提から私の論を展開しようと思います。私の論の骨子は、
ア | 小児についても緊急性の評価は可能 |
イ | 緊急性の評価は小児科医師以外の人間にデリゲーションすることができる |
ウ | 夜間休日診療を適正化し、小児科医の疲労を軽減することができる |
まず、医学的な見地からの緊急性を要するものは疾患と病態の2つの軸で整理することができると思います。
疾患の軸 | :(例)敗血症、髄膜炎、重症肺炎など重症感染症、腸重責など急性腹症、、、、 |
病態の軸 | :(例)脱水、呼吸不全、意識障害、痙攣(単純な熱性痙攣を除く)、、、 |
この2軸を判断するためには結局、次のようなという3つのポイントを判断すればいいと思います。
緊急性の評価の3つのポイント |
---|
a 身体症状(水が飲めない、ぐったりしている、呼吸が速いなどのRED FLAGSの有無) |
b お母さんからみてwell doingか否か |
c 既往歴や年齢 |
なぜ、わたしがこのように理解するように至ったかというと私の初期研修医のときの経験からです。私は初期研修医を完全な北米型ERシステムの病院で過ごしました。この病院では、小児のwalkinも救急車も全ての救急受診をまずは初期研修医が対応し、必要に応じて小児科医にコンサルトする体制をとっています。初期研修医は2年間の間、小児科ローテート以外の期間もER勤務をしますので、2年間、常に小児の夜間休日診療に携わることができました。そのときに先輩から最初に教わったことが「救急外来でやることは帰宅させられるのか、小児科の先生にコンサルトすべきかを判断することであって、必要なのは正確な診断ではなく緊急性の判断だ」|というものでした。
私はたった2年間の初期研修で小児診療ができるようになったなどとおこがましいことは全く思いません。しかし、小児の緊急性を判断する方法論については整理することができたし、小児科の先生を深夜でも呼び出さないといけないときの判断はできるようになりました。この経験は3年目以降にも生きていて、しばしば小児診療をする機会にも、小児科の先生を頼るかどうかを判断することができるので、多忙な小児科の先生に丸投げしなくて済んでいました。
私はさきほど、緊急性の評価はつぎの3つのポイントに集約することができると述べました。そして、これらの判断を小児科以外の人間にデリゲーション(権限の委任や委譲)することができると思っています。
・児の親御さん |
・電話相談対応者(看護師さんなど) |
・小児科以外の夜間・休日担当医(初期研修医など) |
まず、児の親御さんについては、リテラシーを高めていただくのがいいと思います。緊急性の判断の方法論をあらゆるチャンネルから伝えるべきだと思っています。また、補助ツールも有効であり、次のようなサイトも有用だと思います。
ちなみに、このサイトの発熱はボタンを押すと、チェックリストとして次の項目が現れます。これってまさに「緊急性の評価はつぎの3つのポイント」なのだと思います。
発熱時のチェック項目 |
---|
・生後3ヶ月未満である |
・元気はある |
・無表情で活気がない |
・おしっこが出ている。オムツがいつものとおり濡れいている |
・あやすと笑う |
・1日中ウトウトしている |
電話相談も有効だと思います。「緊急性の評価の3つのポイント」は問診が必要であって、詳細な身体診察や血液検査が必要ありません。ですからトレーニングを受けた看護師さんなどの医療者であれば、電話でお話を伺いながら判断することができます。電話相談など医療職による相談でも不安がとれない場合は、「お母さんからみてwell doingでない」ということですから、夜間でも休日でも受診をしていただくのがいいと思います。ただ、この際もできれば小児科の先生が最初から診察するのではなく、きちんとトレーニングを受けた救急担当の研修医が診るようになればいいのにと思っています。
なお、初期研修のときにあまり小児の緊急性の評価についてのトレーニングを受けていない医師でも、3年目から小児科の医局に入局すれば1人で当直をしていると思います。私は、このような3年目の小児科の先生と比較すると、トレーニングを受けた初期研修医の方がより安全な医療を実践していると思っています。
アとイで述べたように、緊急性の評価の方法を小児科医以外の人間に普及啓発し、緊急性の評価の主体者をにデリゲーションすることができれば、小児科の先生は、夜間休日には本当に緊急性のある場合にのみ診察をすればいいことになると思っています。それが、私の思う「夜間休日診療を適正化でき、小児科医の疲弊を防ぎたい」ということなのです。
私は文中に述べたように初期研修の2年の間に同年代と比べると比較的に、小児診療の経験に恵まれました。また、3年目以降も、院内にPICUが無いことから小児科の先生と一緒に仕事をする機会にも恵まれました。自分自身にも娘がいるし、PALSなどを学ぶ機会がありましたので、小児医療にはずっと興味を持っています。
つたないながらも3年目以降にはオカルトバクテレミアや劇症型の敗血症、インフルエンザ脳症など経験しました。元気だった児が半日ぐらいの経過で一気に具合が悪くなり、24時間程度で亡くなるケースでした。ですから、いくら緊急性の評価をきちんとしても、半日後の転帰を100%確実に予測する方法が無いことも理解はしているつもりです。
ただ、だからこそ、受診をした際には、医療者はきちんと緊急性の評価をし、説明し、カルテに記載することが大事だと思います。また親御さんに対しては次のようなというメッセージを伝えたいと思っています。
