はてなキーワード: パンクロックとは
いや、「本格的なロック」をやってる人は世の中にたくさんいるわけだから
何もなつきちの追随者になるわけじゃないだろう
「本格的なロック」をやっている人は、みんな誰かの追随者とでもいうの?
それは、アスタリスクで、かっこいいロックはやれない、かっこいいロックを諦めているということじゃないの?
そういうのは「初心を忘れていた」とでも言うべき状態で、にわかとは言わない
初心を忘れるのも十分にわかと呼べると思うけどね
ロックの上下関係が知識と技術で決まるっていうのはそれこそロックじゃないんじゃないの?
パンクロックとか知識と技術が稚拙でも精神的にロックであることが大事とか見方もあるわけだけど
大学時代、結婚式の短期バイトをしていた。5時間たちっぱなし、その間トイレ休憩もなし、というなかなかハードなバイトだったけど個人的におもしろかった。
バイトをしていた式場は、ジャズとかシックなスタイルで規模も小さい。週末に1組~3組くらい結婚式をしていたから、成功している方だったと思う。だけど、結構ハードな仕事内容だったらしく、春には10人くらいいた新入社員が、正月明けには3人とかになっていたり。正社員の平均年齢は、27.8歳。平均年齢を釣り上げているのは、あんまり仕事をしない3人のお局様たちだったり。アルバイトもとっかえひっかえかわっていった。
結婚式の間中のバイトの仕事は、給仕で、空になったグラスにビールを注いで回ったり、ドリンクのオーダーをとることだった。
それから、バイトのもう一つの大きな仕事は「酔っ払いの相手をすること」だった。「酔っ払ってる人がいたから、行って」と正社員に言われたら、バイトはその人まで走っていって、外へご案内する。結婚式に酔っ払いとは不必要な存在だからだ。ちなみに、その時声をかけられるバイトは、その場で一番足を引っ張っている、もしくはブサイクなバイトだった。酔っ払いの相手は結構屈辱的な仕事である。
結婚式が終わった後は、戦場だった。最大3組の結婚式をこなすために、結婚式と結婚式の間の時間はわずか1時間しかなかった。最後のお客様をお送りした後、BGMがジャズからメタルとかパンクロック系の曲に変わる。さっきまで木村カエラの「バタフライ」のお洒落げなピアノ曲が流れていたのに、お客様がいなくなり、エレベーターの扉が閉まった次の瞬間、メタリカが流れる。それから、「走れぇー!」って正社員の人が怒鳴って、バイトは常に駆け足で清掃する時間に突入する。流れているBGMの音量も半端じゃなく大きいから、正社員の人は常に怒鳴っていた。そこは戦場だった。
1回、走っている途中に大きな花瓶を割ってしまった女の子がいた。仕方がないので、バイト全員でわれた花瓶の破片を集めて片づけをしていたら、うっかり自分の手のひらをざっくり切ってしまった。それで、「血が出てるんで、救急箱かなんかかして下さい」って正社員の人にお願いしたら「うちが危ないみたいじゃん!」「テーブルクロスに血がついたら大変なんだからね!」ってめっちゃ怒られたことがある。あれは今思っても理不尽だと思う。お言葉ですけれど、御社は結構危ない職場です、と言いたいのをぐっと我慢して渡されたばんそうこで乗り切った。
そんなこんなで、結婚式のバイトは結構きつかったんだけど、5時間で8千円、即現金払いという好条件につられてだらだらと続けていた。そしたら、ホテルの偉い人から一番良い部屋に呼び出されて、「君、うちに来ない?」って言われた。「もう、別の会社に内定もらってるんで」って丁重にお断りした。
その後、正社員の人にキッチンに呼び出されて、「今から冷蔵庫はいって、写真撮ってSNSにアップして、炎上して、内定取り消されようよ」って笑顔で言われた。美人なお姉さんで心がぐらっときたけど、全力で丁重にお断りした。
いえーい、英語コンプレックス丸出しだけどちっとも英語コンプレックスを克服しようとしないまたは英語関連の記事をブクマして英語コンプレックスを解消できたと勘違いしてるはてなーのみんな~、いえーいオイラだよー!
