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はてなキーワード: 一命とは

2013-01-22

人が一命を賭しても、制度が変わらない。じゃぁもう、この国の制度は変わらない。

そういう思いはあると思う。

自殺自殺した人間が悪いんだ。という風潮は正直勘弁してほしい。

自殺自殺するような環境を作らないことが大切であって、自殺するような環境でも耐えることが重要というのはおかしい。

2013-01-11

不器用内向的人間幸せに生きられる場所なんてこの世にない

できる営業職だった父の背中を見て育った。

学校の成績は良かったが、我ながらおとなしい性格だったので、父のような会社員にはなれないだろう、と小学校高学年の頃に悟った。その頃の将来の夢は考古学者。シュリーマンになりたかった。

それから数年。私が中学生とき。父、癌を患う。一命は取り留めたものの、落ちた体力では、かつてのように仕事はできなくなる。会社はクビになった(病状の割には長く引き止め、部署を移すなど色々と対策もしてくれたが)。大学時代の友人の伝手で、小さな会社で働き出し、そこでも成果を出すものの、癌の転移が発覚。私が高校の時分に早逝した。

その後、母が生命保険退職金を切り崩して捻出してくれた金で、出来が悪かったにもかかわらず、私は大学入学した。小学校時代神童も、今となっては人並以下。考古学者の夢はとうの昔に捨てていた。折から不況。まったく学問として興味はないが、手に職のつく資格が欲しい、という甘い考えで入った法学部勉強は、軟弱で夢想癖のある文学少年には想像以上の苦痛だった。そして、情けないことに、胃に穴を空け、単位を大幅に落とし、留年してしまう。

なんとか四年次まで進級するものの、就職活動でまた胃潰瘍になる。入院。今度は留年こそしなかったものの、就職浪人になる。ただでさえ社交性がなく、新卒下駄でぎりぎり内定が出るか出ないかの身。カウンセリングや話し方講座なども受けてみるものの、大した影響はなく、どうにも上手く行かない日々。ようやく出た内定は、小さな会社の営業職だった。

それから半年が経つ。やはり父は偉大だった。時代のせいもあるのかもしれないが、この過酷職業に良く耐えられたものだ。先日、あまりの不調にかかった医者に、軽度の鬱病と診断された。

そんな私の現時点での考え。

不器用で、内向的人間が、幸せに生きられる場所なんて、この世に、ない。

努力しても、変えられないものが、ある。

母が無事に逝ったら、私も穏やかに逝けたらよい。そんなことばかり考えている。

http://anond.hatelabo.jp/20130111014156

2012-08-20

 先日、私の祖母が亡くなった。85歳だった。

 

 祖母との思い出といえば、私が生まれてから成人するまでのおよそ20年間、元旦に直系の親族一同とともに正月祝いを行っていたことを思い出す。正月祝いと言っても、細田守の「サマーウォーズ」に描かれるがごとき祝祭的な性格のものというよりは、近況報告を兼ねて親族同士で気を使いあう儀礼的な色彩のつよいものであった。

 祖母には一人の息子と三人の娘がおり、息子が一番年長、その下に長女、次女、三女と続く女風上の一家で、この末娘が私の母である。四名とその家族が毎年元旦に祖母のいる実家帰省していたわけだが、態々そのような古臭いまりを続けていた理由は簡単で、いずれの親族実家から車で1時間以内の場所に住んでおり、集合するのが容易だったためである

 長男は、礼儀正しく気の優しい人で、奥方とも仲睦まじいが、子宝には恵まれなかった。長女は結婚してすぐ最初の孫――――私のいとこに当たる娘を産み、次女もまた結婚後すぐに娘を一人もうけたので、祖母からすれば、自身の若いうちから孫を抱いて可愛がる楽しみを得ることが出来た。私が生まれたのは次女の娘よりも5年ほど遅れてのことだったが、あとから母に聞いたところによれば、祖母にとっては初めての男の孫であったから、幼少時の猫可愛がりは尋常ではなかったということだった。現在を見てみれば、いい年をして結婚もせず、祖母の期待に沿う形には成長できなかったのだが。