「病院に頻回に受診さえすれば安全・安心というわけでなくて、どうやっても急性の経過をたどることがある。でも、いたずらに不安になるのではなく、知識を整理したうえで、自分自身の判断力を向上させてほしい。自分自身で判断できなくても、電話相談を受けることもできるし、いざとなれば受診もできるようになっているから安心してほしい。なにより、実は緊急性の評価はお母さん自身のwell doingがどうかの判断が一番重要であって、それを見極められるようになってほしい。」 |
私は、小児医療にはまだまだ行政が寄与できる部分がたくさんあると思っています。たとえば、ワクチンです。オカルトバクテレミアに対する最大の対策は頻回の受診でも検査でもなくてワクチンであると認識しています。このワクチンは子供を守るだけでなく、小児科の先生方を訴訟リスクから守るものでもあると理解しています。そのほかにも、自分の居住県は人口が600万人いるのに、PICUが存在しません。そんなことにも問題意識を持っています。また、大学の同級生や研修時代の仲間や先輩方にも小児科の医師がたくさんおります。みな真摯にとりくみながらも疲弊していることも理解しているつもりです。ですから医系技官という仕事を通じて、機会があれば、いつか小児医療の発展に寄与できればと思っています。
JR倒壊がやろうとしてるリニア中央新幹線への賛成意見と反対意見をまとめてみた。
リニアは賛成だよ派┬リニアは国家戦略的に重要だよ派┬┬税金を投入してでも完成させるべきだよ派 │ │└税金は嫌だけど減税くらいならするよ派 │ ├┬日本の鉄道技術は世界一なことを示す必要があるよ派 │ │└二位でもいいけどやろうよ派 │ └┬海外に売れるしいいじゃない派 │ └海外は無理だけど国を代表するものになるよ派 │ ├民間企業だから好きにやれよ派┬乗ってみたいし作ろうよ派 │ ├リニア見てみたいですハアハア派 │ └今の飽和状態を増やせばもっと輸送量増えるよ派 │ ├飛行機が嫌いだよ派┬飛行機をなくすまで鉄道を走らせる必要があるよ派 │ └飛行機は落ちるけどリニアは落ちなくて速いよ派 │ │ └新幹線の設備の寿命がもたないよ派┬だからリニアだよ派 ├新幹線でもいいけどどうせならリニアだよ派 └地震のときに役に立つよ派 リニアは反対だよ派-┬リニアより新幹線だよ派┬どうして今の立派なシステムを使わないの派 │ ├どうせコストがかさんで税金に頼るんだよ派 │ ├2027年名古屋までなんて遅すぎだよ派 │ └速くても途中に止まったら結局変わらないよ派 │ │ ├リニアより飛行機だよ派┬速いって言ったって飛行機よりだいぶ遅いじゃん派 │ ├┬飛行機が純粋に好きだよ派 │ │└悔しかったら韓国まで飛んでみろよ派 │ ├LCCのほうがリニアより安いよ派 │ ├中央新幹線が通っても国際的にメリットないよ派 │ ├JR倒壊は線路独占してて料金ぼったくりすぎだよ派 │ └むしろJR倒壊がエアラインを始めるべき派 │ ├リニアより他の乗り物だよ派┬自転車最強だろ派 │ └車とバイクがあるからいらないよ派 │ ├そのものに反対だよ派┬電磁波が怖いよ派 │ ├電気代かかりすぎだよ派 │ ├携帯みたいにガラパゴスの象徴だよ派 │ ├国鉄時代の借金返してから言えよ派 │ └そんな巨大インフラの時代じゃないよ派 │ └中央新幹線に反対だよ派┬そんなのより北陸新幹線を通してよ派 ├┬人口減少なのに需要あるの派 │└都市人口は一定だけど需要は増えないよ派 ├線路に使う土地を手放したくないよ派 ├迂回路を通らないと認めないよ派 ├止まらない電車なのに走るのがむかつくよ派 └貴重な南アルプスの自然を壊すな派
言い換えれば、思考を他者に任せる、委ねることの危険性。
こういう習慣があると大変なことになる。
心ない中傷や罵倒をされたとしてもそれぐらいは承知の上であろう。
ちょっとネットに慣れていればそれぐらいは予想できるし、ある程度耐性もできていたりする。
問題なのは、そういう、例えばこの増田
http://anond.hatelabo.jp/20100922191511
こういう問題について増田に書き連ね自分の頭で考えることを放棄していると、そういうことを習慣的にやっていると
次第に、何か解決すべき問題が浮かんできたとき 自分の頭で考えることができなくなるのだ。
面倒くさいからすぐに助けを求めてしまうようになるのではなく、それが苦手になるのではなく
大事なことだから二回言うが、本当に考えることができなくなるのだ。
"考えないという行動をとるということは、また一つ考えないという習慣化を助力すること"
なのだ。 基本的に習慣というものは、物理学でいう慣性、惰性のようなものだと思ってもらって構わない。
さて、
>問題解決(英語:problem solving)とは、問題を解決する、すなわち解を発見することであり、思考の一部分である。
>すべての知的な機能の中で最も複雑な思考であり、高次元の要求の認識と定義されている。
>それには、より筋道の立った手順及び基礎的な知識の操作、調節が必要となる (Goldstein & Levin, 1987)。
問題の本質はなにで、その問題の解決策をMECEに洗い出し、評価をし判断をし実際にどう動くかを決めるという一連の作業をしっかりできている人は
意外と少ないのである。欧米などに比べ、比較的日本人は論理的思考を重視しないので 現状において日本人はそういった問題解決能力は平均して、決して高いとは言えない。
逆を言えばそれができるだけで日本人の中では相当の強み、アドバンテージになることは私が保障する(本来、資源で勝負できない日本がこんなことでは駄目なのだが)
(最近やたらロジカルシンキングだクリティカルなんだのが重要だの喧伝されるが、その試みに比して問題解決全般における平均的な能力はさして向上していない。体質的に受け入れがたいのだろうか?)