bitch
日本で使われているやりまん、というよりは、イヤな女、誰もが嫌う最低な女、クソみたいな女、性格ブスという意味で使われることが多い。
slut
いわゆる、やりまん。誰とでも寝る女、という意味で使われることが多い。
whore
これは売春婦、金銭を得て身体を売る女のこと。他には、prostituteとかhookerとも言う。
bitchとslutの明確な区別はよくわからないけど、基本的には上のような解釈でいいと思う。
たとえばslutがイヤな女みたいな意味で使われることもあるし。
間違ってたら訂正よろ。
オイラの勝手な思い込みなんだけど、ビッチ、といわれる女性というのは、女性に妬まれる要素があったりして、
男からみるとちょっとかっこいい女、だけど女には嫌われちゃう、
みたいなイメージがある。
「私はビッチ」というのは、英語ができないのに、期せずして、イヤな女、誰もが嫌う最低な女、クソみたいな女、性格ブスという正しい意味で使っているのが興味ふかい。だって、誰がみてもイヤな女やろ?
あいつはオイラの定義するビッチとはかけ離れてるほど、ださいし、ロックでもないし、ましてやパンクロックでもねえよ、ドボン会長さん?
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20131207/1386476138
この記事を読んで、うーんそうは言ってもなあ、と思った。
自己目的的な行為は、その行為自体が善である、正解である、ポジティブである、といった自分の評価軸が前提に無いか?
でも自分の評価軸って、よっぽど意思の強い人じゃない限り環境や立ち位置でけっこう簡単に変わっちゃわないか?
例を出すと、
大学時代パンクロックのグループを組んでいて、そのメンバーと取り巻き達の価値観では半社会的な行為がカッコ良くて評価されていたから、ネガティブな歌を歌ったりライブで暴れ回ったり散々ヤンチャしまくった。
その後卒業して会社員として真面目に働き出して仕事の仕方を覚えてからというものの、外回りの営業で人としゃべるのが楽しくって、それに伴って売り上げが伸びていき、上司からも得意先から褒められ順風満帆だった。
しかしある時大学時代のバンドのメンバーと偶然再開し、飲み屋で思い出話してたらパンク熱が再燃。真面目に営業なんかやってられっかと、途端に営業熱が冷めてしまって売り上げが伸びなくなった。とかね。
まあこの例は極端だけど、それ以外にも
子供の頃絵を描くことが楽しくてひたすらマンガを描いてたら、親に見つかって「こんなくだらないことやってないで勉強しなさい!」って怒られて、そうか、これはくだらないことなんだ、と思って挫折したり。
他にも、日本の捕鯨船を敵とみなし過激な思想を教え込まれ絶対悪として捕鯨船を威嚇・攻撃することに燃えていたけど、ついに海上保安庁に捕まって留置場に入れられ奴らにどんな酷いことされるんだろうと思ってたら思いの外紳士的に扱われたので、彼らはそんなに悪い人達ではなかったんだな、と改心したり。
要は自己目的的な行為をしている状態って一種の洗脳状態というか「これをやっている自分は確実に善・正解・ポジティブな存在」という思い込みの元に成立しているんだと思うんだけど、一旦その状態を外部から「別にお前は善・正解・ポジティブじゃないよ?」と否定されたら一気に評価軸がブレてしまって、自己目的的な行為が断絶してしまうんじゃないかと思うんだよね。
今までの俺の経験からしても自己目的的でフロー状態に入りノリにノっている時もあったけど、同僚から足を引っ張られたり上司から出る杭を打たれたりする度にその状態が断絶されてきた。
でもこれは俺だけじゃなくてみんなそうだと思うのね。俺らはずっと嫉妬や僻み、そして異なる価値観と戦ってきた。
嫉妬や僻みをはね返す程の、多少傲慢さがあるくらい俺は正しいと思い込まなきゃ自己目的的にはなれないよ。しかしこの情報化社会で評価軸がブレずに生きていけるだろうかね?俺はなんだか自信が無い。
http://anond.hatelabo.jp/20120302003939
元の語源では確かに、漫画やアニメはsubcultureだったけど、
それって何十年も前の用法なんだ。
というかどんな趣味を持っててもsubculture、”社会の外れ者”ってほどの扱いではなくなったよね今って。
かつてはもっともっと、mainでない趣味を持つ人間は自動的に強烈に被差別民だったけど。
じゃあ現代に「サブカル」を自称してるのはどんな人達かって言うと、
「自らの自意識の為に社会からの疎外を必要とする人」になった。
