はてなキーワード: 完全自殺マニュアルとは
僕自身ははがないをこんな風な目で見た事が無かったので、斬新な切り口で面白い文章だなと思った。
なのでちょっとこの文章いじくって遊んじゃおうかなって思います。
アニメがつまらないというか不愉快な出来なので仕方なく文庫を手にとって読んでますが、面白いすなぁこれ。強烈にグロテスク。
これ村上春樹が好きな人(特に初期)には受け入れがたい作品じゃないかと思うわ。村上春樹の小説に不純物を混ぜ混ぜ込んだゲテモノ食い料理にしか見えない。
ここまで言っておいて、
こんなフォロー入れちゃうのは、叩かれるのが怖いからかな?
何が面白いって普通の話と逆の方向に進んでいってるってところがいい。
たいていの物語は、未熟な登場人物が、イベントとか試練を越えて成長し、
って言ってるけれど。
「視野狭窄」で「自分だけの世界」に籠もってるなんて、キャラとして未熟もいいとこじゃない?
そういう風に自分の殻に籠もってた奴が、色んな人との触れ合いで心開いていく。なんて、世にごまんとあるストーリーだし。
むしろ、順行してるよね。
この一文で思ったんだけど。
要するにこの人が言いたいのは
初期のキャラ設定が好きだったのに、話進むにつれて段々キャラが変わって行ったのが嫌ってだけの話じゃないの?
その台詞言った人って、その後友人どころか彼女まで作ったって話ですぜ、親分。
初登場で「あたしも友達がほしいのよ!」と叫んだのは君の好きな初期状態の星奈だよ。
星奈がギャルゲにハマったのって、隣人部に入ってからだよね。この人のいう初期状態ってどこから、どこまで?
っていうか、現実の友達なんかギャルゲ以下って思ってるんなら、さっさと退部して家に籠もってゲームしてるだろ、星奈の場合。
トモちゃんに劣るし
「タカ」がいるじゃん。わざわざ、その為に隣人部作った様なもんだし。っていうかここでは夜空も例外じゃないんだね。
せめて「発明」にしようぜ、理科ってそこまで腐女子キャラでもないし。
っていうか理科も、隣人部行きたくないなら、それこそ理科室に籠もってるだろうよ。
あにきの方が格好良いし
眷属もいない
そう言えば、クラスメートには姫って呼ばれてたね。
っていうか夜空についてはトモちゃんを引き合いに出したのに、小鷹については触れないんだね。
つまらない事この上ない。
それは「君が見てて」って話じゃないの?
視野狭窄と言われようと何と言われようと、自分だけで世界を閉鎖系として完成させることができるなら、
今の状態こそが一番幸せじゃない?ね、みーくん。
そうだね、他人に何と言われようと、自分が幸せだと思う事をするのが重要だと思うよ、逆に言うなら、自分が思う幸せの形を押し付けちゃいけないよね、まーちゃん。
この人のいう、隣人部の結成時点ってどこだろうね?
夜空&小鷹コンビの時? 星奈が入った時? 小鳩が入るまで?
お前がそう思うんならそうなんだろうよ、おま(ry
嘘ついたって、傷つけるし、嫌われるし、潰されるけどね。
むしろそっちの方がよりルールとして広く活用されてるよね。
だけれども、その正直を許しあう、ただそれだけの関係。
特に夜空と星奈。
コミュニケーション?なにそれおいしいの?
そんな感じの人が一人なら良いけど、二人いるからねぇ……。
結果、一方の意見にもう一方がガンガン反対するっていう。ええ、あの二人ですよ。
あの状況下で誰にも手を出さない小鷹はある意味凄いよね。
うん、だからさ。それは単に君がキャラの初期設定が好きだったってだけの話じゃないの?
これを読んだ人は他にこんなものを読んでますの欄に「完全自殺マニュアル」「自殺サークル」「20歳の手記」が並んでても驚かないね。
これってブーメラン? もしかして君の本棚にある本を挙げたのかな?
ちなみに僕はどれも読んだ事無いよ。
叩かれないように予防線張りまくりの君の文章も、読んでて吐き気がするよ。
もちろん褒め言葉さ!