結局、何をするにしても"問題解決能力"がものをいう。それの向上や、駆使することを
(あの増田を槍玉に挙げるが、あの文章では普段からろくに物を考えてなさそうだ)
放棄し、比較的難易度の高い生き方とされる 「働かずに生きる」という目標を実現させようとするその愚。
まずはそこを指摘するべきであろう。 あれに回答しているトラバもブクマコメも全員バカ。衆愚。 上から目線で人にものを教えるなんて勘違いも甚だしい。
これでは梅田などにその知的水準の低さを指摘されても仕方がない。バカなものはバカなのだ。
一連の情報連鎖が目も当てられないことになっていたので、気まぐれにまた一つ鎖を繋いでおいた(=リンク=連鎖)
バカの中にも見込みのあるバカが一定数いるものだ。
願わくは、そういう一定数いるバカが、それから脱却できることを。
老子「授人以魚 不如授人以漁」
【追記】
トラバやブコメに救いようのないバカが散見されたので、各自反面教師とするように。
>増田はロジックは読めても人の心は読めない子なんだなぁ。理屈で解決する問題じゃないじゃんw
まず、この増田は"働かずに生きることはできますか"と命題を投げかけている。
命題とは真偽の判定が可能、かつ真か偽である条件(必要条件)などについて論じること、かつ
パターンをMECEに洗い出すことは十分に可能なのである。人間には本来そういう力が備わっている。
まずそういう根本的なところを突き詰めないで、思考を放棄し、"できますか"と尋ねるバカな増田
下手に出たことをいいことに、現実世界で、社会的に蔑にされ、重要人物たりえないバカな俺でも上から目線に、偉そうに意見を述べられるぞ!チャンスだ!
とここぞとばかりに ノイズをまきちらすバカどもが。
不確定要素はあれど、思考し尽した痕跡が情報連鎖の中に何一つない。私はそこを衝いている。
バカは人の主張さえも理解できないのか。そんな調子でよく今まで平気で生きてこれたな。
バカは自分がバカであることすらもわからないほどバカらしいが
ここまで親切に書いてもわからないかな? 下手な言い逃れに躍起になるより素直に自らのバカさ加減と
向き合った方が、今後の人生において利口だと思えるのだけれど(まずバカはデメリットだらけ。そのままでいる理由がない)
まあ勇気のいることなので、ゆっくりでいいよ。ゆっくりしすぎたらバカのまま死ぬかもしんないけどね。
根本的なところを突き詰めないで枝葉末節をつっつくのはバカのやること。
あるいは雑談ならその程度で良い。しかし目的は雑談か? "雑談をしている"、のではなく"雑談しかできない"無能しかいないのではないか?
見るからにそれはそう。 普段から頭を使っている人間は、ある程度の問題解決能力がある人間がわずかながらも情報を連鎖させているのであれば
ああいった様相を呈すことは、まずない。
ああいったやり取りで"何か有意義なことをしたような気に"なる奴らっているんだろうなあ。
そういう奴らは働かずに満足して生きることも成功することも到底覚束ないであろう。
構造的に無理なのだ。なぜ無理なのか。それはこの世が、社会がろくに思考をしないバカどもにとって都合の悪い構造、仕組みになっているからだ。
というより、そういった都合の悪い要素を集めた存在を"バカ"と呼ぶのかもしれない。
(あと、トラバやブコメにいる俺に刃向うような、楯突いている人間は全員バカ。的外れ。ちょっと指摘すれば次の瞬間にはもう全く何も言い返せなくなるような脆弱な意見。
もう何も言わない。わかる人にはわかる。 "ああ、バカが湧いてるな" と。 これ以上失望させないでおくれよ)
はてなが普段頭しか使ってないだけで頭が良いと勘違いしているだけの、ただのバカによって形成されたコミュニティでしかないことを願いたいところ。
バカはノイズをまきちらすだけだから邪魔。ゴミクズ。ウイルス。一掃されろ。ネットで何かを発信するな。テレビみたいに受信だけして満足しとけボケが
老子「知者不言、言者不知」
http://anond.hatelabo.jp/20100923075232 を書いた増田だけど。
やりたいことってのは、天職ってのは能動的に探すものではないのですか?