別の言い方するなら「パンクロック」っていうか(これは”時代遅れ”って意味も兼ねてる)。
で本題、
ということだけど、
ここは君が友達に趣味を合わせる上で大事なとこだからよく思い出して欲しい。
もし後者なら、
なんか読む必要は全くない。
だけどもし前者、
友達たちが「サブカル」を自称するサブカルごっこにはまってるなら
彼等と話や趣味を合わせる上で、
つまんないオッサンのクソつまんない評論読むのは必須課題になってくる。
「サブカル」は前述の通り、人と違うことや苦しいことを敢行するの自体もアイデンティティなので
面白くない評論家の話を読み込んだり、面白くないクソ作品ばっかり見たりするのは重要な課業。
もっと詳しく紹介すれば、
昨今それなりの「サブカル者」を自負する人はアニメよりも映画を見てるよ。
現代はアニメ・漫画より映画のほうが圧倒的にクソ作品が多いので。
「とても面白かった」と言い張ったり、
クソだとわかってる邦画をわざわざ見に行っては、
「こんなにクソだった!でも見ちゃった!」って自慢しあったりする。
そんなもん絶対に「サブカル」だとは認めないし、
むしろ彼らはアニメオタクに対しては一般人以上の憎悪と蔑視を持ってる。
要するに元増田はまず
そこを自分の中で明確にすべき。
10代の頃、なんであんなくそみたいにありきたりな曲ばかりうたう凡庸なミュージシャンばかり世に出てくるのかまったく理解できなかった。80年代のパンクロックを聞きながら、あれだったら俺でも有名になれるんじゃね、と本気で思ったりもした。(僕の高校があった)西川口付近で、どうしてあんな綺麗な若い女性と平凡なおじさんが手をつないで歩いているのかという疑問と並んで、高校時代のマイ7不思議の1つだった。
そんな長年の謎に、ようやく納得のいく説明がつけられるようになった。
きっかけは、この140文字の短いツイート。
http://twitter.com/otsune/status/27414854245
サイバーエージェント内定式の写真をみると、やはり日本でゼニを集めるにはヤンキーDQNスイーツ精神が重要なんだと思った。藤田社長は正しい。
これは同社内定式で繰り広げられた、サークルのテニス部みたいに軽薄なありさまに対するクリエイター・大常正文氏の指摘だが、まさにこの視点こそがポイントだった。
例えば、ミュージシャンがヒットするために重要なのは、最も上手く、深淵な歌詞を書くことではなくて、日本の「ボリュームゾーン」である連中の心をいかに捉えるか、ということになる。大塚愛なんか、見た目も、歌唱力も、どう考えても突出したところは何一つないが、それだからこそ歌いやすい彼女の曲はカラオケでヘビーチューンされた。
「AKBのメンバーは個々で見たらそうでもない」というのは島田紳助の言だが、これも逆説的だがまさにその点にこそ、AKB48が人々の心を掴み、話題を呼ぶ核心部分があるともいえる。
だって、いったいどれだけの女性が職場で学校で「AKB(ちょっと昔ならばモー娘。)の誰々に似てるよね」と噂されたか、想像するだけで恐ろしい。僕の職場にいる若い女性はわずか10人弱だが、それでも「前田敦子」と「渡辺麻友」がいる。そして平凡な彼女たちはこの瞬間に確実に”想起される”。これが決定的に重要な点だ。100万人に一人しかいない超絶美人ならこうはいかない。
全身全霊を込めて鋭いボールを投げるのではなくて、あえて女性でも打てるようなスローボールを投げること。
日本の技術者達が夜も寝ないで開発したこだわりの差別化機能を省いた家電製品。
あえてこだわりを否定するというこだわり方。
それがボリュームゾーンという発想。
ここしばらくのところ、開かれた人間と閉じられた人間、ということを考えてきた。
それを考えるに至った理由は、高校時代には良いことだと思ってきた好奇心が、
大学に入って、なんだか悪いことのように思えてきたからだ。僕自身、周りの影響を受けて遠慮するようになってきたのだ。
それが大人になることなのかもしれない。だけど全く楽しくなかったし、読んできた無数の本の内容が
全て否定されるような気がした。それに否定してくる人たちはみんな退屈だったんだ。
退屈は悪いことだ。新しいものを生み出すことをしない。
退屈の空気に慣れると、変化を嫌がるようになる。
だけど変化を否定した組織や共同体は、死んでいるんだ。変わるとしても、腐敗するだけなんだ。
僕の周りでは、どうやって変えるかについて議論をする奴はいなかった。
開かれた人間は閉じた人間には興味がなくて、自分たちでやっていけばいい、と言うんだ。