小鷹とカップルになりそうなのは、夜空、星奈、理科、幸村の四人だけど。
夜空とか、嬉々として二人の仲を裂きに行きそうだし。
星奈は、なんだかんだですぐに立ち直りそうだし。
幸村は、けなげに小鷹の舎弟続けそうだよね。
個人的にはこだかさんと夜空以外は、無理に友達なんかつくろうとせずに、
自分の世界に籠もる幸せは容認できるのに、皆と馴れ合っていく幸せは容認できないんだね。
結局この人もタイトル詐欺に引っ掛かった一人なんじゃないだろうか。
友達いなくても孤高に生きているキャラを期待して読んだら、最初の方はそれっぽいキャラ設定だったけど、結局馴れ合いみたいな感じで仲良くなっちゃって、なんだかんだ仲良しグループになったのが気に食わなかったとか?
作品だけじゃなくて、読者にまで毒吐いてるあたり、相当苛ついたんだろうね。
んでまぁ、そんな馴れ合い状態への嫌悪感を、叩かれないようにオブラートに包んで出来たのがこの文章。
僕の読解力だと、そんな感じにしか読み取れなかった。
夜空と星奈はガチでぶつかりあってるし、っていうかあれが馴れ合いだったら凄いわ。
小鳩とマリアもだね、こっちは見ててほほえましいけど。
理科は、小鷹に分かりやすいくらい分かりやすくアピールしている。
小鷹だって、隣人部の部員となぁなぁでの付き合いはしていない。
確かに、友人を作る事を目的にした部活で、具体的に友達を作る為に何かする訳でもなく。(小鷹はちょこちょこ頑張ってるけど)
実際には予行演習と称して、部員どうしで遊びに行きまくってるのに、
「もう俺らって友達じゃないの?」って所に触れてない辺りは馴れ合い臭いけどね。
だけど、友達作れない不器用な連中の、そんな馴れ合いは、少なくとも僕は見てて不快じゃない。
それをグロテスクと評したこの人は、きっと一切の馴れ合いを許せない孤高の人なのだろう。
要するに何が言いたいかと言うと、
次は堕落論とか白痴のエッセンスをラノベ化しないか?舞台は敗戦間際の仮想日本で、オタク活動にいそしむ4人のキリーロフね>作者様
最後に、宇野は「〈いま・ここ〉だけが無限に広がるこのリトル・ピープルの時代の新しい世界においては、私たちは〈いま・ここ〉に「潜る」こと、徹底して内在的であることが逆説的に超越に接近してしまう」と語るけど、このレトリックって、大澤真幸が麻原彰晃に対して指摘した、
徹底した俗物性、過剰なまでの〈内在性〉が、逆に、麻原の〈超越性〉の根拠になっているのではないか。(大澤真幸『虚構時代の果て』)
とまったく同じなのだけど、これは本人的には大丈夫なのかしら。
ttp://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/51653048.html
たとえば『完全自殺マニュアル』の鶴見済氏やオウム真理教の麻原彰晃は、「革命」を失った今、世界を変えるのではなく自分を変えようとしたわけですよね。ドラッグや「修行」によって。麻原は鶴見さんほど徹底できなかったヘタレだから革命のでき損ないに走っちゃったわけです。しかし、彼らのやったことはまさに「内在」的なアプローチだったと思う。だって、世界変革を「諦めて」自分をチューニングするんだから。
でも、ぼくがこの本で書いた「拡張現実の時代」においては、先ほどのゲームの例が代表するようにネットワーク的なものに支援されて超越―内在といった図式自体が崩壊していて、徹底的に内在することが超越に近づくというモチーフが頻出する。「ここではない、どこか」ではなく「いま、ここ」に留まったままゲームのルールを書き換えるための想像力の行使に焦点を合わせているわけ。それはそのまま「虚構の時代」(鶴見・麻原)と「拡張現実の時代」の違いでもある。ここもポイントで、「外部」を断念するというとすぐに鶴見・麻原的なものを年長世代自体は想像しちゃうけれど、それは90年代で時間が止まっている思考ですね。21世紀的な現実は「徹底して内在することによる超越」が、自意識のチューニングではなく現実のコミュニケーションとして創作物の生成や社会変革の可能性の方向に向かっている。これがまさに「仮想現実から拡張現実へ」ということ。
いやいやいや。。。ちょっとウノさん、何言ってるんですか・・・・。「内在」っていうこれまで批評用語としては、「超越-内在」っていう二項対立の一項として使われてきた用語を、かなり強引に自分タームの「内在」(これってむしろ「組織のインサイダー=内在者」っていう意味に近いと思うんだけど)に引きつけて使ってて、不要に名前空間のコンフリクトを起こしてる気がする。まさに、