俺が言ったのは能動的に「選ぶ」ものではない、ってことね。能動的に出会う機会を増やそうとすること(= 色々なことにチャレンジすること)は役に立つよ。呼んでもらえるかどうかは運次第だけど。
あと、呼ばれるには準備が出来ていることも必要。ある分野の素人が、いきなりある日「俺の天職はこの分野だったんだ!」なんて覚醒する、なんてことは滅多にない。ある程度スキルをつけてゆくうちに、なんとなく気になる方向があって、そっちにひたすら登り詰めてそれなりの高みに達した後で、ふと下の景色を見下ろして、ああ自分は呼ばれていたんだな、と気づくんだね。だから登りもしないであちこちのぞき回るだけじゃ出会える可能性はゼロに近い。
俺が挙げといたリンク「知っておきたかったこと」読んだ? その中では「頭の中に徐々に結晶してくる」という表現を使ってたな。具体的なアドバイスも書いてあるんだけど、ピンと来なかった?
また言いますが、それこそがGTDの本質なのではないのですか?
そういえば私の提唱した方法論についての反応がありませんね、、
みんな言ってると思うけど。GTDは具体的なゴールが決まった時に、そこに到達するための手段を最適化するものであって、具体的なゴールが決まって無かったら使えないんだってば。
ちょっと戻るけど:
まず人間が意識的に、随意的に目指しうることのできるありとあらゆる目標をネット、書籍などから情報収集し
徹底的に拡散的な思考をし尽し
"それらを全て洗い出して(MECEに)" かつ、その中から
"現実的に(物理的に) 私という人間が達成を目指すことのできる目標" を全て抽出する。
全てはここにある。 私が目指すことが可能な目標は全てここにあって、考えるべきことは全て目の前にある状態。
まず、具体的な目標というのは、ある程度登ってみないとわからないということがある。例えばミュージシャンを目指す人は多いが、一人のミュージシャンを支えるためにどんな職種が周辺にあるのか、最初から知っている人はあまりいない。「音楽業界」という括りで見れば、外から見える仕事はほんの一部だけれど、業界の中では実に様々な職種があって、様々な人が働いている。そういうのは実際に業界で仕事をしてみないと見えてこない。ということは、いろいろな業界で実際に金をとれるレベルで働いてみないことには、全ての目標の列挙はおぼつかない。
さらに、過去20年間にポピュラーになった仕事の多くは、それ以前には存在していなかったものだ。従って、20年後に君が何らかの職についていたとして、その仕事が現在存在していないということは多いにあり得る。それならどうやって目標を決める? 存在し得る全ての具体的な仕事の可能性を考える? それが出来るなら君は既にかなりの才能を持っていることになるね。
一連の考えを要約すると、 人生において早い段階で 「選択と集中」 をしたいんですよ。
自分は何者でもないし、なにか特別な才能があるわけでもない。
特に何ができるわけでもない、 そんな私ができることって 人より多く一つのことに時間を投入することなんですね。
そのためには「選択」が要ります。それも孫さんのいうように腹の底から、覚悟を伴った"選択" それほどまでの"選択"ができて人はやっと"集中"ができる。し続けられる。
「下手の考え休むに似たり」。満足な選択眼も無い君は「選択と集中」を語る域にはまだ達していないよ。
あとね、何もできない、才能もない、だから人より多く一つのことに時間を投入しよう、っていうの、なんか逆だよ。何か出来る人、才能を開花させてる人は、人より多く一つのことに時間を投入した結果としてそうなってるんだから。別に彼らはあなたの知らない近道を通ったわけじゃない。
まずやるべきは選択眼を養うこと。どうすれば良いか、具体的なアドバイスは既にいくつも出ている。それを実際にやるか、それともいつまでも迷いつづけるか、それは君の選択次第。
追記元
http://anond.hatelabo.jp/20100922023512
まず、ありとあらゆる意識的、随意的な思考・行動は すべて目標を達成されるために行われる。
目標を達成するための最適解は存在する。各種、方法論、戦略によって最適解に限りなく近づくことができる。
だが、"いかなる目標を設定するか" ということには最適解はない。
それは、個人がもつ、固有の欲求、価値観、思想、志向性、評価関数というフィルターを通して
"自分が考える、最も満足のいくであろう、望ましいであろう状態、目標"
を定義しそれに向かっていく。
言わずもがなそれは十人十色で、それゆえに人類は、かような多様性を呈している。
逆説的ではあるが、この多様性こそが"人生そのもの"に"目標設定そのもの"に正解がないことを示していると言える。
ここで問題としているのは、そういう「いかなる目標に向かっていくか」「いかに生きるか」
という問いに答えがないということではなく、そういった現実の中で
個人個人は
いかにしていかに生きるかを、いかなる目標を設定し、それを目指して生きていくかを
どのようにして決めれば良いのか? ということだ。
あと、人は、望ましい状態に向かっていくと書いたが それが自分にとって望ましい状態なのかどうかは
"想像することしかできない" のだ。
その望ましさはあくまでも未来において想定されるもので、それは人間の想像力によって判別される。
もちろんそれは完全ではない。想像力をいくら駆使しても "これこそが私が最も満足のいくであろう選択だ" と断言することは無理である。
こうであったらなと思い描いたそれが実現されても、不満足を覚えることは多分にありえる。
だから人は、思考停止・妥協・悟り・諦め ≒ 信じる という行為をもってして生きていく。というかそうしなくては生きられない。 疑えど疑えど答えは出ない。
そういう悩みに消耗し、逡巡、足踏みし続け、人生を台無しにしてる人間は少なくないように思える。