そうなのかもしれない。変わりたくないって言ってるやつを無理に変えることはない。
でも、変わりたいけど変わり方がわからないやつに対して、何ができるかを考えることには意味がある。
それともう一つ。この文章をここまで読んでいるだけでも、完全に閉じてはいないことを分かってほしい。
僕の周囲を見渡してみると、好奇心を肯定する人間と、否定する人間、そういう基準で人間を二つに分けられることに気付いた。
ここで書かれている「好奇心」は、質問を歓迎するか、ということで言い変えてみてもいい。
好奇心を肯定する人間は吸収し続けている。これを開いている人間と呼ぶことにしよう。
好奇心を否定する人間は、ルールを学習した後は、それを変えることを好まない。
これを、閉じている人間と呼ぶことにしよう。
一般的に学校の先生は殆ど閉じている。学校という組織が開くことを否定するものだからだ。
彼らは、質問はありませんか、と言う。
だけど、僕らの疑問に興味を持ってはくれないんだ。
予習が足りないとか、授業をちゃんと聞けとか、そんなことを言うんだ。
開かれた人間は大体が、閉じられちゃったら仕方ないよね、と考えている。
諦めてしまっているんだ。ただ開かれている人間を見つけたら、一気に仲良くなる。
で、僕が考えるのは、なんとか人間をこじ開けることができないかということだ。
それを小説でやろうと考えていたんだが、小説を動かすエンジンになる「思想」
が明確化されていないのに小説の結論を出すのは難しい。
だからエッセイを使ってみることにしたんだ。
http://blog.livedoor.jp/simoom634/archives/50189369.html
というエッセイで言及していたことだ。
つまり、頭の中で考えるんじゃなくて、文章にして考えてみるんだ。
グレアムの流儀に従ってみることにしよう。
エッセイは質問から始まる。
閉じた人ってどんな人?開かれた人ってどんな人?って具合に。
で、僕にはあらかじめ考えがあったわけじゃないんだ。どこにたどり着くかもわかってないんだ。
ここで2つ目の質問を出そう。これは大事なテーマだ。
「閉じた人はどうやったら、開いた人になれるの?」
これは最初に書いた定義に従えば、どうすれば好奇心を取り戻せるかってことだ。
それは閉じた組織にいるときには難しいことだ。閉じた組織は疑問を持つことを否定するんだ。
じゃあどうする?反抗するのがいいのか?従って、だけど頭では違うことを考えているのがいいのか?
これはどちらも間違っている。
反抗したところで、閉じた思考の持ち主は、とりわけあなたの上司は、閉じることに関してはあなたよりも一枚上手だ。
なにしろ彼はあなたよりも長い間、どうやったら疑問を抑えられるかを学んできたのだから。
もし従ったならば、あなたの思考は多かれ少なかれ、それに適応してしまう。
開かれた人間はコースアウトするんだ。面白そうなところに向かおうとするんだ。
そして自分のルールを見つけて、楽しく生きるために必要な原則を見つけるんだ。
開くために必要な手段は、素朴な疑問を持って、それを潰さないようにすることだ。
それと、楽しんで生きることができる例をもっと沢山知ることだ。仕事は義務で、趣味に生きるっていうのではなくてね。
開かれている人の集まる場所を考えてみよう。一人になることだって、麻痺させないためには悪くないんだけど、
それは寂しいし、慣れないだろう。
だから開かれた人のいる場所を考えてみることにしよう。
彼らは大体が一人でいるか、小さな組織にいる。
もしくは、大きな組織の中でも、独立性の高い小さな組織にいる。
大きな組織と開かれた人は相性が良くないんだ。
彼らが彼ら自身のルールに従うから。。
子供の頃はみんな開いている。みんな素朴な疑問や、旺盛な好奇心を持っている。
それが「正しい」ものかは別にしてね。
それが大人になるにつれて、規律とか、常識とか、空気とかを理解するようになっていく。
親や学校や社会の教育で、そういうものに従うのが正しいものだと思うようになっていく。
閉じた人間はこう答える。でもこれは伝統だから。歴史には理由があるんだよ。
もっと閉じた人間はこう答える。これはルールだから。ちゃんと守らないと。
それはトートロジー(Q女とは?A人間のうち男でない方みたいな説明のこと)じゃない?って疑問には、沈黙を持って答える。
どちらでもない人間は迷う。おかしいなあ、と思う。
それを開いてやろう、とぼくは思うわけだ。
音楽や小説や映画やエッセイや美しい学問は、人を開く役に立つ。
