はてなキーワード: 鏡像段階とは
他方、デカルトにおける私と明晰判断に認知できるものだけで構成、しかしそれでは私の全体像をとらえたことにならないのでは?
超自我がエディプスコンプレックス(異性の親に対する性的願望と同性の 親に対する敵対心の複合したもの)を克服してゆく過程で近親相姦願望を抑止する者として
<幼児がエディプスコンプレックスを克服する。同性の親を取り込んで心の中を番人にする。>
の同性の親を心の中に取り込むことで、それを核に成立(こうした説明を元に可能となるデカルト批判)フロイトに従う限り(人間の心をもつ)私の中には本来 「私」とは異なる他者(同性の親)が部分として存在していることに
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こうした本来の「私」の外に存在する他者、しかしそれでいて私を形成する他者をデカルトの目の内面でひたすら探るというやり方では捉えきれないのでは?
☆ジャック・ラカン(1901ー1981)が鏡像段階に関して展開する議論をもとに可能になる
鏡像段階→幼児の発育過程の中の一段階(生後6か月〜18か月)この段階の幼児は、鏡の中に映った自分の姿に強い関心を示しなおかつそれを見て大喜びするという特徴をもつ。
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なぜ大喜びするのか?
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自分が一つの統一的な身体を持つことの発見、そしてまたそうしたものとして他者から見られているのだということの発見
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そして発見を通してナルシシズム(自己像に対する愛着)がめばえ
様々に思い描くようになる
漫画版の『NHKにようこそ』は引きこもりの話ではな い。主人公は原作小説ほどネガティブでも内向的でもなく、世界と敵の関係について考え込んだりもしない。自意識のベクトルが、原作ほどの自己嫌悪へは向か わず、他人や他人からの視線への過剰な関心という形で現われる。では何の話なのか? それは「誰かのために」の物語である。
中原岬は幾度となく言う
「つまり…私は…/ひきこもりを助ける
その…/天使みたいな…/もので…
決してからかってる/わけじゃなくて…/本気の本 気!!
つまりボランティア/みたいなもので…/別に佐藤君が 好きとか/そういう……」(2巻p123)
「あたしは佐藤君を/天使のように助けようと思っ て……」(2巻p168)
「わ…私は/弱者に優しい/天使というだけのことです」 (3巻p163)
「な…何ですか/関係ないじゃないですか!/私はただ天 使だから…
佐藤君を助けなきゃ/いけないから!/クーリングオフ を申し込みに/来ただけじゃないですか!!」(3巻p165)
「誰かのために」は通俗的な用法としての「共依存」と 言い換えてもいいかもしれない。「共依存」の人は、自分自身の問題と向き合う前に、身近な「困った」他人の問題ばかりに気を向けて、その問題の解決に身を 捧げてしまう。しかし、そのような態度が、根本的な他人の問題の解決に向かうことはない。というのも、そのような「困った状況」において、世話をされてい る彼/彼女は、自らの努力で問題を解決するチャンスを奪われてしまう上に、その状況が続くことを世話をしている彼/彼女が望んでしまいさえするからだ。こ れが、(やや通俗的な解釈ではあるが)「共依存」ということの意味である。
「共依存」というと、互いに依存するようなカップルな どを思い浮かべる人もいるが、「共依存」自体は一方的な献身においてであっても(むしろそうであるからこそ)発生する。「自分が誰それから必要とされてい るはずだから、自分は誰それの世話をしてあげるんだ!!」と思い込んでしまうのが共依存だからだ。その意味で中原岬は、典型的と言ってもいいくらいの、 「共依存」である。
「共依存」は引きこもりに近い状態ではあるが、社会性 としては引きこもりより一歩進んでいる。一般的に「引きこもり」は自分のことだけに関心が向いてしまい、外界に対しては一切の干渉/被干渉を拒否してしま うというイメージであるが、「共依存」においては少なくとも、「自分を必要としているはずの」他人に対する関心や干渉はあるのだ。これは、ラカンにでも言 わせれば鏡像段階などと説明されるのだろう。
さて、「自分よりダメな人間を見つけたから」佐藤達広 と付き合おうとしたのだという、中原岬の告白は、原作においてはクライマックスの一部をなすほどに、作品全体において重要なものだが、それが漫画版では、 あえて秘密にするまでもないほどに、何度も語られてしまう。つまり、漫画版『NHKにようこそ』とは、既に人間関係が「共依存的」であることが、明らかに なってしまった後の話なのだということにならないだろうか?