 私に遅れて妹と弟がそれぞれ誕生したが、正月にはこれらが皆、映画のように広い日本家屋などではなく、昭和のごく平均的な一軒屋に集まるわけだから私たち孫の小さいころの祖母は片付けや食事作りなどにてんやわんやで、忙しそうに家中を動き回っていた。

 

 生前における祖母と祖父のおしどり夫婦ぶりは母や親戚から伝え聞いているが、その足取りは大抵のものではなかった。

 大正生まれの祖父は、呉服屋の息子で自らも商店を営んでおり、利発聡明と専ら評判の若者であったが、当時の男性としては体は丈夫なほうではなかった。そのためかは定かではないが、第二次大戦時もなかなか徴兵されることはなく、結局日本敗戦する直前になって突如として徴兵されることとなったという。

 終戦後、祖父は無事帰還したものの、兵役最中肺結核を患っており、生業である商売もままならず、しばらくは寝たきりの生活を余儀なくされた。戦後結核治療確立から一命はとりとめたものの、後遺症か定かではないが、原因不明の発熱と咳に生涯悩まされることとなり、商店経営にも難渋した。

 祖母は、看護学校卒業していたが(戦中、従軍看護婦になることを希望していたのかもしれない)、卒業後すぐに祖父と結婚したことから看護婦となることはなく、祖父の徴兵後は夫に代わって商店を切り盛りしていた。しかし、祖父の体調不良もあって戦後いよいよ先行きが怪しくなり、結局私の母が生まれて5年後に閉店したという。

 その後の祖母は、しばらく職を転々とした後、昭和42年ごろ、某市の市立病院看護婦となる。祖母にとっては、高校以来の看護業であり苦労は並大抵ではなかったというが、持ち前の剛毅さと天性の快活な性格ナース天職であったようで、中途採用者としては異例の副婦長の地位まで昇進したという。60歳で定年した後も、市内の私立病院嘱託職員として居場所を得、4人の子供を成人させ、病の夫を支え続けた。

 しかし、その祖父も私が5歳のときに癌で帰らぬ人となる。確かではないが、病室で遺族が泣き伏せる中、祖母は一度も涙を見せなかったと幼いころの私は記憶している。

 

 祖母との最後の思い出らしい思い出は、一昨年の夏のものである

 何とか就職が決まり自分の車を手に入れた私は、何を思ったか一人で先祖の墓を参りたいと考え、祖母に親類の墓地場所を尋ねに行った。その前の年、私の父が母と離婚しており、20年続いていた正月の集まりは中止されてしまっていた。祖母の顔を見るのは、同年の冬、祖母が初期の癌を患っていることが判明し、見舞いに訪れた病院以来であったと思う。これは治療により完治し、祖母は実家一人暮らしを再開していた。

 唐突に尋ねてきた孫に、祖母はメロンを振舞ってくれた。墓地場所を教えてもらい、私はひとり車を走らせる。天気は伸びぬけるような快晴であった。セミが絶息の声を漏らして、草だらけの殺風景墓所に風情を齎していた。確か、わざわざ花を携えて行ったと記憶している。

 墓めぐりが終わって、私はもう一度祖母の自宅を訪ねた。最近腰が痛くて食器の片付けに苦労するというので、洗物を手伝い台所の片づけをした。年季の入った炊事場の汚れを見ると、正月に走り回りながらおせち料理を拵えてくれた、祖母の苦労が感じられるようだった。帰り際に、祖父の眠る仏壇へ線香を立てた。