人文系の評論はすぐに一般名詞を専門用語化する傾向がある。しかも、その本だけでしか通用しない専門用語をすぐにつくっちゃうのだ。”壁_temp”とか、”想像力_temp”とかいう名前にしてくれればわかりやすいのだが、我慢して慣れてみよう。
っていう奴。今まで現代思想界にはCritique.naizaiっていう広く使われてる変数なり関数なりがあったのに、そこにまた紛らわしいUno.naizaiっていう変数なり関数なりを持ってきてて、そこでCritique.naizaiをUno.naizaiと間違えてコンパイルした人に、「お前はUnoパッケージをインポートしてないから俺の本が読めてない」って文句言うのはちょっと無理筋過ぎないか。
まあ、用語の問題を脇に置けば宇野常寛の言いたいことも分からなくはない。現代思想や社会理論がこれまで、超越(トップダウンの理想主義的な社会モデル)か、内在(個々人の内面=インナースペースからの改革)か、という二項対立に拘泥したきたのに対して、組織の内在者=インサイダーが、組織へのハッキング的なコミュニケーションによるアプローチをかけることによって、ゆるやかに社会を変えていきましょう、ってのが彼の言いたいことなんだろうなあ、と思う。だけどそこで、現代思想のこれまで数十年の歴史のある用語体系に土足で踏み込んで、「内在」なんていう一般名詞を無理やり自分タームで使うのは無理筋だし、これまでその用語体系を使ってきた人の名前空間を不必要に混乱させる振る舞いだと思う。せめて「内在者(インサイダー)的アプローチ」くらいの用語にしておいてくれれば分かりやすいのにねえ・・・
ばあちゃんに、
「もっと世渡りがうまくならなな」と言われた。
ばあちゃんは、むすめの時分から日記をつけてる。
けどそれは帳簿だった。
帳簿が日記になってる。
妹には、名前を呼び捨てにされる。「増田くん! メシつくって」
オマエにミルクを飲ませたのは、オレだぞ! あ、だからか。
ふられた。
「わたしはオモチャじゃない」「女の子はみんな、お姫さまなのよ?」
なんじゃそりゃ!? わからぬ。
オレか? オレが悪かったのか?
もう出家しよう。
ブックオフの100円コーナーで、『完全自殺マニュアル』を買う。
次の世紀末まであと90年ヴァージョン、のマニュアルが出ないかな。
気になるのは、これの前の持ち主だ。
自殺を思い止まったのか?
オレもやったことあるけど、
遺品って、大切な思い出が詰まっているような気がするけど、それは錯覚だよ。
売れないし、しかも量だけ異常にある。整理に何週間もかかるよ。
オレは、ばあちゃんの持っていた、ミシン糸をもらったよ。赤い糸だ。
かさばらないところが気に入っている。
どうも死にたい人間が多いようなので、「自殺の仕方」について列挙し、その利点と欠点を書いてみた。
・首吊り
これがもっとも苦しまずに逝ける方法だと言われている。
ところが俺は何度かチャレンジしたが、うまくいかなかった。
どうもうまく頸動脈が絞まらないようだ。
・注射器による失血
これが一番苦しまなく、また「引き返せる」方法だろう。
注射針は18Gの太いものを購入する。
ネットで300円もしないで買える。
人は、
500mlごとに状態を見つつ、血液を抜く。
リスカと違って針穴しか残らないので、跡が残らない。
血管の位置は、一旦献血して確認すると良い。
その他、
・自動車の排気ガスを社内に引き込む
また、一酸化炭素を吸い込み、蘇生したあと、1年後脳が溶けて死ぬ、という症例がまれにある。
一酸化炭素を吸い込んだ記憶すらない人が、いきなり亡くなったりする。
死ぬ気が失せたあとで亡くなるのは、農薬を飲むのと同様悲惨だ。おすすめできない。
・硫化水素
苦しい、死体が醜い、発生した硫化水素によって二次災害が引き起こされる、などでおすすめできない。
失血死が流行すると良いと思う。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
わりとネットでは平気で「氏ねばいいのに」とか書かれていたりするんだけど、
本当に死なれると非常に困惑しますね。ある程度、歳を重ねると皆いろんな
事情で悩み、苦しみ、自殺したり、病死になったりして、この世から姿を消して
いきます。
なかには、くそったれもいたりして、ざまぁかんかん!とか思ったりすることも
ありますが、残った人は一様に苦しい思いは残されてしますのですよね。