必要なのは、相互に矛盾するような性質のものを両方受容することだ。
こんな具合に。
だけど、どちらでもない人間は、少ししか空いてないわけだ。
だから一度に沢山の物を入れることはできない。
それに強烈なメッセージには拒否反応を示すかもしれない。
始めは、変わってしまうのは怖いことだから。
「教え」が入り込んでくるのは、自分が自分でなくなるような気がするからだ。
だけど、「考え」だって、「教え」の総和にすぎないわけだ。
素敵な大人達が厳選したものではあるけどね。
それに対抗するには、沢山の教えを学んで、シャッフルすることだ。
沢山の教えの中には、閉じたものも、開いたものもある。
だけど歴史に残るものには、開いた人の作るものが圧倒的に多い。
彼らが何かを変えてきたからだ。
だからそういうものを受け入れることによって、開いた人になることができる。
だけど、閉じた大人たちだって、本を読めとは言うんだ。
どの本を読めとは言わないけどね。
それは彼らがどの本が良いかを理解できないからだ。
そういう訓練を(つまり沢山の本を読むことだ)してこなかったからだ。
別に本に限らないんだ。音楽でも、映画でも、漫画でもいいんだけど。
とにかく自分の中に規制を設けないことだ。読みもしないのに、聞きもしないのに批判をしないことだ。
そしてとりあえずちょっとずつ試してみることだ。
何か気に入ったものがあれば、その作者の他の作品や、その作者が好きだったものや、薦めているものや、
amazonで薦められているものを調べたりしてみることだ。
一つ注意点。昔の小説は、昔の作品は、長い前置きがあるんだ。
忙しい現代人の為には作られていないんだ。
それを耐えるためには、読みやすい文章のものを選ぶこと。そしてそういう事実を理解することだ。
だけどそうやって開いたところで、社会の押し付けはしつこく続く。
これに対抗する方法は、戦うことじゃない。さっさと逃げることなんだ。
素晴らしい場所を見つけるんだ。技術や知識を磨きながらね。
なんなら素晴らしい場所を作ったっていい。
素晴らしい場所を作るっていうのは、尊敬できる友人と起業するってことだ。
そうすれば素晴らしい人生を送れるはずだ。少なくとも閉じた人間よりは、沢山のことを見ることができるし、
沢山の感情を感じることができるんだ。
突然だが,今注目されているバンド「神聖かまってちゃん」の、日本社会史あるいはパンク史的な意義はもっと指摘されてよい。
和製パンクロックが生まれて30年、日本人はついにこうしたバンドが評価される社会へたどり着いてしまったのかと言うレベルである。
少し回り道をすれば、2年前の6月8日の秋葉原の路上、私もその場所に居合わせたから忘れもしない。
「非リア充」の26歳男が赤の他人7人を次々とぶっ殺した。「格差社会」「ニート」「希望のなさ」などのバズワードとともに、秋葉原連続殺人は、00年以降の社会に訪れたこうした変化の象徴と言われた。
その時、私たちは気づくべきだった。不適切かもしれないが、その事件は別の見方をすれば、パンク好きにとって願ってもない時代の到来を告げていたのである。すなわち、日本で訪れることのなかった、本来のパンクロックが受容される時代へと、日本が変化(退化?)しているという事実だ。
教科書的になるが、1970年代に生まれたパンクロックは、当時の英国社会のなんとも言えないクソッタレな社会環境で生まれた。自国産業は衰退し失業率は最悪だった。若者は職も金もなく伝統的な階級社会に阻まれてはい上がることも出来ない。こんな絶望感の中で若者はロックという媒介手段を用いて不満を発散させた。セックスピストルズは、たとえ演奏技術はなくても圧倒的な説得力をもって浸透していった。
80年代以降、パンクロックが日本にも輸入され、反社会的な曲が大量生産された。もちろん素晴らしい曲やミュージシャンも次々と生まれたが、すべてに共通する根本的な欠陥があった。それは、当時の日本が総中流社会で、基本的に成長を続ける豊かな社会だったということだ。「フリーター」は当時は今とは逆に希望を持った生き方として受け入れられていた。若者が抵抗する相手は、両親とか、学校の先公(古い!)とか、そんな微笑ましいものだった。ザ・スターリンに影響されてビリビリに破けたTシャツを着る人たち。80年代後半のバンドブームでカラフルに染めた髪の毛をツンツンに立て演奏する人たち。彼らの反抗的なパフォーマンスは、すべて豊かな日本人の”真似事”でしかなかった。たとえ人気を呼んだブルーハーツでも、社会派的な曲は空回りしていた。