 帰り際、私を何事か心配そうに見つめながら、祖母は言った。

 「私はもう、長くない。私が死んだら、後のことは頼む」

 私は、何を言っているの、おばあちゃんは癌になったって死なない人でしょう、と言った。豪快な祖母のしおらしい一面を見て、私は意外に思いつつ、やや後ろ髪を引かれながら岐路に着いた。

 その2週間後、祖母は脳梗塞で倒れた。


 以後の祖母の容態は、芳しいものではなかった。脳梗塞からただちに生命の危機には至らなかったが、脳の神経が一部破壊されてしまったことから記憶の維持に支障が生じ、軽度のアルツハイマーの様相を呈していた。また、翌年の冬、恐れていた癌の再発が認められた。

 近年の病床の不足から、祖母は短期間の転院を繰り返し、結局地元病院(かつて勤務していた病院ではない)に落ち着いた。最後に会ったのは、今年の5月ごろであったと思う。もう、私の顔はあまりからなくなった様子であったが、お見舞いに来てくれているのはわかっているようで、こちらが手を振ると童子のように身振りで返してくれた。黒かった御髪はすっかり白くなり、顔も痩せて、さながらどこぞの聖人のようでもあった。母は週に一度見舞いに行っていたが、亡くなる前日までは、元気に呼びかけに応えており、当日は眠るように安らかに逝ってしまわれたという。


 通夜には、上述した親族はもちろん、各地に散らばっていた祖母の兄弟の他、長女の娘の息子と次女の娘の娘、つまり祖母にとっては曾孫に当たる二人も参列した。二人とも終始、お経が退屈で帰りたいとぼやいていたが、赤ん坊ときにまだ健全だった祖母に抱かれたことは記憶にないのだろう。

 私にとっては従甥・従姪にあたる二人の相手をしながら、私はかつてこうして祖母の実家で遊んでいた時代のことを思い出していた。辛櫃の前をずいぶん騒がしくしてしまったが、生涯をかけて一家を守ってきた祖母にとっては、たぶんこの光景が一番望んでいたことであったのだろう。