いうなれば、登る山が決まっていなく、彷徨っているに等しいような人生だ。 私はそれを回避したい。忌避すべきものだそれは。
しかし一口に"信じる"といっても、 信じるための方法というか、信じ方があると思うのだ。
一寸先は闇の現実の中、無限の情報に前にし、いかに考えいかに行動するか。
結局どうすれば、良いのか。
私は理性によってそれが(生きていく中で価値観などは遷移していくので軌道修正は必要としても)
解決、、というか処理?できると思っているんですよ。
どうやって? こうやって。
まず人間が意識的に、随意的に目指しうることのできるありとあらゆる目標をネット、書籍などから情報収集し
徹底的に拡散的な思考をし尽し
"それらを全て洗い出して(MECEに)" かつ、その中から
"現実的に(物理的に) 私という人間が達成を目指すことのできる目標" を全て抽出する。
全てはここにある。 私が目指すことが可能な目標は全てここにあって、考えるべきことは全て目の前にある状態。
まずその状態を作り出す。
その個々の目標を"そこに向かうべきか否か" を判断する。その人その人がもつ固有の価値観に照らし合わせて。
ネットや書籍で判断材料を集めたりしたりもする。 その目標に向かうべきかどうかを個々に評価するのだ。
そして達成すべき目標("α"とする)をリストアップする。それを合格可能性が最大化された日常に目標を達成すべく定義されたタスクを巧妙に組み込む。
もちろんその組み込まれた目標は、 合格可能性を減少させてでも達成を目指すべき何かだ。
合格可能性が最大化された日常をベースとして考える。 それはそれこそが今もっとも優先すべき目標であるからだ。最大化こそが(私にとっては)
そして、そういうことを徹底的に追求したその果てに "今、この時間、本当になすべきこと(タスク)" が完全に把握でき
"今、ここで使っている時間は、私が思う最高の(限りなく最適な)時間の使い方だ" という意識をずーーっと持ち続けることができる。私はそれを目指したい。実現させたい。
というか受験生活が終わっても私は人生を通してずっとそうでありたい。これは誰もが思う願望であろう。
それを実現するのがGTDなのではないのか。それこそがGTDの本質ではないのか。
私がGTDに期待したのはそこである。というかそれが実現できるならば
この際GTDじゃなくても良いのだけど。
//何か突っ込みどころはありますか? ちなみに勉強からの逃避にしか見えないという指摘がありますがむしろ逆です。
これは勉強に集中するためになされる能動的な過程です。 顕在意識(=メモリ、RAM)に "今実行すべきタスク"のことしか頭にない状態が理想。
それを実現させてくれるのがGTDなのでは? そうであれば物凄く快適そうに思える。 なるほどその状態は達成すべき目標だろう。最優先で。
//結局、合格可能性最大化を図ることができれば満足なんです。
//他の何か、つまり"α"、それを邪魔する原因としての"α"さえうまく処理できればそれは実現します、それが難しいのですが…
//未知数な、存在するかどうかわからない"α"が見つかろうと見つからなかろうと どっちでも良いわけです。最大化、最適化さえ図ることができれば。
//とにかくすべては合格可能性最大化を阻む原因をいかに排除するか、そこが核心、主眼なんです。
>まだ自分が認識、意識していない時間を割くべき、日常に組み込むべき何か(合格可能性最大化以外の目標、仮に"α"とします。)があるのではないか?
これでいうαは受験生活を脅かす要素です。
返信。
>合格可能性の最大化を図ることによってαの発見・達成が阻害される、と考える理由はないわけだから
合格可能性が最大化された日常ということは極端に言えば、αを意識すらしません。そんな暇があったら問題を一つでも多く解くのです。
だから発見は阻害されますよね
合格可能性の最大化を図ることによってαの発見が阻害されるということで
αの達成を目指すということは最大化が阻害されることになります 最大化が阻害されても
生産性、効率が低下してもそれでもなお目指すべき目標は存在するのか?
存在しないならば最大化されたまま、それを維持した日常を送れます。
しかし存在するならば、考えなければいけないことがいろいろありますね。
>生活の全てを最適化しなければ合格できないとしたら、入ってからついていけるのかい?
あるいは最適化など目指さなくとも、余裕をもって合格できるにしても他に達成すべき目標がないなら
合格可能性を最大化させることに注力します。念には念を。受かる保証などどこにもないのですから。
ここで問題にすべきなのは"学力の向上における効率、生産性を犠牲にしてでも"達成すべき目標、"α"の処理の仕方についてです。
>そうでなく、やりたいことがまだはっきりしないっていうなら、受験勉強を当面のゲームと考えるといい。
そうですね、やりたいことははっきりしていません。大学をいかなる目的のための手段にするのか?という問いには今のところ答えられません。
それに危機感を覚えます。大学がゴールになっちゃって手段になりえてないっていうのが典型的な失敗例でそういう文脈があちこちに散見されるので。(手段の目的化)
なんとなく、俺はこれをするためにあの大学に入るんだっていう明確な意識があった方が動機づけにもなると思うし…
>他にやることがなくて暇だから受験勉強してる、と考えるんだ。そう考えていれば、普段は合格に最適化した生活を送りつつ、他のおもしろいことにレーダーをはっていられる。
こういう感覚良いですね。 しかし受験勉強と同時進行でなくてはならないのでしょうか?レーダー張り。アンテナ?
そうでないといけないというのは常に新しい情報(速報性があるものやまだ読んでないウェブページとか本とかから)を仕入れないといけないということですよね?