たとえそれが、借金をカタにした保険金自殺と化だったりしても、残された
家族が助かるとしても、、何とも言えないキツさがあると思う。
それも人生の通りに道に過ぎない。
完全自殺マニュアルは、当時、普通に購入したクチですが、あそこからは
いろいろ考えることを教えてくれたという意味では、私には意味はあったし、
そのまま鵜呑みにして、自殺した輩も多数いたと思うけれども、やはり、
そこから結論に至るまでの、いろいろ考えさせるものだったと私は考えています。
たしかにキツい。しばらくはいろいろと手がつかなくなったりもやもやするけど、
そうして悩んで大きくなっていくのだよ。
知り合ったのは2年ぐらい前、とあるバイクのOFF会で知り合った。知り合ったとはいっても、名前も住んでいるところも知らない。わかっているのは、乗っているバイクと好きなバイクの好みぐらいだった。
OFF会ではそれほど積極的に絡むことはなく、挨拶して世間話をする程度。回りを気にしながら話す様子に、線の細さと、自分の深いところには踏み込んで欲しくないという意志を感じた。
これは一方的に私が感じたことなので、本当のことはわからない。また、確かめるすべももうない。ただ、同じような印象を、何人かの友人も感じていたので、それほど的外れな見解ではなさそうだ。
そんな彼が逝ったとの連絡をもらった。自殺だった。
まだ若い彼が、なんで自殺という方法を選んだのかはわからない。自殺をする原因がまずわからない。遺書のようなものも残ってないという。
もっと早く気がついてやれば……と、彼と特に親しかった友人は悔し涙を流していた。理由もわからず残された人間が感じるのは、無限大の後悔だけだ。なぜこうなったか? という理由を自分の中で無限大に産み出し、受け入れてしまう。答えがないのだから、後悔の肥大化を止めることができない。
やっぱり自殺はきついぜ。
「もうめんどくさくなっちゃったら、死んじゃえばいいんじゃね? そう考えれば、このくそったれな世の中も、ちょっとは気楽に生きられると思うよ」
というメッセージがあった(そう私はとらえている)。
自分の生き死にについて真剣に考えていた時、この本のおかげで自分の中のモヤモヤした感情がすっと晴れていった感覚を覚えている。
生きる権利と死ぬ権利、表裏一体の2つの権利があるから、人は人でありえるのだと思ってた。いまでもそう思ってる。だから、積極的に肯定はできないが、彼が自殺という選択を選んだということだけは否定しないでおこうと思う。
それでも……だ。
"死ぬのが怖い"という話と"生きてるのが嫌だけど、死ねないって人はこの辺を越えられないのだろうか?"という話は別物。
死ぬのが怖い理由は anond:20080308034520 ということにしておこう。(未遂も怖いよね、死に損なって植物人間、再トライすらできない。)
生きてるのが嫌だけど死ねないのは"怖い"からだけじゃない。
迷惑かけたくないとか悲しむ人が(一応)居る(かもしれない)とか。
このテのパターンは更に要因が上乗せされるので動きづらそう。
楽に死ぬ薬があったら、の話。俺は多分すぐ使わなくて、思いつく限り人生でやりたかったことをできる限りやってから使う。と思う。
回らない寿司を食べるとか、サグラダファミリア見に行く、橋の上から電車に飛び乗る自動車の上をぽんぽん飛び回る、とか。
死ぬ、というのが一回しかできない上に不可逆だとしたら、生きる、を強く感じるようになるので執着沸くんだろうね。「完全自殺マニュアル」とかはそういうのを目的とした本だったかね。
余談ね。生死について考えがいくらかまとまると、多分死ぬのはそんな怖くなくなる。
死ぬのが怖いまま死ななくちゃいけないのはちょっと悲しい。
自殺したい、という人が居ても俺は止めなさそう。その人の人生かかってるんだから、自分の人生かけられるくらいじゃないと止められない。
生きてれば良いことがある、なんて無責任さしか感じない。
漫画版の『NHKにようこそ』は引きこもりの話ではな い。主人公は原作小説ほどネガティブでも内向的でもなく、世界と敵の関係について考え込んだりもしない。自意識のベクトルが、原作ほどの自己嫌悪へは向か わず、他人や他人からの視線への過剰な関心という形で現われる。では何の話なのか? それは「誰かのために」の物語である。
中原岬は幾度となく言う
「つまり…私は…/ひきこもりを助ける
その…/天使みたいな…/もので…
決してからかってる/わけじゃなくて…/本気の本 気!!