 おばあちゃん、生前は本当にお世話になりました。

 貴方は心から尊敬できる、偉大な女性でした。どうか、天国でも安らかに。

2012-04-24

虐められっ子の復讐

http://anond.hatelabo.jp/20100622021102

これ見て思い出したので書いてみる。

近所のお姉ちゃんの話だ。

お姉ちゃん小学6年で都会から田舎引越してきた、標準語で話すお姉ちゃんクラスメイトから嫌われた。

掃除の時もお姉ちゃんが居ると「お前がやっとけよなー一緒にやるの嫌だしー」と皆が笑いながらさぼって帰って行ったり、バカにされたりはぶられたり。

中学は私立に進学するつもりが、運悪く名門私立を受験し落ちてしまった、お姉ちゃん小学校メンツがそのまま進学する地元中学に進学する事に。

お姉ちゃんは手首を切って風呂場の水で流し続けて死のうとしたが、偶然早退してきた母親発見され一命を取り留めた。

傷を見せてくれた事があるが、ズバッと入っていてお姉ちゃんらしい力強さを感じる傷だった。

お姉ちゃん美人でとても気が強く、努力家で上昇志向が強く、手に入れる物は1番じゃないと気が済まない、やられた事は何倍かにしてやり返す性格だ。

顔や声や話し方は土屋アンナが近い。

環境のせいで虐められっ子になってしまったが、虐められっ子の性格ではなかった。

中学に進学したお姉ちゃんヤンキーグループに入った。

そして元クラスメイト達をリンチにかけた。

階段から突き落としたり、トイレに顔を突っ込ませたり、根性焼きを入れたり。

クラスメイト不登校に追い込まれた。

別の近所のお姉ちゃん不登校にされた一人だ、虐めを傍観していただけらしいから、かなり広範囲に復讐したんだろう。

お姉ちゃんヤンキー仲間をバカにしていた、完全に復讐の為だけにグレたみたいだった。

その後は高校は無事に地域一番の進学校合格

大学も名門に合格

一流企業入社

大学テニスサークル先輩で、ダントツにもてたイケメン結婚

今は家政婦を雇える身分になっている。

勉強を教えてくれたり遊んでくれたり悩み相談に乗ってくれたり、優しく気さくでもあったけど、とても怖いお姉ちゃんだった、虐めた人は何で見誤ったんだろうなぁ…。

2011-11-06

式当日に新郎行方不明になった話

前日悪友と飲み明かしたまま行方が分からなくなった

1/4世紀以上昔の話で、携帯も普及しておらず飲酒運転も珍しくない時代

帰りに事故たか、それとも土壇場で逃げたかと大騒ぎ

結婚自体は新郎新婦にほれ込み、アタックしまくってこぎつけたので逃げたは無いだろう

と話し合っていると、驚く情報が判明!

新郎は前カノと切れていなくて、今でも時々会っているとの事


親族が前カノの家に駆けつけてみると、そこには酔った新郎が前カノと大爆睡していた

全員で新郎を叩き起こして式場へ引きずっていくと、今度は新婦行方不明になっていた

見つかったのはその日の午後も遅くなってから

ドレスのまま一人で抜け出した新婦は、近くの海に飛び込んで自殺していた


たまたま目撃した釣り人達に助けられギリギリ一命を取り留めた

勿論二人は破談 費用は全て新郎側が負担

酔いが醒めた新郎は、酔った弾みで前カノの家に転がり込んだだけ

何もしていないしちゃんと切れてたと泣いて言い訳したが、耳を貸す人は無し

それどころか、前カノに付き合い続けていた事をばらされる始末

しかも前カノが妊娠していた為、責任取って結婚する事に

ところが前カノとの式直前になって、前カノが二股掛け続けていたことが判明

泥沼状態になり、結局式は取り止め

その後何があったかは知らないが新郎は家から絶縁されて地元を去り今は消息が分からなくなった


一方新婦は回復した後 数年経ってから結婚した

相手は助けてくれた釣り人の一人。その場で新婦に一目ぼれとか

今度の式は実に和やかで楽しい式だったらしい

二人は今でも仲の良い夫婦

子供が大きくなった今は一緒に釣りに行くのが楽しみだそうだ


・・・実はこれ両親の馴れ初めなんだけど、改めて書くとすごいなあw

2011-07-07

散歩の途中だった。

道路で猫が死んでいた。車に轢かれたのだと思う。外傷は然程なく、出血も耳鼻から微々たる紅が垂れている程度なのに。寝ているようにさえ見えるのに死んでしまっていた。

形ある小さな純白の遺骸。見下ろしていたら、少しだけ視界がぼやけた。夏は真っ盛りで、気温も天井を打つ午後二時の四辻には、蝉の鳴き声と幻覚のように立ち昇る陽炎とだけが密集している。

密集。

ジリジリと照りつける日差し帽子越しに感じながら、私は猫を見下ろし、ぼんやりと立ち尽くして、いまこの四辻に密集しているものごとについて思いを巡らした。

遠くの幹線道路を、車はどんどん走っている。

ふと、この猫は一体いつ死んだのだろうかと考えた。ここは閑静な住宅地のど真ん中なのだ。この時間帯で近くを走る車は皆無に等しいし、この猫にしたって炎天下の中を歩き続けることは避けていたに違いない。昨日の夜から明け方にかけて轢かれたと考えるのが妥当だった。妥当だったが、どうにも腑に落ちない。

猫の遺骸があまりにもきちんと横たわりすぎているのである。蠅がたかっていない。烏に啄かれてもいない。そもそも遅くとも明け方には死んでいなければならない骸なのだ。とっくの昔に近隣住人に発見されているだろうし、ともすれば保健所に連絡が入っているはずで、いくら他の雑務に駆られているからと言ってこの時間まで放置されているのは不自然な気がした。