それを、なんというか、最初からいっぺんにできないものなんでしょうか?
>当面の目的から目を逸らすために他の目的を探してるだけであり
>しかも見つかってないあたりは救いようがない
前述のとおり、当面の目的に集中するために他の目的を処理しようとしているのです。
これこそが先延ばしの原因であり、心理的な障壁となっているのです。
もし見つからないのなら受験勉強を蔑にしてずっと探し続けることはしません、受験生ですから。
それは大学を出てやりたいことがないからとりあえずニートになるぐらい危険なことです。
>それはGTDとは関係ないけど、難しい。ほとんど人生そのものと同じだからね。
そう言えますね。ほんと難しい…
>とりあえずは「見晴らしのいい場所(客観的に社会と自分を見られる場所)」に行く(社会的・物理的に)こと、かねえ。
心強い意見です。
>うーん。普通は高校生ともなれば、なんとなく将来、こんな風な仕事をしたいとか、目標と言えないまでも、夢みたいなものはあるんじゃないかな。
それがよくわからないんですよね、、、
生活を維持するためのお金を稼ぐために「仕方なく」働いてると思ってるんですよ。
何らかのきっかけで(宝くじあたったりとか)大金が転がり込んできたら現職を続けないであろう仕事に就いているイメージ。
本当にやりたいことができてる人は、好きを貫いている人はほんの一握りなんだろうなって。
ちょっと恥ずかしいですが、ジョブズでスピーチで語ったように"愛せる仕事"をしたいですね
って、これじゃあ何も言っていないのと同じですよね。 "やりたいことをやりたい" みたいな、、トートロジー的な?身も蓋もない、、
>まあ、中央に[人生の目標]と書いたマインドマップでも書いて、自分の人生の目標でもじっくり考えてみたらどうかな。
>でも、人生は思ったより長い。
>間違った山に登ったかな、と思ったら、降りて違う山に登ることも、特にこれからの時代は不可能じゃない。
>また、寄り道、無駄足だったと思っても、それが次のステップへの足がかりになったりすることもある。違う山へ伸びる吊り橋があったりね。
>大学受験で、また会社選びで、人生のすべてが決まる、とか必要以上に深刻に考えなくてもいいと俺は思うよ。
孫正義「なぜならば、自分で決めた自分の職業、自分で決めた自分の仕事、これコロコロ変えるわけにはそんな簡単にはいきません。
だいたい決めたらその道にほぼ行く可能性が高い。その決めたことをフラフラするということは、効率悪いんです。
こういう意識があって、、、
また引用しますが
>私が思うに、人生を計画的に行おう、と思うのは、なすべきことをしたいという欲望が生じるからだ。
>限りある時間の中で、切実にそれを実現するためには、どういう流れ・ストーリー・フェーズを経て
>実現状態に変貌を遂げるのかをクリアにしようとする。そうすれば実現する可能性が高くなるからだ。
http://works4life.jp/2010/03/gtd-before-big-planning/
もっと明確に、クリアに描きたくてたまらないんですよね
多分どちらにせよ私は志望校を目指すので、将来の目標がどうあれ、今やるべきこと、やっていくこと(受験勉強)は変わらないとしても
心の置き場?というかスタンス? 世界観、人生観、死生観、価値観、思想
そういうことにも心を奪われてしまうんですよね、、考えすぎなんでしょうか?
もっと、こう、なるようになるさって感じでいけたら大分楽かもしれません。気楽に。。
xevraさんのいうよう、悩んでも悩んでも仕方がないことなんでしょうか、、
悩めば悩むほど不安は募り、袋小路の奥にどんどん迷い込んでいくのでしょうか、、
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/11/14(土) 11:03:45.25 ID:YEzroAVm0
1つの道を選んでそのために一生懸命頑張るということができない
何をするにも何らかの価値観の盲信が必要になるという気分
きっと人生における選択の正しさの根拠なんてないんだと思います。
何か一つを選ぶということはその他の一切の選択肢を捨てることだと弾さんもいっているし
それこそがその他一切の選択肢を選ばないことで何か失うものがあるのではないか という疑いを不安を生んでいるわけなんですね。
ある選択をしてその先一般的に(?)成功したとされても、もっと大きな成功が他の道に転がってたかもしれない、、
そういう迷いや悩みは構造的に人生の原則的に解決が可能なのでしょうか?
私たちはラプラスの魔でもなんでもないので、人間が培ってきた知見と経験則によってのみ、なんとか予測を立てることができる程度で
そこを理性的に突き詰めれば何か見えてくるんじゃないのかな…?と思ってはいるんですが、、
例えばこうするとかも。
ジョブズ「自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に
決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、
己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、
きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。
そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。」
しかしなぜ死と隣り合わせであるという事実を直視するとこういうことが可能になるのでしょう?