「神聖かまってちゃん」には、こうした日本のロックが抱えてきた嘘くささがない。それが決定的に新しい点だ。いわば日本のパンクロッカー達が、演技的に”狙って”なろうとしたポジションに、不気味なぐらいナチュラルにすっぽりと収まっている。なぜならば、彼らは間違いなく格差社会になった現代日本の底辺に生々しく存在しているからだ。「ナンバーワンよりオンリーワン」などという腐ったバズワードが好意的に受け入れられていた時代の生ぬるさの中に、彼らはいない。
ボーカルのの子は、高校をすぐに中退しネットに没入した腐れニートだ。感情に極度に左右されやすい社会生活上致命的な問題も抱える。他のメンバーも派遣やバイトなど非正規労働の日々を送る。彼らは、ピアキャスやニコニコ生放送を使って、そのどうしようもない自分自身の生活を、包み隠さずそのまま見せる。渋谷の路上でライブパフォーマンスをし警察に補導されたり、メンバーの自宅では酒を片手に1時間でも2時間でも暇つぶしのグダグダトークを展開する。楽曲もありえないほど”ありのまま”、ただ心の中の衝動をぶちまけているだけのように見える。曲は洗練されてなく子供のような詩だ。歌い方や演奏も改善の余地がかなり大きい。それを意図的にやったかどうかはともかく、結果としてこれらの行為すべてが人気の要因だった。彼らがいる底辺、そして彼らが底辺にむけて放つ叫びはあまりにリアルに映る。熱狂的なファンがいるのもうなずける。パンクを歌うにあたり、彼らよりも”適した”ポジションはないからだ。「そんな立ち位置からロックを歌われたら、もはや彼ら以外の誰もロックを歌うことなんかできなくなってしまうよ」的な反則技の感すらある。
私は「神聖かまってちゃん」とそれを受け入れる日本社会に1970年代のイギリスを感じる。もちろん実際経験した訳ではないが、おそらくこんな感じだったのだろう。戦後の急成長はどこ吹く風,かつての英国のように格差が拡大し、ゆるやかに衰退する日本。もはや自分をわざとアウトロー的に脚色する必要すらない、無加工の生き方がそのまま”パンク”的表現になって若者の共感を呼ぶ。いいにしろ悪いにしろ、私たちは今、そんな時代に生きているのである。
多分幻聴だと思ってはいましたが、「まるで始まりの合図のように、パーンという乾いた音がしました。」
「えーっと。コレは何かの挨拶?」まさかね。などと口走った矢先から『キリングタイム』だったので、
まったく洒落に成っていないシャレ。を菊地殿から初めて聞く日が来るとは...。としばし青ざめ、
(だって『構造と力』も『(フランツ・カフカの)アメリカ』も半ばアカデミズムを気取った品の良い洒落のつもりだったでしょ。
今回下品だと言っている訳では有りません。寧ろ綺麗にボディーに入ったので苦笑いしております・笑)
爆音再生中です。だって元々フルヴォリューム指定じゃないですかこれは。半分でもこんなに耳が痛いのに。
多分幻聴だと思ってはいましたが、『New York Hell Sonic Ballet』が出た模様です。
因にアマゾンでは
「ニューヨークの、地獄の音響で踊るバレエ。菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールの、北米、オペラ、バレエ、サルサへの第一接触。 前作「記憶喪失学」から一年、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールの最新作がついにリリース。菊地成孔は本作でクラブのダンスフロアに、オペラ/バレエというクラシックを持ち込み、今まで誰も聴いたことのなかったハイブリッドなダンスミュージックアルバムを完成させた。マイケル・ジャクソン、ピナ・バウシュ、マース・カニングハム、マサカー、NO NEW YORK等、80年代初頭以降のニューヨーク・イコンをアルバムの随所に散りばめ、ミニマル(現代音楽)やモントゥーノ(ラテン)、またはパンクロック、そしてソプラノ歌手を起用したオペラを用い、菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラールにしかできない、クラブミュージックマナーとクラシックマナーの見事な融合を実現。菊地のボーカルトラックも2曲収録の、菊地成孔の超先鋭的なコラージュ感覚がもたらしたペペ史上最高に“踊れるアルバム”ここに完成。 初回プレス限定“ペペ・トルメント・アスカラール ステッカー”付き」
などと盛大に紹介されています。
これを見て飯を噴いたのは言うまでもありません(笑)
〜T.H.