興味深いことに、漫画版においては、中原岬以外の登場 人物もみな、多かれ少なかれ「共依存」的である。人間関係の契機がそのような、「誰かのための『優しさ』」として現われることが多い。主人公の後輩、山崎 は言う。
「僕は佐藤さんの事/尊敬してるんです/昔 僕がイジメられてた時……
こんな…ダメな奴なのに助けて/くれたでしょう?
僕…そんなの/絶対ありえないって/思ってましたか ら…」(1巻p31)
3巻で登場するマルチ商法の勧誘員女は言う。
「ただ…私は今まで/秋葉原でオタク相手に/絵を売った り宝石を/売ったりしてきたわ
何故だか分かる?
私の兄がね…そうなの…
…悲劇よね…
それでも兄弟だから/私が養ってあげようと/思って必 死で働いたわ
でも兄は働きもせず/人に迷惑かけるばかりで/部屋か ら出なくなって/もう6年になるわ
そんな人の為に/お金を稼ぐのが/正直虚しくなってき たの…」(3巻p165)
そして極めつけは、2巻で語られる、主人公と先輩女と の関係であろう。この関係が、中原岬と主人公の関係と二重映しに見えるプロットは面白い。主人公は言う。
「もう逃げるのは
やめだ!!
たとえ拒絶されたって/向かい合わなきゃ/今までと同 じなんだ!!
今度こそ/勇気を出して/先輩に言おう!!
別に好きとか/嫌いとかじゃない
ただ俺はこの人に/元気でいて欲しいんだ!!」(2巻 p107)
「そうだ!/そして何より
この人(ルビ:柏先輩)の/笑顔を/守るために」(2 巻p115)
「そうだ…俺は/どうして彼女を/止めるんだ?
結局 死ぬも生きるも先輩の/自由じゃないか?
俺がとやかく/言う権利なんて/ないじゃないか!?
…そうか…/そういう事か
何故 俺が/彼女を助けたいのか/どうしてこんなに/ 辛いのか?
つまり…/俺は彼女の事を――」(2巻p164)
だが、この主人公の純情は、先輩にかかってくる一本の 電話、そして「……私/結婚します!」の一言で打ち砕かれる。「誰かのために」が成就するとは限らない。誰それが自分を必要としているはずだから、と思っ たところで、誰それが本当に自分を必要としているかどうかは分からないのである。そして更には、必要とされているからと言って、誰それに手を差し伸べるこ とが良いことだとも限らないのだ。
このように、漫画版においては、「引きこもり」的な内 向自意識の問題は、半ば解決済みとも言える。「巨大な悪の組織と戦うことなどできなくなった」のが小説版の置かれた状況であるのならば、漫画版は「巨大な 悪の組織と戦う必要すらなくなった」後の話なのである。「もう“デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる(もちろん,21世紀はくる。ハルマゲドン なんてないんだから)。世界は絶対に終わらない。もっと大きな刺激がほしかったら,本当に世界を終わらせたかったら,あとはもう“あのこと”をやってしま うしかないんだ」(『完全自殺マニュアル』鶴見済,1993年)に対して、山崎はこう言うだろう「僕らは自殺だなんて/ドラマティックな事に/関われる資 格がありません…/どんなに落ち込んで苦しんでも…/この馬鹿馬鹿しい日常に帰ってくるだけです/もし帰ってこなくても/どこかで馬鹿らしく/死ぬだけで す」(2巻p182)。これが90年代と00年代の差の一つである、というのは安易にすぎるかもしれない。だが、問題意識は確実に転換している。それを進 歩と呼んでいいのか分からないし、「共依存」は、描かれているほど楽なものでもないのだけれど。
「共依存」は自意識の問題を解決し得るだろうか? そ して、宙吊りにされた「世界と敵」の話が、再び思い起こされることはあり得るのだろうか? それが漫画版『NHKにようこそ』において今後注目したいとこ ろである。