万が一保健所の職員が来られなかったとしても、この時間になるまで四辻の真ん中で横たわっている状態はおかしい。近隣住人の嫌悪感が理由になるのだとしても、その心理が私には理解出来ない。

しゃがみ込み、そっと力を亡くした四肢を動かしてみる。蟻さえも近づかなかった猫の死骸は剥製と見紛うばかりに美しく、ともすればふとした拍子に生き返ってしまうのではないかと思わせる躍動に満ちていた。あるいはただ単に気絶しているだけなのかもしれない。急いで病院に駆け込めば、一命を取り戻すことだってあるのかもしれない。

けれども私は、その骸を両腕に抱いた瞬間にわかってしまった。確実にいまこの瞬間に白描は死んでいる。死んでしまっている。不気味なほど力のない、弛緩しきった骸の冷たさが肌に滲むかのようだった。

いま腕の中にあるもの、それは猫の形をした何かだった。限りなく猫に近いくせに、決定的に猫ではない塊だった。

蝉の音がシャワーのように降り注ぎ、容赦のない太陽と立ち昇る陽炎とが私を燻すように熱している。

白い猫の綺麗な遺骸を抱きながら、ぼんやりと重たいなと思い始めていた。三キロ? それとも五キロ? いやいや七キロ以上はあるまい。とは言え、市販のダンベル一つで十分足りてしまう重さだった。ダンベル、たったの一つ分。

この白猫はどうして死んでしまったのだろう。立ち尽くしたまま考えるでもなく考えてみた。骨格に酷い損傷は見られない、外傷もそんなに目立つものはないのに、どうしてよくできた縫いぐるみみたいになってしまってるのだろう。

きっと打ちどころが悪かったんだよ。誰かが答えた。仕方がなかったんだ、運が悪くてね。そういうこともあるものなんだよ。

そうなのだろうか。そういうこともあるのだろうか。そういうことがあってもいいのだろうか。じっと猫を見つめながらじくじくと問い続けた。責め続けたのだった。

まりにも理不尽に過ぎるような気がしたので。

突如としてその言葉が私の周りをひしめき合うように囲い始めた。空から降ってくるものもあれば、地面から生えてくるものもあり、霧が晴れるかのように現れたり、気がつけばいつの間にかそこにあったものなど様々だった。大理石のようなもの、切り出した木くずが組み合わさったもの、丹念に砂で固められてもの、雲のように輪郭線がはっきりしないものなど素材までもが多岐に渡っていた。

夏の炎天下。人気のない四辻で白描の遺骸を抱いた私は理不尽という言葉に囲われている。どうしてなのだろう。答えは出ない。どうしてなのだろう。絶対にわからない。

もぞりと、腕の中で猫が身動きをした。見ればぐるりぐるりと丸まっていく最中で、手足は屈められ尻尾が穏やかに首に巻きつき、背骨が曲がりに曲がり、遂には丸々とした真っ白な毛玉になってしまった。

風など吹いているはずもないのに、そよそよと白い毛並みは私の肌を撫でていく。心地良い。思った途端にふわりと浮かんで、毛玉は空へと昇っていった。ぐんぐんぐんぐん青空に呑み込まれていって、二度とは戻らなかった。

呆然としたまま空を仰いでいた私は、ふと我に帰り視線を正面に向ける。ひしめくように周囲を囲っていた言葉たちは知らない間に消えてしまっていた。

四辻に残されたのは私一人だけ。

ジリジリと照りつける日差し帽子越しにも熱く感じられる。蝉は変わらず鳴き続けていて、遠く幹線道路を走る車の音と、途切れ途切れに聞こえる風鈴音色とが細かく耳朶に届いている。

今日、猫が死んでいるのを見つけた。外傷は然程なく、出血も耳鼻から微々たる紅が垂れている程度だったのに、猫は確かに死んでいた。

きっと、それだけのこと。

私は再び散歩をし始める。

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