つまりボランティア/みたいなもので…/別に佐藤君が 好きとか/そういう……」(2巻p123)
「あたしは佐藤君を/天使のように助けようと思っ て……」(2巻p168)
「わ…私は/弱者に優しい/天使というだけのことです」 (3巻p163)
「な…何ですか/関係ないじゃないですか!/私はただ天 使だから…
佐藤君を助けなきゃ/いけないから!/クーリングオフ を申し込みに/来ただけじゃないですか!!」(3巻p165)
「誰かのために」は通俗的な用法としての「共依存」と 言い換えてもいいかもしれない。「共依存」の人は、自分自身の問題と向き合う前に、身近な「困った」他人の問題ばかりに気を向けて、その問題の解決に身を 捧げてしまう。しかし、そのような態度が、根本的な他人の問題の解決に向かうことはない。というのも、そのような「困った状況」において、世話をされてい る彼/彼女は、自らの努力で問題を解決するチャンスを奪われてしまう上に、その状況が続くことを世話をしている彼/彼女が望んでしまいさえするからだ。こ れが、(やや通俗的な解釈ではあるが)「共依存」ということの意味である。
「共依存」というと、互いに依存するようなカップルな どを思い浮かべる人もいるが、「共依存」自体は一方的な献身においてであっても(むしろそうであるからこそ)発生する。「自分が誰それから必要とされてい るはずだから、自分は誰それの世話をしてあげるんだ!!」と思い込んでしまうのが共依存だからだ。その意味で中原岬は、典型的と言ってもいいくらいの、 「共依存」である。
「共依存」は引きこもりに近い状態ではあるが、社会性 としては引きこもりより一歩進んでいる。一般的に「引きこもり」は自分のことだけに関心が向いてしまい、外界に対しては一切の干渉/被干渉を拒否してしま うというイメージであるが、「共依存」においては少なくとも、「自分を必要としているはずの」他人に対する関心や干渉はあるのだ。これは、ラカンにでも言 わせれば鏡像段階などと説明されるのだろう。
さて、「自分よりダメな人間を見つけたから」佐藤達広 と付き合おうとしたのだという、中原岬の告白は、原作においてはクライマックスの一部をなすほどに、作品全体において重要なものだが、それが漫画版では、 あえて秘密にするまでもないほどに、何度も語られてしまう。つまり、漫画版『NHKにようこそ』とは、既に人間関係が「共依存的」であることが、明らかに なってしまった後の話なのだということにならないだろうか?
興味深いことに、漫画版においては、中原岬以外の登場 人物もみな、多かれ少なかれ「共依存」的である。人間関係の契機がそのような、「誰かのための『優しさ』」として現われることが多い。主人公の後輩、山崎 は言う。
「僕は佐藤さんの事/尊敬してるんです/昔 僕がイジメられてた時……
こんな…ダメな奴なのに助けて/くれたでしょう?
僕…そんなの/絶対ありえないって/思ってましたか ら…」(1巻p31)
3巻で登場するマルチ商法の勧誘員女は言う。
「ただ…私は今まで/秋葉原でオタク相手に/絵を売った り宝石を/売ったりしてきたわ
何故だか分かる?
私の兄がね…そうなの…
…悲劇よね…
それでも兄弟だから/私が養ってあげようと/思って必 死で働いたわ
でも兄は働きもせず/人に迷惑かけるばかりで/部屋か ら出なくなって/もう6年になるわ
そんな人の為に/お金を稼ぐのが/正直虚しくなってき たの…」(3巻p165)
そして極めつけは、2巻で語られる、主人公と先輩女と の関係であろう。この関係が、中原岬と主人公の関係と二重映しに見えるプロットは面白い。主人公は言う。
「もう逃げるのは
やめだ!!
たとえ拒絶されたって/向かい合わなきゃ/今までと同 じなんだ!!
今度こそ/勇気を出して/先輩に言おう!!
別に好きとか/嫌いとかじゃない
ただ俺はこの人に/元気でいて欲しいんだ!!」(2巻 p107)
「そうだ!/そして何より
この人(ルビ:柏先輩)の/笑顔を/守るために」(2 巻p115)
「そうだ…俺は/どうして彼女を/止めるんだ?