死の意識というフィルターを通せば真に、自分にとって大切なことが、死ぬまでにこう生きていたいんだってことがはっきりわかってくるようなのですが
どうも、私はそうなれていない?ように思うのです 死を意識してはいるつもりなんですけどね
孫さんやジョブズのように"実際に死にかけた経験"がないから 死を想像してみてもそれは不明瞭で、漠然とした恐怖とかで その程度ではそういう状態にはなれないのかどうか、、、
更に返信。
>今、どうしてもやりたことが見つからないなら、焦っても無駄。君が時間を無駄にしてるんじゃないかって焦ってる間に、既にやりたいことを見つけた人達は何歩も先を行ってる。天職のことを英語でcallingと言う。>呼ばれちゃうんだよ、そういう人は。こっちから選ぶことなんて出来ない。君もいつか呼ばれるかもしれないし、もしかすると一生呼ばれないかもしれない。どっちにせよ、それに振り回されて迷うっていうのはそれ>自体が無駄。呼ばれた時にすぐ応えられるように準備しておくしかない。
やりたいことってのは、天職ってのは能動的に探すものではないのですか? "呼ばれた時にすぐ応えられるように準備しておくしかない" なるべく選択肢とか可能性が維持できるように
したいところですけれどもね。
>http://anond.hatelabo.jp/20100922183732 //長いのでURLだけ。
なるほど。ってことは一週間かけて考えて見つからなければαを放置して学力の向上におけるパフォーマンスを最大化させればいいのですね。
受験が迫っているため、一週間程度のリソースで見切りをつけ、当座は合格を目指し、大学という場でリソースを獲得し
"目標α発見可能性を最大化して実践" すれば良いのですね。 すごくわかりやすく、かつ的確な回答のように思えます。
しかし一週間ではなく二週間であれば見つかるかもしれないわけじゃないですか。
というか期間の問題ではなく、 目標αはまったく(もしくはこれ以上)発見されないであろう、その可能性はないであろうと判断することを私は求めているのです。
目標αはまったく、もしくは、もうこれ以上生まれないであろうと。 気が変わったりするもんですから、人間も。
定期的に そうであるかどうかを確かめるような手段が欲しいところなのですが。
また言いますが、それこそがGTDの本質なのではないのですか?
そういえば私の提唱した方法論についての反応がありませんね、、
今の私って、無数の目指すべきかどうかは判断されていない目標は見えているけど、それを目指すかどうかっていう判断材料になりえる情報(目の前に膨大に広がっています)
に溺れてる感じなんですよ。 "今" 何をすべきなのか? がわからないんです。
わからないから、わかろうとする。 そうやってるとただ情報の海を漂ってるだけになるんですよね、、困ったことに。
一連の考えを要約すると、 人生において早い段階で 「選択と集中」 をしたいんですよ。
自分は何者でもないし、なにか特別な才能があるわけでもない。
特に何ができるわけでもない、 そんな私ができることって 人より多く一つのことに時間を投入することなんですね。
そのためには「選択」が要ります。それも孫さんのいうように腹の底から、覚悟を伴った"選択" それほどまでの"選択"ができて人はやっと"集中"ができる。し続けられる。
集中ができるほどの、それほどまでの選択を私はしたいんですよね。 もちろんここでいうαである目標の達成を選ばないという選択もありますよ。
受験一筋なパターンです。それも一つの選択ですね。 例えばそういうパターンを選択し、集中できないのはαがあるからなんです。 とにかくこのα。これさえなんとかなれば。
またまた追記ですー
http://anond.hatelabo.jp/20100924192440
Perl基礎文法最速マスター - Perl入門〜サンプルコードによるPerl入門〜
http://d.hatena.ne.jp/perlcodesample/20091226/1264257759]
Route 477 - Ruby基礎文法最速マスター - , 1. 基礎 , 2. 数値 , 3. 文字列 , 4. 配列 , 5. ハッシュ , 6. 制御文 , 7. サブルーチン , 8. ファイル入出力 , 知っておいた方がよい文法 , 余談 , (おまけ)Ruby書籍紹介
http://route477.net/d/?date=20100125]
http://www.1x1.jp/blog/2010/01/php-basic-syntax.html]
http://d.hatena.ne.jp/dplusplus/20100126/p1]
昔勤めてた会社の人が「年にひとつぐらいは(仕事以外で)新しい言語、フレームワークに触れるといいよ」みたいなことを言っていたのでこれを機に(正直好きではなかった)Perlもはじめてみようかなと。
Java基礎文法最速マスター - 何かしらの言語による記述を解析する日記
http://d.hatena.ne.jp/nattou_curry_2/20100130/1264821094]
LLじゃないのも出てきたので改題。このへんいっぱつで Mece になるようにできないのがしょぼいなー。
ところで増田ではカギ括弧でくくってもリンクが正しく認識されないしhttp記法のタイトルもリンクにならないしイケてないのなんとかできないのかな。
基礎解析ってのはまぁ要するに微分積分だ。確率・統計はそのまま。
微積分がわかってないから、市場動向やら社内のリソースの動向やらがどう変化しているのか理解できない文系職の連中は多いし、
「限界効用の逓減」とかいう珍妙な言葉が生まれたり、あるいはそれを聞いただけで混乱して思考停止してしまったりする。
計画を立てるときに成長率をそのまま線形で補外したりする論外なロジックを(検証なしに)立てちゃったりする。