結局 死ぬも生きるも先輩の/自由じゃないか?
俺がとやかく/言う権利なんて/ないじゃないか!?
…そうか…/そういう事か
何故 俺が/彼女を助けたいのか/どうしてこんなに/ 辛いのか?
つまり…/俺は彼女の事を――」(2巻p164)
だが、この主人公の純情は、先輩にかかってくる一本の 電話、そして「……私/結婚します!」の一言で打ち砕かれる。「誰かのために」が成就するとは限らない。誰それが自分を必要としているはずだから、と思っ たところで、誰それが本当に自分を必要としているかどうかは分からないのである。そして更には、必要とされているからと言って、誰それに手を差し伸べるこ とが良いことだとも限らないのだ。
このように、漫画版においては、「引きこもり」的な内 向自意識の問題は、半ば解決済みとも言える。「巨大な悪の組織と戦うことなどできなくなった」のが小説版の置かれた状況であるのならば、漫画版は「巨大な 悪の組織と戦う必要すらなくなった」後の話なのである。「もう“デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる(もちろん,21世紀はくる。ハルマゲドン なんてないんだから)。世界は絶対に終わらない。もっと大きな刺激がほしかったら,本当に世界を終わらせたかったら,あとはもう“あのこと”をやってしま うしかないんだ」(『完全自殺マニュアル』鶴見済,1993年)に対して、山崎はこう言うだろう「僕らは自殺だなんて/ドラマティックな事に/関われる資 格がありません…/どんなに落ち込んで苦しんでも…/この馬鹿馬鹿しい日常に帰ってくるだけです/もし帰ってこなくても/どこかで馬鹿らしく/死ぬだけで す」(2巻p182)。これが90年代と00年代の差の一つである、というのは安易にすぎるかもしれない。だが、問題意識は確実に転換している。それを進 歩と呼んでいいのか分からないし、「共依存」は、描かれているほど楽なものでもないのだけれど。
「共依存」は自意識の問題を解決し得るだろうか? そ して、宙吊りにされた「世界と敵」の話が、再び思い起こされることはあり得るのだろうか? それが漫画版『NHKにようこそ』において今後注目したいとこ ろである。
知ってっかー?「完全自殺マニュアル」って、あれ、結構ポジティブな本なんやでー。
確かに自殺の具体的な方法とか、具体例とか、統計とか載ってっけど、前書きや後書きには
「“生きるなんてどうせ下らない”と思えば、もう少し楽に生きられる」
とか書いてるんやで。まあ、雑学増やすには、目ぇ通しといても悪ない思うけど。
勢い余ってアイキャンフラーイするのも勝手やけど、どうせやったら、事起こす前に、普段あんまり出来んような事してからでも、遅ないんとちゃうか。
絶望が充満した自分の部屋で死ぬより、青々とした空と、果てしなく広がる緑の大地に包まれて死ぬのも、また、オツなもんやで。
一回だけ、恥ずかしげも無くアニオタ自称してる奴と話したことあるんだけど、強烈だったな。
万単位の金をフィギュアだの同人誌だのにつぎ込んでるとか、自慢げに話してんの。
年齢からしたらもう所帯持ってていいくらいなのに親にパラサイトして、食費も入れてないらしい。
とにかく気持ち悪かったよ。あんなのを礼賛してる今のメディアって馬鹿なんじゃないの?
二度と会いたくないと思った人間なんて、後にも先にもあいつ一人かもしれない。
千切れそうなくらいパンパンのTシャツ着ちゃって、見た目も上から下まで不気味だった。
年中汗かいてんじゃねーのってくらい太ってたし、実際なんか嫌な汗かいてたよ。
前々から思ってはいたけど、ああいう連中は社会に不要、いやむしろいるだけで害だろ。
かなり犯罪者に近い存在だと思うぞ。どうせロリコン犯罪者なんてみんなアニオタなんだろ?
らんらんとした目でアキバに群がるアニオタ共は、もうそこに隔離しちまえよ。
いつ子供が襲われるか分からないからな。最近生まれた俺の姪っ子のことも心配で仕方ない。
しょうもないことにばっかり金と時間を浪費し続けるクズ共には僅かの存在価値も無い。
てか、もうさっさと死んでくれ。完全自殺マニュアル買ってやるから。
るんるん気分で楽しく死ねる方法も教えてやるよ。