確率や統計がわかってないから、不確実性を決定論的に扱ってみたりする人が多いし、なんとなく処理したりする人も多い。
http://anond.hatelabo.jp/20091006192224
上の記事によれば、下手と思わせない文章を書くには「繰り返しを避ける」ことだけを気にかければ十分であるらしい。しかし、私はこれでは不十分だと思う。なぜなら、「繰り返しを避ける」ということの意味が明らかにされていないからだ。たとえこの法則を知ったとしても、実践することは困難である。具体的で実践的であることに注意すると、下手と思わせない文章を書くには、少なくとも以下の3点に留意する必要があるだろう。
以下、それぞれについて詳説する。
下手と思われてしまう文章は、たいてい書きたい内容が整理されていない。同じ内容を、表現や話題を変えて何度も繰り返し書く。そのため、書かれた文章全体の内容の密度が低くなり、結果として読者に退屈な印象を与えてしまう。読者の眼を常に文章に惹きつけるためには、内容の繰り返しを避けて、文章全体の「意味の密度」を高める必要がある。
具体的な方法としては、MECE分析やKJ法などの論理的思考のフレームワークを活用することが挙げられる。これらを活用することで伝えたいことを排他的な命題群として整理することができ、内容の繰り返しが起こりえなくなる。ただし、もしあなたがブログなどのちょっとした文章を書きたい程度であれば、文章を書く手を一旦止めて「自分は何を伝えたいのか」「伝えたいことは幾つあるのか」と問うだけでも十分効果的である。
書きたい内容が十分整理できたら、次はそれを文章にしていく。この段階で注意してもらいたいのは、読点を多用して無意味に1文を長くしないことだ。1文を長くすると、それだけ文に込められた意味が多くなる。人の認識能力には限りがあるので、あまりにも長いとその文が伝えたいことを忘れてしまうだろう。1文にはできるだけ1つの主張のみを割り当てて、意味を明確にすることが重要である。具体的には読点を多用しないことが最も効果的だ(注1)。
また、文を短くすることで、自ずとその文の種類が明らかになる。具体的には「断定」か「類推」か「願望」か「事実の記述」かのどれかが明瞭になる。それゆえ、文末の表現も広がりが生まれ、元記事で指摘されていた問題も解消される。この法則もまた、記述の段階における「繰り返しの回避」の戦略なのである。
ひと通り文章が書けてきたら、文と文の関係を見直していくことが重要である。文章を読むということは橋を渡るようなもので、文の間につながりが無ければたちまち先に進めなくなる。下手と思わせない文章は、文と文のつながりが明瞭で読者に疑問を起こさせないものだ。
文と文の関係を見直す具体的な方法としては、すべての文に接続詞を挿入してみることが挙げられる。なぜなら、接続詞は文章間の論理関係を明示するため、文のつながりが不適切であればそれがすぐに明らかになるからだ。
挿入して不自然であることが分かれば、間に文章を加えるなり、文の順序を入れ替えるなりして調整していく。もしあなたがどの接続詞を使えば良いか分からないのであれば、それは文と文の繋がりを考えずに書いてしまったということだ。いちから書き直す必要があるだろう。このように、接続詞の挿入は書き手に具体的な修正案を考えさせる一種の指標となるのである。
ただし、この手法はあくまでチェックのための方法であり、実際にすべての文に接続詞を挿入する必要は無い。むしろ論理の転換といった重要な箇所以外では、接続詞はできるだけ省略したほうが文章が滑らかになる。接続詞の詳しい扱い方については、野矢茂樹氏の名著『論理トレーニング』『論理トレーニング101題』を参照されたい。
以上、私が考える「下手と思わせない文章術」について述べてきた。上の3点は一見するとまとまりが無いように思われるかもしれないが、実は文章を書く上で重要な意識が貫かれている。
それは、「文章を書くことと内容を考えることは、常に一体である」ということである。
私たちが考えることは、ある程度ことばに影響を受けている。言葉なくして、人は自分の思考をまとめることはできない。したがって、文章が下手であるということは、考えていることが整理されていない証拠なのである。文章と内容のつながりを考えず、ただ表面的な修辞に拘っても文章の下手さはいささかも改善されない。文章を書く人には、常にこの点を意識していただきたい。
最後に、この文章はブログの記事にしては長く端的ではないので、下手な文章に該当してしまうかもしれない。もしあなたが、私の文章に問題があると感じるならば是非言及していただきたい。そこからまた有益な「文章術」が生まれてくるかもしれないのだから。
注1 : 「1文を短くせよ」と主張すると、たいてい提出される反論に「小説や日記などのような情緒的な文章では、1文が長くて面白い文章もあるではないか」というものがある。しかし、その種の文章にも、実はこの法則は当てはまるのだ。小説における文章は、主に人の「認識と思考の流れ」そのものを記述するためにある。人の認識や思考はとめどなく続くものであるから、日常の文章よりもどうしても1文が長くなってしまう。小説の1文が長くなるのは、そうなる必然性がある。逆に人の思考や認識の転換を反映せずに、いつまでもだらだらと1文を続ければ、たとえ小説だとしても下手な印象を与えてしまうだろう。いかなる文章においても、文の長さの必然性を問い、可能な限り短くすることは重要である。
使い方の問題というか。まぁコンサル系のツールは全部そうですが。
それならわかる。
てか『MECE(笑)』っていう書き方はコンサル業界の内情にある程度詳しいような人を対象にその空気を嘲笑するような意味合いで書いたものです。
まぁ、仮にそうだとしても他人に理解されない書き方だよね。
「論理的に分類して書けよ」って書けば良いだけのところを、MECE(笑)とか意味のない自己主張つけてるのは。
前提が間違っているんじゃなくて、主張の仕方が間違ってるよ。